作 品 名
1 君子の庵(1934)
2 ヴァイオリンとピアノのための二重奏(1950)
3 弦楽四重奏曲(1950)
4 若柳敏三郎氏のための舞踊曲『武曲三彩』(1941)
5 室内のためのピアノ小品集〈全17曲〉(1941)


1 君子の庵(くんしのいおり)〈ピアノのための三つの短章〉(1934)
 この作品は、1934年以降極最近まで行方知れずとなり幻の作品とされてきました。しかし、1993年偶然発見され今年の5月「グラモフォン・ジャパン」にてその存在が世に知られることとなる。
 以下の欄には、「君子の庵」についての詳細、そして森重雄による本作品の解説を掲載いたします。
 この作品は、2000年11月18日・北海道立釧路芸術館にて日本初演されました。

 
 このピアノ曲は早坂文雄の処女作であり、当時アメリカのピアニスト・ジョージ・コープランドに献呈された三部作である
 *この献呈は早坂自身によるものではなく、親友三浦淳史の労によるものでこの時、伊福部昭の「ピアノ組曲」も献呈されている。
 早坂は、1934年この曲を清瀬保二氏のもとへ送る。清瀬氏は早坂の才能に驚き、種々の感想、そして激励を送っている
 *「君子の庵」を受け取ったときの思い出を、清瀬氏は(1936年・音楽新潮・3月号)に次のようにしたためている。

 『私が早坂君を知ったのは五年ほど前だったと思う。(筆者註:実際は二年前)突然彼の手紙と共にピアノ曲「君子の庵」三曲が届けられた。全く未知の人であった。こうして未知の人から曲を送られることはこれまでにも度々あったが、実際のところ多くは失望してゐた。特別成長する力も感ぜられず、進歩的模様も少ないように思はることが多かったが、私は演奏して見て、びっくりした。多少なげやりな跡を感じたが、非常な才能とあくまで日本的であり、また或完成した世界をもってゐるのに驚いた。私はすぐ経歴を聞いたのに、たしか、其時彼は十九歳であったと思う。私は再び驚ろいた。どうしても其年齢の人の作と思へなかった。非常にませたものであった。私はすぐ本誌へ紹介しようかと思ったが、其曲の中にもっと発展し、成長し、もっと注意深く書くときが来るやうに思はれて、初めて世の中に紹介する時機をもう少し待った方が彼のためにいいのではあるまいかと思って手紙で収集感想を述べ、彼の作曲上の煩悶に意見を述べ、激励しておいた。
[1936年〈S・11〉:音楽新潮・3月号]より


    *早坂自身は「君子の庵」について後に三浦淳史氏との対談で次のように語っている。               
早坂:

三浦:
早坂:

三浦:
早坂:
ドビュッシーの影響を受けて、印象主義の音楽をずっと書いていたんですね。コープランドのところに送ったあの・・・・。
『君子の庵』 か。
あれは三部作ですけれども、あれなんか日本の古い絵からインスパイアーされて来た印象主義の日本版でしたね。
あれがピアノの第一作でしたね。
第一作だった。もうあの譜面もなくなっちゃった。「君子の庵」もジョージ・ コープランドが持っているだけじゃないかな。日本では(誰も)持ってな いよ。
[1954年〈S・29〉:音楽芸術・9月号]より

