最近、職場で不穏な噂を耳にした。
アメストリス国中にその名を知られる当代きっての天才錬金術師であり、この錬金術研究所のホープ兼アイドルでもあるエドワード・エルリックその人は、以前から老若男女を問わず人気者だ。それも彼の才能、性格、容姿からすれば当然のことだろうが、困ったことに彼の魅力はそれだけにとどまらず、万人を惹きつける妖しいフェロモン物質を分泌しているのか不埒な想いを寄せる輩が後を絶たない。それでいて本人にその自覚がまったくないときてる。おかげで僕は気の休まらない日々を送っている訳だが、ここにきて最近研究所の女性陣の間で、兄の人気が再燃しているらしいという噂を聞いたのだ。
「確かにあの人って、ある意味、たちの悪いタラシとも言えると思うんだ」
口まで運んだものの、あまりの熱さに飲むことをあきらめたカップをソーサーに戻しながら言う僕の言葉に、テーブルの向かいの席でこれと同じ温度のはずのコーヒーを涼しい顔で啜るマイラー=フォーグルは『ふむ』と頷いた。
「あのキョーレツな魅力を本人が自覚していないというのは、もうそれだけで十分犯罪だと私も思うよ。だけど君さ、そこんトコをもうちょっとアイツにどうにか言えない訳?惚れ過ぎちゃってシリに敷かれるのも分かるけど、あんな調子じゃ、アイツその内絶対トラブるよ」
面倒な作業を一段落させた僕は一息入れようと研究所の建物内にある喫茶室に足を運んだのだが、そこで偶然にも友人のマイラー=フォーグルと行き会った。190センチ近くある僕とほぼ並ぶこの長身で筋骨逞しい体躯の女性は兄の恋人だった過去を持つが、今では兄弟で恋人同士となってしまった僕と兄の良き理解者であり、日々何かと僕達二人の関係についてあれこれ忠告や心配をしてくれるという、有難くかけがえのない存在だ。偶に研究所内でこんな風に顔を合わせると、自然と同じテーブルについて語り合う僕達だ。
「言ってるよ!言ってるけどさ、あの人に聞く耳がついてないんじゃあどうしようもないでしょう。それに僕が恋人だってコトは知られてるはずなのに、その上でラブレターとか電話とか家に手編みのマフラーが届いたりとか・・・・最近、研究所の女性スタッフが妙に積極的で困ってる」
子供時代の兄のように、がさつで手が早くて乱暴なタイプはえてして女の子達から敬遠されるものだ。でもたとえば子供の頃に女の子から人気を集めていたからといって、成長したその後も異性から同じように求められるかといえば必ずしもそうではないし、逆もまたしかりだ。
けれど兄自身は子供時代のモテない経験を頑固に引きずったままでいて、自分が異性から注目を集めるなんて発想をこれっぽっちも持っていなかった。今の兄は背丈こそ少々不足気味ではあるものの、容姿は整っているし、思いやりも甲斐性も人望もあり、また男性女性どちらの目から見てもとんでもなくセクシーだというのに・・・。加えて近頃は、可愛らしい中にも大人の男らしい仕草や表情をみせる瞬間があり、女性にとっては(勿論僕にとってもだが)強烈に惹かれるものがあるのだ。
そんな訳で、僕と兄の関係が兄弟でありながらも恋人だという事は既に広く知られてしまっているから、通常であれば『妻帯者』の兄にそういう意図で近づくことは自重されてしかるべきなのに、研究所の女性職員達の猛烈なアタックから兄を守る為に最近の僕は大忙しだった。
ため息混じりに弱音を吐く僕の前にある手付かずのコーヒーと空になった自分のカップを勝手にチェンジしながら、マイラーは眉をひそめ、厭そうにぼやいた。
「錬金術なんかにかかわっちゃう人間ってさ、やっぱりどっかしら常識ぶっ飛んじゃうもんなのかねぇ」
「それは・・・・・・・ないとも言えないかもね。なに?何かあった?」
