いまだまみえぬ想い人
あと僅かで朝日が昇るのだろう。しんと静まり返った住宅街の屋根と木々の向う側に見える東の空には、いよいよ今日の仕事を始めんとばかりに太陽が白い光りを放射状に伸ばしているのが見える。その透明で清純な空とは対照的に、今の僕の目は死んだ魚の其れの様に濁っているはずだ。
しかし・・・・。
「ダメだ・・・・・・さすがに限界だ、疲れた・・・」
溜息と共に無意識の内にそんな弱音を吐きながら、鍵穴に差し込んだ鍵を音をたてないようにそっと回した。泥のように重い身体を何とか動かし足を踏み入れた室内はまだ薄暗く静まり返って、リビングの時計の秒針の音だけが事務的に響いていた。兄はまだ、眠っているらしい。別段朝帰りをしたからといってそれを咎められるような事は今までなかったし、そもそも大人同士の兄弟間でそんな事にまで干渉するのも可笑しな話だけれど、僕が吐いた二度目の溜息は紛れもなく安堵から出たものだった。
僕のこのブラザーコンプレックスともいえる習性は、半端じゃなく根強いものだ。 確かに、幼い頃から僕の世界は兄を中心に回っていたといっても過言ではなかった。兄と僕がもし、ごく一般的な人生をこれまで歩んできたのであればきっとこんな風ではなかった筈だ。けれど僕たち兄弟が辿ってきた道のりは通常では有り得ない出来事や困難の連続で、それこそ互いを守りあい、支えあい、励ましあいながら生きることを余儀なくされてきたのだ。ただでさえ兄は弟の僕の身を大切にしようと考えるあまり自分を蔑ろにする傾向があり、その事が僕に否が応でも自分の身よりはまず兄の身を案じなくてはならないという習慣を余計に強く植えつけたのだと思う。 いつでも、どんなときでも、何があっても、先ず兄の事を考える自分。この人だけには、きちんと平穏で幸せな場所に身を置いていて欲しい。悲しく辛い思いに晒されることなく、楽しそうに笑っていて欲しい。そして、そんな兄にとっていつまでも大切な存在だと思われる自分でありたいと僕は強く望んでいるのだった。
セントラルのはずれに位置する閑静な住宅街。欅の木々が立ち並ぶ道の周囲にゆったりと間隔をとって同じような煉瓦造りの家々が点在している、その内の一つが僕と兄が二人で暮らす家だ。僕が無事に身体を取り戻した後、一度は生まれ故郷であるリゼンブールに戻りリハビリを兼ねた休養期間を過ごしながら、僕と兄は今後の自分たちの身の振りかたについて模索していた。この田舎でも、錬金術で出来る仕事を請け負って日々の糧を稼ぐ事は十分可能だから、研究を続けながらリゼンブールに留まることを僕は考えていた。けれど兄は、自分たちにはまだ外の世界に出てやるべき事がいくらでもあると言い、この国の中枢であるセントラルでの生活を望んだのだ。確かに兄の言うとおり、数奇で過酷な道程を歩んできたといっても結局当時の僕は世間ではまだまだ半人前としてしか扱われない只の17歳の少年でしかなかった。何かを学ぶにしても、セントラルにいさえすれば最新の理論や技術が身近にあり、またそれらに直接触れる機会も多くあるはずだ。人間関係にしても、閉ざされた田舎町のリゼンブールではなく、より開かれた社会に出て体験して得るものは大きいと兄は渋る僕を説得した。(ただし、社会性の面のみで言うなら、僕よりもむしろ兄の方に難があると思うのだけど)そんな折、渡りに舟とばかりのタイミングでロイ=マスタング中将からセントラルの錬金術研究所で研究をしてみないかと声を掛けられた僕らは、すぐさまその話に飛びつくような形でリゼンブールを後にしたのだった。 それまで兄が軍から受け取っていた報酬は、かつての旅の経費と研究費用を差し引いても一般市民がとても手にすることが出来るような額ではなかったから、僕らはそれでこの地に家を買い当面の研究費用と生活費を手元に残し、残りは全て生まれ故郷のリゼンブールに小学校や病院の設立資金として譲渡した。
