蚤夫婦














いつもなら、寄越されたサンプルから分析データを取っておけば、それを統計部門の下っ端の人間が俺のデスクまで取りに来るというのに、何故だか今日は俺が帰宅する時になっても誰も現れなかった。
もしかすると、忘れているのだろうか?
統計データ管理部門はどうせ同じフロアにあるのだから帰りがてら届けてやろうと、ポケットに小銭入れと家の鍵が入った上着を手に席を立った時だった。

「よう、エルリック兄。今帰りなら丁度良かった。そのまま俺のトコ寄ってってくれ」

振り向けばドアのところに、くたびれた白衣を羽織りだらしなく着崩したワイシャツとズボンに足元はサンダル履きといった、ここが職場だという自覚の欠片すら見当たらない出で立ちの男が立っていた。しかしその男の白衣の胸には、医局のスタッフ・・・・つまりれっきとした医者である証の青い十字マークがある。

「『俺のトコ』って・・・・アンタな、いくら自分の管轄だからって医務室を私物化すんじゃねーよ」

自分とほぼ同年代で、またそのさばけた性格もあってか、俺と弟共通して気の合う友人でもあるこいつは、この総勢300人を超す人間がひしめき合う馬鹿デカイ研究所内にある医局に常駐するたったひとりの医者だ。弟いわく『不摂生キングの名をほしいままにしている』俺が度々こいつの厄介になることがあり、それがやがてごく自然に友人としての付き合いになったのだ。

先に歩き出した男に小走りで追いつきながら、何故この俺が医局へ出向かねばならないのかその理由を尋ねたのだが・・・・。


「はあ!?アルが『カッコつけて名誉の負傷』!?なんじゃそりゃあ!?」

「だから〜。統計データ管理部門のやり手ババァ・・・・じゃなくて、やり手の女史がいんじゃん。こう・・・横にぶわ〜っとサイズのある、ぶわ〜ってのが」

両手を自分の周りに広げて『ぶわ〜ッ』『ぶわ〜ッ』と繰り返す男を横目に記憶を辿れば・・・・・・確かに。統計データ管理部門を牛耳っている風な、50絡みで(横に)立派な体躯の女性職員の姿を目にしたことが幾度かあったのを思い出す。

「で、その『ぶわ〜ッ』がさ」

「ぶわ〜ぶわ〜うるせぇな!普通に喋れっつの」

俺のツッコミをものともせず、そいつはマイペースに状況を説明し出した。その内容を要約すれば、つまりこんな事だった。


統計データ管理部門で所用を済ませた弟は、自分の研究室がある4階へ戻ろうと階段を登るところだった。と、丁度そこで統計データ管理部門の『ぶわ〜ッ』・・・・・もとい、やり手の女史と出くわした。女史は両手にいっぱいの書類を抱えていて足元がよく確認できない状態だったらしい。そして足を滑らせた女史が頭上から降ってくるのを目撃した弟は、落下物が男であれば脇によけて難を逃れたかも知れないところを、フェミニストの本能でもって物理的に無理のある重量の物体を受け止めてしまったということなのだ。





医局にある処置室のドアを開けると、治療用の簡易ベッドの上には暢気な笑顔を浮かべた弟がいた。その右足は添え木が当てられ、包帯でグルグル巻きにされている。

「あ、兄さん?ゴメン、そんな顔しないで。大した怪我じゃないんだよ」

そう言う弟の横には件の女史が申し訳なさそうな表情で所在無げに立っていて、俺の顔を見るやユッサユッサと走り寄り幾度も侘びを口にした。普段は割と横柄な態度で部署を取り仕切っているのを目にするが、今はそんな様子など微塵も感じさせないほど平伏している。そのあまりの落差に気の毒な気持ちになった俺は、アルフォンススマイルを真似てソフトな対応をした。

「受け止めきれずに怪我をしたのは弟の責任だから、あなたが気に病むことはないですよ。それより丁度良かった。これ、分析データ。出来上がったんで」

データを回されたら即分析報告書に起こさねばならないから、女史はもう一度俺と弟と医者に頭を下げると、慌しく部屋を出て行った。また階段で転ばないといいのだが・・・・と、忙しない足音が遠ざかるのを聞いていた俺の横で、医者が口を開いた。

