風邪を引いた。
・・・といっても兄さんが、ではない。この僕が・・・・・・だ。
生まれてこの方一貫して常時無鉄砲であり自分を顧みる習慣を持たない兄は、怪我をしたり風邪をひいたりなどということが日常茶飯事だ。ところが次男の僕は、先を行く兄と同じ轍は踏むまいと常に気をつけて生きてきた。だから、これまで僕が風邪をひくなんて事はほとんどなかったのだが・・・・・。
胃腸にくる類の風邪でなかったのが幸いとはいえ、もう何日も高熱が治まらず、とにかくだるい。息苦しい為か、眠って無意識の状態になると呻き声を上げるらしい僕を心配する兄は、可哀想になるくらいうろたえている。
「にいさん。僕なら大丈夫だから、いい加減にもう眠って?」
正直なところ目をあけることすら億劫だったが、これ以上心配をかけたくない一心で普段通りの表情と声を取り繕う。しかし兄ときたら「お前が眠ったらな」とか「丁度ウルサイのが弱ってるんだから、こんな時ぐらい好きにさせろ」などとはぐらかすばかりだ。
ここ数日、昼夜関係なく眠っている所為で時間の感覚は鈍っているけれど、この静けさ加減でなんとなく今が真夜中だということが分かる。けれど傍らにいる兄は、一緒のベッドに入って横になったかと思うとすぐに起き上がり、まだ氷が解けきらない洗面器の中身を替えに行ったり、入れ替えてから1時間も経っていない水差しの水を取り替えてみたり、ちゃんと閉まっているカーテンを神経質に閉め直してみたり・・・・・と、兎に角落ち着いて眠る様子がまったくない。
ん?待てよ。今夜は僕がこの状態になってから3回目の夜だ。兄は一昨日の夕方から体調を崩した僕にほぼつきっきりで、少なくとも僕が目を開けている間に眠っているのを見ていない。大体僕が一緒の時ならまだしも、兄は自分ひとりでいると平気で2食3食抜いたりする不摂生キングだ。これまでオートミールやパン粥を作って甲斐甲斐しく食べさせてはくれたけれどそれらには全てミルクが入っていたから、少なくとも僕に用意したものをそのついでにと彼が口にしていることはまずない。かといって自分だけの為にわざわざ手間暇をかける人ではないのだ、この人は。
僕の隣で横にはなったもののまったく眠る気配のない兄の手には、普段の彼ならば目の端に入れようともしないはずの娯楽雑誌があった。下手に興味を引くものだと、僕の看病を忘れて本に没頭してしまうという考えからだろう。さして興味もない様子でパラパラと頁をめくる兄の横顔は、わずかに目が落ち窪んで頬がこけているようにも見受けられた。それは、文字を読むためには少々不足なこの部屋の明かりの所為ばかりではない。
「にいさん」
「ん?どした?どっか苦しかったりするか?水飲むか?それとも寒いか?」
僕がちょっと呼びかけただけで、これだ。可哀想に。めったに寝込まない僕の不調にすっかり動転して、相当不安なのだろう。
すかさず上半身を持ち上げて覗き込んでくる心配顔にいつもと同じ笑顔を作って笑いかけながら、兄の背に力の入らない腕を回して胸の上に抱きよせた。瞬間覚えた違和感に、僕の胸はちくりと痛んだ。
掌で触れた兄の肩が、すぐにそうと分かるほど細くなっていたのだ。胸の上に乗せた彼の身体に両腕を回すと、改めて確認するその小ささに庇護欲が否応無く湧いてくる。けれどこの人に『守りたい』は禁句であり、庇護されるべき立場である弟の僕にふさわしいセリフは、こうだ。
「兄さん・・・今夜はずっとこうしていて。いいでしょ?」
言っている自分自身、正直ゾッとするほど気持ち悪い甘えた声でも、兄の不思議フィルターを通すととんでもなく愛おしいものに変換されるらしい。
「なんだ、子供みたいな事いいやがって」
予想通り、目を細めて口許を綻ばせた兄は心底嬉しそうに僕の髪を撫で、こめかみに口付けした後、毛布と上掛けをぽんぽんと整えると頭を胸の上から腕の付け根部分に移動させて落ち着いた。
「ほら、兄ちゃんがこうしててやるから、ぐっすり眠れ。そうすればきっと明日には良くなってるさ」
言いながら僕よりも細い腕を僕の躰に回してくる小さな小さな兄の躰を、僕もまた抱き寄せた。
大きな躰の僕に小さな兄がしがみついているような構図も、きっと兄にしてみれば僕を全身で抱きしめているつもりなのだろう。
思った通り丸二晩ほとんど眠っていなかったらしい兄は、またたく間に寝息を立て始めた。まるで子猫みたいに。
「・・・・・あれ?そう云えばなんだか熱が下がったみたい?」
知らぬ間に、つい先ほどまでのだるさが嘘のように消えていて、呼吸も楽になっていた。僕にとっての特効薬は兄の温もりだったのか。だとすればやはり。
「守られているのは僕の方なんだね、兄さん」
すっかり夢の中の住人となった兄に『抱きしめられ』ながら、僕も目を閉じた。
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