ドリル4



 

 

 

 

どこか遠くの方から、かすかにパトカーのサイレンが聞こえて、僕はぼんやりと目を開けた。全ての明かりを落とした室内の光源は、頭上に位置する大きな窓から入ってくる夜景の反射光のみだ。

左側で僕に寄り添うように丸くなって眠る大切な人を起こさないよう目だけを動かし、壁掛けのデジタル時計の緑色に光る表示盤を見る。

 

午前2時41分

 

このまま寝入ってしまおうと目を閉じかけたところで、枕元の携帯電話が小さな振動音を立てた。こんな時間にメールを寄こすことで、携帯を開く前から僕には相手の名前が分かっていた。

 

送信者:姉さん

 

件名:連絡しなさいよ

 

メッセージ:最近全然店に来ないじゃないの。元気にしてるの?たまには顔を見せに来なさい。

 

思った通りの相手からの、案の上の内容に、思わず笑みが零れる。

『姉さん』と僕が呼ぶこの人物は、勿論本当に僕の実姉という訳ではない。けれど『家族』という縁に恵まれているとは言い難い僕にとっては本当に姉のような存在で、この『姉さん』も僕を弟と呼んではばからない。

 

そんな彼女との・・・いや、彼との出会いは、今から5年程遡る。

 

 

その頃、僕は育ての親である祖父祖母を立て続けに亡くし、捨て鉢とまではいかなくとも相当落ち込んでいた時期にあった。僕は私生児で、母は僕が5歳の時に自殺していたのだが、亡くなる際の祖母の口から初めて自分の父親が著名な政治家であり、その愛人であった母は反対を押し切って無理に僕を生み育てた事で相手に見限られたのだと聞かされた。

それまで秘密を守り続けていた祖母は、最期に娘である母の無念を僕に伝えておきたかったのだろう。

 

 

僕の中にある母の記憶は、優しいけれど冷たく、手の届かない遠いイメージだ。母はけっして僕を虐待したり無視したりした訳ではなかったけれど、僕は子供特有の超能力染みた感受性でもって自分が母から疎まれている事を知っていた。

けれど、幼い子供にとって親の・・・・・殊に母親の存在というのは絶大なものだ。自分を取り巻く世界の全てといってもいい。その頃の僕にとっても当然母の存在はそれと同じで、僕は何時でも母の顔色を伺い、母の愛情を僅かでも手にしようと必死だった。母を困らせるような事は絶対にしなかったし、まるで女王蜂に仕える働き蜂のような甲斐甲斐しさで涙ぐましい努力をしていた。けれど皮肉なことに、僕が尽くせば尽くすほど母の苦しみは増した。

 

自分が身籠った事を知った母が相手の男の反対を押し切ってまで僕を生んだのは、授かった命を生み育てたいという母性からくる愛情と、もう一つは『子供』というツールで自分の許に男をつなぎとめておけるのではという女としての打算からだった。その結果、僕を産んだ事で逆に男から関係を断たれてしまった母は、僕という存在を持て余した。

まがりなりにも自分がお腹を痛めて産んだ子供だ。そこには確かに愛情もありはしたが、それと同時に自らの中に存在する『僕を産んでしまった事』を後悔する気持ちが、自分に対する強い嫌悪となって母を苦しめた。

 

そんな自分に必死に取りすがってくる幼い僕を心から抱きしめる事も突き放すこともできず、やがて母はアルコールに溺れるようになった。会社から帰宅しても祖父母に僕の世話をまかせっきりにしたまま、眠るまでの間ただ浴びるように酒を飲み続ける。そんな生活が、数カ月は続いたと思う。

 

ある夜、すすり泣きながらキッチンのテーブルに突っ伏して酒を煽っている母の姿がどうにも痛ましく、僕はその肩にカーディガンをかけ、冷蔵庫から麦茶か何かを出して注いであげた。ふり乱した髪の隙間から僕を見る母の眼は血走り、酷く酔って半分正気を失っているのが分かった。

そして母は、僕に言ったのだ。

 

『アル君・・・・ママはね、ちゃんとしたママじゃないの。駄目な人間なの。お願いだからそんな目でママを見ないで。優しくしないで。ママにはアル君の気持ちが重いよ・・・・痛いの!そんな目でこれ以上私を追い詰めないで!苦しめないでよ!』

 

今でも覚えている、それが母と交わした最期の会話だ。その翌朝母は、風呂場で冷たくなっているところを祖母に発見された。

 

 

 

僕はただ、母に愛されたかっただけだ。

 

けれど自分の愛が、執着が・・・母を殺したのだ。

 

この事が僕の心に大きなトラウマを作った。そしてその後成長するに従い、トラウマも重症度を増した。

 

 

 

僕は一度好きになった相手に対して、異常な程の愛情を注ぎ、尽くし、心を砕いた。まるで母に出来なかった代替のように、贖罪であるかのように。そうする事で、ようやっと心の均衡を保っていたから、そうせずには居られなかったのだ。しかしやがて相手から愛情らしきものを返された途端、僕はそれを恐れてその相手から去るのだ。いつの日かまた、あの過去の母と同じように、僕の愛情が重荷になり相手を苦しめてしまうのではないか、疎まれてしまうのではないか、と。そうして逃げておきながら、また懲りることなく、僕は再び愛情を注ぐ相手を探してしまうのだ。

 

 

母のお陰か、それとも会った事もない父の血の恩恵か、僕は見てくれだけは十人並み以上のレベルだったから、軽い恋の相手にはいつでも事欠かなかった。けれどいざ深く愛情を取り交わす段になった途端逃げ出す事の繰り返しだったから、僕は巷では落とした女には即興味を失う最低な男として知られていた。

でも僕はただ、誰かを幸せにしてあげたいという欲求を満たしながら、全身全霊をかけて愛し愛される相手を探しているだけなのだ。けれどそんな事を繰り返している内に、やがてそれは生業となり、気がつけば僕は、ある有名な出張ホストクラブでナンバーワンの席に座らされていた。

 

僕が『姉さん』と出会ったのは、そんな時だった。

 

 

 

 

 

 

『姉さん』の本名は、ハイマンス=ブレダという。国立大の法学部を出た後、法律事務所で働くお堅い生活をしていたものの、ある日突然抑圧していたものを爆発させ、それまでひた隠しにしていた属性を一気にカミングアウトして新宿2丁目で第二の人生を歩き出したという、この町ではそれほど珍しくもない経歴を持つ人だ。

