爪磨き

 

 

 







アルフォンスは、身だしなみに気を使う男だ。忙しい時でもどんなに睡眠時間が短かろうが必ずしっかり起きて身支度を整え、朝食のテーブルでだらしない姿を見せたことなどただの一度もない。
風呂上がりに下着一枚で家の中をうろつく事も勿論ないし、休日にラフな格好をしてもそれを着崩すこともない。
ただ、ガサツでお洒落などに関心が皆無の俺に対し、確かに昔からキチンとした服装を好む奴ではあったが、今ほどではなかった。

弟がここまで身だしなみに気を抜かなくなったのには、理由がある。

ようやく失っていた弟の身体を取り戻し故郷でのリハビリを終えた俺達は、ここセントラルに生活の場を移した。そして一社会人として大人社会の中でそれなりに揉まれる事になった訳だが、『鋼』の銘という強みがあった俺とは違い、当時弟は人並みの学歴さえ持たないヒヨっ子として周囲からは認識されていたのだ。弟が殊更きちんとした服装に拘るのは、せめて外見だけでも隙無くかためる事が周囲の大人たちに嘗められない様にする為の防衛手段だったからだ。


ところがそれなりの実績を積み職場での地位も得、大人になった今でもその習慣は変わらず、Tシャツにハーフパンツ姿でだらしなくソファに寝そべる俺がまるで悪いことでもしているような気にさせられるほどきちんとした服装で、同じソファの隅に品よく腰かけていたりする。


今日もせっかくの休日だというのに、落ち着いた色味のコットンパンツに一番上のボタンまでしっかり留めたカッターシャツ姿の弟は、3人掛けのソファの大部分を占領して寝そべり本を読む俺の隣で、何やらチマチマと作業に没頭していた。


「アル?お前さっきから何やってんの?」

「紳士のたしなみです」

「はぁ?なんだソリャ?」

手元に注いでいた視線をちらりと寄越す弟が浮かべたその微笑みに・・・・・俺は、嫌な予感を抱いた。


「ねぇ、兄さんもやってあげようか?」

言いながら指先に摘まんでいた平たい棒状のモノを、振ってみせる。

「だからソレなんなんだよ?」

「何って、見て分からない?爪磨きだよ」

「爪磨き?何でオトコが爪なんて磨く必要があるんだよ。よせよ、身だしなみに気を使うのもいいが、それも過ぎると気色悪ィぞ、アル」

俺の中では(つーか、普通男なんてそんなもんだろ?)爪なんていうのは、邪魔で不潔にならない程度に切っておけばいいただそれだけのもので、『爪磨きをする男』という種類の生き物に対しては、神経症的な気質を持った気障なナルシスト野郎という先入観があった。
正直に不快感を露わにした俺に、いかにも心外だという風に弟は言った。

「あのねぇ。言っておくけどこれは身だしなみというよりはむしろアナタの為にやっているんだよ?それをその言い草はあんまりなんじゃないの?」

「???????」

コイツが女みたいに爪を磨きあげるのが、どうして俺の為なのか?弟の言わんとするところが全く分からずに首を傾げていると、「本当に分からないの?」なんて悲しそうな表情で顔を寄せてくるものだから、俺はちょっとうろたえた。

弟は、ソファにうつ伏せになって肘をついている俺の顔をのぞき込むようにしていたが、やがて俺から質問の答えが返ってこない事を悟ると、それまで指先で弄んでいた爪磨きをローテーブルにカチリと置き、広げた両手の甲を此方に向けながら別の質問を投げてきた。

「じゃあさ、この手を見て兄さんはどう思う?何か気付く事はない?」

言われて目の前にかざされた両手をまじまじと見る。

大きな手だ。何をするにも柔らかで繊細な動きをするのに、いざ見てみると驚くほど男性的な線を持つ手だといつも思う。細く長い指がすらりと伸びていても、それらは決してか弱さを感じさせることはなく、節張って力強い、大人の男の手。内緒だけれど、俺はこの手に触れられるのが実はとても好きだ。日常の何気ない合間に軽く肩を掴まれたりとか、さりげなく一瞬だけ背にあてられる時とか、組手の最中に危なげなく拳を受け止められる時とか・・・・・って、何考えてんだ俺!?

うっかり恥ずかしい事を考えた照れかくしもあり、また同じ男の立場からのひがみもあって、俺はわざとつっけんどんな口調で言ってやった。

「それぐらいデカいと、扇げばさぞいい風がくるだろう?便利そうな手だな」

「そうそう、そうなんだよ!風のない夏場なんかにはとっても重宝・・・・・・・じゃないだろコラ!」

最近なんだかノリの良い弟だ。

「イテッ!耳引っ張んなアホ!」

「手じゃなくて爪を見てよ爪!ピアニストじゃあるまいし、こんなに短い爪って普通ありえないと思わない?」

俺の鈍感さにとうとうしびれを切らした出題者が答えを言っても、まだ俺にはトンと話の焦点が掴めなかった。

「?????まあ、確かに。指の長さからすると、異様にちっさい爪だよな?」

「そう。つまり僕は、コレをお洒落の為にしている訳では無いの。その辺は分かってくれた?」

「ん。ソレは分かった。で?じゃあ何の為にそんなに短くしてる訳?」

俺のこの問が、知らぬまま周到に導かれ引き出されたものだったのだと気がついたのは、目の前の弟の表情が不穏な笑みを浮かべた瞬間だった。

身内の欲目と惚れた欲目を引いて10で割っても『王子様系ノーブルなイイ男あるほんす君』が、まるで悪魔のように見えた。ようにというか、悪魔そのもの・・・・・・いや、悪魔本人でさえ気を悪くする程の邪悪っぷりを湛えた笑顔だった。

