2012年4月1日に描いたエドアル画のイメージで文を書いてみたんですが (←コレがタイトル)
時は大正の頃。
砂糖の貿易商として財を成したホーエンハイム家に、エドワードは生まれた。女子ばかりが続いた末の、それも唯一の男子であったエドワードは、幼い頃より跡取りとしての教育を厳しく叩き込まれて育った。しかし一方では、将来家名と事業の全てを背負って立つ権力者としての地位が確定していたから、家族も使用人もエドワードに奔放な振る舞いを許していたし、厳格な家長である父親でさえもが時にはエドワードには甘かった。
ところが、ただ一つ。一つだけ、エドワードにも許されていない事があった。
それは、母屋の裏手にある煉瓦造りの蔵に近付いてはならないという約束事だ。
好奇心旺盛で行動力も逞しいエドワードだったが、それだけに日々学ぶ学問や父親の事業の手伝いに出かけては目にする珍しい物や人に夢中になり、これまで立ち入りを禁じられているその蔵に彼の関心が向く事はなかった。
そんなある日、エドワードが17歳となった年の春の終り。
いつものように深夜遅くまで書物に没頭していたエドワードは、突然轟いた雷鳴に思わず席を立ち、窓の外を見た。エドワードの寝室から臨む南の夜空は時折真昼のように明るくなるばかりで、稲妻そのものは見えなかった。おそらく雷雲は、北側から近付いているようだ。
花火でも見る様な心持で部屋を出ると、暗い廊下を歩き屋敷の北側に位置する窓辺から外を見た。
鼓膜を痺れさせる程の轟音と同時に目前を閃光が走る様子を、窓枠に凭れながらぼんやりと眺めていたエドワードだったが、ふと下へとやった目線の先に、これまで存在だけは知っていたものの一度として足を踏み入れた事のない古びた煉瓦造りの蔵が見えた。雷光が止んだ暫しの間、暗闇の中にぼんやりと明かりを見た気がして、その正体を改めようとじっと目を凝らした。
父からは、古い家具や書物などを置いているただの物置だと聞いた記憶がある。だから、無人である筈のその蔵の鎧戸の隙間から明かりがこぼれる訳もない。
「・・・・・・盗人か?」
蔵の壁面には小さな鎧戸がたった一つだけあって、その隙間から薄ぼんやりとではあるが確かに人為的な明かりが見えた。
屋敷の中は依然静まり返っていて、既に家族も使用人も休んでいるに違いない。何よりあんなしみったれた古い蔵にコソコソ盗みに入るような肝の小さな盗人など、武道の心得もある自分ひとりで十分だと、躊躇することなくエドワードは火を入れた角灯片手に煉瓦造りの蔵へと向かった。
いまだ雷鳴轟く中を早足に蔵の前まで辿りついたところで、ふと眉をひそめた。
中にいる人間が盗人ならば、唯一の出入り口であるこの鎧戸の鍵をどうしてかけておくのだろう。いやそもそも、外から鍵をかける事自体が不可能だ。何より、ここに来てようやくその錠を開ける為の鍵を持たない自分の迂闊に思い至ったエドワードは、鎧戸の隙間から中をそっと覗き見た。
隙間は狭く、角度を変えてもなかなか内部の様子を探るのは難しかった。しかし隙間から入り込む風に揺られる蝋燭の明かりに照らされた内部は思いのほか荒れておらず、家具や、水が満たされた大きな桶、それにこの国ではまだ珍しいベッドまでもが寝具を乗せた状態で置いてあるのが見えた。
「まさか・・・ここで、誰かが住んでいるのか・・・?」
その呟きは不用意にも中の人間に聞こえるほど大きくなってしまったが、おそらくそれが中にいる人間・・・・・いや、人間達に聞かれる事はなかった。何故なら、それと同時に悲鳴のような喘ぎと荒い息遣いの音が、鎧戸の隙間からエドワードの耳を刺したからだ。
「あああああ・・・ッ・・・イイッ・・・もっと・・・!もっと・・・お願い・・・・・・っ!」
男女の事に疎いエドワードとはいえ、出入りする顔なじみの商人に接待と称して連れて行かれた花街で、これと同じ声を聞いたことが幾度もあるから、中で何が行われているのかはすぐに分かった。
しかし声からして、今この蔵の中で喘いでいるのは、女ではなく男だ。
ふと、先日偶然耳にしてしまった使用人の噂話が脳裏をよぎる。
「御館様は衆道の気がおありだそうだよ」
「なんでも、裏の蔵に若い男を囲って、夜な夜なお楽しみだとか」
厳格な父の姿しか知らないエドワードは、低俗な人間に相応しい下衆な作り話だとすぐに忘れた―――が、もし、その話が事実であれば?今ここで、男相手に悲鳴と喘ぎ声を上げさせている人間が父だったら?