そして、この地での生活も3年目に入ろうかという頃。 その日、兄より一足早く帰宅した僕はキッチンで夕食の準備に取りかかっていた。野菜を沢山入れたスープと簡単なサラダ、故郷の友人が送ってくれたチーズを切って、パンはまだ昨夜焼いたものが残っているからと、それを籠に入れる。一通り並べたところで蛋白質が足りないことに気がついて冷蔵庫を漁っていると、その僕の背中に「ただいま〜」と兄の間延びした声がかかった。
「お帰り〜。今日はどんな“言いたくない話”を持ち帰ってきたの〜?」 冷蔵庫から束ねた干し肉を掴んで取り出すと、それをそのままテーブルの上に置きながら兄の口調を真似てにっこり笑いかけてあげた。 「お前なに、そのヘンな話し方」 「・・・・・・・キッチンでいいから手を洗って」 「・・・・・・?おう」
大人しくキッチンの流しで手を洗う兄の後ろ姿を、入り口の壁に凭れ腕組みをしながら何とは無しに眺めた。昔と変わらず、ほどけば肩甲骨の下まで届く長さに伸ばした綺麗な金髪を後ろでひと括りにしているから、項や首の線がくっきり見える。行動派の割には研究者気質の兄は意外にもインドアタイプの人間で、セントラルに来てからというもの日に当たる機会がめっきり減ったこともあり、その艶かしいほどの首の白さに一瞬ぎょっとしてしまった。以前は欠かさずしていたトレーニングもあまりする事が無くなった今、兄は元来母に似た骨が細い性質だったらしくかつての筋肉質な身体から、貧弱ではないけれど全体的にすらりとした線の細い体型に落ちついていた。身体を取り戻した時点での僕の身長が既に自分をはるかに超えていた事実に衝撃を受けた兄は、僕に指を突きつけてこう言ったのものだ。 我が兄ながら、その諦めの悪さに僕は呆れ返った。そしてそう、兄の身長は悲しいかなそれ以来然程伸びることはなかった。対する僕は申し訳ないほどすくすくと育ち、今ではゆうに頭一つ分以上は兄より高い場所から世界を見ている。
手を洗い終えた兄がすれ違いざまに言いながら、無理に手を伸ばして僕の前髪の上をわしゃわしゃと撫でていく。それは未だに抜けることが無い兄の癖の一つだ。なんと往生際の悪いことかと思いながら、こんな兄の変わること無い愛すべき所作の数々。僕は大人になった今でもぬくぬくと大事にされていると実感できるこんな瞬間が、実はとても好きだった。
さっさとテーブルのいつもの自分の定位置に座り、僕と自分のサラダにドレッシングをかけている兄の前に野菜を沢山すくい入れたスープを置いてあげると、『ニカッ』と音がしそうな笑いを向けて実にしあわせそうに食事を始める。野菜籠に残っている野菜や冷蔵庫にあるものだけで適当に作った代物をそこまで美味しそうに食べてくれる兄に罪悪感を覚えた僕は、思わず言い訳せずにはいられなくなってしまった。
「買い物に行く時間がなかったから、ありあわせでそんなものしか出来なかったよ。明日はもう少しちゃんとしたもの作るよ、何がいい?」 「これで十分。マジ旨い。お前も食ってみ?ほれ、冷めちまうぞ?」