この『君子の庵』は、早坂自身が消滅したものと思っていたようだ。しかしこの幻の作品が2000年5月その姿を現す。

   
「君子の庵」の発見
  1993年(平成5年)、清瀬保二氏が住んでいた自宅(世田谷砧)の物置からそれは発見された。古びた茶封筒の中に「君子の庵」と手紙が同封されていた。
 清瀬氏は、北海道から送られてきた若き未知なる作曲家の作品を大切に保管していたのだ。同封の手紙には整然とした字で次ぎのように書かれていた
『清瀬先生:
 かねがね音楽雑誌等で間接的に先生を知り、又作品を通して先生に対して敬愛の気持ちを持ってゐる者の一人です。(略)僕はひとつの仕事として作曲を続けて今迄参りました。北海道には僕の作品を見て下さる音楽家というものは殆ど見あたりません。自分一人で音として表現させて見て夢想と情熱とを愛してゐるものです。同封いたしました作品は極最近のものです。意識的に日本を深く考えながら作曲致しました。勿論演奏されたとしても聴衆に興ふる印象は僅かなもので効果のある曲ではありません。又僕は演奏効果のある曲を作りたいとも考へておりません。内面的に深いものを作品としてまとめて見たいとだけ思っておりますから。お暇な時が若しありましたらお弾きになって見て色々御注意を下されるならば僕は非常に嬉しく思ひます。』
〈昭和9年(1934年)2月26日〉
 〔グラモフォン・ジャパン 6月号「早坂文雄:映画音楽に死す」より〕
                        


   「君子の庵」の解説
 作曲者が創作する時、その作者の思想、状況、環境等がいかなる形を以って聞く者に伝えるかが大きく左右するものと考えられます。早坂氏がこの曲を書かれた時期、父は四年前に失踪、母は無理がたたり二年前に他界、その翌年には愛する弟妹はやむなく一人づつ他に預けられ、本人も肺結核に冒されており、この「君子の庵」という曲からは全く想像のつかないほど壮絶な状況であった。
 
私が手にしたこの譜面には、その優美さ、そしてあくまで雅なワビ、サビの音の世界が印象的手法で表現されているのであった。ふとそれぞれの譜面の末尾に書かれた日付を見ると、三曲を一日で書き上げている。まさに天才の成せる業の一言に尽きる。
 この曲は、小題名は付いているが三曲とも描写的ではなく抽象的な表現を試みており、日本の常磐津や清元を意識してか、無標節線であり拍子が無い(いわゆる一拍子)符で書かれている。休止符の扱いも演奏者によって、かなりまかされている。日本音楽でいう「マ」に近いのではないだろうか。
 譜面上は単純に見え技巧のあとは見られないが、音にしてみると、演奏者が感情を移入する事によって、生彩を帯びてくる。目には単純に見えても耳には単純ではない。きわめて深い美の響きに包まれる。小曲とはいえ、自然の美しさを表そうとしながらも、自己の真実に還らんとすることが芸術の根源と考えられるのです。尚、この「君子の庵」は絵画をこよなく愛する早坂氏が、古い日本画からインスパイアーされたそうです。
〈2000・11・18 「北方の鼓動」第一回演奏会:解説書より〉


2 ヴァイオリンとピアノのための二重奏(1950)

 早坂作品の器楽曲の約三分の一は先生自ら『破棄』されている。この破棄は、一音たりとも妥協するを自分にも許さずその結果『破棄』を公表されたものと思う。「ヴァイオリンとピアノのための二重奏」も自筆譜の表紙に大きな字で『破棄』と書かれている。そのためか、この曲の作曲ノートや参考資料は一切なく、唯一の資料となる自筆の楽譜を解析しこの解説を書いているが、確たる『破棄』理由がいくら読み込んでも解らない。曲の一部にみられる洋式の三度技法の箇所、また見ようによっては三部形式とも感じられ、この辺に原因があるのかなと頭をひねったりもしている。きっと演奏者のお二人も、この曲の解釈には苦労されている事でしょう。
 早坂先生は、戦前の日本の作曲界が欧米のあとを追い求める事に固執せず、むしろ日本独自の方向(西洋とは異質な東洋の美)を打ち出す作品が書かれるべきではないかと考え、試行錯誤を続けながら、東洋人としての自分の世界を創り出そうと努力を続けられたものと思う。