もう少し横に位置をずらして角度を変えて見れば、真実が確かめられる。
ゴクリと、喉が鳴った。息をつめ、そろそろと目線を鎧戸の隙間に移動させたのだが、震える指先がまるで縋るものを求める様に無意識に動き、鎧戸にかかる錠前に触れてしまった。ガタンと大きな音を立てた瞬間、中からの音も止んだ。
動く事も出来ずにじっとしていると、やがて中から静かな声がした。
「マスタング、無粋な。まだ迎えには早いというに・・・・・・仕方がない。興がそがれたし、今日はこれまでとするか。鍵を開けておくれ」
それは、違えようもなかった。この家の当主であり、エドワードの父である、ホーエンハイムの声だった。
翌日の深夜、エドワードは屋敷を抜け出し再び蔵の扉の前にいた。
今日は雷鳴も、そして蔵の中から妖しい喘ぎ声が聞こえる事もなく、周囲はシンと静まり返っている。
昨夜蔵の中にいた父が、物音をさせた自分を間違えて呼び掛けた『マスタング』とは、長年父の傍近くに仕え、秘書のような役割を担っている男の名だった。そのマスタングという名の男は、自分より二十は歳上だと聞いているが、どう見てもせいぜいが二十代後半という童顔の持ち主だ。しかしいつも抜け目なく周囲を観察して謀りごとを企てているような油断のならない雰囲気を纏っていて、エドワードはこの男があまり好きではなかった。昨夜の様子からして、恐らく真夜中の怪しからぬ父の行いをマスタングだけは知っていて、それだけではなく手を貸しているのは明白だ。蔵の鍵のありかをマスタングならば知っている筈だが、昨夜の出来事を自分が見てしまった事を知られるのはうまくない。だから仕方なく、こうして昨夜と同じ角灯だけを手に蔵へとやってきたのだった。
鎧戸の隙間からは、やはりゆらゆらとした蝋燭の明かりが漏れ出していて、ひそかに人の気配がある。キシリと床が軋む音、衣擦れの音・・・・・・そして。
「そこにいるのは、誰ですか?」
高すぎず低すぎず、耳に心地よい優しげな声が言った。
エドワードは返事をするのに躊躇した。この声の主は所謂男妾で、しかもそれを囲っているのは自分の父親なのだ。
これだけはと厳しく言いつけられていた『裏の蔵には近付いてはならない』という決まり事は、父の秘密に触れてはならない、知る事は決して許されないという、エドワードにとっていわば禁忌の領域だ。
すぐにでも踵を返し、ここを離れなくてはならない。そして昨夜も今も、何も見なかった事にして今まで通り過ごさなくては。
・・・・・・しかしエドワードは、恐らくまだ自分とそう歳の変わらぬだろう相手の、それも柔らかで透き通った声音に堪らなく惹きつけられている自分を感じていた。
そこから去る事も出来ず、かと言って返事をする事も出来ずに立ち尽くすだけのエドワードに向けて、再び言葉がなげかけられた。
「もしかして、昨夜ここに来た人?昨日のようなのを期待しているなら残念だけど、御館様なら今日は来ないよ。それよりも、こんな所にいるのを誰かに見つかって不味い事になるのはあなたの方だ。悪いことは言わないから、一刻も早く立ち去った方がいい」
優しげなだけでなく、品を感じさせる凛とした響きを持つ声に聞き入るうち、エドワードは自然に言葉を返していた。
「俺の名はエドワード。ここの家の息子だ。昨夜は・・・その・・・すまない・・・」
謝罪の言葉は、自分が結果覗き見のような真似をしてしまった事に対してというよりも、父の少年に対する仕打ちと、それを見ても止めてやれないどころか、逃げるように立ち去った自分の不甲斐なさを悔む気持ちから発せられたものだった。そんなエドワードの心中を正しくくみ取ったらしい相手は、殊更明るい声で話を続けた。
「僕は、君を知っているよ・・・・エドワード。実は昼間ここをこっそり抜け出して、手習いの最中の君の姿をいつも見ているんだ。昨日は英語、一昨日は香合わせ、その前は算術だったね。僕、物理化学が一番好きだな。毎週火曜日のイズミ先生の授業は、特に楽しみにしているんだよ」
エドワードは目を見開いた。自慢ではないが、自分は幼い頃より神童と言われる程度には優秀な脳を持っていて、その自分のもとへやってくる教師陣のレベルは勿論の事、授業内容も高度なものだ。それをこの声の主は、どこかに隠れながら見聞きし、楽しみにしていると言う。それは、ある程度は理解していなければ出てくる筈のない言葉だ。
たかが男妾だと、男の身でありながら同じ男に身体を差し出すことでしか生きていけない、知識欲すら持たない阿呆だと勝手に決めつけていた自分の愚かさに気付き、恥じた。