「ところでエルリック弟!大腿骨ぽっきりやっといて大した怪我じゃないとか爽やかに言い放つんじゃねぇ」

「な・・・・っ!?大腿骨折ったのか、アル!?じゃあ、もっとちゃんとした医者に診てもらったほうがいいんじゃね?」
「大丈夫だよ。たとえ彼の見立てが悪かったとしても、僕だって医師免許はあるんだから」
「そっか。それもそうだな」

「エルリック兄弟・・・・テメェら大概俺をなめすぎてるんと違うか?」

青筋を立てて指の関節を鳴らす医者を『まぁまぁ』と宥めると、弟はちょいちょいと俺に手招きをする。その嬉しそうな表情は一体なんなのだ。

「研究所から借りた車を門のところに回してもらってるんだ。悪いけど兄さん、そこまで肩貸して」

「待てよアル、大腿骨だぞ?添え木してたって立つなんて無理だろ?無茶すんな」

俺の肩に腕を回して立ち上がろうとしている身体を押し戻す俺に、けろっとした表情で弟は言った。

「あのね、自分で錬金術使ってくっ付けたから、もう大丈夫なんだよ」

そうなのだ。弟はこの錬金術研究所の中でも医学のスペシャリストばかりを集めたチームの主任であり、日々生体組織の再生に関する研究をしているのだった。錬金術も医学も究めた弟にとって、折れた骨の復元など造作もないことだろう。・・・・・しかし。

「アルお前な、そうやって安易に錬金術に頼ると人間が元来持つ自然治癒力を退化させるという弊害を招きかねないんだぞ?師匠だって言ってたろ。錬金術を使わずに出来る事は自力でやれって・・・・」

説教モードになりかけた俺の背中に強引にもたれかかりながら弟が反論してきた。

「重々分かってますとも。だから完全に治癒の状態にはしてないんだよ。とりあえず骨同士を仮留め程度に癒着させてるだけだから、しばらくの間はあまり動かせないんだ。だから当分は兄さんにいろいろ面倒みてもらわないと。こんなふうに・・・・ね」

俺の頭に顎を乗せ、後ろから両肩に腕を回して身体全体で遠慮なくおぶさってくる大男は、正直半端なく重かった。しかし、ここで無様によろけるのは俺のプライドが許さない。両足をふんばり、腹に力を入れてその身体を支えてやると、わざと平気そうな表情を取り繕った。頑張れ俺!







結局は途中から見かねた医者の手を借りてどうにか弟の身体を車に押し込んで、運転席に乗り込む。軍の施設で練習をして以来だから、車の運転は数年ぶりだ。

「ま、要は俺とアルと歩行者が怪我さえしなければ、多少ぶつけても錬金術で直しちまえばいいんだもんな。チョロいチョロい」

「にいさん・・・・接触事故を起こすにしても、極力自力で直せる程度にしてください」

「いっそカッコよくカスタムして返してやったら、所長も喜ぶんじゃねぇ?」

「「喜ばないから!!!」」

弟と綺麗にハモってみせた医者は、開いた窓から痛み止めや抗生剤や湿布薬が入った紙袋をシートに投げ入れると不意に生真面目な顔を作ってみせた。そして、『医師免許を持つ弟に今更どうこう注意するつもりはないがこれだけは』と前置きした上、とんでもないセリフを吐きやがった。

「一週間はセックス禁止だからな!弟がぐずっても、奴が可愛いなら意地でも逃げろよエルリック兄!!」

「ギャ〜〜〜〜〜ッッッ貴様ッなんてコト言いやがる!?」

その後急発進した車が無事家にたどり着くことが出来たのは、奇跡だった。
















兄のワイルドかつクレイジーな運転のお陰で、僕は家に着く頃には本当に久しぶりに車酔いなんてものになった。とりあえず10日ほどは研究所から借りた車で通勤するつもりだけど、これでは足の怪我が完治するまで僕の繊細な心臓がもちそうにない。