しかし如何せん、その頃の『姉さん』は化粧が下手で服のセンスも野暮ったく、どうしたら自分を魅力的に見せられるのかという自己プロデュースが全くなっていなかった。彼自体、元々が女性的とはとても言えない容貌をしていたし、特別整っているとも言い難かった。さらに下腹には隠しようのない皮下脂肪の蓄積が見受けられ・・・・・とにかく、一見してよくテレビなどで見かける笑いをとるオカマのようなキャラクターだったのだ。

 

そんな『姉さん』から出張ホストの依頼を受け、そこに僕が出向いたのが事の始まりだ。

 

出張ホストといっても、実はその業務内容は多岐に渡る。普通の恋人同士のようにデートを楽しむ場合もあれば、ただ単にセックスだけが目的の客もいる。自分を捨てた男への当てつけに新しい恋人役としての演技を迫られることもあったし、資産家の老婦人宅に招かれ、丸一日孫として過ごすこともある。

僕は前述の通り、ただ尽くす相手が欲しくてこの仕事をやっているようなものだったから、他のホスト達と違って客を選り好みしなかった。だからたまにあるこんな変わり種の客からの依頼などには、決まって僕が派遣されていた。

 

 

ブレ子さん(当時僕は『姉さん』をそう呼んでいた)が指定したのは、都内にあるそこそこ格のあるホテルの一室だった。指定された部屋の扉を叩けば、内側から扉を開けて僕を見るなり、ブレ子さんはその場に座り込み号泣した。それも物凄い大音量で・・・・・だ。

人に尽くす事が大好きな僕にとって、『傷ついた人』は恰好の餌だった。すぐさま彼女を部屋のソファに座らせ、まずはとても両手では回りきらない身体を抱きしめて思う存分泣かせてあげた後、じっくりと話を聞いた。

 

ブレ子さんには、2丁目で働き出した頃から仲良くしていたオカマの友人がいた。彼女(?)はブレ子さんと違い、女性と並んでも見劣りしない程の美人だったが、ブレ子さんと気が合い、互いに何でも話し合える親友として心を許す程の仲だった。

また、ブレ子さんには熱烈アタックの末手に入れた恋人がいた。しかし・・・・この恋人が、その美人の友人を見るなり急に心変わりをしたのだ。

一度に恋人と親友を失ったブレ子さんは、一時は自殺も考えたとしゃくり上げながら訴えた。

 

『やっぱり女でもオカマでも、綺麗な方が良いに決まってるわ!こんな汚いワタシは、きっと一生たった一人で寂しく生きて寂しく死んで行くしかないんだわ!』

 

その言葉に、僕はとても共感を覚えた。

 

『一生を、たった一人で寂しく生きて、そして寂しく死んでいく』

 

僕はその悲しい現実が自分の身にも迫っている感覚を日々リアルに実感していたから、目の前で雄々しく泣くオカマのブレ子さんの窮状をどうにかしてやらなくてはと、自分事のように考えた。

 

聞けばブレ子さんの依頼はただこの苦しみを誰かに話して慰めて欲しかっただけという事だったが、僕は業務とは別に一個人としてブレ子さんをホテルから連れ出し、美容院、ネイルサロン、エステ、大柄な女性の服を専門に扱うショップを梯子して再びホテルに戻ると、今度はメイクの手ほどきをした。

 

僕の持てる全ての知識と技術を駆使して作り上げた作品(=ブレ子さん)は、数時間前の彼女とはまるで別人だった。垂れ気味の目じりが何ともチャーミングな、ふくよかで温かみのある綺麗なオカマが鏡の前に居た。

 

しかし何より驚いたのは、ブレ子さん自身の変化だった。一気に明るい表情になり、さっきまでのネガティブな思考が全てプラス方向へと変換され、元々の彼女が持つ聡明さが表れ出すと、瞬く間に魅力的な女性へと変貌を遂げたのだ。

そしてその後、僕と彼女はゆったりと食事をし、ワインを酌み交わして心ゆくまで語り合い、残念ながらヘテロの僕は彼女を抱く事は出来なかったから擬似的なセックスではあったものの、プロの技で彼女をベッドで喜ばせてあげたのだった。

 

やがてその後の彼女のさらなる変貌には、目を見張るものがあった。

それまで名も知れぬ小さなゲイバーの雑用係でしかなかった彼女は、やがて有名なゲイバーからスカウトを受け移籍するとますます輝きを増し、その後独立をすれば今度は類稀なる経営手腕を発揮して、数年と経たない内に都内にゲイバーとショーパブを十数店舗も所有する実業家になってしまったのだ。

 

一方僕はといえば、相変わらず尽くせる相手を探し求め、尽くしては逃走し、寂しくなってはまた誰かを探す・・・という悲しい作業を飽きもせず繰り返していた。そして次第にそんな自分に失望し、もはや自分には誰かと愛し愛されて生きることなど不可能なのだと諦観を抱き始めていた。

 

 

 

 

最初の出会い以降、彼女と僕の関係は『姉と弟』のようになっていた。失意のどん底に一度は落ちたものの、その後ありのままの自分を認め受け入れた姉さんは、情に厚く頼りがいのある肝の座った彼女本来の姿を取り戻すと、僕より一回り年上だった事もあり、いつでも僕を気にかけては何かと親身に世話をしてくれるようになった。

週に一度は彼女が居る『本店』に顔を出し、店の賄いを夕食に貰いながら近況を報告しあうのが習慣になっていたのだが、そんなある日彼女が提案したある計画が、その後の僕の人生を変えるきっかけとなった。

 

 

 

 

「ネェ、アル君。アンタは相変わらず、ちょっと信じられないくらいなイイ男だけどさ、その不細工な表情はどうにかなんないモンかしらねぇ」

 

実業家としての成功を収めた今も、彼女が現役のママを勤めるゲイバーの『本店』。僕はそこのカウンターテーブルで、いつものように夕食を貰っていた。自他共に認める食い道楽である姉さんの方針で彼女の経営する店舗は皆、ゲイバーやショーパブという種類の店で出すには勿体ない程充実したメニューを用意していて、従業員にふるまう賄いも当然豪勢なものだった。