「気をつけな、アルフォンス。研究所のオンナが複数集まって、物騒な名前の同盟を結成したらしいよ」
「・・・・・・・・どんな・・・?」
まだまだ熱いはずのコーヒーを美味しそうに一口啜ると、マイラーは真剣な目を此方に向けてきた。
「『エドワード=エルリックの遺伝子を後世に遺す会』」
その同盟の名前の端的な意味に思い至った僕は、背筋に寒気を覚えた。
これは冗談ではなく、本当に兄の身に危険がせまっているらしい。
最近、アルがうるさい。
元々万事いい加減で適当な俺に几帳面なアイツという取り合わせだから、奴が何かと口やかましいのは今に始まったことではないけれど、それでもここ最近のアイツはコトあるごとに『気をつけろ』を繰り返すのだ。
近頃物騒な噂を聞くから帰宅が遅くなるときには必ず連絡をしろだとか、夜一人で出かけるのは控えろだとか、一人で家にいるとき誰かが尋ねてきても不用意にドアを開けない・・・・・だとか。成人男子であり腕っ節にも自信のあるこの俺に、まるで年頃の小娘のように用心して暮らせだなんて馬鹿なことを言う弟の心配性は、少々度を越えた感がある。
そうそう。度を越えているのは心配性だけではなかった。少し前までは、社会人なんだからもう少し愛想を良くしろとか注意していたくせに、最近はむやみやたらにオンナに愛想を振りまくなとか子供っぽいヤキモチを焼いたりするのだ。俺にしてみれば、弟のほうが余程いい男だしオンナからの受けがいいから、ヤキモチというならむしろ俺が焼くべきものだろうと思うほどなのに。
しかしながら俺だって奴に惚れてる以上、そんな風に心配されたりヤキモチを焼かれたりして悪い気はしない。悪い気どころか、アルには済まないがそれが喜ばしくさえ思う時もある。
その日、久しぶりに定時で業務を終えた俺は、時間が合えば一緒に帰ろうかと弟の研究室に足を向けた。小さめとはいえ独立した部屋をあてがわれ、そこで研究チームを率いる弟の業務内容は、自分のペースでデータの分析や研究や論文の作成をひたすらこなす一匹狼の俺と違って心身ともに過酷なものだ。
立て付けが悪く開閉が面倒なのにいつでも几帳面に閉められているドアを軽くノックすると、同時にガタガタと音を立てながら開いたそこから下っ端の研究員が勢いよく飛び出してきた。
「おわぁ・・・・・っと、失礼・・・・あ、エドワードさん」
「おお悪ィ、忙しそうだな」
その顔見知りの研究員は、咄嗟に脇によけていた俺を見た途端一気に破顔すると、室内に向かって妙な節回しで呼びかけた。
「しゅ〜〜に〜〜ン!ハニ〜がおみえですよ〜〜〜〜!でへへへへー」
「バッカ野郎〜〜〜!!誰がハニーかぁぁぁぁ!?」
「イダッ!!!」
ふざけた若造の後ろ頭にちょこっとだけ手加減を加えた拳固をお見舞いしていると、奥から白衣姿の弟が疲れた顔を覗かせた。その左手には実験用の手袋がはめられ、右手には万年筆が握られたままだ。
「マーカス君遊んでないで早く行ってきなさい。時間がないんだから、ホラ」
「あいあい〜行って参ります」
おどけた調子で廊下の向こうに駆けていく研究員の背中から俺に視線を戻した弟は、途端に銀縁眼鏡の目許をゆるめてホッとした表情をみせた。
「今日は早いんだね?兄さん」
「オウお疲れ。慌しいなぁ、しばらくかかりそうか?」
「ゴメン兄さん、もしかしたら最悪の場合、今日は泊り込みになるかも。さっきやっと錬成に成功した生体細胞なんだけど、分裂のスピードが凄い代わりに腐敗も早くてね。今大急ぎで取れるだけのデータを取ってるとこなんだ」
「そっか、じゃあ夕飯はお前の分いらねぇんだな?あんま根詰めンなよ」
「ちゃんと野菜も食べるんだよ?パンとチーズと水だけなんてメニューだったら怒るからね」
またしても口やかましく始まりそうだったから、俺は早々に弟に背を向け歩き出しながら手を振った。
