再び僕たちが歩き始めるとき
どこまでも続く石造りの町並みを、やや西に傾いて赤みを帯びてきた日の光りが照らしている。 僕の前髪を気まぐれに揺らしては過ぎていく風には、冬の気配。
時折緩やかにカーブしたり坂道になったりする石畳の道を、幾つもの分岐を迷う事無く通り過ぎ、かといって特に目指す場所がある風でもなく、ゆっくりとした足取りで歩いていく、背中。
金色に光る長い髪を無造作に一括りにした小さな後姿の人が着ている薄茶色のコートは、つい今年の春先まで僕自身が着ていたものだ。 ちょうど去年の今頃、とある町のふと立ち寄った用品店で、当時着ていたコートが成長著しい僕の身体に合わなくなってきたことを見咎めた兄が、選んで買ってくれたもの。 そして今、そのコートでさえ袖を通すことが出来ないほど成長してしまった僕に、その兄が再び、今度は焦げ茶色のコートを買ってくれたのが、つい先刻の事。 見た目よりもずっと柔らかな生地で造られたそれは、とても上質な物で当然値段も張った。 もっと他の安価なもので十分と云う僕の言葉に、兄は頑として首を立てに振らず、半ば無理やりそのコートを僕に着せた。 弟には出来るだけ良い物を与えてやりたいと思う、兄の気持ちが分からないでもなかったが、その値段に見合うほどの期間、僕がそのコートを着られる体格でいられるかどうか、甚だ疑問なのだった。 しかし、体格の大小云々についての一切を、常日頃から禁句としている兄に向かい、自分自身の今後の成長予想を申告することは非常に難しく・・・・・・。
つまり、兄にいわれるままその焦げ茶色の柔らかいコートを着て、今こうして歩いているわけだった。
「・・・・・・何処に行くの?」
「ン・・・・?何か言ったか、アル?」
僕のぽつりとした問いかけに、立ち止まることも振り返る事もなく、先を行く兄がのんびりと答えてくる。 少し声を大きくして、もう一度聞いてみた。
「何処に、行くつもりなの?兄さん」 「・・・・・・・・・・・・」
内緒にしておきたいのか、そもそも行き先を決めていないのか、それとも答える事自体が面倒なのか。 兄から返事が返ってくる様子はない。
普段から気まぐれなところがある兄のことだし、返事がないことについて別段気にすることもなく、僕はそのまま黙って後ろを歩き続けた。
歩きながら、兄の背中を見る。
僕が着ていた当時はぴったり合っていたコートの、肩の両端部分が余っている。 両方のポケットに手を入れていて見えないけれど、袖丈もきっと長めな筈だ。 僕がもう、小さくて着られなくなってしまったコートを着る、小さな体。 背中の下の方まで伸びた毛先をさらさらと揺らして、ほんの少し左側の足を引き摺るように、でも真っ直ぐに前を見て胸を張って歩く綺麗な後姿。
その衝動は、ふいにやってきた。
僕はそれまでの歩幅を大きく変えて兄との距離を縮めると、後ろからそっと両腕で兄の体を抱きしめ、その首筋に頬で触れた。 それに歩みを止めた兄は、優しい声で僕に話しかけてくる。
「どうした?図体ばっかで、中身はまだ子供のままか、アル?ん?」
言いながらゆっくりと僕の左頬に、生身の左手を添えて、義手の右手は兄の腰を抱きとめている僕の腕に重ねられた。
なんて・・・・・なんて優しい声なんだろう、と思う。既に成人を迎えた男性にしては高めの、掠れたようでいながら透き通った響きのある不思議な声で、ひっそりと話しかけてくる。
こちら側の世界に来てしまう前の兄は、決してこんな風に、甘く、優しく、囁くように声を発する人ではなかった。 元来、優しさと情にあふれる人間であり、人並みの繊細さを持ち合わせていながらも、それらは強さとか、逞しさ、激しさの影になって、あまり表出することがなかったのだと、最近になって僕はようやく気がついた。 そして、かつての兄自身がおそらくは無意識にであろうがより強く、逞しく、激しくあろうとしたのは、他ならぬこの僕の肉体を取り戻す為にであり、又そういう兄であれたのは、今のこの世界には在り得ない錬金術と機械鎧の存在とに拠るところが大きかったのだ、とも。
もとの世界へ帰る手だてがほぼ皆無となった今では、まったく以って無意味な仮定ではあるけれど、もし今のこの兄をあの人達・・・・・ウィンリィやばっちゃん、軍の人達・・・が見たら、きっと仰天するのではないか。 ふと、そんな想像をして僕は複雑な気持ちになって。 くすん、と思わず吐息がもれた。
「アル?・・・・アル、笑ってるのか・・・・?それとも、泣いてるのか・・・?」 「分からない・・・・どっちなんだろ」 「?変な奴だなあ。ドシタ?何か悲しいことでも思い出したか?」