ダイナミックにカットされスパイスの効いたステーキ肉がゴロゴロ入っているガーリックライスに半熟卵を乗せた賄いのプレートをつつきながら、僕はそっけなく答える。

 

「今は営業中じゃないし相手は姉さんなんだから、どんな顔してようが別に関係ないでしょ。ところでコレ、すっごく美味しいんだけど野菜が絶対的に足りてないよね」

 

会うたび僕の素の表情にケチを付ける彼女に軽く憎まれ口を叩くと、すぐさま容赦ないデコピンが返された。

 

「お黙り!人生ってのはね、肉さえ喰ってりゃ大抵はどうにかなんのよ!!突き詰めれば結局はそんな単純なモンなの!!!それなのにアンタって子は・・・どうしてそうなの!?姉さん、情けなくって泣けてくるわ・・・・・ッ!!」

 

いつでも営業用の柔らかな微笑を崩さない僕が、素の顔でくつろげる唯一の相手である彼女は、僕のその表情を見る度に飽きることなくこうして叱咤するように愚痴を零した。

しかしそれも詮無い事だ。僕は二十歳そこそこの健康な身体を持つ恵まれた若者だというのに、早くも自分の人生というものに諦めに近い気持ちを抱いていたのだから。トラウマを始点にした悪循環から抜け出そうと散々もがき続けた結果、手にしたのがこの虚しさのみという現状に、僕はすっかり疲れ果てていたのだ。

 

愛飲している細身の煙草をまるでキャッチャーミットみたいな手で器用につまむ指先をぼんやり見ていると、細く煙を吐き出しながら彼女は切り出した。

 

「アンタさ、またその気にさせたオンナからトンズラこいたでしょ?ウチのショーパブの女の子達が噂してたわヨ」

 

「仕事で優しくしてあげてるだけなのに、向こうが勝手に本気になっちゃうんだから仕方ないでしょう」

 

自分で言いながら『最低の男が吐くセリフだ』と内心苦笑した僕の額に本日二発目のデコピンをお見舞いしながら、彼女はさらに続けた。

 

「アル君ね。アタシは今までアンタの痛みを十分理解しているからこそ、じ〜っと黙ってアンタがしている事を見続けてきたんだわ。でも、今日はハッキリ言わせて貰うわよ」

 

それまでの愚痴っぽい口調ではなく、まるで諭すように言う彼女の言葉に、僕は素直に耳を傾けた。

 

「自分で愛されるように仕向けておいて、相手から求められるたびに怖がって逃げ回って自己嫌悪して、その度にボロボロに傷ついて。その癖、また懲りずに同じ事を繰り返して・・・・・このままじゃ、絶対アンタは駄目になる。アンタね、ホストなんてお辞めなさいな。その旺盛なサービス精神を満たしたいってんなら、もっと他にもやりようがあるでしょうよ」

 

「老人ホームでオムツを取り替えたりとか?」

 

「アンタがやるには絵的に許せないからそんなのは却下よ!」

 

茶化した僕のセリフにそう真面目に答えると、彼女はカウンターの向こうから身を乗り出すようにした。

 

「要するに、下手にデートとか精神的なふれあいがサービス内容に入ってるからいけないのよ」

 

「・・・・僕にカラダだけを売れって言ってるの?」

 

正直にムッとした表情を浮かべた僕の顔を分厚い掌でバシンと挟んだ姉さんは、一瞬だけ男に戻った。

 

「ヒトの話は最後まで聞けオラーーーッ!!!」

 

 

 

 

 

「いやぁ〜ん!ママが男みたいな声だしてるぅぅぅ〜ハボ美、怖ァい」

 

姉さんの怒号が響き渡った店内の雰囲気を和らげるように、ボックス席の中から身長190センチはありそうな筋肉隆々の金髪のオカマがシナを作って姉さんをたしなめた。

 

「ハボちゃあん!だってェ〜、この子がいけないのよォ!あんまり分からず屋だから思わずはしたない声上げちゃったじゃないのサ!あら〜ン、皆さんゴメンなさいねぇぇぇぇぇ〜!」

 

店内の客に向かって詫びた後、また再び話を続ける。今日はとことんまで自分の意見を僕に聞かせたいらしい。

 

「アタシ、一回だけアル君からサービスしてもらったじゃない?でさ、アレからアタシもそりゃあ色んな相手と場数を踏んだ訳だけど、アル君ほどのテクニシャンには未だに出会えていないのよねぇ・・・・で、アタシは考え付いたのよ」

 

姉さんが新しい煙草を咥えると、いつのまに近づいていたのか横からさっきの金髪のオカマが逞しい腕を伸ばしてその先端に火をつける。

 

「アル君のテクは、十分カネを取ってビジネスとして成り立つレベルだと思うの」

 

「じゃあ、セックスという行為ではなく、あくまでも僕のテクニックだけ提供するサービスをするって事?」

 

「そうそ。それなら客がアル君に入れ込む事もそうそうないだろうし、何よりアル君はその溢れるサービス精神を発揮したいという欲望を満足させられるって訳よ。どう?いい考えだと思わない?」

 

僕の隣のスツールに腰掛けながら煙草を吸っていたハボ美という名らしいオカマが、自然に会話に加わった。

 

「でもさぁママ、そういう風俗業みたいのって、ヤクザにお金を払わないといけないんじゃなかった?ええ〜と、なんていうの?メカジキリョウ?」

 

「ヤダよしてよハボちゃん『みかじめ料』でしょ!漁師かっつーの」

 

まるでコントのようなやり取りに思わず笑い声を漏らした僕の頬を、姉さんは大きな手で撫でながら目を細めた。

 

「ほ〜ら、アンタの笑った顔の何てカワイイことでしょ。アタシはさ、アル君がいっつでもそんな風に幸せそうに笑っててくれるんなら、どんな事だってしてやりたいのよ。ハボちゃんの言ってるみかじめ料なら心配しないでいいわ。ここらを取り仕切ってる大親分とマブダチなのよ。アタシから話つけといたげるから、アンタは何にも心配しないで好きなようにやってみなさい。ただし!条件が一つあるわ」

 

やけに真面目腐った顔で人差し指を立てた姉さんはこう言った。

 

「会社の命名権はアタシが貰うわよ。聞いてぶっ飛ぶが良いワ。その名も『ドリルコーポレーション』よ!さあアル君!日本中の男どものケツを、掘って掘って掘りまくるのよーーーーッ!!!!」