「心配すんな。お前が羨ましがるようなゴージャスな夕飯を一人でじっくり堪能してやるぞ兄ちゃんは」
「フフッ・・・気をつけて帰ってよ!何かあったら電話、ここの直通の番号にかけて」
「はいはい。お前も程ほどにやっとけ?」
「うん・・・・・」
そんなやり取りの最後、弟がまだ何かを言いたそうにしていると感じたけれど、俺はさして気にもとめずにそのまま振り向くことなく階段を下りた。
ぶらぶらとエントランスに向かって歩きながら、羽織った上着のポケットに突っ込んだ手の指先で何枚かのコインと紙幣の感触を確かめ、ぼんやりと夕食の献立なんぞを考えていたのだが、そこで聞きなれない声に呼び止められた。
「あの、エドワード=エルリックさん?」
「・・・・・・・・あ?」
振り向けば、黒っぽい色の長い髪をした女が俺に微笑みかけていた。そのいかにもな濃い化粧と、ねっとりと絡みつくような目配せにはどこか見覚えがあった。
「この間はすみませんでした。弟さんが来てくれなかったら、本当に大変だったわ。重かったでしょう私?」
ああそうか。このオンナはつい先日、研究所の帰宅ラッシュに巻き込まれた際、人波に揉まれるまま俺と身体を密着させる羽目に陥った気の毒なオンナだ。たしか弟がグロリアとか言っていたな、と思い出す。
「いや、ああいうのはお互いさまだろ。別に気にしないでいいから」
何となくだが、そのオンナに良くない雰囲気を感じ取った俺は、当たり障りないようにそう応えるとさっさと踵を返して歩き出したのだが・・・。
「・・・・きゃあ・・・・ッ!?」
すぐ後ろで聞こえた悲鳴に再び振り返ってみれば、そのオンナがスカートを派手に捲り上げて床に転がり、顔をしかめて足首を押さえていた。どうやら異様に踵の高いパンプスで足を捻った様子だ。
「痛・・・・・・・・・」
「アンタ・・・・職場でこんな踵の高い靴なんか履いてっからいけねぇんだろ?ほら、大丈夫か?」
この手のタイプの女を非常に苦手とする俺だが、目の前で足を痛めたオンナを放っておくほど人非人ではないつもりだ。その横にしゃがみ、脱げてしまった靴を女の手に持たせると、横抱きに抱え上げた。流石に横抱きは悪目立ちすると思ったが、この女のスカートはタイトなシルエットのロングスカートだったから、まさか裾を上までたくし上げて背中に担ぐ訳にもいかないのだ。
「ちっと目立つけど、勘弁な」
研究所のスタッフ達の視線があちこちから突き刺さる中、グロリアを腕に抱いた俺は足早に歩を進めた。そうして医務室へと向かう間、何故だか腕に抱えている女の身体が異常に温度を上げ汗ばんでいくのが僅かながら気になりつつ医務室の前へとたどり着く。
グロリアを抱いたままドアを開けるといつもの医者の姿はなく、代わりに4,5人の女が居た。皆グロリアと同じような化粧をした似通った種類の女達だ。と、俺の腕から強引に降りると足を痛めていたはずのグロリアが何事もなかったように立ち上がり、そこで漸く何かがおかしいと気付いた。ところがすっかり油断していた俺は、いつの間に回りこんでいたのか後ろから薬液を染み込ませた布で口と鼻を覆われ、意識が遠くなったところを女共に寄ってたかって縛り上げられた。
長いこと平穏な生活を続けてきたせいか、俺としたことが女相手に遅れを取ってしまったのだ。ただ、俺を取り囲み押さえつけ、顎を持ち上げて開かせた口から喉が焼けるように濃い酒を流し込む女達の形相は狂気じみていて不気味だった。いくら男よりか弱い女とはいえ、一度タガが外れれば通常ではありえない力を発揮するのだろう。加えて相手は複数で、両手を縛り上げられているから頼みの錬金術を使うこともできない。
アルが最近しきりに心配していたのはコレのことだったのだと、今更気付いてもどうにもならない。