またさらに優しい声音で呼びかけながら、僕の様子を伺って腕の中でこちらを向こうと身動ぎしたけれど、僕が腕の力を弱めないので、片足が不自由な義足の兄はうまく身体の向きを変えることが出来なかった。
腕の中にすっぽり納まって、僕がほんの、ほんの少し力を入れただけで、自由に身動きすることさえできない小さな兄に、僕はますます切なくなって、悲しくなって、そしてほんの少しだけ、嬉しくなった。
「あのね。兄さん」 「・・・・・・?」 「あのね」 「ん?」 「今頃になってやっと気がついたんだけどね」 「・・・・?」 「兄さんがとっても優しい人なんだってこと」 「ふ・・・・っ。なんだそりゃ。そんなにコート買ってもらったのがうれしかったのかな?アルフォンス君は?」
それまでの囁くような口調とはうって変わったからりとした調子で楽しそうに兄が笑うの は、きっと半分は照れ隠しの為だ。
「うん嬉しいよ、とても。どうもありがとう。兄さん」
僕が腕の力を緩めると、腕の中の兄がようやくこちら側に体の向きを変えて、僕を見上げ てきた。
そういえば、あのコートを買った店を出てから今まで、先に立って歩く兄の顔を見ていなかったように思う。 そして見下ろしたその兄の表情の中に寂しげな色が見て取れて、僕は何故先ほどの兄があれほどまでに高価なコートを買い与えることに固執していたのか、その理由を知った気がした。
いや、本当は、こちら側に来たときから気がついていた。 ただ、僕がそう認めたくなかっただけで。 そしてきっと兄は、そんな僕に持たなくてもいい負い目すら感じていたのかも知れなかった。
僕たち二人が生まれ育った世界にしか存在しえない、兄のアイデンティティーの礎とさえいっても過言ではなかった錬金術そのものの喪失。 そしてさらに機械鎧という概念すらも存在しないというこの異世界にあるのは、不自由な義手・義足という仮初の、それこそ玩具のような手足のみだ。
そう、こちらの世界では否が応でも兄は庇護される側の人間になってしまっていたという現実に。
悲しく、優しい光を湛えた金色の瞳で、変わらずじっと僕を見上げている兄は、又さっきの静かな声で話しだした。
「ごめんな。こんな頼りない兄貴になっちまって」 「何を言うの・・・!兄さん」 「もう、今の俺がおまえにしてやれる事なんて・・・・ほとんど無いんだ。分かってたのにお前、今までどおりに接してくれてたろ?俺が少しくらい足引き摺ってても知らない振りしてくれてたり、ウィンリィが最後にくれた機械鎧が作動不能になってただの義手に付け替えたときも、俺にそうと気付かれないように手ェ貸してくれてたの、ホントはずっと知ってたよ」
淡々とあいかわらず静かな声で語りかけてくる兄に、僕は胸が押しつぶされそうな痛みを感じて歯を食いしばって耐えた。 その僕の両頬を、兄の左右の温度の違う手が触れて、包み込んだ。
「ありがとう。お前のほうこそが、優しい人間だよ・・・・だから・・・」
その目をそらすことなく話し続ける兄の手に、僕も両手を添えながら見上げてくる目を見つめ返した。
「ありがとうな。あの時、お前を残してこっち側に戻ったときは、正直俺も自分がココまで弱っちまうもんだとは予想してなくてさ。お前が俺を追ってきてくれてなかったら・・・きっと、ダメになってたかもしんねぇ」
「兄さん・・・・!」
僕はいつしかぎゅっと握り締めていた兄の両手を自分の口元に持っていき、合わせてさらに握りこんだ。 もう抑えることが出来なくなった僕の両目からぽたりぽたりと雫が落ちて、兄の両手を濡らしていくのを見ていたが、ここでその静かだった声は不意に強いものに変わった。
「やってみようと思うんだ。だから・・・・・!」
「・・・・・・・・・?」
「こっちの世界でも機械鎧みたいなもん、作ってみようかな、と」 「・・・兄さん・・・・?」
「駄目でもともとで、さ。でもお前がいてくれれば、なんか不思議に大丈夫な気がするんだよ、俺」
「それに」と、悪戯を企むような表情で、兄は続けた。 「お前も当然手伝ってくれんだろ?」
そういって笑う兄の眼には、昔の幼い頃の何も恐れを知らない光が戻ったかのようで、 それを見た僕は、情けなくもまた新たな涙を溢れさせてしまった。
その後暫くの間、時たま通り過ぎてゆく街の人々の視線に晒されつつ、そんな僕を突き放すわけにもいかず本気で恥ずかしかったのだと、その当時の心中を兄本人から聞かされたのは、それからもう数年経ってからの話だ。
190827 初めて書いたSS・・・・どっきどき
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