「兄さんの運転する車に初めて乗ったけど・・・・・・なんていうか・・・・凄く男っぽい運転だよね」

「うるせぇな。アレはヤブ医者のヤツが悪い!心の動揺が操作の手を乱したんだ!ああクソッ!アイツ俺が嫌がるの分かっててわざわざあんな事言いやがったんだぜ」

「まったくそうだよねぇ。1週間もセックスしないで我慢できる訳ないよね?」

「ソッチじゃねぇ〜〜〜〜〜ッッッ!!!!!」

少し揶揄っただけなのに、全身真っ赤にしてアンテナを震わせて、目には涙まで溜めている。彼だけじゃなく、誰もが兄のこんな可愛い反応を見たくてついつい余計なことを言ってしまうのだろう。

「どいつもこいつも・・・・・」などと文句を言いながらも、兄はソファに座ったままの僕の代わりにお風呂の支度をしたりテーブルに食事の用意をしたりとこまごま動きまわっている。その様子を目で追いながら、ふと、これは今まであまりなかったシチュエーションだなぁと思う。というのもこの地に家を構えてからこれまでずっと、ふたりの間で家事は等しく分業するという原則があったものの、結局は向き不向きの関係で僕が大半を担っていたのだ。
また、拘るわけではないが、同じ研究所に勤務していながら僕よりも兄の方が実は高給取りだったりする。国家錬金術師の資格を返上したとはいえ、未だに“その銘”を所有していた時の功績は多くの人々の認めるところであり、現在も兄のそのスキルでもってこの錬金術研究所全体のレベルを底上げしているともいえた。つまり、こんな可愛いなりをしていながら、兄はトンデモない人なのだ。・・・・・思えばこんなふうに、兄は恐るべきことに年端のいかない時分から甲斐性があるのだった。

時々戯れのように『お前が嫁だ』と兄は言うけれどあれはまんざら冗談ではなく、的を得た兄なりの見解なのかも知れない。ベッドでの役割のみを無視するならば、普段の生活全般においての僕らは、兄が夫で僕が妻という役回りで落ち着いているような気がする。



「ほ〜らアル。今日は兄ちゃんがお前の身体をすみずみまでじっくり洗ってやろうな?」

嬉々として僕の脇に肩を入れソファから立ち上がらせようとしてくれる兄を手で制した僕は、傍らにあった背もたれのないシンプルな木製の椅子で松葉杖様のものを錬成した。それを見た途端兄はアングリと口を開け、直後にはその唇を尖らせて文句を言って寄越す。

「そうだよ!なんで最初からそうしなかったんだよ!お陰で俺はお前の馬鹿デカイ身体を引きずって4階から降りるという苦行を・・・・」

「だってさ、職場でベタベタするなっていつも怒るでしょ。だからこんな時ぐらいじゃなきゃ兄さんに触れられないと思っちゃったんだ・・・ゴメンね」

以前職場でこっそりコトに及び、その様子を研究所のスタッフの女性数人に聞かれて一大騒動になってからというもの、兄は一歩職場に入った途端に鉄壁のガードを崩さないのだ。肩に手を置くことは勿論、特に用がなければ近づくことさえ禁止という徹底ぶりだ。※『ザッツディ』参照

機嫌を取るように笑いかける僕からふいと目をそらしてさっさとバスルームに行きかけた兄は、階段を登り始めたところで一度立ち止まるとムスッとした表情のまま振り返り手を差し伸べてきた。階段を松葉杖で登るのは厳しいと判断したらしい。たとえ機嫌を損ねていても、こうした気配りだけはおろそかにしない兄の愛情が嬉しい。
さっきと同じように僕の右腕の下に肩を入れて腰に腕を回し、極力負傷した右足に負担がかからないようにしてくれる兄の小さい、けれど綺麗に筋肉のついた肩に腕を回す。


女性ほど華奢ではなく、かといってそれほど逞しいという印象でもない兄の体つきは、どこか中性的で不思議だ。人並み以上に育ってしまった僕からすれば小さくか弱い兄。けれどこの人は、この世に僕たちが生を受けた時点での序列を未だに頑なに守っていて、そしてきっとこれからも生涯それを守り続けるのだろう。僕の前面に立ち、全てのものから“弟”を守ろうとするに違いない。
そんな兄のうしろ姿を見るにつけ、僕は嬉しくて、誇らしくて、そして切なくなる。彼が兄として生まれてしまった以上、その属性は変えられない。だから僕がいくら対等に守り守られる関係を望んだところで、兄はそれを拒むのだ。守るのは兄である自分の役目なのだから・・・・と。

