41歳の若さでこの世を去った作曲家早坂文雄は、1930年代〜1955年までの約20年間、東洋的作曲を標榜し、「単純性、無限性、非合理性、平面性、植物的感性」に立脚しての音楽的表現を目指した。そしてその姿勢は、武満徹、黛敏郎、芥川也寸志等の後進に多大な影響を与えた。
                               


年 次 活  動 社会の動向
1914
 (大正3)
8月19日、仙台市にて父順之助、母ふみ江、の三男として生まれる。
      
第一次世界大戦勃発
1918
 (大正7)
  4才
4月、北海道札幌に移る( 順之助、ふみ江、文雄、恭吾・2才 ) シベリア出兵
ドビュッシー没
1921
(大正10)
  7才
4月、西創成小学校入学
    
 ・絵画に熱心で展覧会ではしばしば入選する
 
1927
(昭和2)
  13才
北海中学校に入学 (旧制中学は5年制)
    ・ハーモニカ部に入部 (当時ハーモニカは一般的に普及
                     しており早坂もすでに部の先輩
                     に目を付けられる程度には吹けて
                     いた。)
    ・絵画部に入部
    ・俳句も作り 「北中文芸」に掲載される
    
       * 早坂が北海中学を卒業する頃までは、世の中も
         自由でゆとりのある時代であり、彼の心にも自由奔放
         な感性が形成されていったようだ。しかしこの後あたり
         から、日本の暗い時代が始まるのである.  
金融恐慌

諸井三郎、河上徹太郎等 「スルヤ楽団」を結成
1928
(昭和3)
  14才
自力でオルガン、ピアノを弾き始める

       * 早坂は、後藤勇(北海中学化学教師)、矢島
        (北海道帝大)教授から音楽の基礎を学ぶ。
         後藤氏は、ポピュラークラシックをハーモニカ用に
         アレンジしていた。

      
 
1929
(昭和4)
  15才
 
北海中ハーモニカ部は、札幌で行われたコンクールで優勝する

 この年、童話 「青い鳥」に音楽をつけようとして中途断念している。
      ・『 昭和4年、作曲に志をもち始める 』 
              (早坂日記:my personal history memo ) より

      * この頃から早坂を生涯苦しめることとなる肺結核と
        同属の結核性関節炎をひき起こしている。 

      * 1929年の世界恐慌は早坂家の家計をもを直撃するの
        である
世界恐慌はじまる 
1930
(昭和5)
  16才





横尾雪子(札幌市立高等女学校音楽教師:現・札幌東高校)にピアノを師事

       *しかし家庭の事情により2ヶ月ほどでレッスンを断念

       * こうした逆境にも負けることなく、ピアノのある所を見
         つけては弾かせてもらいながら、独学を続ける
          ( 昭和5年の札幌といえば、まだ10台ほどしかピア
           ノがなかったらしい)
清瀬保ニ、松平頼則等、「新興作曲家聯盟結成」
1931
(昭和6)
  17才
北海中音楽部主任となり、総勢36名におよぶ北海中ハーモニカ部
演奏会、そして社会人を含む14組、約270名による「ハーモニカ大
演奏会」に参加する

   * この頃の早坂文雄は、老舗の楽器店「富貴堂」などでは常連
     のような存在であり、当時貴重であったクラシックレコードなど
     も試聴させてもらえるほどで、ドイツ、フランス音楽や、ストラビ
     ンスキー、サティー、ジョンケージなどの最先端音楽などもむ
     さぼるように聞き入ったようである

8月15日、早坂の母ふみ江は、父順之助失踪後の無理がたたり黄疸
となり、胆石をも併発し北大付属病院にて病死
       *この3日後、早坂文雄は17才の誕生日を迎えるのである

       * 母の死後、弟恭吾(15才)、妹浜子(11才)を養いながら
        通学する苦しい日々を送ることとなる 
満州事変おこる
1932
和7)
  18才
3月、北海中学卒業(但し、月謝滞納の為実際の卒業は数ヵ月 後となる)

8月、全国ハーモニカ独奏選手権大会2位となる(この時の賞
金は早坂の生活を助けることとなる)

10月、池田広象と知り合い、彼主催の「日の丸舞踏団」(児童舞踏
研究会)のピアノ伴奏を担当する。(極貧生活のなか、音楽での収入
は早坂にとっての慰めともなったようだ)