 「ヴァイオリンとピアノのための二重奏」や「弦楽四重奏曲」を書かれた1950年は、「羅生門」「細雪」など映画音楽13本を手がけ、前年には室内楽曲「キャプリチオ」を発表している。この時期早坂作品群の中ではメロディックなものも多く、東洋と西洋との融合ともいうべき、新たなる方向へのステップを踏み出したようにも見える。がしかし、先生の管弦楽曲を順序よく(「古代の舞曲」→「左方の舞右方の舞」→「管弦楽のための変容」→「ユーカラ」)聴くと常に日本作曲界の先端に立って、日本的東洋的なる音を追求し、形式も無限形式や変拍子を用いるもなんら違和感を覚える事なく、聴く者に自然体で迫ってくる、いわゆる早坂形式を実践し、創造されたことは間違いない。 
 この「ヴァイオリンとピアノのための二重奏」で特に感じるところは、もしこの曲が独奏曲であったなら、そうとう長い部分が無標節線で書かれる音形である箇所が、重奏であるために1,2小節毎に変拍子の形(4/4、7/4、3/4、2/4、5/4)で書かれている。が、音になるとあまりその変化は感じられない。「君子の庵」の講でも書いたが、祭囃子や音頭ものと違い、伝統により昇華されて出来上がった謡曲や長唄のような日本的「マ」の取り方、流れを考えると、この変拍子のもつ意味はうなずけられるのではないだろうか。
 この作品は、いわゆる現代音楽だがハッタリといったものは全く感じられず、どこを取っても自然な音楽が溢れ出している。耳によくなじみ、音の流れについて行きやすく色々な幻想に誘われる。この曲の放つ雰囲気はいったいどんなだろう。実際の音になったときの事を思うと、今からワクワクしている。しかし、演奏者にとっては、独特のアクセント、休止符の扱い方等、曲を通して見た場合に、一般的なソナタ形式(二主題の提示、展開、再現)としてまとめられた様式と違い、早坂形式には戸惑いが多々有るかと思います。

〈2000・11・18 「北方の鼓動」第一回演奏会:解説書より〉

                 



3 弦楽四重奏曲 (1950)


 早坂作品の初期のものは、雅楽律的旋法や東洋的五音階などが割と剥き出しに使われているが、それが段々昇華され後期になるに従い一音一音、縦(音の重なり)、横(旋律)共大事に扱い、形式や技法など約束事にとらわれずにすすめられているのが見える。この「弦楽四重奏曲」もそうした流れから考えると、早坂音楽後期に位置しており室内楽曲の傑作と言えよう。 元来、日本的、東洋的な表現を考えたとき、テンポの遅いものはわりあい東洋感を出し易いのだが、テンポの速いもので日本を表現するのはきわめて難しく、管弦楽曲のように、音色的に変化をつけることが出来ない弦楽四重奏では特に難しさを増す。そうかと云って、只よくある雅楽律的旋法や東洋的五音階の旋律に頼った作品創りでは自ずと限界がある。

「第一楽章:
Adagio Assai
 早坂作品にしては珍しく「調性」(トナリティー)を感じさせる、曲のモチーフ(イ長調)らしき旋律がヴィオラによって流れ出る。いかにも正論かの様に、禅僧が禅を説くが如き出だしを見せる。しかしよく聞くと東洋的無限感ともいえる拍と拍をタイでつなぎ、拍節感を回避した音の流れは、永続性を主張しているかの様だ。がしかし、1stヴァイオリンがそれを無視するかのように、無調的な旋律で口を挟みかけると、2ndヴァイオリンもチェロも次々と追いかけてくる。しばらくの間はヴィオラのモチーフが時には不安げに続けられるが、やがて他の3弦に巻き込まれる。(早坂氏ならではのポリフォニックな技法)しばらくは、この応答が続くが、やはりヴィオラが始めのモチーフを主張し直し、応答があるもやはり無限的形式でモチーフをきざみ、弱々しく終止している。何かを言い残した感じである。