 

姉さんのその叫びがこだまするや再び静まり返った店内の雰囲気は、もうハボ美さんの機転を持ってしても挽回する事は不可能だった。

 

 

 

 

 

 

 

そんな経緯で僕がドリルコーポレーションを立ち上げる頃、折良く会社法が改正されたことで当面の運転資金さえ確保できれば多額の資本金を用意する必要はなかったから、特に何の障害もなく、会社はすんなりとスタートを切った。

 

姉さんが睨んだとおり、僕の技術は非常にお客に喜ばれた。だから営業をしなければ依頼がとれないのは本当に最初の内だけで、やがて瞬く間に会社は軌道に乗り順調に売上を伸ばし、売上の上昇に従ってスタッフを補充する事を繰り返しながら、面白いように業績を上げていった。

 

もとは姉さんに背中を押されての受動的な動機であったものの、いざ始めてみれば会社経営というものにやりがいを見出だした僕は、いつしかトラウマばかりを見つめていた今までの自分の姿を冷静に振り返る精神的な余裕さえ持てるようになっていた。

無いものばかりを子供のように欲しがっても仕方がない。人にはそれぞれの生き様があり、僕の人生には『たった一人のかけがえのない人』というものが存在しない。ただ、それだけの事なのだ・・・・と、淡々と現実を受け止め仕事に没頭する日々が数年続いた。

 

しかし、人生というのは本当に分からないものだ。

 

それを手に入れようと必死にもがいていた時には少しもこの指先で触れる事すら出来なかったというのに、逆にそればかりに執着しなくなった頃になってから、思い出したように勝手にこの手に転がり込んでくるなんて。

 

 

 

そうして僕は、この人に出会った。

 

 

 

 

 

 

 

 

やがて白々と夜が明け、ブラインド越しに入る光はゆっくりと明るさを増し、隣で眠る愛しい人の姿をはっきと浮かびあがらせた。

長い金の髪をシーツの上にはらりと広げて、心から安心しきった表情で僕の胸に顔をうずめている。眠る前は僕の腕から逃れるような素振りを見せていた癖に、ひとたび眠って無意識の状態になれば逆に自分から僕の腕の中に入ってくる、本当は寂しがり屋な人。

 

実のところ、6日前にしたプロポーズへの返事はまだ貰っていないから、僕と彼の関係は保留の状態だった。もっともだからこそ、彼を抱いて抱いて溶かし尽くしてしまいたいこの熱い衝動を連日こらえている僕なのだが、心のどこかではまだほんの少しだけ不安を抱いているのが正直な気持ちだ。

けれど、彼が僕への返事を躊躇し引き延ばしているのは、僕という存在を受け入れた後にそれを失う事を恐れている為だと思う。いや、そう思いたい。

 

とうとう今日は約束の日だ。夕方までにはあの店から僕の携帯に連絡が入る事になっている。指輪を手にして、それを互いに贈り合い、そして・・・・・・・・・・彼は、一体僕にどんな言葉をくれるのだろうか。願わくば、どうか、彼の想いが僕と同じものでありますように。

 

これまでの人生で只の一度も神になど祈ったことも感謝したこともない僕が、そんな風にいるとも知れない存在に願いをかけてしまうほどに彼を切望していた。

 

とにかく。

 

今日、僕の運命は決まるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「エド、お味噌汁のお替りはする?」

 

「ん・・・・半分くらい貰う」

 

 

狭くはあるが機能的な造りのキッチンにある小さなテーブルで、彼とさし向いで朝食をとるのもこれで6度目を数える。コレステロールの摂取量が気になるから、残念ながらバターを使った牛乳で仕上げる野菜の味噌汁がテーブルに並ぶのは一日おきだ。

今日の具は、メークインとさやいんげん。

テーブルの上に味噌汁の椀を見つける度、ふと彼が見せる表情に、僕はいつも胸が締め付けられるような痛みを味わう。

 

目を細めて、きっと無意識にだろうが何とも幸福そうにじんわりとほほ笑むのだ。かつて切り捨てた筈の温もりを、再び手にした事を噛みしめるかのように。

 

 

 

出会った翌々日から毎日欠かさず、僕は『迎えに行くついでの営業』と称して彼の職場へと足を運んでいた。(確かに“営業”する事も重要な目的ではあったけれど)

そこで度々目にするのは、彼の上司や同僚や部下達の驚く様子だった。僕とほんの些細なやり取りをする彼を見ては、皆が口々に言うのだ。

 

『まるでアンドロイドのようだったあのドワードさんが』

 

『エルリック君にも、そんな表情ができたなんて』

 

『お前も笑ったりするんだなぁ・・・!』

 

 

正直なところ、札幌のホテルで初めて出会ってからこれまでの間、僕が持つ彼の印象にさほど大きな変化はない。しいて違いを言うならば、笑顔を見せてくれるようになった事だろうか。彼は初めから僕が投げかけたあらゆるアクションに過敏といってもいいほどの反応をいつも返してくれていたし、怒ったり泣いたり喚き散らしたり恥ずかしがったり・・・・と、それはそれは目まぐるしく表情を変えていた。ところが、この職場の人達の反応からみる普段の彼は、どうやらそうではないらしいのだ。

 

耳にした諸々のセリフの要点を切り取って羅列してみれば、周囲の人間達が彼に抱いていた印象はおよそこんなものばかりだった。

 

無表情・無感動・無関心・機械的・人間嫌い・・・・・・・・・極めつけは、『課長がもし精巧に作られたロボットだったとしても、僕は驚かないな』という、彼の部下であるフレッチャーの言葉だ。

 

彼は家族を失ったあの日以来ずっと、誰とも心を触れ合わせることなく頑なに壁を守ってたったひとりで生き続けてきた。本当は喉から手が出るほど求めていた人の温もりを、それを失う痛みを恐れて逆に避け続けていたのだ。

 

けれど、感情の無い人間などいない。

これまで生きてきた中で、本当はどんなに泣きたかっただろう。どんなに怒りたかったか・・・・・・そして、笑いたかっただろうか。

 