ヤバイと思いながらも、先に嗅がされた薬と急激に体内に入れられた大量のアルコールの所為で、俺の意識はそこで一度途切れた。
結局僕たちが試作品から最後のデータを取り終えたのは、午前0時を丁度すぎたあたりだった。チーム総出でデータを採取しその傍からデータを逐一整理していた結果翌日の業務に余裕が出来た為、明日は皆午後からの出勤ということにして解散した。
「お疲れ様でした」
「うん、お疲れ様。気をつけて帰って」
「失礼しゃーッス」
口々に労いの言葉を掛け合いながら帰宅するチームのメンバーを見送った後、僕も灯りが落とされた暗い階段をゆっくりと降りた。そして3階から2階へと階段を降りようとした時だ。3階のフロアのどこからか人の声がするのに気付いた僕は、一度足を止めフロアを振り返った。この3階には、比較的閲覧頻度の少ない文書や資料などの保管庫の他に、泊り込みで作業をするスタッフの為の仮眠室などがある。
ウチだけではなく、どこか他にも夜通しの作業をする羽目になった気の毒なチームがあるのかもしれない。
そう思った僕は、それ以上深く考えずにそのまま再び階段を降り、研究所を後にした。
帰宅してまず不審に思ったのは、玄関ポーチの室外灯が点いていないことだった。家に入りリビングの明かりを点けてみれば、夜になると必ず閉める習慣がある厚手のカーテンが引かれずにそのままになっていて、今朝僕が兄の手から取り上げ丁寧に畳んだ新聞は、籐のラックに差し込まれたままだった。嫌な予感を抱きながらキッチンを覗き見れば、やはり此方も今朝家を出る時と全く同じ状態で、何ひとつ動かした形跡がない。
「・・・・・・・にいさん・・・兄さん!兄さん・・・・!?」
夜中だということも忘れ大声で呼びかけながら階段を駆け上がり、やはり何の変化もないバスルームを確認し、ベッドルームに駆け込んだ。そこら中くまなく視線を走らせても、兄が帰宅した形跡を欠片すら見つけることができなかった。
「帰ってきてないんだ・・・・・」
ベッドに腰を下ろし、考えうる可能性を並べてみる。
例えば、帰宅するところで仲間につかまりそのまま酒場に連れて行かれて酔いつぶれているのかもしれない。
例えば、いつものパブでマイラーから新しくできた恋人との惚気話を延々聞かされているのかもしれない。
例えば、急遽分析の依頼がきてしまい、未だ研究所で徹夜の作業をしているのか・・・・・・。
いや。いずれにせよ、兄ならば僕に心配をかけまいと必ず声をかけるなり電話をよこすなりするはずだ。
そして考えたくもないが、事故であれば必ず家族である僕に連絡が来るものだ。残された、しかし一番考えたくない可能性は、事件・・・・・もしくはトラブルに巻き込まれているということだった。
厭な結論に行き当たった僕は、乱暴に髪を掻き毟りながら呻くように溜め息をついた。
数日前、マイラーから聞いた不穏なあの噂。あまりにもタイミングが合いすぎていて、それ以外の可能性を思い浮かべる余地がない程だ。
「『エドワード=エルリックの遺伝子を後世に遺す会』・・・・・・だっけ?フン、子供が産める身体だからって都合よくそんな大層なお題目を掲げたんだろうけど、結局は兄さんと寝てみたいだけだろ?」
兄のことだから、相手が研究所の関係者で女性だということですっかり油断しているところを捕らえられどこかに監禁されている・・・・というのが一番考えやすいパターンだ。しかしその場所を割り出すには、まず首謀者の情報がなければどうしようもない。この不穏な噂を聞いたとき、何故もっと詳しくマイラーに聞いておかなかったのかと自分の浅はかさを呪いながら慌しく階段を駆け下り、廊下の隅にあるテレフォンテーブルから受話器を取り上げた、その時だ。