ただ僕に出来るのは、全てを彼に委ね甘えて大切にされながら、注がれる愛情を欠片も取りこぼすことなく味わい、栄養にし、いざ兄に危機が迫ったときに絶対に彼を守りきれるような自分を作っておくことだ。

・・・・・・もっともそう考えると、兄と僕の関係はむしろ『夫』と『妻』というよりも、『母』と『子』に近いのかも知れない。バリバリの長男気質の兄に、これまたしっかり次男気質の甘え上手な僕がふたりでいれば、当然の結果だろうけれど。



お湯で満たされたバスタブの横に置いた椅子に僕を無事運び終えると、今度は服を脱がせにかかる。不自由なのは右脚だけなのだから、服まで兄に脱がせてもらう必要はなかったと気付いたのは既に全ての着衣が取り払われた後だった。椅子に座ったままの状態で身体と髪を洗われるのは流石にご辞退申し上げたのだが、すっかり“世話焼き母さんモード”に切り替わっていた兄には聞き届けてもらえなかった。

やがて気が済むまで磨きあげた僕の身体をバスタブに浸からせたところで、兄がぽつりと溢した。

「・・・・・・・・・・そのかわり、家では触り放題じゃねぇか・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

どうやら件の職場での接触禁止令について言っているらしい。

「今のこれは触り放題と違うでしょ?僕が一方的に触られてるだけじゃないか」

「何だお前、俺に触られるのが嬉しくないとでも?」

「とても嬉しいです!!」

「プッ!即答かよ可愛い奴だな」

完全に話の矛先がずれ、せっかくの接触禁止令解除の申し立てをする絶好の機会を逃したというのに、こう幸せそうに笑う兄を見ていると全てがどうでも良いような気分になる。バスタブの淵に頬杖をつき手桶で汲んだお湯を僕の肩にかけながら鼻歌交じりの兄も、すっかりご機嫌な様子だ。兄という立場を差し引いても、元来面倒を見られるよりも見ることを美徳とするタイプだから、今のこの状況が嬉しくて仕方がないのだろう。

僕も大好きなこの、少しハスキーな甘い響きをもつ彼の声にうっとりと聞き入りながら温かなお湯の中で全身を伸ばしてリラックスしていたのだけれど・・・・・やはりそこは兄。これまでの経験からして何時の時でも、平穏だけを与えてくれる訳ではないのだった。

「・・・・・なぁ、そう言えばさ。今まで何気なくスルーしてたんだけど、あの医者が俺とお前の事を度々例えて言う異国の慣用語らしきコトバが、兄ちゃんは何故だか非常に気になっている」

「異国の慣用語?どこの国のだろう・・・・エクサンドル?ドラクマ?シン?」

「シンよりさらに海を挟んだ東の国らしい・・・・ええと・・・・“蚤の夫婦”だったっけかなぁ。お前、コレの意味分かる?」

「ぶほ・・・・・・ッ!!」

その言葉を聞いた途端、それまでバスタブの壁に凭れていた背中を滑らせた僕は、頭までお湯に浸かる羽目になり大いに慌てた。


“蚤の夫婦”

これは、遙か東に位置する国で使われているという慣用句らしい。意味は笑ってしまうくらいにそのままで、以前外国語オタクの友人から借りた本の一節にこの言葉を見つけた僕は、そのシンプルでコメディチックな表現に惹かれてしまい、瞬間的に自分のボキャブラリーに加えてしまったのだ。

天才だ研究熱心だと誉れ高い兄だが、その情報収集の対象には著しい偏りがある。またそれは日常生活全般にも通じることで、自宅の彼の書架ひとつとって見ても、化学や物理学や工学など無機物系の錬金術に関わる分野のものだけは隙なく網羅しているのに、その一方で世俗的な内容のものは皆無と言えるほどだった。こんな兄は、あらゆる分野に精通しているようでいて実は芸術や芸能といった方面の話題にはとんと疎く、また割と一般的に使われている言い回しを知らなかったりすることも意外に多くあるのだった。だからこんな異国の慣用語を彼が知らないのも、当然といえば当然のことだ。