彼はそれら全てを捨てる事でしか、自分の心を守ることができずにいた。けれど、今はこうして僕の前で怒り、泣き、そして笑う。

だから。

僕は多分、彼に愛されているという自信を持っていいのだろう。あとは彼が、その『恐れ』の大きさ以上に強い心で僕を求めてくれるか否かだ。

もはや賽は投げられた。残る問題は彼の心の中にあり、僕に出来る事は答えが出るのを待つ・・・・・・ただそれだけだった。

 

 

 

 

どうにか辛抱して頬への軽いキスだけで彼を送りだした後、僕は身支度をしながら夜中のメールに返事を返さないままでいた姉さんに電話をかけた。夜型の生活をする姉さんにとって、この時間に電話をかけるのは少々非常識かとも思えたが、今日の夜に下されるだろう審判を前にして不安を抱えていた僕は、あらかじめすべてを彼女に話しておきたかったのだ。

 

案の定、眠そうな声で電話に出た姉さんに、僕は一週間前の札幌での出来事から今までのことをすべて洗いざらい打ち明けた。相槌を打つヒマもない程間断なく話す僕の言葉を黙って聞いていた姉さんは、やがて僕が話し終えたことを悟ると、電話の向こうでフゥと煙を吐き出した。そして感情の読み取り難い抑揚のない声で言った。

 

「・・・・・そのエドちゃんを連れて、今日の夜、本店に顔見せにおいで」

 

もしかしすると、エドワードの品定めでもするつもりなのだろうかと僕は身構えた。もし姉さんがエドワードを自分の眼鏡にかなう人間ではないと判断するようなことがあれば、きっと彼女は僕達にとってこの上なく大きな障害になってしまうはずだからだ。

 

「姉さん・・・・でも、今日は約束の日なんだよ。だからそれはまた今度に・・・・」

 

「指輪を作った店は何処?ウチの店から近いの?」

 

「え?ああ・・・・・ええと、赤坂なんだ。アメストリスって名前の店」

 

そう答えると、何故か電話の向こうで姉さんが暫し沈黙した。

 

「姉さん?どうしたの?」

 

「・・・・・その店、アタシ知ってるわ。セレブ御用達の有名な店じゃないのよ。アンタもまぁ、随分と張り込んだのねぇ・・・ふぅん・・・そう言うことか・・・・」

 

なにやら一人勝手に納得したらしい姉さんは、指輪はその後で取りに行けばいいからとにかく仕事が終わったらその足で店に来いと言うだけ言って、一方的に電話を切った。

 

「・・・・今、姉さんに話したのは失敗だったかな・・・まあ、仕方がない。いつかは話さなくてはならない事なんだしね」

 

重大な審判を控えて、さらにその前には姉さんの面接が待っていると思うと少々気分が重かったが、致し方ないことだと頭を切り替え、僕も会社へと向かうべく部屋を出た。

 

 

 

 

 

 

 

そしてとうとう夕方になり、僕はいつもと同じように車をエドワードが勤務する会社が入ったビルの玄関口に乗りつけた。

いつもならばここで彼の携帯に電話をかけながらその彼の勤務先に向かうのだが、今日は既に玄関口の自動ドアからエドワードが此方に向かって歩いて来るところだった。

 

僕の姿を認めると、軽く手を上げて小走りに近づいてくる。彼の出で立ちは、朝出がけに着ていた茶系のスーツではなく、少し艶のある黒いスーツだった。彼の輝くような艶を放つ金髪がその黒い色に良く映えて美しく、また、ただでさえ細身の身体を一層華奢に見せていた。

 

「わざわざ着替えたの?それ、エドに凄く似合うね。とても良い見立てだ」

 

「・・・・別にわざわざじゃねぇ。午前中新木場にある物品倉庫の在庫チェックに行かされて、そこで埃まみれになっちまったから着替えただけだからな!」

 

いかにもな言い訳をしながらも語尾にやたらと力が入っている様子に、思わず笑いが漏れる。事の真相は、言い訳と事実が半分半分といったところだろうか。どうやら彼なりに、今日これからの事に対して身構える気持ちがあるらしい。

 

車を走らせながら、僕は彼に長い話をした。

まだ彼には言っていなかった『姉さん』という人について説明し、これまた今まで言う機会のなかった自分の出自や生い立ち・・・・そして僕のパーソナリティーの根底にはびこるトラウマの存在についても触れた。

彼は始終黙って、瞬きで相槌を打ちながら僕の言葉に耳を傾けていたが、やがて車を停めた場所があの指輪を注文した店ではない事に気付くと、僕に説明を求めた。

 

「ごめんね。到着するまでに全て話し終えて、それから今日のことを言うつもりだったのに、その前に着いちゃったね」

 

「スゲェゴージャスな店だけど・・・・・ここ、もしかしてその『姉さん』ってヒトの店?」

 

赤いカーペットが敷かれた階段を上りながら、目前に聳え立つ煌びやかで品格を感じさせる堂々とした佇まいを見上げ、素直に感嘆の声を上げる人の横顔に気負いは感じられなかった。

 

「そう。実はね、今朝姉さんに電話したら、まずはふたりで顔を見せに来いって言われて・・・・急にこんなことになってしまって悪いと思ってる。まだエドからあの返事も貰っていないのに。本当に・・・・・ごめん」

 

「いや、別にそれは構わねぇ。さっきのお前の話聞いて、俺もその姉さんて人に俄然興味が沸いたとこだ。会えるなら嬉しい」

 

そう言って笑う表情からは、とてもじゃないが『婚約者の義姉に会う』緊張感は微塵も見受けられず、僕は内心落胆した。

考えたくはないが、この後に彼から聞かされることになっている答えは、もしかすると僕が求めている答えとは違ったものかも知れない。そんな嫌な予感が脳裏を過ぎったが、どうにか表情を取り繕い、豪奢な細工が施された金張りの扉を押し開け彼を中へと促した。

 

 

 

 

 

 

「あんらぁ〜すっごい美人連れてんじゃないアル君!どうしたのよ〜ン、その子!?」

 

まだ営業時間前の閑散としたフロアの奥から僕達を見つけるなり、オカマらしからぬ体育会系的な大股歩きで近づいてきたハボ美さんの今日の衣装は、ありえないことに大腿部の上の方まで潔くスリットが入ったチャイナドレスだ。しかし僕は『究極の接客業』に携わる中で培った精神力を駆使して柔らかな笑みを浮かべた。

 

「こんばんは、ハボ美さん。姉さんはまだ奥の事務所にいるのかな?」

 