玄関の鍵が僅かな音をたてて回り、ソロソロと開いたドアから乱れた金色の髪が覗いた。
「・・・・・・・・あ・・・・・・・」
玄関から少し離れているとはいえ、ほぼ真正面の位置にいたから、兄はすぐに僕と目を合わせることになった。瞬間、開きかけたドアを一旦止めた兄だけれど、数回瞬きをすると観念したように家の中へと足を踏み入れた。
今朝僕が丁寧に櫛を入れ耳の高さで後ろに括った髪は解けて乱れ、肩に頬に散っている。その頬には鋭いもので引っ掻いたような傷があり、コットンシャツの襟元のボタンは今にも落ちそうで、糸一本で辛うじてぶら下がっていた。そして鼻をつくのは、強いアルコール臭。
僕は手のひらに爪が食い込んで血が滲むほど、強く拳を握りしめた。
「おかえり、兄さん。どうしたの?そんな所で突っ立ってないで、こっちにおいで」
柔らかく笑いかけながら手を差し伸べても、兄は硬い表情で立ち尽くすばかりだ。
「アル・・・・・・アル・・・・・・・ごめん。ゴメンな・・・・オレ・・・・」
「いい。分かった。言わなくていい。いいから、早くここにおいで」
さらに手を前に差し出せば漸く一歩二歩と足を此方に踏み出して、最後は倒れるように僕の胸に飛び込んできた小さな身体を抱きとめた。同時に兄の身体から立ち上るアルコールとそして化粧や香水の香りに、たまらず奥歯をかみ締める。
「オレ・・・・・オレ・・・・・何があったか良く分かんねぇんだ、目を覚ました時は周りに誰も居なかったから。でも気付いたら手足縛られてるし、服脱がされてるし・・・・・・とりあえず強引に紐を引きちぎってきた」
兄の言葉通りその手首にはきつく縛られた痕があり、力ずくで紐を引きちぎった時に裂けたらしい皮膚から流れ出た血が固まってこびりついていた。
「相手の顔は?覚えてる?」
力の抜けた兄の身体を抱き上げると、そのまま僕は今降りてきたばかりの階段を再び上った。いつもなら抵抗する兄だが、今日は大人しく抱き上げられたまま僕の頭に両腕を巻きつけて首元に顔を埋めている。
「オンナ・・・・多分6人いた・・・・・クソ、油断した。いきなり薬嗅がされてクラっと来たとこで縛られて、むりやり濃い酒飲ませやがった・・・・・何なんだアイツら・・・気分悪ィ・・・」
「どこで?」
「研究所の医務室だよ。で、次に気付いたら仮眠室のベッドの上で縛られてた」
先ほど僕が帰宅するとき耳にしたのは、兄かもしくはその犯人の内の誰かの声だったのだろう。あの時もし3階の仮眠室の様子を覗いていれば・・・・・それでも既にコトは起きた後だっただろうけれど、少なくとも犯人を捕らえることは出来たかも知れないのに。そう考えると自身への悔しさに歯噛みするばかりだ。
階段を上りきった僕の足がそのまま寝室へと向かっているのに気付いた兄は、慌てた声を上げる。
「おいアル!俺・・・風呂入るから・・・待て、待てってば!」
「ダメ。その前に大事なことを確認するよ。お風呂はそれからね」
一体何をするのかと訝しむ兄をベッドにそっと下ろすと、まずは『消毒』を兼ねておかえりのキスをした。
「ん・・・・・待て・・・・・待てってば・・・・ン、ふ・・・・」
『まずは消毒』だなんておどけて言いながら、唇を近づけてくる弟の目は笑ってなんかいなかった。そもそも、いつもの習慣である帰宅直後のキスはこんなに深いものではないのだ。今弟がしているそれは、まるで俺の口の中のあらゆる部分を舐め取るような、そんなキスだった。
研究所のカビ臭い仮眠室で目を覚ましてからこれまでずっと自分の身体に纏わりついていた所為で、あまり意識しなかったアルコールと化粧の匂いに、ようやく俺は気付いた。住み慣れた家のいつもの空気と、そしてこの世で最も愛すべき弟の香りに触れたからだろう。それだから、今まで自分がどんな行為を受けていたのかを憶測の域を出ないまでも意識してしまい、諸々を洗い流さないままで俺に触れさせれば弟を汚してしまう気がした。