「なぁ、お前の名前はなんて言うんだ?いつからここに?昼間こっそり抜け出すって事は、この戸以外にお前がどこからか自由に出入りできる窓でもあるのか?」
矢継早な質問に、囁きのような笑い声が応えた。いつしか自分がとても興奮していたのを子供のようだと思われたかも知れない。頬を赤くしたエドワードは一度鎧戸の隙間から地面へと目線を逸らしたが、相手からの次の言葉で再び顔を上げた。
「以前は神戸にあるホーエンハイム家の別荘でお世話になっていたんだけどね。そこでちょっと粗相をしてしまって・・・・・・それでここで暮らす事になったんだ。一年位前からかな」
「粗相ってお前・・・・・・あ!もしかして、応接間のど真ん中に置いてある馬鹿デカい古伊万里の壺でも壊したとか!?それで怒ったオヤジがお前をここに閉じ込めているのか!?」
―――――エドワードの父の骨董好きは少々・・・かなり度を過ごしていて、その収集にかける情熱たるや、本業である貿易という商いすら凌ぐものがあった。
ホーエンハイム家が全国各所に所有している多くの別荘の内、中でも神戸にある屋敷には父親の趣味である骨董が美術館さながら至る所に並べたてられている。実質、父の趣味の場であった神戸の館は、貴重なあれやこれやを誤って傷つけでもしないかと実に心休まらない場所であったから、父以外の家族が足を向ける事は殆どなかった。だから、普段から人が立ち入らない場所である神戸の別荘で暮らしていたと聞いて、そこでやらかした粗相といえば十中八九それだろうと踏んだのだ。
「だからって、こんな蔵に閉じ込めて、その上あんな・・・っ、あんな…破廉恥な・・・・・・っ!」
「・・・エドワード・・・いいんだ。僕はきっと御館様にとって、それだけの事をしてしまったのだから。だからここで暮らす僕の身の上を君が悔しがってくれたり、まして後ろめたさを感じる必要なんてないんだよ」
その穏やかでしかない優しい声を聞きながら先程とは違った意味で更に頬を紅潮させたエドワードには、気付く由もなかった。鎧戸の向こうの声の主が浮かべていた、その邪な微笑みに。
以来エドワードは、夜がふければ足繁く蔵へと通うようになった。鍵は持たないから、いつも扉越しに他愛ない会話を交わすだけだが、エドワードが扉の向こうの相手に好意を抱くようになるのは、それだけでも充分だった。柔らかで張りのある、どこか品を感じさせる声の主は、豊富な知識量もさることながら機知に富んだ会話でエドワードの心を惹きつけて止まないのだ。ほどなくして父の『訪問』が水曜日と土曜日である事を知ったから、その日を避けて足を向けるのだが、しかしそれでも、情事の最中と思われる声を聞かされる日は少なくなかった。
寝台が激しく軋む音。荒い、まるで獣のようなはしたない息遣い。鞭のようなもので皮膚を叩く痛々しい音。快楽に耽溺しきって理性を失った、人の声ともつかぬ喘ぎ声。そんなものたちを耳にしてしまえば、くるりと踵を返してまるで逃げるように自分の寝室へと駆け戻るしかない。
晩熟とはいえ、エドワードも17歳の年頃の男子であったから、音だけとはいえ生々しい他人の情事の情景に身体が疼いてしまうのはどうにも止めようがなかった。耳に残る喘ぎ声が若い身体を火照らせて、一度火が点いてしまえばそう簡単に冷めてはくれない。エドワードは身の内に燻る熱を持て余した挙げ句、仕方なしにあの優しげな声の主のまだ見ぬ姿を脳裡に思い描きつつ、自らの息吹を解放させるのだった。
今夜もまた、汚れた欲望で濡らした掌を苦い気持ちで拭いながら、ふと思う。
・・・・・・そうだ。自分はまだ、あの声の主の名前さえも聞いていないのだ。
そして、浮かんだ父の側近の存在に、ようやく思い至った。
マスタングであれば、あの声の主の名前を知っている筈だ。名だけでなく、もしかしたらその素性や今までのいきさつ全てもだ。それらを知れば、まだ未熟者の半人前としか扱われていない自分でも、蔵の中の少年を助け出してやる事が出来るかもしれない。自分が思っていた通りの父ならばいざ知らず、穢れた欲望にまみれ徳の欠片すら持たない人間の「蔵に近付いてはならない」という言いつけを守る必要など、初めからなかったのに。
己の馬鹿さ加減に気付けば、つくづく情けなくなるばかりだ。
既に日付の変わった時刻ではあったけれど、エドワードはいても立ってもいられずに、マスタングの居室としてあてがわれている部屋の扉を叩いた。
「ええ、アルフォンス様の事でしたら、良く存じ上げておりますよ」