「今ちょっと来客中でね、でもすぐに出てくるわよン。それにしても・・・・・・んまぁぁぁぁぁぁ!なんって綺麗な子なの?まるでお人形さんみたいじゃないのよ!あ、もしかして芸能人〜?」

 

放っておけば全身を撫で回しそうな勢いのハボ美さんから守るように立ちふさがった僕の後ろから、彼の声がした。

 

「はじめまして。自分は・・・・エドワード・エルリックと言います。コイツとはちょっと縁があって仲良くさせてもらってます。ハボ美さんと呼んでも?」

 

そつのない仕草で僕の脇から名刺を差し出すと、ニコリと可愛い笑顔をハボ美さんに向けた。不器用そうでいて、意外にも実は結構タラシなのかも知れないと、新たな発見に感動した僕だ。

名刺を受け取ったハボ美さんは、大仰でワイルドなリアクションをしながらも黄色い悲鳴を上げた。

 

「きゃぁぁぁぁぁぁぁぁん!可愛いッ素敵ッカッコイイッ!それにダブリス通商ってもしかしてスッゴク有名な会社じゃないの?いやぁん!こんなに素敵なのにエリートサラリーマンなの?たまらない〜〜〜アアン抱いてェ〜〜〜〜ッ!!!」

 

「いい加減にしなさいよハボちゃん。フロアで度々欲情されちゃあ、この店の趣旨を疑われちゃうワッ」

 

冗談とも本気ともつかない叫び声を上げながら身をくねらせるハボ美さんの後ろから現れた今日の姉さんも、これまた信じがたいことにチャイナドレス姿だった。大きな羽が付いた扇子をはためかせる仕草が堂に入っていて、一見有閑マダムのようだ。

 

「姉さん、先週は黙って顔出さなくて御免ね。ちょっと、それどころじゃなくて連絡する余裕もなかった」

 

正直にそう詫びる僕の頬を、長いマニキュアの爪が光る掌でいつものようにひと撫ですると、店の奥にある事務所の方をしゃくって示した。

 

「アンタは出来上がってきた指輪の仕上がりの確認をしておいで。アメストリスの店主が奥に来てるのよ。アタシはその間、ちょっとエドちゃんと話をするわ」

 

どういった経緯でアメストリスの店主がここまで指輪を届けにきているのかは分からないが、とにかくエドワードと姉さんを二人だけにして自分がその場を離れることに僕は不安を抱いた。姉さんの真意がまったく汲み取れないのだ。

その場でどうしたものかと足を踏み出せずにいた僕に、エドワードが明るい声をかけてきた。

 

「行って来いよ、アル。お前だけに確認させんの悪ぃけど頼むな。俺も、ブレ子さんと話したいからさ」

 

と、心底嬉しそうな笑顔でそう言う。僕はその彼を見て、またしても失意に打ちのめされた。

少なくとも、彼が僕を『結婚相手』だと認識してくれているのであれば、僕と実の姉弟のような関係にある姉さんとの対面に、多少なりとも何かしらの気構えがあってしかるべきだ。ところが彼にはそんな様子が全くない。

 

「・・・・・・・分かった・・・・・ちょっと、行ってくる」

 

奥にある事務所へと足を向けながらも、僕は今更こんな指輪を贈り贈られる意味がはたしてあるのだろうか・・・と、弱気にもそんな気持ちになっていた。

 

 

 

 

 

贅を尽くした煌びやかな店内とはまるで別次元の世界のような簡素で実用一点張りの事務所で、一週間前は店主だとは知らなかったあの黒服の男性から出来あがった指輪のケースを差し出され、仕方なく重い気分のまま一応の確認をした。

義務的に確認を終えたその後、この指輪の特殊な加工の方法や品質の素晴らしさについてなど別段欲しくもない説明を延々と聞かされながら、彼と姉さんがどんな話をしているのかが気になって仕方がなかった。しかし何故か僕とした事が、男の話術にすっかりペースを持っていかれてこの場を辞す事ができない。

ややして、さりげない仕草で腕時計を見たアメストリスの店主が、不意に講釈を中断した。

 

「さて、そろそろ良い頃合いでしょう・・・・・長々と申しわけございませんでした。この度は当店をご利用頂き、誠にありがとうございました。エルリック様の前途に幸多き事を、心よりお祈りいたします」

 

僕が余程気落ちした様子を見せていたからなのか。1週間前に店で見た時とはまるで別人のような、思いやり溢れる暖かな男の対応に背中を押されるようにして、二つの指輪の箱を手に事務所を後にした。

 

 

 

 

 

 

営業が始まっているはずの店内に客らしき姿が全くない事に違和感を覚えつつ、エドワードがいるいつも僕が座るカウンターへと、一歩一近付いて行く。

 

とうとう、この時が来てしまった。

 

一週間前にはあんなにも待ち遠しかったこの瞬間が、今ではもっと先ならば良かったと思っている。

 

僕は、この指輪を慰謝料として彼に渡さなくてはいけないのだろうか。

そんな事になったら、きっともう生きてはいられない。彼は既に、僕の一部になっていた。半身といっても良い。それを失ってしまえば、自分は何をよすがに生きればいいのか。

 

けれど、次の瞬間。

それまでの暗澹とした僕の心が、魔法のように塗りかえられたのだ。

 

 

カウンターに片肘をついてバドワイザーを缶から直接飲んでいた彼は、僕を振り返るとまるで太陽のように笑った。

 

会社では、無表情・無感動・無関心などと言われているのがまるで嘘のような、曇りのない笑顔。見ているだけで癒され、暗い場所から救い上げられるような笑顔。

 

エドワードの口から彼の身の上に起きた出来事を聞いたあの日、彼が僕と同じ場所に傷を抱え、同じ痛みを知っているのだと悟った。けれど、その彼は今、こんな笑顔を作れるようになっている。

僕には、それがたまらなく嬉しかった。

 

 

 

・・・・もういい。

 

エドワードが、この人さえ幸せであれば、僕はもう何も望まない。

彼がこの笑顔を取り戻してくれた。ただそれだけで僕は救われ、癒され、幸福感で満たされることができる。

 

 

彼は『天使のような人』ではない。僕にとって、本当に幸せを運んでくる天使だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「エド・・・・・・さぁ、指輪を」

 

「ん」

 

 