体内に残るアルコールの所為で、まだ上手くコントロール出来ない手を精一杯使って、自分から弟の身体を引き離す。俺を組み敷いていた弟は近距離から俺を見下ろし、乱れた前髪の隙間で慈しむように目を細めた。
「待て・・・・頼む、から・・・・・風呂入らせてくれよ」
「どうして?」
「どうしても、だ」
「じゃあ急いで『確認』だけするね」
「なんだよさっきからカクニンって・・・・・うわっ!?馬鹿お前・・・・止せ!!」
弟のでかくて器用な手が、まるで手品のように俺のボトムの前を開くのに慌てて身体を丸めるも間に合わず、取り出したソレに躊躇なく顔を寄せた弟に咥え込まれた。信じられなかった。
「バ・・・・・カ・・・・・!俺・・・・今まで・・・・・何されてたか・・・分かんね・・・ン、だぞっ!!そんなもん口に・・・・・ウアアアッ」
恐るべき手管でみるみる内に追い上げられた俺は、ただ弟の髪を両手で鷲掴み仰け反るだけだ。もう何度も受けるこの行為だが、今まで弟がいかに手加減していたのかを、こんな時だというのにまざまざと思い知らされた。遠慮手加減なしの責め苦に耐えることなど不可能だった。信じられない程の早さで欲望を弾けさせた俺が余韻に身体を震わせてグッタリしていると、弟の喉がゆっくりと嚥下する音が聞こえる。いつもながらこの瞬間の居たたまれなさは如何ともしがたいものがあるが、とりわけ今日は最悪だった。どんな顔をして弟と目を合わせればいいのか分からない。
「・・・・・・あ・・・・大丈夫・・・かも・・・」
弟が心底ホッとしたような声を出したが、俺はまだ弟の方に目を向けられずにいた。
「ねぇ兄さん、多分なんだけどね。兄さんを縛り上げた人達、きっと服を脱がせただけで、途中で逃げ出したんじゃないかと思うんだ」
「は・・・・・?なんで!?どうしてそんなコト・・・」
その言葉に目を見開いた俺が慌てて上半身を起こして見ると、弟は舌先でぺろりと唇を舐めながら一人納得したように頷き、やけに確信を持った口調で答えた。
「だってちゃんと濃いし、兄さんの」
「☆▼〆#△★□♂◇※≪Ю¥&○〜〜〜〜〜!?」
「兄さんって一回目を出すと、後はもう薄〜いのしか出ないんだよね。だから少なくともコッチは弄られてないと思うな」
『確認』ってそういうことか・・・・・・・。
あまりの衝撃に真っ白になっていると、今度はデカイ手が俺の服を捲り上げてサワサワとそこら中をさすり出す。
「キスマークなんかもないしなぁ・・・・手首の擦過傷と頬の引っ掻き傷くらいで、後は兄さんの身体で特に変わったところはないみたいだね・・・・うん」
「な・・・・な・・・な・・・・まるで俺より俺の身体を知り尽くしているみたいに言うんじゃねえ!!」
「兄さんより僕のほうがずっとあなたのカラダの隅々まで知り尽くしているに決まっているでしょう!」
トンでもないセリフを叩きつけられた俺は、意識のないまま他人に身体を弄られた訳ではないと知って安堵を感じる余裕もなくあっけに取られた。ところがそこで、先ほどまで俺を労わるようにしていた弟の態度が豹変する。
「僕があれほど散々・・・・自分で言っててうんざりするくらい『気を付けろ』って注意していたのに・・・・・・・兄さん、ちょっとここに座りなさい」
上から目線で自分の隣のシーツの上を指差す弟にムカッとしつつも鋭い目つきと迫力に気圧されてしまい、大人しく言われたとおりそこに胡坐をかいた。
しかしやはり兄としての威厳も確保しておきたい俺は、往生際悪く抵抗してみる。
「あのなぁ、今度のアレは不意打ちだったから俺もヘマやったけど、次からはこうはいかねぇさ。それに相手は女だぜ?何かしようったってたかが知れてるだろ?」