医者が一体どんな意図でもって、兄に対してこんな危険極まりない禁止コードを使用したのかは謎だが・・・・・・・そんな事よりも。
今更改めて言うまでもなく、兄に『小さい』は禁句である。兄の方が『夫』であると認識された事実は本人にとって喜ばしいことだろうが、その『夫』よりも『妻』の方が身体が大きいというサイズに言及する事ならば話はまったくの別だ。つまり問題は、この慣用語の意味を如何に波風立てることなく兄に伝えるか、もしくは伝えずにこの場を切り抜けるか・・・・ということだった。


「・・・・・オイ、大丈夫かよアル?なんだそのリアクションは?」

「や。ちょっと滑った・・・・・はははは・・・・・」

「意味を知ってるけど言いたくねぇってカオに書いてあるぞ」

鈍いくせに、どうしてこんな時ばかり鋭いのだろう。仕方がない。かくなる上は誤魔化して逃げるしかなさそうだ。

「・・・・・・・・口で教えるより、カラダに直接教えてあげたほうが分かりやすいかもね」

「なにその豹変ぶり?おま・・・・・いっ、一週間はダメだからな!骨がズレたままくっついちまったらそれこそ一大事・・・・って、うわヤメ・・・・」

こういう時、僕と兄の体格差には殊更感謝したくなる。スリムでコンパクトな兄の身体は、腕の力だけで十分持ち上げて畳んでバスタブの中に引き込むことが出来るからだ。

「馬鹿ッ!お前の足に乗っちまうだろって・・・・・マジでふざけんな!怒るぞ!!」

左腿の上に服を着たままの兄を座らせると、まだ大声で何か言い続ける細い顎を捉えてすばやく唇を奪った。上手に隠しているつもりだろうが、僕は知っているのだ。兄は僕とするキスがとてもとても大好きなのだということを。下手に暴れて僕の脚に負担をかけてはいけないと、僅かな抵抗しかできないのを逆手にとり思う存分咥内をむさぼれば、たちまち身体から力が抜けていくのが手に取るように分かる。濡れて纏わりつくシャツの裾をウエスト部分から引っ張り出し、そこから忍ばせた手のひらで腰のラインをひと撫でしてからゆっくりと胸までスライドさせていく。腰から胸へと辿るその短い道程にさえ幾つものポイントを持つ兄の身体は、たったそれだけで嬉しそうに震える。そんな彼を抱く度に僕は思う。この身体は、僕に愛される為だけにこの世に生まれてきたのではないか・・・・・・と。

「あ・・・・・アル・・・・・・・この・・・・バカ・・ッ」

なんて吐息交じりの声を聞いた僕が勝利を確信した瞬間だった。

「・・ヤロウがウラぁぁぁぁ〜〜〜〜〜ッッッ!!!」

「ゴフ・・・・・ッ」

残酷にも、兄の見事な左フックが僕の鳩尾を的確に捉えていた。

僕の足の上で横抱きにされていて足を踏ん張れない状態にもかかわらず、兄は上体を捻った反動を利用して生きたパンチを繰り出してきたのだ。かつて積み重ねた実戦経験は伊達じゃない。半端ないダメージに思わずくの字に身体を丸める僕の額にトドメのデコピンをかました兄は、ふんぞり返り鼻息荒く言い放った。

「痛かろう。これも愛しい弟の身体を慮る兄ちゃんの崇高な愛だ。また一週間以内にこんなオイタしたら、次はお前の自慢の暴れん棒に鉄槌食らわすかんな。ヒヒヒッ」

「に・・・に・・・・・にい・・・さ・・・・・」

止してよ!『暴れん棒』って何!?あなたの可愛い唇から、どうしてそんな脂ぎったエロ親父風な俗っぽい単語が飛び出すの・・・・!?

肉体的にも精神的にも甚大なダメージを受けた僕は、ご馳走を前にしながら敢え無く戦闘不能に陥った。

「あ、この『暴れん棒』ってのも、あの医者が言ってたんだぜ〜。いつも上手いこと言うよなぁアイツ。医者よりもっと他に向いてる商売ありそうだよなぁ」

しまった。これでまたあの医者の話に戻ってしまったではないか!僕は咄嗟に頭の中で幾通りものシミュレーションを展開し退避路を模索した。何としてでも『サイズ』の話は避けなければならない。