僕が差し出した箱を受け取り、その蓋を開き、指輪を手に取る。淀みない彼のそんな仕草にさえ見惚れていると、彼はその指輪を口許に持っていき・・・・・・・・・・・・キスを、した。

僕は、目を見開いた。

 

揺るぎない光を宿した彼の金色の眼が僕を見据える。

 

 

駄目だ、もう。息が止まりそうだ。

 

 

「アル・・・・・・・アルフォンス・・・・・・」

 

 

「・・・・・・・・・・・・・ッ」

 

 

情けない事に僕は、彼の呼び掛けに声を出して応えることすらできなかった。

 

彼はゆっくりとひとつ瞬きをして、次の言葉を紡いだ。奇跡のような、その言葉を。

 

 

「本当はもう、最初から分かってた。俺がもう、お前なしには生きていけないってこと・・・・・・・アル」

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

僕の左手の取り、その薬指に指輪をはめると、彼はもう一度そこに口付けをした。

 

 

「俺を全部お前にやる。命も、心も、身体も、魂も、時間も、人生も、なにもかも全てを・・・・・だ。ただし、コレは取引だ。等価交換って言葉があるだろう?」

 

「・・・僕は・・・・・僕はあなたに何をあげればいいの・・・・・?」

 

 

茫然と夢見心地のまま、ようやくそれだけ口にした僕に、彼は言った。

 

 

「一日でも良い。いや、ほんの数分・・・一瞬だけだって良い。俺より先に死なないでくれ。それで・・・・俺が死ぬその日の朝まで、お前が作る味噌汁を毎日飲みたい」

 

 

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

 

 

「バカ、アル・・・・・泣いてんじゃねぇよ」

 

 

情けない。こんな大事な場面で、まるで子供のように泣くことしかできないなんて。

 

涙を止める事が出来ないまま、僕は箱から取り出した指輪に同じようにキスをして、彼の左手の薬指にはめた。そしてまた、そこにもキスを贈る。真実、心からの・・・・・誓いのくちづけを。

 

 

 

 

そんな僕たちの様子を、固唾を飲んで見ていたらしいハボ美さん達は、一斉に溜め息をつくと折角の雰囲気を台無しにするように口々にまくし立て始めた。

 

 

「成程!良い女房の条件まんまだワ!料理上手に床上手!味噌汁でダーリンをゲットなんて古風だケド素敵ねぇ〜〜〜ん」

 

「待ちなさいヨ!掘られるのはエドちゃんのほうでしょ?ダーリンて、ちょっとソレ違くない?」

 

「あんな二人なら、掘ったり掘られたりでもステキだわン。いやぁん!なんだかとってもドリルチック〜〜〜ッ」

 

「あらハボ美ちゃん!その言葉、新しくって中々イイ感じじゃなぁい?ドリルチック〜〜〜〜ゥ!」

 

「ドリルチック〜〜〜〜〜ウ!」

 

「いやァン!ドリルチック〜〜〜〜〜ゥ!!」

 

 

何やら突然飛び出した新造語で盛り上がるオカマ達をかき分けるようにして、姉さんがこちらにやって来た。そう言えば、エドワードと話をしていた筈だった彼女は、今まで一体何をしていたのだろうと思い至る。その僕の横では、またしてもオカマたちが野太くけたたましい声をあげた。

 

「ねねねね!アル君アル君。エドちゃんったらスゴイのよン!初対面でいきなりあのママを泣かせたのッ!ママお顔が全部流れちゃって大惨事だったのよ〜ゥ!」

 

「ホント、エドちゃんたら堪ンないワッ!可愛くてカッコイイのヨゥッ!あんなイイ男もなかなかいるもんじゃないわ〜」

 

「なんたって、『夜の撃墜王アルフォンス』を落とした上に泣かせたのよ!ハッキリいってエドちゃんは最強よネ!」

 

「あの・・・・彼のいる場所で、そのあだ名を言うのは止めてください・・・・・」

 

折角YESの返事を貰った傍から波風を立てないで欲しい。冷や汗を流す僕の隣では、どうやらそのあだ名に含まれる意味を理解していない様子の彼が首を傾げながら僕を見上げていた。

 

「と、ところでエド。姉さんに、なんて言ったの?」

 

話の矛先を変えようとそんな質問をすると、目の前に立った姉さんがまだ赤い目の下をハンカチで押さえながら代わりに答えた。

 

「『何でこんな強姦魔になんか70万もする指輪を買ってやるんだ』ってワタシ聞いたのよ!」

 

「姉さん・・・・それは酷いよ・・・・」

 

「そしたらね・・・・・この子・・・・・ウウウウッ・・・・アンタの・・・味噌汁がッ、旨かったからって・・・・・泣かせるじゃないのさッ!いい!?良く聞きなさいアルフォンス!」

 

またしても盛大に雪崩を起こしている化粧もそっちのけの姉さんが、物凄い形相で僕に掴み掛かってきた。僕は気圧されるまま、姿勢を正して返事をするしかない。

 

「はい」

 

「この子を泣かせたら、このアタシが承知しないわヨ!!分かったわね!!!」

 

「はい。肝に銘じます」

 

「よろしい」

 

どうやら姉さんは僕から聞いた話でエドワードの身の上に酷く同情し、そして直接目にしたエドワードをいっぺんで気に入ってしまったらしい。僕の身内のはずの彼女が、今後は姑のような煙たい存在になってしまうかも知れないと溜め息を吐きつつも、その一方で嬉しさを隠せなかった。

 

 

 

やがて、姉さんが事前に用意していたらしい華やかでボリュームのある料理の皿が運ばれた店内で、僕たちは皆から祝福を受けた。総勢十数人のオカマ達と姉さんがずらりとテーブルを囲む迫力満点なシチュエーションで、周囲にせっつかれるまま、彼と僕はぎこちなく誓いのキスをした。

 

オカマ達の溜め息と歓声の中、姉さんは厨房に向かって声をかけた。

 

「ファルマンちゃあ〜ん!シャンパンのグラス、足りなくなっちゃったみたいヨ!持ってきて頂戴〜」

 

間もなくグラスとシャンパンの瓶を乗せたワゴンを押して現れたアメストリスの店主は、いつもの黒服に借り物らしいフリル付きのエプロンをしていた。

 

