ドリル〜幕間〜
その日、俺は尋常じゃなく疲れていた・・・・・・・・というか、疲れ切っていた。 外神田にある本社内のデスクで、俺は朝から取引先との商談に使う頁総数が250にも及ぶ研究論文のような資料を作成するのに四苦八苦していたのだが、夕方の終業時刻をきっかり回ったと同時に携帯電話が鳴り出した。 確認するまでも無く、この電話をかけてきている相手は分かりきっていたから、俺はすかさず保留ボタンを押したソレを通勤用の鞄に放り混むとノートパソコンと作成中の資料一式を適当な紙袋に突っ込み、大急ぎで席を立った。
俺が勤務するこの所謂『外資系の商社』は、日本に拠点を置きながらも経営陣のほぼ九割をアメリカ産の人間が占めており、その雇用形態は当然のことながら日本古来より根付く『年功序列』だとか『終身雇用』だとかそんな言葉とは一切無縁で、あくまでも『個人主義』『合理主義』『実力主義』といった要素で成り立っていた。だから、もしその気になれば『割り当てられた業務を完璧にこなす』という条件付きで、出社せずとも自宅で仕事をすることさえ可能な程だ。そんな訳で、自分用に与えられたパーテーションで仕切られたブースから慌ただしく飛び出した俺は、一応所属する部署の長であるハクロ部長に一言挨拶をしただけで他の何に気がねする事もなく、とっとと職場を後に出来るのだ。
駆けこむなり叩きつけるような勢いでボタンを押したエレベーターの前で、俺はジリジリしながら迫りくる焦燥感にいてもたってもいられず、無意識に足踏みをする。 全部で6基あるこれらのエレベーターのうち、どれが一番早くこの12階にたどり着くのか!?ああそれとも、今この階の一番近くまで迫っている右側中央のエレベーターにこそ、その『脅威』が乗っているのかも!?
俺が何故こんなにも早く職場を後にしようと焦っているのかといえば、原因は今更言うまでもなく、あの男にある。
まだ知りあってから5日と経たないあの男。
その名も、アルフォンス・エルリック
性風俗関連特殊営業を定款の第一営業種目に謳い、設立後僅か3年あまりで年商10億円を叩き出す会社を経営する男。
眉目麗しい容姿、着痩せする癖に逞しくも引き締まった申し分のない体躯、冴えた頭脳、洗練された物腰、そして人類として必要以上のサイズを誇る・・・・・・・・アレ。それら全てを持ち合わせた、同じ男として羨ましさを通り越して殺意さえ覚える程に恵まれた、まさしく神に愛された男。
「・・・しかしそれでいて、どういう訳か自信がイマイチ足りてないってとこがミソだよな・・・・・何であんなに自分のこととなると無自覚になるのかが全く分からん」
ついつい知らず独りごちていた俺の目前で、ポーンという間抜けな電子音と同時に扉が開かれた。
「エド・・・・っと、違った・・・ッにいさぁぁぁぁぁぁぁぁんんん!!!」
「ピぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!」
しまった!一歩遅かった!俺とした事が、どうしてこうも連日間抜けな過ちを犯すのか?