怖いなんて、そんな生易しいモンじゃなかった。

 

目の前の悪魔が(既に弟という呼称にはあまりにも似つかわしくない様相を呈していたので)にじり寄る。

金縛りにあったように動けずにいる俺は、まるで蛇に捕食されるのを待ついたいけなカエルだった。

そのカエル(つまり俺の事)の脳裏には、いつか読んだことのある童話のシーンがメリーゴーランドのようにぐるぐると駆け巡っていた。



赤い被りものをした女の子が婆さんの見舞いに行き、先回りして喰っちまった婆さんと入れ替わっていた狼に、そうとは知らずに話し掛けるあの場面だ。




『おう、弟。今日は耳デカくね?』
『うん。兄さんの声が、良く聞こえるように大きくしてみたよ』

『ん?お前なんだか目もでけぇぞ?』
『だって兄さんのセクシーボディが良く見たいからさ』

『お前のデカイ手、扇げばさぞいい風がくるだろう?便利そうだな』
『てゆーか、兄さんを捕まえるにはこれでも小さすぎるくらいだよ』

『でもお前、そのデカい口は頂けねぇな。ちょっと下品じゃね?』
『兄さんを美味しく食べる為にはこれくらいじゃなきゃね。それじゃ、イタダキま〜す!!』

今さっきのやり取りをこの童話になぞらえるなら、ざっとこんな感じだろうか。



そんなアホな事を考えているうちにも、俺はソファから引きずり下ろされ肌触りのいいラグに仰向けにさせられ、そしてその上には当然のごとく弟という名の悪魔だか狼だかが覆いかぶさって、鼻息荒く舌舐めずりをしていた。

「なんで爪磨きの話がいきなりこんな展開になってんだよ!?おかしいだろ!?」

「違う。爪磨きの話じゃなくて、僕が何故にわざわざ爪磨きなんかで爪を削っているのかという部分が話のポイントだから」

「じゃあ勿体ぶらねぇでサッサとその理由とやらを説明しやがれ・・・・・・ヒャウッ!!」

言い終わるのを待たずに、俺のTシャツの裾から入り込んだ手が脇腹をそろりと撫で上げた。俺が身につけているのは、ダボっとしたTシャツにボトムはさらにゆったりしたハーフパンツだった。このラフな格好が不味かったと思ったところで今更だ。これでは弟がその気になれば瞬きする間に綺麗に剥かれてしまうに違いない。・・・・と、ワタワタする俺の両手をひとまとめにして頭上で押さえつけながら、弟はもう一方の手で今度こそ遠慮なくTシャツをたくし上げて好き勝手に弄り出す。此方は2本、相手は一本なのに、上から体重を掛けて押さえつけている所為もあってかどうやっても解けない腕が口惜しい。前言撤回。弟の手に触られるのなんて好きなもんか!

必死にもがく俺の耳の後ろにわざとイヤラシイ音を立てながらキスをしたエロい男は、またしても協定を破ってあの凄まじい魔力を持った声で囁いてくる。

「・・・・・説明してあげる」
「アッ!?てめ・・・・・・コノ野郎!その声嫌だって言って・・・・・・・」
「いい?もし僕の爪が尖ってたりしたら、このビスクドールのような肌を傷つけてしまうでしょ?それに・・・」
まんまとハーフパンツごと下着を下ろされて「あっ!」と声を上げた瞬間、その口に突っ込んだ二本の指で舌を挟み妖しく動かしている男は、さらに目を細めて満足げにほほ笑んだ。割広げられた膝の間に入り込まれた俺は、もう次に何をされるかなんて分かりきっていたから、思わずぶるりと体を震わせた。

「ここの部分はとてもデリケートなんだよ」と、『ここの部分』を濡れた指でほじくり始める弟の下。既に意識が半分どっかに行っていてロクに会話も出来ない状態だというのに、その後も長時間に渡り俺の耳元ではアノ声が『何ゆえ自分が爪切りではなく爪磨きを愛用しているのか』について延々と語り続けたのだった。(ちなみに、そのまま指だけで一体何回イかされたのか正気に戻った俺が覚えている事はなかった)




その日以来、わざとらしく俺の前で爪磨きに勤しむという弟からの嫌がらせに、本気で悩まされている俺だ。





 

 


テキストTOPへ