てっきり門前払いを食らうかと思っていた予想とは裏腹に、真夜中突然部屋におしかけ、何の前置きもなしに「蔵に閉じ込められている少年について、知っている事を全て話せ」と言うエドワードに、寝間着姿のマスタングはあっさりと頷いた。
エドワードを部屋へと迎え入れると、マスタングはいつもの感情の読みにくい笑みではなく、何故かどこかホッと気を抜いたようにも見える微笑を浮かべた。
「あいつは、アルフォンスというのか。歳は?まだ俺とそう変わらないだろうに・・・大体、何故父はアルフォンスを神戸の屋敷に住まわせたりしていたんだ?あいつはそこで何をやらかして、こんな蔵に閉じ込められる事になったというんだ?」
頭の回転の速いエドワードは、せっかちな性分も手伝って、一度に沢山の問いかけをしてしまう癖があった。しかしマスタングは雇い主の子息のそんな性分を重々承知していたから、たじろぐことなくすらすらと答えをかえした。しかも、それがエドワードを驚愕させるには十分すぎる内容だったにもかかわらず平然と・・・・・・だ。
「アルフォンス様の母親は、長年旦那様が懇意にしていた神戸の花街の娼妓でした。鋼屋の御職女郎オリヴィエといえば、その街で知らぬ者はないという程の方でした。私はオリヴィエ様のいらした置屋で妓夫という立場でございましたが、故あってオリヴィエ様の番頭新造のような役目を頂き御側に仕えておりました。しかし彼女はアルフォンス様がまだ幼い頃に結核で亡くなってしまいましてね。そこでホーエンハイム様が路頭に迷った私を拾って下さり、以来此方でお勤めさせて頂いている訳なのですが、アルフォンス様はその後も花街で、オリヴィエ様がいらした置屋の娼妓達の世話を受けながらどうにか生活しておられたのです。……が、アルフォンス様が年頃になってくると色々と不都合もありまして……それで旦那様が神戸の別宅の方で、仮の養母として雇った者と共に住まわせていたのです」
エドワードのこめかみに、じんわりと汗が浮いた。
花街・・・・・・娼妓・・・・・・懇意―――――
そんな言葉を聞けば、馬鹿でも理解できるというものだ。要するにアルフォンスは、腹違いとはいえ自分の兄弟であったのだ。そんなエドワードの様子を知ってか知らずか、マスタングの言葉は淀みなく続く。
「いずれお分かりになってしまう事ですから申し上げておきますが、アルフォンス様はエドワード様とは母違いの弟にあたります。しかし、アルフォンス様からはホーエンハイム家の事業に何ら関与する意思はないと伺っていますし、財産についても一切分与を求めることはないという旨の証書もあります。エドワード様も思うところはおありでしょうが、どうかここは隠密に・・・・・」
エドワードのこめかみに、血筋が浮いた。これまで感じた事のない怒りが、エドワードの歳不相応に小柄な全身を貫いた。
財を持つ男が妻以外の女を囲うなどは、決して珍しい事ではない。エドワードの母親であるリザにしても、きっとこの事実を知ったところで動揺するとは考えにくいし、むしろリザの豪胆で懐の深い性質からして、妾の一人や二人、すすんで面倒を見るに違いない。
だからエドワードが怒っているのは、父の母に対する不貞についてではなかった。
父が外腹とはいえ、もう一人の息子の存在を知りながらそれを隠していたばかりか、その息子をこんな薄暗い蔵に閉じ込め、あまつさえ実子相手にふしだらな行為に耽っていたなどと・・・・・・!とても、人のする行いではない。
周囲にも厳しいが己にはさらに常に厳しくあった父に、エドワードは敬慕の念を抱いていたし、心から愛してもいた。それなのに、あの雷の夜、自分の知らない父の姿が露呈してしまった。そしてその夜以降次々と明らかになる父の所業に、エドワードの中にあった崇高な父親像は、もはや跡形もなく崩れ去っていた。
妻でない女に子を産ませ、生まれた子を獣のように閉じ込め挙げ句、享楽に耽る為に自らの血を引いた者を畜生道に引き摺りこむとは―――――!この外道も極まる行いだけでは飽き足らず、財産や事業の権利の分与を渋るなど以ての外だと、エドワードは激怒したのだ。
「その証書はどこにある?本当に、法に沿った効力のある内容なのは間違いないか?」
その言葉にマスタングの目がほんの一瞬だけ伏せられたが、次にエドワードを見た時には普段通りの感情を読みとらせない色を纏っていた。不意にエドワードに背を向けたマスタングは部屋の奥に設えてある作りつけの箪笥の前に膝をつくと、どこからか取り出した鍵で錠前をガチャリと回した。