「どの口でそんな事言うかな。まんまと女の人にお持ち帰りされて、顔面蒼白で帰ってきたのはどこの誰ですか」
「お持ち帰りってのとはちょっと違うだろ。アレは拉致だろ?」
まさに墓穴堀りとはこういう事だという手本を示してしまった。途端に牙を剥き出した肉食獣のような勢いで俺の肩をつかむと、弟は舞台俳優ばりの滑舌の良さで一気にまくし立てた。
「良く分かってるじゃない?ああそうだよ。コレはもう『お持ち帰り』だなんて平和な次元の問題じゃないんだよ!僕の愛ある忠告を聞き流しているから、か弱いはずの女性にまで拉致なんかされるんでしょう!?兄さんの魅力は人を犯罪に走らせる程強烈なんだって事をいい加減理解しなさい!今回の相手が女の人たちで、途中で思いとどまってくれたからまだ良かったようなものの、今後理性を失くした男たちにどこかに引きずりこまれて集団でレイプされないとも限らないんだよ!?兄さんは僕を計画的大量殺人の犯罪者にしたいの?」
「計画的大量殺人ってお前・・・・」
この俺が多勢に無勢相手だろうと、まさか弟以外の人間にこの体を好き勝手させる訳がないし、それを跳ね除けるだけの力が自分にあるとは思う。だがしかし万が一そんな事態が起きたとき、弟がその相手にどんな報復を行うのかを考えた俺は、そこで初めて事の重大性を理解したのだった。
大げさでなく弟なら相手を用意周到な計画を練った上で嬲り殺しかねないし(そしてきっと完全犯罪なんだ)、そんなことをさせたら弟の人生は滅茶苦茶だ。
「ゴメン。確かに、お前の言うことあんまり聞いてなかったのは認めるし、これからはもう少し気をつけて行動するようにする」
折角俺が殊勝に謝ったのに、弟はガッカリしたように肩を落としてため息をついた。
「ただ気をつけるだけじゃ、ダメ・・・・」
「あ?」
「その駄々漏れの魅力とフェロモンをちゃんと自覚して。それで、それらをもうちょっとどうにかして」
「知るか〜〜〜〜ッッッ!魅力とかフェロモンとか・・・オマエなぁ、それは身内と惚れた欲目にまみれただけの言いがかりだぞ!?」
カッとなった俺はいつもの調子で弟に指を突き付けて喚いたのだが、次の瞬間には突き出していた腕ごと鷲掴まれ乱暴に引き倒された。
「んな・・・・・ッ!?」
仰向けに倒れた俺の上にカラダ全体で圧し掛かるようにして押さえつけながら不気味な薄笑いを浮かべた男は、それでも一度合わせた掌を俺の手首にかざして傷を癒している。怖いんだか優しいんだか、まったく理解不能だ。
「流石筋金入りのわからず屋だな、あなたは・・・・でも良いよ、それでも。幸い今日は午後からの出勤だし、これからじっくりその身体に教え込んであげるから」
「止せ・・・・!俺は通常通り勤務なんだぞ!」
「自業自得ってものだね。この際だから、あなたの魅力がどれだけ人の本能を引きずり出して狂わせるのか、身をもって存分に思い知るといい・・・・・今日は、泣いてもらうよ」
いつもより一段低いトーンの声で物騒な宣言をしてくる男の目線に射止められ、俺の背に震えが走った。制止の声も思わず上ずってしまうほどの戦慄だ。
「・・・・・・・・・・・・よせ・・・・・!」
「この綺麗な肌は僕だけのものでしょう?ん?それをよくも盛りのついた薄汚い雌猫共の目に晒してくれたね?この化粧の匂い、虫唾が走る・・・・・全部舐め取ってやる・・・」
「ひゃ・・・・・ッ!」
いつになく攻撃的な言葉遣いの弟から荒々しい愛撫を受けた俺は、瞬く間に自分を見失い・・・・・・途切れ途切れに覚えているのは、全身が溶け出してしまったかのような猛烈な快感を断続的に延々と与えられ、恥も外聞もなくただひたすら許して欲しいと泣き叫んでいた自分がいたこと。