後悔したところでもう遅かった。俺は猫に捕らえられただ弄られるだけの鼠の如き非力さで、男の腕に抱え上げられると、もうすっかりお馴染みとなったあの暴力的な頬擦りをごりごりごりごりごりごりごりごりと、したい放題されていた。
ああ願わくば。今この場に、職場の関係者が来ませんように・・・・と思いつつも、終業時間のエレベーターホールは既に退社する人の姿が多くあり、その願いが天に聞き届けられることはなさそうだった。
やがて俺を抱え上げた男はそのままの状態でエレベーターホールを突っ切り、長い廊下の端へと大股で移動を始めた。あまりの素早さに、俺が口を挟むヒマも無い。
「あんまり遅いから、てっきり兄さんに不埒な感情を抱いたケダモノが帰宅の途に着く兄さんを人の立ち入らない防火扉で隔てられた階段に連れ込んで穢れた想いを遂げようとしてるんじゃないかって思って・・・・!僕、居てもたってもいられなくてここまで来ちゃったよ!兄さん、本当に無事で良かった・・・・!」
「今まさに、不埒な感情を抱いたケダモノに防火扉で仕切られた人気のない階段に連れ込まれていそいそベルトのバックル外されてンだけど・・・・これでも俺、無事って言えンのか。ああ!?」
キレた俺に光るミルクティーみたいな色合いの前髪を鷲掴みにされて涙ぐみながらも、何故か幸せそうに頬を緩めるこの男こそ、表向きには俺の弟ということになっているが、実は近い将来的にちょっと人には言えない関係になるかも知れない・・・・そんな間柄にある、アルフォンスだ。
「ああ・・・相変わらずのつれない素振り・・・・でも、僕は生まれ変わったんだ!そんなアナタの心を全て手に入れるため、72時間×365日年中無休で愛を叫びます!!」
「それ、一日の時間ヘンだから・・・・・・地球の自転速度ではどう頑張ったって一日は24時間だっつの。お前、やっぱり宇宙人?宇宙的時差ボケ?」
「それも素敵な発想だけど、単に密度の問題。凝縮された僕の愛を・・・・・・さあ!受け取って・・・・!」
「ピぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!」
俺の疲れの原因とは、言うまでも無い。 あの札幌出張の翌日から、俺はコイツの部屋で寝泊りすることを余儀なくされていて、四六時中熱い視線と絡みつくような抱擁とそして吐き気を催す程甘いセリフを休みなく与えられていた。 過ぎたるは及ばざるが如しという言葉を知らないらしいこの男。『植物だって水をやり過ぎたら枯れるんだぜ』 とたしなめたものの、やはり貸す耳を持たない。
指輪の一件以来、まだ奴からのプロポーズじみたものへの返事を保留にしているというのに、俺とこいつの間に流れる空気が否応なく甘い方向に流れてしまうのは否定できない事実だ。しかしアルフォンスは、どうやら指輪が手元に届き、俺からの返事を聞くまでは一切俺と性的な交渉を持たないと決めたらしく、同じベッドで眠るものの律儀にも手を出してくることはなかった。 朝目を覚ませばそこは必ずアルフォンスの腕の中で、テーブルに並べられる飯はどれも俺好みで旨く、一人で出来る身支度までもかいがいしく世話を焼かれ、出掛けにはキスで送り出されるという・・・・・・殆ど新婚カップル同然というあきれた生活をアルフォンスと俺は展開していた。 だが、あきれるのはそれだけではないのだ。アルフォンスは夕方の終業時刻になると決まって必ずこのオフィスビルの玄関口に車を乗りつけ俺の携帯に電話を寄越すのだが、毎回俺が降りるのに手間取っているうちに、こうしてわざわざ職場までやってきてしまうのだった。 そしてあろうことか隔離された場所にあるとはいえ職場がある建物内のこの階段で、弟と称す男からの『凝縮された愛』って奴をこれ以上ない程に体感させられるのだが(勿論キス以上の行為は断固として阻止しているし、奴もじゃれているだけなのだ) “事”がソコで収束する訳もない。この後には決まって、この男の非常識な営業活動を目の当たりにしながらそれを止める力を持たない自分の無力感に打ちひしがれることになるのだ。
「皆さぁ〜ん!本日もお仕事、誠にお疲れ様でございます。毎度お馴染み、ドリルコーポレーション代表取締役のアルフォンス・エルリックでございます!」