この部屋の箪笥には隠し扉があって、そこにはマスタングに一任されている重要な文書が保管されていると、エドワードは父から聞かされて知っていたが、それを実際に目にするのは初めてだった。
「こちらです」と差し出された数枚の紙を受け取ったエドワードに、マスタングの事務的な声が続いた。
「アルフォンス様が、ホーエンハイム家と血縁関係がある事実を秘匿し、その上で財産の分与や権利を一切求めない事。その代価として生涯の衣食住をホーエンハイム家が保証する―――およその主旨はそんな内容の証書です」
「そうか」
細かな文字の羅列に素早く目を走らせてひととおり確認し終えると、エドワードは躊躇うことなくその紙をまずは二つに、続いて四つ、八つ・・・・・・と、しまいには紙吹雪のように粉々にしてしまった。
「エドワード様!?」
「こんな人道に背いた契約なんぞ、反故にして何が悪い?マスタング、あの蔵の鍵を出せ。父が何と言おうと、アルフォンスを蔵から出し、ホーエンハイム家の次男として相応しい扱いをするぞ」
「しかし、アルフォンス様を自由の身にされたら大変な事に・・・・・・あ!お待ちください、エドワード様!」
珍しく取り乱しているマスタングの手から蔵のものと思しき鍵を取り上げ、真夜中だという事も忘れてドカドカと足音高く廊下を進むエドワードの後ろから、制止の声が追いかけた。
雇い主の意にそぐわない行動を躊躇うのは、所詮使用人の身でしかないマスタングにすれば仕方のない事だと勝手に解釈したエドワードは、つい先刻逃げ出す様に後にした蔵の扉の前へと再び立った。
後ろからは血相を変えたマスタングが幾度となく制止の声を上げていて、蔵の中からは、未だ続いているらしい情事の喘ぎ声が漏れ聞こえていたが、エドワードは構わず錠前に鍵を差し込んだ。
その扉が、決しては開けてはならないパンドラの箱であるとも知らぬままに。
「アヒィィ・・・・・・・・・ご、ご主人様ァ!も、もっと・・・・・・もっと強く叩いて下さい!私を・・・ワタシを・・・虐めてぇぇぇぇ!」
「クックック・・・この薄汚いブタ野郎が・・・さあ、もっと泣け!悶え狂うがいい・・・・・・・!」
「アアアアア――――ッ!もっと、ワタシの腐れ玉袋を踏みにじって下さい――ッ!ギャァァ!」
「誰が勝手に漏らして良いと言った?まったく、ホーエンハイム家の豚は前も後ろも緩くてかなわないな。これは躾のし甲斐もあるってものだね。ほら、今日は見物人も来てくれたようだ。死ぬ気で喘いで、見る者を楽しませてみろ」
扉を開ける前にしていた筈の覚悟など、この光景の前には塵の如く吹き飛んだ。
「こ、これは一体どういう事だ・・・・・・!?」
「・・・エドワード様・・・・・・とうとうご覧になってしまわれたのですね・・・」
呆然と立ち尽くすエドワードと、そのエドワードを阻止することが叶わずうなだれるマスタングの目前に展開する場面は、たとえ夢でもありえないような常軌を逸したものだった。
猿轡を噛まされ、後ろ手に縛られたほぼ全裸の父親が髪を振り乱して床に這いつくばり、ありとあらゆる箇所から体液を垂れ流して発情期の獣のような声を上げていた。
それを見て衝撃よりも生理的な嫌悪が遥かに勝ったエドワードが目を上げれば、そこには汚らわしい父とは対照的な美丈夫が、魔界の王子のようにすらりとした立ち姿で足元の『汚物』を見下ろしていた。
「ア・・・・アルフォンス・・・・か・・・?」
良家の子息然と洋装をさり気なく着こなし、エドワードよりも少しだけトーンの暗い金色の髪はすっきりと短く、整った顔は柔和ながら精悍さと才知を感じさせた。全体的に母のリザに似たのか、きつい面差しのエドワードとは違い、その男・・・・・アルフォンスは、とても優しげな目元をしていた。しかしその体躯にはひ弱さの欠片も見当たらず、また見上げてしまう程上背があった。
扉越しの優しく繊細な声音から、勝手に少女のような風貌の弱々しい少年を想像していたから、目の前にある現実との乖離にいまいち脳が追いつかない。
「やぁ、エドワード・・・・・ううん。その様子だと、もう知ってしまったみたいだね、兄さん?僕は物陰からあなたの姿をいつも見ているけど、こうして会うのは初めてだね」
声から想像していた印象を裏切り、逞しい姿をした弟は、花でも愛でるかのような優雅な微笑みをエドワードに向けながら、手にしていた鞭で足元の汚物の裸の尻をビシリと叩いた。同時に上がったのは悲鳴ではなく、聞くに堪え難い嬌声だ。
何度も耳にしたあの淫らがましい嬌声は、弟ではなく父のものであったのだ。