     *この頃、宮原朝吉、愛子夫妻を介して、伊福部昭(北大農
      学部林学実科1年)と出会い音楽を通して交友を深めてゆく
 
      [伊福部昭との出会い・友情]
          伊福部昭氏は幼少の頃から生活環境、音楽環境とも
          に恵まれ青春を謳歌する毎日であり、それに比べ早坂
          氏はというと、伊福部とは全く相反した苦しい生き方
          を余儀なされる。しかし、当時ドイツ音楽主流の時代に
          あって、ドヴュッシー、ラベル、などのフランス音楽に興
          味を持つ二人は、一気に友情を深めるのである

          早坂氏が、無事北海中学を卒業できたのも、伊福部を
          中心とした友人のおかげによるものである

この年、極貧の中一緒に暮らしていた、弟・恭吾、妹・はま子、と別れ
別れに暮らすこととなり、恭吾は父方のおばのもとへ、はま子は父の
もとへと引き取られていった。この別れが兄弟三人の最後の別れとな
った
       *恭吾・・・・昭和14年8月7日(死去・24才)
       *はま子・・昭和18年5月18日(死去・23才)

                 
満州国建国

五・一五事件
1933
(昭和8)
  19才






 
白洋社(クリーニング店)に就職した早坂は、御用聞き先にピアノ
があると上がりこんでピアノを弾かせてもらうため、仕事にならず
解雇される。その後、殺鼠剤散布の仕事を経て、北海石版所(印刷
所)勤務となる

こうした苦しい生活ではあったが、早坂は二人の重要な人物と出
会うこととなる。一人は、後に音楽評論家となる三浦淳史であ
る。三浦は、伊福部と同級であり、出会いも伊福部の紹介
によるものである。三浦はパリに住んでいたこともあり、フランス
音楽に詳しくこの点早坂との共通点がある。そして、純粋に芸術に
まい進する早坂の思想、飄々とした彼の人柄に惹かれるものがあ
ったのかもしれない

そしてもう一人が、早坂に大きな影響を与えた作曲家清瀬保二である。
早坂は当時の音楽雑誌「音楽新潮」での清瀬の一連の記事を読
んでおり彼のフランス音楽を根本とする作品を聴くにつけ、ひとかた
ならぬ親しみを感じていた
国際連盟脱退

石田一郎、萩原利次等、「独立作曲家協会」結成

大木正夫等「黎明作曲家同盟」結成














1934
昭和9)
 20才






































「平野商店」(乾物屋)店員、の後「北海石版所」への復職、そして
又しても解雇
 
9月、伊福部昭、三浦淳史、らと「新音楽連盟」(注1)を結成し
今井記念館にて『国際現代音楽際』(注2)(9・30)を開催

*この年、早坂の処女作『君子の庵』をアメリカのピアニスト、
ジョージ・コープランドに献呈する。(注:作曲家アーロン・コープ
ランドとは別人)
*早坂は、親友三浦淳史にピアノ曲『激越なる小品』を献呈する。

 注1) 『新音楽連盟』 
     〈発足主旨〉 国際性を持ち新しい現代音楽を日本に紹介
              し、又日本の音楽も外国にきちんと紹介す
              る。アカデミズムが強く、中央集権的な考
              え方の中央を眼中に置かず、北海道の地
              から直接世界と結びつく。

       この連盟はその後、昭和13年(1938年)頃までは存続
       していたが三浦、伊福部が札幌を離れたこともあ
       り自然消滅となる。

 注2) 『国際現代音楽祭』 (1934・9・30)
     場所: 今井記念館(札幌市)
     曲目: 1、 「火の鳥」から〈前奏曲と王女たちのロンド〉
                             (ストラビンスキー) 
          2、 ラベル、ミヨー、ファリャの小品を7曲
          3、 「右と左に見えるもの〈眼鏡越しに〉」 (サティ)
                               (日本初演)
          4、 三つのグノッシェンヌ (サティ)
          5、 気取り屋の気難し屋の三つの特異的ヴァルス
                                    (サティ)
          6、 新婚者の起床 (サティ)
          7、 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ(アルフレド・カセルラ)
                                (日本初演)
          8、 弦楽四重奏のための四つのインディスクレ
            ーション  (ルイ・グリュンベルグ)
          9、 弦楽四重奏のための五つの小品
                         (アルフレド・カセルラ)
         10、 恋は魔術師 (ファリャ)