「いい機会だから、ついでに紹介しちゃうわネッアル君、エドちゃん。ワタシのダーリンのファルマンちゃんよ。アル君とエドちゃんみたいに、生涯を誓い合った仲なの」

 

「申し遅れまして・・・・ヴァトー・ファルマンと申します」

 

「姉さん、いつの間に!?そんなこと今まで一言だって聞いてないよ!」

 

これまで週に一度は必ず互いの近況を包み隠さず報告しあっていたつもりでいたから、初めて聞くその事実に衝撃を受けた。

 

「ワタシだけ幸せになった事がなんだか後ろめたくてさ、言えなかったのヨ。ゴメンね、アル君」

 

「そんな事気にしなくてよかったのに、姉さん。でも、姉さんが幸せになってくれて、僕達も嬉しいよ。ね?エド?」

 

僕の言葉に嬉しそうな笑顔を浮かべたエドワードが姉さんに頷いてみせると、たちまち彼は姉さんの強烈な抱擁とキスの嵐に揉みくちゃにされた。

 

「エドっちゃぁぁぁぁぁぁぁん!!ワタシの幸せを嬉しいって言ってくれるの?まぁぁぁぁぁ!なんて優しい子なの!?ああもうアル君相手でさえ勿体無い気がしてきたワッ!ワタシのお家に来ない〜?ウンっと大事にして可愛がってあげるわよ!!」

 

「姉さん・・・・ダーリンがいるんでしょ。冗談も大概にして」

 

「アラん、半分は本気よゥ!ちゃんと大事にしなかったら、ワタシがもらっちゃうんだからネッ!・・・さぁ皆、今日はおめでたい日よ!好きなだけ食べて飲んで楽しむといいワ〜!ブレ子だけに無礼講〜〜〜なんつって」

 

その瞬間、折角和気藹々と賑やかだった店内に冷え切った風が吹きぬけた。

 

「ママ・・・・・・そのマンネリ化した親父ギャグ、絶対にお客のいる営業中は使わないほうがいいと思うのヨ」

 

珍しく正論を吐くハボ美さんの言葉に、一同は深く頷いたのだった。

 

 

 

 

 

姉さんは、今朝僕からの電話で話を聞いた段階で、既に僕とエドのことを心から祝福してくれるつもりでいたらしい。だから急遽店を休業にし、朝からこの『お祝いパーティー』の準備にとりかかっていたのだ。

また、姉さんが電話の途中で沈黙した理由。これは、恋人であるファルマンさんから一週間前に聞いていた話の内容と僕の話が符合した為だった。

 

 

 

無礼講の言葉どおり、普段は砕けた風に見せながらその実上下関係の厳しい職場にもかかわらず、どのオカマ達も寛いだ様子で酒を酌み交わし、笑い、歌を歌い、中には踊りだす人までいて、とても楽しそうだ。

エドワードはとにかく大人気で、あちこちから袖を引かれては座り、立ち上がればまた別の場所から声をかけられ・・・と、大忙しだ。僕はそんな恋人の楽しそうに笑う姿を、少し離れた席から幸せな気持ちで眺めていた。

と、そこに給仕役に駆り出されていたファルマンさんが、一段落したのかエプロンを外しながらやってきた。

 

「驚きました。まさかあなたが姉さんの恋人だったなんて・・・・・でも、彼女が幸せそうで良かった」

 

「ええ。私もまさかうちにお出で下さったお客様が、彼女から度々聞いていたアルフォンス君だとは思わなくて驚きましたよ」

 

互いに笑いながら、僕はペリエのグラスを、相手はシャンパングラスを手に掲げ軽くあわせた。

 

「私事で非常に恐縮なのですがね・・・・・」

 

やがて、控えめながら、彼は事の経緯を話し出した。

 

 

彼が貴金属店を・・・・・それも、エンゲージリングやマリッジリングなどばかりを扱う店を営んでいるのは、指輪を取り交わす恋人達の幸せな姿を見ることに喜びを感じていたからだった。しかし皮肉にも店の評判が上がるにつれ、訪れる客は次第に虚栄心や物欲に塗れた愛と呼ぶにはとても程遠いものを抱えた人間ばかりになり、指輪を贈られる側も贈る側も、その指輪の価値を推し量ることばかりに躍起になっている事に、彼は失望した。

店を畳もうかと思う・・・と、恋人に悩みを打ち明けていた彼は、あの日、指輪を買いに訪れた僕とエドワードに出会った。

 

最初はいかにも金回りの良さそうな男と、その男の金の力に言いなりになっているだけの愛情の欠片すら持たない男・・・・・もうすっかり見慣れてしまった二人組みかと、彼はまたしても落胆した。

 

本当はもう、そんな客に自分が心を込めて選んで仕入れた指輪を売る事はしたくなかった。だから極力事務的に商品を紹介し、接客にも気持ちを込めなかった。

ところが支払いの段になり片方がカードを差し出すと、それまでまるきり指輪を買うことに無関心で無理やり連れて来られたと言わんばかりの様子だった小柄で綺麗な方の男が、代金を折半すると言い出したのだ。長い間この商売をしてきて、そんな事を言い出す客は初めてだった。そうして、その小柄な男はさらにこう言ったのだ。

 

『お前は俺の指輪だけ買えばいい。そしたら俺がお前のを買ってやる。この方がスッキリして気持ち良いだろ?』

 

なんてシンプルでさり気なく、そして心のこもったプロポーズの言葉だろうと、これまでになく感動した。そして目から鱗が落ちた。

 

そうだ。何故、エンゲージリングやマリッジリングは、当たり前のように男性側だけが贈るのだろうか。それはまるで人間が飼い犬に首輪を買い与える行為のようではないか。

けれど目の前の客は違う。常識や固定観念に囚われず、大切な相手から何かを貰うだけでなく、それと同じものを与えようと行動した。それもごく自然に・・・・だ。

 

自分は、気持ちをこめて選んで提供する指輪を、こんなふたりに買って欲しかったのだ。こんな自然で深い愛情を交し合っている恋人達の姿が見たくて、自分はこの仕事を選んだのだ。

 

 

 

これをきっかけに、一時は店をやめようと考えていた彼は、ある決断をした。場所を移し、手ごろな価格で良いものをもっとたくさんの恋人達に提供できる店を新しく開くことにしたのだ。そして彼は、すぐにその話を恋人に熱く語って聞かせたのだった。

 







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