それを知ったエドワードの驚愕は、はかり知れない。
「ふふ・・・・・・いつになく良い声で啼くじゃないか?ん?股を開いて、お前のはしたない後ろの穴が張り型を喜んで食んでいるのを見てもらったらどうだ?」
あまりの事に声すら出せずにいれば、後ろから荒い息遣いがした。振り向くまでもなく、それがマスタングのものだと分かったエドワードは、既に不快な汗で濡れそぼっていた背中に新たな冷や汗が流れるのを感じた。
「ああ・・・・!アルフォンス様・・・・御主人様!わ、ワタクシにもお情けを・・・・!」
いつも背筋を伸ばして取り乱した様子などまったく見せない隙のない男である筈のマスタングが、まるで発情期の猫のように四つん這いになってアルフォンスの足元に取り縋るのを見て、眩暈を覚える。
父親もマスタングも、一体どうしてこんな状態になってしまったのだ。もしかして、この蔵の中では違法と定められている妖しい香でも焚かれているのだろうか。
信じ難い光景に半ば夢でも見ている気持ちになりつつも、エドワードはどうにかして冷静さを取り戻そうと、この異常な状態の原因を探るべく脳を働かせた。しかし、目の前で展開される狂乱振りは酷くなる一方だ。
アルフォンスは、マスタングを涼やかに一瞥しただけで切り捨てた。
「邪魔だ、マスタング。お前には昨夜たっぷりと褒美をやっただろう。僕は今、長年待ち望んだ兄との対面の最中なんだ。邪魔をするなら二度とお前に鞭を振るってやらないぞ?」
「どうか・・・・!どうかそれだけはお許しを、御主人様!」
まるで人が変わったように涙を流し、身をくねらせて懇願するマスタングの顎の下に鞭の先を当てて上向かせると、アルフォンスは目を細めて何とも悩ましげな声で囁いた。
「僕は忙しい・・・・分かるな?お前は、そこで汁を撒き散らしている汚物と戯れているがいいよ。良い子にできたら、また構ってやらない事もない」
「はいっ!仰せのままに・・・!」
ホーエンハイムとマスタングが獣のようにまぐわい出せば、アルフォンスはそのまま蔵の扉を閉め、落ちていた鍵で錠前を回して二人を閉じ込めてしまうと、茫然自失でいたエドワードのすぐ横に立った。
こうして近くで並ぶと、母違いとはいえ弟である筈なのにエドワーよりもはるかに上背がある。しかし角灯の明かりを映す金色の眼は、やはり自分とまったく同じ色をしていて、こんな時だというのにエドワードの胸にほんわりとした喜びを感じさせた。
「・・・兄さん・・・・・・美しいね・・・」
「・・・・・・・・・・・・?」
こんな時に、どこをどうすればそんな言葉が出てくるのか理解できずに首を傾げると、エドワードの後ろで結わえた金の髪に弟の長く繊細な指が触れた。
「いつも物陰から、あなたのたおやかな姿に見惚れていたよ。やっぱり、こうして近くで見ると、なお一層美しい人だ・・・・・・・縛りあげて善がらせて気を失うまで啼かせて、あなたの中に僕の子種を溢れるほど注ぎ込んでみたい・・・・!」
うっすら目許を染めて愛の告白でもするような顔をしながら、その口から飛び出す言葉はあまりにも不穏だ。本能的な危険を察知したエドワードが咄嗟に後ろに身を引いたけれど、それよりアルフォンスが間合いを詰める方が早かった。しかし、それで終わるエドワードではない。アルフォンスの腕の中に閉じ込められると同時に素早く腰を落とすと、襟元を掴んで全身をバネのようにしてアルフォンスの長身を投げ飛ばした。
普通であれば背中から地面に叩きつけられるところだが、やはりアルフォンスも只者ではないようで、投げられながら襟にかかったエドワードの手を外させて逃れ、なんとも優雅に着地をしてみせた。
「・・・・・・なかなかやるじゃねぇか、アルフォンス」
「兄さんもね。ますますあなたに夢中になってしまいそうだ・・・・・困ったな・・・」
またしても頬を染める弟に得体の知れない不安を感じたけれど、怖い事になってしまいそうだから、先の不穏極まりないセリフもろともまとめて蓋をして、極力考えないようにした。
「今夜はもう女中も眠っているし、お前の部屋は明日用意させるとして、今日は俺の部屋で寝ると良い」
「え、兄さんはどうするの?」
「俺と一緒じゃ嫌とか言わねぇよな?そこそこ広いし、男二人余裕で眠れる場所くらいあるから別に問題ねぇだろ」
そこでアルフォンスの金色の双眸がキラリと妖しく光ったが、丁度蔵の中から聞こえた激しく扉を叩く音と叫び声に気を取られたエドワードは気付かなかった。
「エドワード!止せ!断じてそいつを部屋に入れてはならん!お前の身が危ない!止めるんだ!!」