      演奏者: 〈ピアノ〉       早坂文雄 [1,2,3,4,5,6,10、]
            〈第一ヴァイオリン〉 伊福部昭 [1,2,3,7,8,9,10、]
            〈第二ヴァイオリン〉 有田 学  [8,9,10、]
            〈ヴィオラ〉      小岩 武 [8,9,10、]
            〈チェロ〉        伊福部元 [8,9,10、]
            〈コントラバス〉    伊福部薫 [10、]

           札幌フィルハーモニック弦楽四重奏団
                ・伊福部昭
                ・有田 学
                ・小岩 武
                ・伊福部 元 
          新音楽連盟ピアノ六重奏団 
                ・上記メンバー
                ・早坂文雄
                ・伊福部 薫
       (敬称略)
伊藤昇、太田忠等「新音楽派」結成
1935
昭和10)
 21才
山鼻カトリック教会のオルガニストとなり、同協会の一室に居住
  *グレゴリオ聖歌の研究をはじめる
  *一時、神父を目指しラテン語、ギリシャ語の勉強に専念
    ドイツ語も独学をはじめる
 11月、管弦楽曲「二つの賛歌への前奏曲」を作曲
     カトリックの洗礼を受ける(洗礼名:アンブロジウス)
       *代父:早坂司教
     ピアノ独奏曲「エヴォカシオンT・U」を作曲


新興作曲家聯盟は日本現代作曲家聯盟と改称

ベルク没
1936
昭和11)
 22才
1月、管弦楽曲「二つの讃歌への前奏曲」が日本放送協会「祝
     典用管弦楽曲」懸賞募集に第2位入選(山田耕筰指揮・
     新交響楽団に より放送初演)
 
     上京のおり、清瀬保二、前田鉄之助、藤木義輔、江文也
     、柿沼太朗、高木東六、菅原明朗らに会う

     大坂に父を訪ねる(このとき、「古代の舞曲」の作曲に着手)

3月、ピアノ独奏曲「エヴォカシオンU」
     エッセイ「一つの反省」      (音楽新潮:3月号に発表)

    日本現代作曲家聯盟(のち日本現代音楽協会)に入会する

4月、光星商業学校(現札幌光星高等学校)の教師となる
      *音楽、美術、英語を担当
    ピアノ独奏曲「エヴォカシオンT・U」の初演
      *東京音楽協会第5回オーディションにて
    ピアノ曲「激越なる小品」〈早坂文雄〉、 「三つのコラール」
    〈フランク〉、 「三つのグノシエンヌ」〈サティ〉をNHK札幌放
    送局:JOIKで放送初演    *ピアノ:早坂文雄
 
    歌曲「祭典」:『世界音楽全集第89巻・日本独唱曲集U』
              高木東六編(春秋社刊)に収録

7月、ピアノ曲「ノクターン第3」
    エッセイ「グレゴリウス聖詠研究の余日」
              ( 『音楽新潮』7月号に発表)

9月、A、チェレプニン札幌を訪れる。作品の講評を乞う

 〈1936年作品〉
  ピアノ独奏曲「ノクターン第1・第3」
  合唱曲「不尽山を眺めて」(歌:山部赤人)
  歌曲「祭典」(詩:荘生春樹)

 二・二六事件
1937
昭和12)
23才
3月、作曲ノートを作り始める

4月、札幌新交響楽団結成、ティンパニー奏者を務める

6月、ピアノ曲「ノクターン第1」:チェレプニン楽譜31番として
     龍吟社より出版

9月、管弦楽曲「古代の舞曲」完成

10月、小管弦楽曲「ユーカラ」作曲
     *『アイヌ叙事詩ユーカラ』金田一京助著(岩波文庫)
      を読み感銘を受け作曲する  
日中戦争勃発

深井史郎、小倉朗等「楽団プロメテ」結成
1938
昭和13)
24才
1月、「蝦夷ヶ島より見たるB氏雑感」(音楽新潮・1月号)

2月、「楽しい回想」(音楽新潮・2月号)
   管弦楽曲「三つの小組曲」初演
                (札幌新交響楽団・指揮:田上義也)

3月、肺結核の診断により、光星商業学校を解雇される
     [エピソード]
      この解雇をめぐり、光星商業の教師達が学校側に
     抗議を申し入れるも受け入れられず、という記録が
     残っている

   札幌市北十一条東一丁目に転居
     *おそらくこれは、西村貞二郎宅(札幌放送管弦楽団員)
       と思われる
     *7月、西村宅にて「音楽の世界」監修者:森重雄は兄に
       連れられ下宿していた早坂と会うこととなる