「第二楽章:
Allegro Pizzicato
 この楽章の基本となる、短二度の関係にある2音を基礎に、独特のリズム(変拍子)からくるアクセントの強弱を巧みに使い、ピチカートのみの四弦で、最後まで楽章を終止している。時には筝(13弦琴)を感じさせたり、弱音の時には爪弾くが如く、且つ、変拍子でありながら我々には違和感を与えない。それどころか日本的なリズムとして聴くものに受け取らせている。見事な感性である。聞き流してしまえば気付かないが、アクセントの置き換えと、休止符を旨く使いこれらの繰り返しで軽やかさを聴かせてくれる。4/4、3/4、5/4、4/4という変拍子が自然と日本的に聴こえるから不思議だ。技法も早坂式で、私には今だ捉えきるには時間が必要だ。曲中えてして日本的で軽いリズムを用いると、曲の品格を落しがちだが、この第二楽章については、全てピチカート演奏で通しているが、決して「囃子」的にならず品格をも落とす事も無い、誠に素晴らしき限りです。

「第三楽章:
Allegro Moderato
 この楽章には一、二度聴いただけでは気が付かない大きな隠し所がある。変拍子の進め方が第一楽章と殆ど同じである。この章は前半のある部分、そして後半に進みフランス・ロマン派的になってゆく。同度音の連続部分が諸処に見られ、早坂先生にしては珍しく三連符を多く使い、力強さが見られる。終止形もフォルテシモで、意外にも無限的な形をとらず常識的な終わり方で締めくくられている。早坂先生には、主に管弦楽曲に力を入れられ、名曲を沢山残されているが「弦楽四重奏曲」はこれ一曲のみである。

〈 森 重雄 記 〉 

〈2000・11・18 「北方の鼓動」演奏会:解説書より〉

 


4
若柳敏三郎氏のための舞踊曲『武曲三彩』(1941)

T) Adagio Andante   U) Allegro Moderato    V) Andante
≪『武曲三彩』について≫
 この曲は、若柳流家元吉三郎の高弟三羽烏の一人である若柳敏三郎氏のためにかかれたものである。昭和16年頃敏三郎氏は現在の玉三郎的存在にあり、女踊の名手として名声を博していたが、昭和18年4月「幻お七」を踊り終えた直後に倒れ、享年31歳で帰らぬ人になった。死後「敏三郎」の名は留名(とめな)となり襲名されることはない。

≪『武曲三彩』プログラムノート≫
 初めて「武曲三彩」の楽譜を目にした時、私はその全曲が4拍子で書かれていることに驚いた。早坂先生は東洋、特に日本的な表現に際しては、変拍子を用いるのが常であり、独奏曲においては、小節線が全くない無標節線の曲さえいくつか見られる。処女作品のピアノ曲「君子の庵」、無伴奏歌曲の「うぐひす」などがその一例である。日本の伝統音楽である浄瑠璃・清元・長唄等で云うところの「マ」を強く意識したが故の配慮と考えられ、囃子物や盆踊り風の土俗的な単調なリズム表現もほとんど見られない。加えてこの曲のテーマが優雅な日本舞踊であることを考えると、「何故に4拍子なのか」と首をひねってしまったのである。  しかし、譜面を読みこんでいくと、このことこそが、「武曲」を意味していることと 解釈され謎がとけてきた。当初は、2台のピアノの音のみを頭で追いかけてしまい踊りのイメージをもつことが出来なかったのだ。  それにしても、この「武曲三彩」は異色である。通常の演奏会では、演奏者と聴衆との関係だけで成立するが、この曲に限っては、それに加え演奏者が弾く2台のピアノの傍らで、艶やかに舞う舞踊家を想像していただくことが、要求されるのである。

※ 「武曲三彩」を初演したピアニストの宅孝二は、当時日本のピアノ界の頂点に有った演奏家です

<森 重雄 記>

〈2001・11・16 「北方の鼓動」第二回演奏会:解説書より〉

                   


5
室内のためのピアノ小品集〈全17曲〉(1941)

 「室内のためのピアノ小品集」 早坂文雄<作曲ノート>より

   

 この中旬頃しきりとかいてゐた短いピアノ曲をまとめてみて考へたのだが、これをコンサ―ト用作品としないで、之は室内のための音楽としたらふさわしいやうに感じた。
 室内で誰に聴かせるのでもなく弾いて自らが楽しむといつたもの、このやうなありかたは至極日本的だと思ふのである。