「アルフォンス様!どうか、エドワード様に手をかけるのはおやめ下さい!その方はあなたの実の兄上なんですよ!?エドワード様、後生ですからここの鍵を開けて下さい!アルフォンス様に気を許してはなりません!穢されてしまいます・・・!!」
「エドワードの純潔が・・・・ッ!!アルフォンス!ほら!マスタングならどうとでもして構わんから、エドワードだけは勘弁しなさい!」
「な・・・!?御館様、何と言う事を仰います?貴方こそ、御子息の為に身体を張るべきではないですか!アルフォンス様!ホーエンハイム様を存分に虐げて、なんならなぶり殺しても構いません。その際の後始末は、私がどうにか致します。ですから、その人だけはなりません!」
「何だとっ!?貴様、オリヴィエという主を失って途方に暮れていたお前を拾ってやった恩を忘れたのか!?このマゾヒストの変態野郎めが!昨夜はアルフォンスの足の指をしゃぶりながら感極まって小便を垂れ流したそうじゃないか?」
「貴方こそ、実の息子をいさめるどころか逆に調教された揚句、一体どれだけ尻の穴を拡張されているんです?そんな大根のような張り型を突っ込まれてよがるなんて・・・・・・先程『豚野郎』と呼ばれていらっしゃいましたが?は!豚に失礼というものです。豚にお謝りなさい!」
聞くに堪えない言い争いを始めたホーエンハイムとマスタングをよそに、アルフォンスは貴族的な仕草で兄の背にさりげなく手を添えると、邪な想いを遂げる算段で胸を一杯にしながらその場を後にした。
アルフォンスの母親であるオリヴィエは、一応娼妓と呼ばれはしていたけれど、それは彼女のような存在が他に無くあまりにも特異であった為、『それ』を称する言葉自体が無かったからに他ならない。
どんな名の知れた花街の、どれほどの太夫であれ、オリヴィエにしてみれば、所詮男の欲に翻弄されるだけの人形に等しかった。
オリヴィエは、浮世離れした美貌もさることながら、気品も才智も併せ持ち、且つ、どんな身分の人間でもその足元にひれ伏せてしまう程、他の追随を許さない絶対的な器を持っていた。娼妓と称されながらも置屋を支配していたオリヴィエの周囲だけは、花街特有の掟すら一切通用しなかった。どこであろうと彼女のいる場所では、彼女の存在そのものが掟であったのだ。
オリヴィエのもとに通う男は皆各界の名士や資産家ばかりだったが、それらをまるで下男の如く従え、かしずかせ、ついには被虐趣味へと走らせ、例外なく完全に支配した。
そのオリヴィエを母とするアルフォンスもまた、母と同じ・・・・・・それ以上の稀有な資質を受け継いでいた。くわえて常に女王として君臨し続けた母親の姿を間近に見ながら育った分だけ、アルフォンスの方がオリヴィエよりも更に性質が悪かった。アルフォンスは人との関わりを、支配するものとされるものという観念でしか理解しなかったのだ。
美貌、才智、気品・・・・・・全てを持ち合せてしまった事もあり、アルフォンスは老若男女問わずかかわる全ての人間をことごとく虜にし、同時にあらゆるものを搾取した。富を持つ者からは富を。穢れない乙女からは純潔を。隷従させる喜びを知るものからは支配欲を根こそぎ奪い取り、被虐者としての悦びを覚えさせた。
アルフォンスにかかわったが最後、その支配から逃れられる人間は、母親であるオリヴィエを除いては、ただの一人も存在しなかった。かろうじて息子を諌めようとした父親ですら、アルフォンスにかかればいとも簡単に色欲にまみれた豚以下の存在となり果てたのだ。
母親亡き後、母の下僕であった遊女や客の男達にかしずかれ、とりあえずは何ら過不足なく暮らしていたアルフォンスだった。が、悪魔のように周囲の人間を喰い物にしている息子の所業をくい止めんとしたホーエンハイムの意向により、住まいを神戸の屋敷に移し・・・・・・・・皮肉にもそれが、花街という名の『結界』から魔物をとき放つ結果となってしまった。
神戸の屋敷で、仮とはいえ養母である女―――既に孫までいる齢だ――――を虜にした末、孕ませたのを皮切に、人としての節度を露ほどもわきまえない乱行を日々繰り返し、気付けばそこここに落とし子が現ずる始末。ついには思い余ったホーエンハイムが苦肉の策として出家させた先の寺は・・・・・十日ともたず、瓦解した。
かくなる上は、自らの目の届く場所で自由を奪い、息子が生涯を終えるまで監禁するしかないとこの蔵に住まわせたのだが、アルフォンスの持つ恐るべき魔力は実父であるホーエンハイムですらいとも容易く陥落してしまったのだ。