5月、「小管弦楽のための音楽第1番」JOIK放送初演
     *[三つの小組曲」第3曲の改作

8月、石狩郡当別小学校の代用教員となる(月給60円) 
    JOIK委嘱による「虎杖丸(いたどりまる)」放送初演(札幌
    新交響楽団・札幌混声合唱団・指揮:鈴木清太郎)

9月、「古代の舞曲」ワインガルトナー賞特等賞受賞通知

10月、後藤憲子と北一条協会で結婚式を挙げる
     東宝映画社長:植村泰二を知る

11月、「田園雑記」(音楽新潮:4回連載)

12月、「夜のパストラール(夜の田園詩曲)」:日本現代作曲家
     聯盟第7回定期公演「室内楽の夕」で初演(新交響楽団
     メンバー、指揮:斎藤秀雄)

     
  
国家総動員法
1939
昭和14)
25才
1月、「ホルン協奏曲」(「三つの小組曲」第2曲改作)と
      「小管弦楽のための音楽第1番」がJOIK放送にて初演
     ワインガルトナー賞発表
     石狩郡当別字大川上に転居

2月、「夜の田園詩曲」JOAKにて放送(指揮:斉藤秀雄)
     「音楽的教育についての随想」(北海道帝国大学新聞に
     執筆)

3月、「浅春雑記」(北海タイムスに連載:4回15日から18日)

5月、「ワインガルトナー賞入選管弦楽作品披露演奏会」にて
     「古代の舞曲」初演(日比谷公会堂・新交響楽団/斎藤
     秀雄)〔国際文化振興会より出版〕

     *<「古代の舞曲」初演プログラムより作曲者ノート>
        私が芸術の出発に当たって美の血縁として自覚し
        たのは、日本の独自な美しさであり、これを音楽の
        世界で表現したいということであった。従ってこの作
        品では舞楽としての〔雅〕の趣き、たわやめぶりの
        優雅と共に、天真爛漫なリズミカルな舞の一面をか
        くことが意図であった。この作品は二つの部分より
        成る。
        前半はテンポ63〜72。雅の大らかな壮大なここ
        ろを、静的に、高雅優美に、主題は雅楽的風趣を
        もつ。
        後半はテンポ96.律動的に、簡朴に、陽気に、楽天
        的に、従って動的であって浮揚し、外発的となる。
        主題はやや俚楽的風趣を持つ。この軽やかな〔をか
        し〕のこころも、前半の〔雅遊〕のこころと共に、平安
        朝及それ以前の人々の日本人らしい特性の一つで
        あった。

    「ワインガルトナー賞受賞についての記事」<仮題>
                           (月刊音楽5月号)

      *ワインガルトナー賞に予期せずに入賞した「古代の
        舞曲」は私の二十三歳の時の作品で、ちょうど放
        送局の作曲に当選した直後、東京から大阪の方へ
        かけて旅行を試みて大坂の父の仮寓に旅の疲れ
        休めている時に日本の古典の雰囲気持たせた作
        品を書きたいと思い、構想を練ったものであった。
        大坂で書き始め札幌へその春に戻ってからも書き
        つづけて、一応夏の頃に完成をみたのであったが
        昨年の夏にワインガルトナー賞の発表を知り提出
        しようと思い立ち、二年程前に書いて書庫に中に積
        んでおいた楽譜を取り出し、二ヶ月ほど細心に手を
        加え客観的に冷静な眼でみてあらゆる角度から検
        討を加えて後完成させたのであった。
        標題ははじめこんな風になっていたのをその時の
        草稿の表紙に読まれる。
        「日本の古式による舞踊調」と。後になってから「古
        代の日本舞曲」となったが、日本という文字を使う
        ことを厭い、遂に、「Dance antique;古代の舞曲」
        と決定的なものにした。

6月、「雪国によせる交響詩」(追分節を主題とする)JOAK開
     局11週記念「出征軍人 遺家族慰安の夕」全国中継放送
     にて初演
     長女「卯女」(うめ)誕生
 
7月、ピアノ曲「ノクターン第1」JOAK放送にて初演(独奏:
     松平頼則)
 
8月、当別小学校退職(東宝の音楽監督として入社を決心して
     の退職)
     召集→既往疾患のため即日帰郷

9月、上京、久志卓眞宅に寄寓
     東宝映画に音楽監督として入社(音楽課長:掛下慶吉
     と親交を結ぶ) *月給百円
       *東宝映画の入社については、小説家森田たまの
        紹介で東宝映画社長植村泰二を知ったことによる。
        後に、早坂は森田たまの娘の誕生祝としてピアノ曲独
        奏曲「子供のためのピアノ音楽第1輯」をこの翌年
        贈っている
     日本現代作曲家聯盟例会に出席