チリ紙交換かッつの・・・・・とウンザリする俺の二の腕をがっちり掴みながら、今しがた俺が駆け足で飛び出してきたばかりの第二営業部内を、名刺片手に挨拶して回る自称エドワード・エルリックの弟。
「皆様の疲れを癒して差し上げる為に、我がドリルコーポレーションはあるのです。当社のマッサージは、他所とは似て非なるものですが、その素晴らしさは体感していただければすぐにお分かりいただけることと思います。そこで、本日は初回限定特別割引券をお持ち致しました!ご用命いただけましたならば総勢40名の優秀なマッサージ師の中からさらに選りすぐりのスタッフを全国どこへでも派遣いたします。サービスは全てお客様のご要望どおりに!ソフトなものからハードなフルコースまでございます。ちなみにご依頼を3回以上頂いているリピーターの方は現在日本全国に約20,000人以上いらっしゃいます。サービスご利用の翌朝にはきっと、新しい世界があなたの目前に開けていることでしょう・・・!!!さあ、割引券は数に限りがございます。ご所望の方はどうぞ今の内に・・・・!」
初日の総務部から始まり、次いで経理部、そして今日は俺のいる第二営業部で立て板に水のセールストークをぶちかましつつせっせと名刺と割引券をばら撒いている男は、今や社内ですっかり有名人だ。 つーか、マッサージがどんな種類のものかに言及しないのがギリギリで詐欺臭い。それにほれ見ろ。ハクロ部長なんてナイアガラの滝みたいに大汗かいてるじゃねぇか。 営業どころか大事な上客を失うはめになりかねないアルフォンスの行動が全く読めない俺だった。
「なあ、お前さ。頼むからマジで俺の会社まで押しかけてくんのだけは勘弁しろよ」
ぐったりと助手席のシートにもたれてそう懇願する俺に、アルフォンスは心底残念そうに眉根を寄せた。
「ええ?どうして?あなたを迎えに行くついでに営業まで出来て一石二鳥じゃない?」
「そこだよソコ!営業どころかお前、ハクロ部長の死にそうなツラ見たか?ロクに能力もねぇくせに威張り散らすいけ好かねぇ上司だけどよ、あれは流石に気の毒になったぜ。大事な上客逃がすことになったらどうすんだよ」
「・・・・・・う〜ん・・・あの人にはもう、別に依頼してもらわなくてもいいんだけどね」
曖昧に笑うその意味が分からず首を傾げると、アルフォンスは片側の唇の端だけ吊り上げ、妖しく光る目を細めて微笑んだ。なんて物騒な笑みだろうか。
「そのいけ好かないハクロ部長さんの態度、最近少しは改善したんじゃない?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・あ」
言われてみれば思い当たる節は一つや二つではなかった。1分の遅刻さえにも厭味タラタラで、提出した書類にまるで重箱の隅をつつくようなねちっこいチェックを入れてはどうでもいい間違いをウキウキと指摘し、口癖のように自分の学歴をひけらかすという、出来れば上司にしたくない人間だが、ここ数日は確かにそれらの行動がなりを潜めていたように思える。
「あなたが僕の兄で、それもとても仲の良い兄弟だと思ってるからさ、例えば自分が兄さんからの心証を著しく損ねてそれが僕の耳に入りでもしたら・・・・なんて考えたんじゃない?何しろ僕は、ハクロさんのとんでもなく無防備な痴態を知り尽くしちゃってるからねぇ・・・・・フフッ」
その爽やかで邪悪な笑みを浮かべながら悠々とハンドルを握るアルフォンスの横で、俺は背筋を凍らせた。
「・・・・・アッ?・・ま・・・まさか!?じゃあお前ッ!毎日お迎えのついでに営業なんて言っておきながら、本当は・・・・!!!」
「さっすが兄さん。頭いいなぁ。そう、その通り。これはね、兄さんの職場で兄さんに対してマイナスな影響を与えそうな要素を持つ人間のウィークポイントを抑えておくっていう、僕なりの計画なんでした〜アハハハハハ」
ニコニコと嬉しそうに、俺の職場で着実に上げているらしい営業の成果を報告されながら、しみじみと思った。
一見人畜無害そうな形をして油断させておきながら、その実心の中では常に謀略をめぐらせている油断のならない男アルフォンス。こいつだけは絶対敵に回したくないと。
俺が寿退社(泣)する日も、近いかもしれない・・・・・。
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