しかし、ホーエンハイム他アルフォンスの魔性を知る全ての人間には、まだ希望が残されていた。それは、アルフォンスと血を分けた兄弟であるエドワードだ。
エドワードは背丈こそ小さいが、アルフォンスに負けず劣らず見目麗しく、才智に溢れ、心優しく、誰からも愛され、そして何より底知れぬ程に純粋だった。
いかなアルフォンスでもエドワードの前にはその毒牙を折るに違いないと踏んだホーエンハイムは、マスタングと共に一計を案じた。意図的にアルフォンスを蔵から抜け出させ、エドワードを目にする機会を与え、まずはエドワードの魅力を存分に体感させた後、それを餌にしてアルフォンスの行動を抑制しようという目論見だ。しかし、アルフォンスの魔力の前に計画は綻びを見せ始め、最後の砦であったエドワードは今、まんまとアルフォンスの手に堕ちようとしている。
寝静まった振りをしながらも熱心に事の成り行きを見守っていたホーエンハイム家の人間達は、万事休すかと項垂れた。
エドワードとアルフォンスが連れ立って消えた扉の向こうで、何が行われているのか。ホーエンハイムもマスタングも、そして母親であるリザも姉たちも、使用人も、皆エドワードの身を案じてのたうち回らんばかりであったけれど、アルフォンスの報復を恐れて手も足も出せぬまま、まんじりともせずに夜明けを迎えた。
エドワードの部屋の扉が開いたのは、翌日の正午を少し回った頃だった。
家族や使用人が固唾を飲んで見守る中現れたのは――――――――。
「アル、いい加減甘ったれは止せっての!マジでウゼェ」
「だって・・・・兄さんとちょっとでもこうしてないと、死にそうになるんだ。ちょっとだけ、ちょっとだけだから・・・・・お願い・・・・・・・?」
「チッしょうがねぇな・・・・・・・ホレ。『ちゅ』ってするだけだぞ?舌入れたりしたら、今日は一日口きいてやんねぇぞ!」
「わ・・・・・・・分かった・・・・・・頑張って我慢してみるよ・・・・・・・・ン・・・・・・ちゅ・・・・・ッ」
「・・・・・・・・・おし。良く出来たぞ!偉かったな、アル。じゃあ、風呂までそっと運んでくれよ。兄ちゃん、お前のデカブツで目一杯掻き回されてケツの穴ブッ壊れるかと思うくらいだったんだからな!」
「御免なさい・・・・・・それに、沢山僕の子種を兄さんの中に出しちゃった。お風呂で優しく掻きだして上げるね?だからもうちょっと辛抱してて」
「バ・・・・・・ッ馬鹿野郎!んな事せんでいいわ!!・・・・・って、それよりお前ッまた前元気にしやがって!どんだけ絶倫なんだよ!?」
「生まれて初めて愛しいと思う人に出会えて結ばれたんだよ?これでも僕としては精一杯我慢してるんだよ・・・・・ね、お風呂出たらもう一回、いい・・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・しつこく・・・・・・しないなら・・・・・・・・・・・・」
「兄さんっ!!!好き!大好き!愛してるよ!僕は兄さんの言う事なら何でもその通りにするよ!兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん兄さん」
「おわぁ~~~~~ッ!ほ、頬擦りゴリゴリすんなー!」
「だって兄さんが可愛いから仕方ないでしょ~!?」
「可愛いのはお前の方だろ、アル?」
「そ・・・・・そうかな・・・・・・・エヘッ」
「その小首傾げた照れ笑い、めちゃめちゃ可愛いぞ!アル~~~~~っ!」
「にいさぁぁぁぁぁ~~~ん!」
全身を赤黒い斑模様にした全裸のエドワードを、宝物のように大事そうに姫抱きにしているこれまた全裸のアルフォンスが廊下を歩き、風呂場へと消えていくのを眺めていた一同は、顎を外しつつも待ち望んだ平和の到来を知ったのだった。
あの悪魔すら虜にして手懐けて骨抜きにしてしまうエドワードこそが、真の魔物かもしれないが、とりあえず事態は丸く収まったといえよう。
但し、安堵のため息を吐く面々は、綺麗さっぱり失念していた。
魔王アルフォンスの毒牙を無力化したけれど、その魔王の落とし胤が至る所にばら撒かれているという、世にも恐ろしい現実を。
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ああスッキリした~~( ´∀`)やっぱり、アルは攻めじゃないとアカンですな(笑)
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