10月、「独立作曲家協会」(萩原利次、石田一郎等)に加入

11月、映画「リボンを結ぶ夫人」(監督:山本薩夫)の音楽担当
      *ロケのため一時札幌に戻る
      歌曲「海の若者」初演(「荻野綾子独唱会:現代日本の歌
      曲の夕」にて) *詩:佐藤春夫  
第二次世界大戦勃発
1940
昭和15
26才
1月、「日本作曲界の前進のために」(音楽倶楽部1月号に執筆)
    
管弦楽曲「序曲二調」(日本放送協会主催:紀元二千六百年
     奉祝管弦楽曲懸賞に首席入選〕

3月、「レコード評欄担当」〔月刊楽譜3月号〜8月号〕
     「国民詩曲とそれに関聯して」〔月刊楽譜3月号に執筆〕
     マンフレット・グルリットと会見
       *日本の作品を積極的に海外へ紹介した指揮者
     「序曲二調」初演(JOAK海外放送)

5月、「ピアノのための五つの楽章」初演(紀元二千六百年奉祝
     日本現代作曲家聯盟創立十周年記念作品発表会第2夜)

6月、「作曲家の苦悩と歓喜について」(音楽倶楽部6月号)
     「批評に関しての断片的スケッチ」(音楽世界6月号に執筆)

7月、「ピアノのための五つの楽章」(第18回国際現代音楽際に
     出品決定する)
8月、「作曲家と彼等の民族音楽」(月刊楽譜8月号し執筆)
     ピアノ独奏曲「子供のためのピアノ音楽第1輯」作曲

10月、「五音音階によるピアノアルバム第1、第2」(独立作曲家
      協会第4回作品発表会開催)
     ピアノ曲「二つの舞曲」 (同上)

11月、「新しきわれわれの道」(月刊楽譜11月号に執筆)
     「北海道地方の民謡」(音楽評論11月号に執筆)

12月、「映画音楽と民族的要素」(映画と音楽12月号に執筆)
     「管弦楽のための音楽第1番」完成 
日独伊三国同盟

大政翼賛会成立


紀元2600年式典
1941
(昭和16)
27才
3月、 「管弦楽のための音楽第1番」編成を縮小して放送初演
                  JOAK「現代日本の音楽」で指揮 
4月、 日本大学芸術科の講師となる
      「田中博士の『日本和声の基礎』に就いての私見
                   (月刊楽譜4月号に執筆)
      「民謡と現代音楽との聯関」(音楽倶楽部4月号に執筆)
8月、「右方の舞と左方の舞」完成

9月、日本音楽文化協会発足、作曲部委員に就任
     「古き文化と新しき文化」(月刊楽譜に9,10月連載)
     「世界観について」(音楽評論9月号に執筆)
11月、子供のための管弦楽曲「私のいへ」(JOAK委嘱)
     若柳敏三郎のための舞踊曲「武曲三彩」初演(宅孝二
      、赤松次郎pf・新橋演舞場)

12月、「抽象的なるものへの欲求―日本作曲界への提言」
                          (音楽公論に執筆)
太平洋戦争はじまる

日本音楽文化協会発足
1942
(昭和17)
28才
1月、「清瀬保二論」(1〜2月)「第十回音楽コンクール評;作
     曲」(音楽公論に執筆)
2月、「室内のためのピアノ小品集」初演(日本音楽文化協会
     :第3回室内楽作品試演会)

   
「東洋的管弦楽法」執筆の構想、緒言と「民族的な〔響き〕
    について」の章を書く
3月、「諸井三郎論」(音楽公論に執筆)
    管弦楽曲「左方の舞と右方の舞」初演(マンフレット・グル
     リット指揮、東宝交響楽団)
    管弦楽曲「讃頌祝典之楽」初演(日本音楽文化協会:第1
    回管弦楽優秀作品発表会)
    日大芸術科の講座が廃止され、退職
4月、評論集「日本的音楽論」厚生音楽全集第一巻として刊
     行(新興音楽出版社)
7月、管弦楽曲「東洋組曲」(のち改作「民族絵巻」)初演
8月、肺浸潤発病
10月、市川市、化学療法研究所付属病院に入院
12月、次女:絃子(いとこ)誕生〈23日〉 
ミッドウェー海戦
1943
(昭和18)
29才
8月、「室内のためのピアノ小品集第一輯」刊行(新興音楽出版)
11月、新京音楽団嘱託に就任
12月、ローゼンストック指揮により「左方の舞と右方の舞」再演
 