 日本には芸術を生活化するといふ特性があり、生活的現象を離れた芸術といふものはなかつた。西洋のやふな芸術を抽象化してい受取ることは東洋人はかつてして来なかつた。
 日常生活における深い静かなそして短くとも芸術味に富んだピアノ曲がほしいと思ふ。さういふもののためにこのピアノ曲を役立てたいと思ふ。
 夏頃かいた即興曲集も即興曲集といふ名前を排して、こんどの曲集に一緒にして「室内のためのピアノ小品集」第一輯としてみたい。これを終生、大作の余暇を見て第二輯、第三輯とつゞけてゆく。
 一輯には二十曲位まとめて入れたい。(或ひは十曲位つゞいてもよい)もちろんコンサート用のピアノ曲は別にかく。
 それはそれとしこれはこれとす。それぞれの性格をはつきりさせやうといふわけだ。

 かやうなものは短かい曲の形式も用途も頗る日本的でいゝと思ふ。

 きつとかういふものは多くの人々が愛してくれていつまでもいつまでも孤独な月の夜に、また雨の日やよく晴れた朝にも弾いてくれるであらう。やめたい時にはやめて、さうしてさうした自由さといふものをこの曲集の性質としたい。

 僕はさう想つてくるとこのさゝやかな曲集をゆつくりぼつぼつと書溜めてゆくのが本当に楽しいもののやうに思へてくる。長ひあひだかうしたものをかいてゐると自分の歩んで来た道もよくわかるし、私がどんなことを考へて来たかもわかるであらう。それをわかる人にだけわかつてもらひたい、と私はおもつてゐる。

1227日 〈1941年 昭和16年)

 「室内のためのピアノ小品集 全17(1941)

 本来この曲集は、コンサートで聴衆に聴かせるためのものではなく、ひとり室内で自らが弾いて楽しむためのもので、聴衆を意識しての演奏効果は期待せず、音楽性を純粋に追求したものと思われ、第一篇20曲位とし以後第と書き綴る予定であると、作曲ノートに残されている。まさにバルトークの「ミクロ・コスモス」の日本版とでも言えるものと思われる。決して大仰に構えたものではないのだが、今にして思えば、日本の西洋音楽の一方向性を示した貴重な作品だと思う。
 昭和の初めに日本で使われている諸旋法の和声の進行、構成を余分な音を排し、実に見事な手法で作られたものである。演奏者によって、かなり違った音になるのではなかろうか。
 
今回演奏を担当する波塚三恵子氏は、北方の鼓動第一回で早坂文雄の処女作「君子の庵」を、第二回では、デュオ「武曲三彩」を演奏していただいているが、この録音を聴いた佐藤慶次郎氏が絶賛!!今回の「室内のためのピアノ小品集」も是非とも波塚氏にとの依頼があった。早坂音楽の演奏者として、期待されるところ大と共に、今回の演奏は後世にも残る記念すべきものになると思う。
 なお20001030日から125日まで約1ケ月間、東京上野の東京芸大内にある奏楽堂で日本近代音楽館主催による日本作曲家シリーズ第8回「早坂文雄展」があり、1119日に高橋アキ氏により、この曲全曲が演奏された。60年振りの演奏で専門家の間で話題になったが、この9月には全音楽譜出版より楽譜が発刊の運びとなった。邦人作曲家の作品が没後約50年を経て出版されることも異例である。この作品集は早坂文雄の日本的音楽の変遷を知るにも絶好のテキストともいえるものである。
 佐藤慶次郎 ・・・・・・ 早坂文雄の直系の弟子であり、武満徹、黛敏郎、芥川也寸志等と共に実験工房のメンバーでもあった。全音より発刊された「室内のためのピアノ小品集」の監修も務めている
「室内」とは ・・・・・・ この表題に使われている「室内」とは、物理的空間としての「室内」ではなく、「公的」に対する「私的=プライベート」という意味で用いられている。
(2002年8月 森 重雄 記)