ただ、それだけだった。
「フェミニストの君には難しいかと思って、お節介やいといたわ。たとえどんな悪党だろうが、やっぱりオンナを殴るのは同じオンナのコブシでなきゃ」
「君の人間離れした拳を女性の部類にカテゴライズしていいのかは、非常に微妙なトコだけどね」
「マイラーお前・・・マジで“グー”でぶん殴ったのかよ・・・・・いくらなんでもそりゃ酷くね?」
事件翌々日の夕方の喫茶室。僕と兄はマグマのように煮立ったコーヒーを目の前に、マイラーから例の一件の顛末について報告を受けていた。
僕から兄の事を聞いたマイラーは、恐るべき早業で独自の広範囲で綿密なネットワークを駆使してその同盟のメンバーすべてを炙り出し、僕や兄に何も言わないまま制裁を加えていたのだった。しかしマイラーだけでなく兄までもが、僕に同盟のメンバーが誰だったのか、頑として口を割らなかった。犯人が誰かを知った僕が暴挙に出るのでは・・・と、恐れてのことらしい。もっとも、後日女性にあるまじき盛大な青痣を顔にこしらえているスタッフを研究所内で見かけた為、最終的には僕も全てのメンバーを把握してしまったのだけれど。
件の同盟の首謀者は、やはりグロリアだった。一人の相手に執着するタイプではなかったはずの彼女が、兄に対して思い詰めるあまり歪んだ形でその感情を爆発させ、同じく兄に熱烈な想いを寄せる女性達を巻き込み今回のような暴挙に出たという事らしい。けれど計画を実行する直前、騙している自分に対し、さり気なく深い優しさを兄に示されたことをきっかけにして次第に我に返ったのだという。
マイラーからそれを聞いた僕は、改めて兄という人の素晴らしさを再認識した。
過去ほんの短い間ではあったけれど彼女と親しい関係にあった頃の僕が知るグロリアは、何にも執着を見せず、人の優しさを全く理解しない身勝手で冷たい・・・・・さもしい女性だった。けれど兄に対しては、歪んだ形ではあるけれど強い想いを抱き、執着し、そして兄の行動からきちんと優しさや思いやりという感情を認識し受け取れるようにまでなっていたのだ。
一人の人間をここまで劇的に変えてしまえるなんて、誰にでも出来ることではない。こんな兄だからこそ、誰からも愛され、そして僕も兄弟としての愛情だけでは足りなくなるまでに彼を愛してしまったのだろう。
自分のカップを空にしてしまうと、また当然のように丁度目の前にある手つかずの僕のカップと交換したマイラーは「そういえば」と、いかにも面白いことを思い出したような顔をした。
「ねぇ、アルフォンス。ある意味、今まで以上に厄介な事になったかもだよ」
「え?今度は何?」
「首謀者のカノジョ、『真実の愛に目覚めた』って、まるで別人のように変わっちゃってねぇ・・・・アレだけの事をしといて、逆に今度は『エドワード=エルリックの貞操を守る会』に同盟の名前を変えたらしいよ。まぁ、とりあえずエドワードのファンクラブ兼強力なボディガードチームが出来たってことだし、これで良しとしとく?」
「あの。『貞操』っていうけど・・・・僕も排除の対象に?」
「君は一応『ハズ』の位置付けで特別枠らしいよ。・・・・でもさ、あんまり無体やると彼女らから報復があるかも?怖いねぇ・・・・・ふふふふふ」
さも楽しげに笑うマイラーのその言葉。
僕は自分の隣に座っている、未だ前日未明の疲労を引きずっている様子の兄の横顔を覗き見た。昨日結局ベッドから起き上がることも出来ずに仕事を休んだ兄は、まだ僅かながら目許に泣き腫らした痕を残していて・・・・・・。
とりあえず兄の身に降り懸る厄災の一つが無くなったのだから僕としては嬉しい限りだけど、今後ベッドで酷く兄を啼かせた翌日は、自分の身辺に気を配って生活をしなくてはとコッソリ思った。
|