 
1944
(昭和19)
30才
3月、退院する
5月、水原秋桜子に俳句の指導を受ける(号:飛鳥男)
     佐藤春夫の詩による「うぐひす」完成
     「春夫の詩による無伴奏歌曲集-殉情詩集より」13曲
      2巻を計画
     「春夫の詩による四つの無伴奏の歌」清瀬保二の意見
     を参考に選曲、完成する
9月、ピアノ曲「笛と太鼓」(翌年改題「ある秋の祭のための
     前奏曲」)完成
10月、再発、療養生活を送る
     「民族絵巻」(「東洋組曲」改作)「東宝音楽團結成記念
     公演 軍用機献納基金」で初演 
11月、H・フェルマー指揮により「古代の舞曲」上演 
学徒勤労令
1945
(昭和20)
31才
3月、妻子、宮城県志田郡三本木に疎開。東宝音楽課長/掛下
     慶吉方の2階に寄寓。
    清瀬保ニも故郷九州に移住
6月、森田たまの世話で鎌倉住吉に転居
     *妻子遠おしせつなき蝉を身近かにす (飛鳥男)
9月、須賀邸に転居
    ピアノ曲「恋歌・ロマンス」の作曲に着手
     *これは万葉集、古今集、新古今集、六代歌集から
       恋歌を選び、それを素材としてピアノ曲としたもの
10月、西崎緑舞踊会のため舞踊曲「花菱譚」の音楽を作曲
      上演。
11月、疎開先の妻子を伴い札幌を訪れる
広島・長崎に原爆投下

8月、終戦

バルトーク没
ウェーベルン没
田中正平博士没
1946
(昭和21)
32才






2月、札幌より戻る
3月、日本現代音楽協会作曲部推薦委員に就任
    「河」(文学座第29回公演)の音楽担当、上演
4月、妻子疎開先から戻る
    映画「民衆の敵」の音楽担当、公開
5月
造形映画「ムクの木の話」の音楽担当、完成
7月、鎌倉山高砂に転居
8月、喀血。作品類を富樫康に託す
9月、新作曲派協会結成総会。(出席者:清瀬保二、松平頼則、
    渡辺浦人、早坂文雄、久志卓眞、藤木義輔、湯浅永年
    塚原晃弘、富樫康、萩原利次、伊福部昭、大築邦雄、
    小船幸次郎、石田一郎<萩原宅>
    「民衆の敵」で第1回毎日映画コンクール音楽賞授賞。
    ピアノ曲「四つの前奏曲」NHKで放送初演
    ピアノ曲「ミュージカルボックス」「恋歌第3番」「九月の
    ワルツ」NHKで放送初演
10月、新作曲派協会第1回作曲研究会開催<萩原宅>
11月、「幽居の言葉」(音楽芸術11月号)を執筆

   
「ピアノ協奏曲」の作曲に着手
    芥川龍之介夫人の同伴により芥川也寸志を預かる
日本国憲法公布 

この年譜の作成にあたり、下記の資料を参考にさせて戴きました。
・「早坂文雄年譜」 (日本近代音楽館)
・「早坂文雄・映画音楽に死す」 (西村雄一郎著、グラモフォン・ジャパン)
・「黒澤明/音と映像」 (西村雄一郎著、立風書房)
・「CMC/音楽文化の創造」 (〔財〕音楽文化創造)
・「天気待ち」 (野上照代著、文藝春秋)
・「音楽芸術別冊 日本の作曲20世紀」 (音楽之友社)
・「新訂標準音楽辞典」 (音楽之友社)
・「新音楽辞典/人間篇」 (音楽之友社)
・「講談社カラー版日本語大辞典」 (講談社)
・「HAYASAKA FUMIWO」 (全音楽譜出版社)
・「現代日本の音楽名盤1500シリーズU〜管弦楽曲」 (ビクター音楽産業)
・「早坂文雄/管弦楽選集」 (フォンテック)
・「月刊音楽 昭和14年5月号」
・「小関康孝のホームページ」
・早坂文雄の日記・直筆譜
・資料提供 北浦絃子(早坂文雄 次女)
・資料提供 清瀬永(清瀬保二 次男)
・資料提供 森重雄(北方音楽展委員会代表)