「・・・・で?“蚤の夫婦”ってどういう意味よ?ん?」

「だ、だから・・・・・・・」

「勿体ぶるな。早く言え」

折角綺麗に洗ってもらった僕の背中に、嫌な汗が伝う。絶対絶命のこのピンチを切り抜けるのは、もはや不可能に思われた。人間というものは追い詰められると頭の中が真っ白になるのだなぁと、どこか他人事のような感慨に耽りながら、半ば自棄っぱち気味になっていた僕は勝手に口が動くのに任せた。

「そのままの意味でね・・・・蚤ってさ・・・・ホラ、アレでしょう?」

「アレ?」

「いつでも元気にピョンピョン飛び跳ねてるでしょ?」

「跳ねてるな。で?」

「何時でもドコでも・・・・・つまりベッドの上でも元気にピョンピョン跳ねている熱々ラブラブのカップルという意・・・・」

次の瞬間、至近距離からヘッドバットを喰らった僕には、医者に対して相応の損害賠償を請求する権利が十分にあると思う。もっともそうするまでもなく、いずれ兄本人がこれの本当の意味を知るその時にこそ、医者の命運が試されるだろう。











それから丁度一週間が経過した日。僕は研究所内にある医務室のベッドの上で、添え木を外して診察を受けていた。レントゲンのフィルムを天井の照明で透かし見ていた医者は感嘆の声を上げる。

「おお!スゲーな。錬金術の力を借りたとはいえ、たった一週間で癒着部分の再生した骨の密度が通常レベルになってるぞ」

「誰かさんの御言いつけどおり、しっかり禁欲したからね」

「お上品そうなカオして、なんでさりげなくそういう下ネタかますのかね、お前?しかし流石の“蚤夫婦”も今回は頑張って我慢したんだな。エライエライ」

「・・・・・・・・・・・・・?」

何故ここで『蚤夫婦』という言葉がでてくるのだろうかと違和感を感じた僕は、ふと考えた。まさか。

「あのさ、その“蚤の夫婦”っていう言葉だけど・・・・君、ちゃんと意味分かって使ってる?」

患部に湿布をあて、その上から慣れた手つきで包帯を巻いている医者は、しれっと応えた。

「だから〜、ピョンコピョンコとベッドの上で元気に頑張る暑苦しいカップルのことだろ?」

「・・・・・誰から聞いたのそんなデタラメ」

「エルリック兄の元カノのマイラーフォーグル女史が、お前らのコトをそう呼んでんだよ。だから俺、てっきりそういう意味かと思ってたんだけど」

「・・・・・・・・・・・・」

どうやら僕と兄の関係を見破っていたのはこの医者ではなく、マイラーフォーグルその人だったらしい。しかしなんという馬鹿馬鹿しい勘違いだろうか。いや、それよりもそんな勘違いをされてしまうほど、僕と兄は職場でも睦まじい様子を見せてしまっていたのだろうか。(←無自覚にも程がある)

「あのね、こんな遠い異国の慣用語を知ってる人間なんて滅多にいないから、もし知らなくても今後君が恥をかく可能性は低いだろうけど、念の為教えておくよ」

「ふむ。実に興味深い。なんだ?どういう意味なんだ?」

興味津々に腕組みしながら耳を近づけてくる医者に、まずは僕と兄の関係が『妻』と『夫』のようであると前置きをしておいた上で説明した。

「蚤っていうのは牡より雌のほうが身体が大きい訳・・・・後は言わなくても分かるでしょ」

「あ〜あ!成程なぁ!わ〜っはっはっはっはっはっはっは!!『夫』役のエルリック兄がちっこいと!そいう意味だったんか!?こりゃあケッサクだなぁ!本人がこの意味を知ったら怒り狂うだろうがなぁ!ブハハハハハ!!」

「・・・・・声が大きいよ。兄が来たらどうするの」



ぎぃぃぃぃぃ・・・・・。

お腹を抱えて大笑いする医者を僕がたしなめたその時、背後の扉がゆっくりと不気味な音を立てながら開かれた。

振り向けば、悪魔の形相をした蚤の夫がソコにいた。

「・・・・・・そうか。確かにケッサクだな?お前ら・・・生きてここを出られると思うなよ」

「「ぎゃあああああああああ!!!」」



その後お仕置きと称し、追加で1ヶ月もの禁欲生活を過ごさなければならないのは明らかに不当だと主張する僕の訴えを兄が聞き入れることはなかった。






                                  

 

 






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