兄は僕がどんなに手を抜いたモノを作っても、必ず美味しそうに『旨い、旨い』といって食べてくれるのだ。この人と結婚する女性は、きっと毎日幸せな気持ちでキッチンに立つ事だろう。そう思って、僕はにわかに寂しい気持ちになった。寂しい・・・・・?いや、悲しい・・・・・それとも、切ない?自分でもよく分からない漠然とした気持ち。兄の結婚について思いを馳せるだけでここまで胸を痛くするとは自分のブラコンぶりもかなりのものだと呆れながら、僕も兄の向かい側の席でスープに手をつけた。
食事を終え後片付けをする僕の横では、兄が実験を行うような手つきで2人分のコーヒーを淹れている。決して不器用というわけではないのに、どうしてかこの人が手にした途端、調理器具たちが実験器具のように見えてしまうのかは謎だ。
「ねえ、何?言いたくないけど言わなきゃいけない事、あるんでしょう」 「・・・・・・言うけど。お前、怒ンじゃねえぞ?」 「それは、内容によっては怒るよ」 「むぅ〜ん・・・・」 「“むぅ〜ん”じゃない、ほら、何なのかさっさと教えてよ」
コーヒーカップ片手に落ち着き無くキッチンの中を歩き回る人の襟首を後ろから引っ張ると、観念したように眉間に皺を寄せた顔をこちらに向けてぼそぼそと話し出した。
「あのな、例の銀時計の返上なんだけど」 「ああ、前に中将に頼んでいた、国家錬金術師の資格と軍籍の抹消?で、良くない答えだったんだね」 「そ。銀時計の返上はオッケー、ただし・・・・・・」
そこで一旦言葉を切ってコーヒーを一口啜る兄に、僕は少し荒くなった口調で不満をぶつけた。
「まさか軍籍だけは抹消されなかったって事?だって兄さんの少佐相当官の地位はこの国家資格に附随してのものだったはずでしょ?それがなんで軍籍だけ残される訳?理屈が通らないでしょう?」 「・・・・・中将達は、マジで上に掛け合ってくれてたんだ。お前だって、軍内部での上下の規律がどんだけ厳しいのかくらい分かんだろ?それをカラダ張って直談判やってくれちゃってさ、俺はもういいって言ってんのに」 「そう・・・・・・で、条件は?」 「中将たちのお陰で、正式な軍人としてじゃなくあくまで“大佐”の階級のみ。よって相応の権限もないし、軍服の貸与も無いそうだ。有事の際の戦場への立ち入りも禁止だと」 「それは、今の情勢が平穏だからそういうんでしょう。中将たちがどんなに頑張ってくれたのかは勿論分かるし感謝もするよ。でも、それでも僕は納得出来ない」 「アル・・・・・そう言うと思った」
兄はその荒っぽい言動とは裏腹に、心根の優しい人だ。僕の知る限りの中で誰よりも命というものを大切にする人だと思う。それだから当然、国を守るという大儀の元であれ人を傷つける力を手にし、場合によっては命を殺めなくてはならない側の立場に甘んじることを良しとしなかった。それでも国家錬金術師になったのは自分の、そして何より僕の肉体を取り戻す為に他ならなかったのだ。その目的を果たし、その間研究で得た成果の全てを譲り渡した今、軍とは無関係の立場に戻れるはずだったのだ。 それだから、その兄が晴れて軍との関係を断ち切れると思えた矢先、軍の上層部からの強い要請(事実上の命令だ)により国家錬金術師としての資格の返上のみが受諾され、逆に形だけとはいえ正式な軍籍を与えられたというこの状況が僕はどうにもやりきれなかった。それならばせめて国家資格の返上も取り下げればいいと進言した僕に、ひとりの国家錬金術師が研究費用の名目で受け取る報酬がどれだけ多くの市民の負担になるのかと、憤懣やるかたない表情を露わにしてこの国のシステムに対する不満をくどくどと語った兄は、結局言われるままにその身を軍に預ける道を選んでしまった。周辺諸国との軍事的な情勢が未だ思わしくないことは知っていたし、その為に自国の戦力を誇示しておきたいという国軍の思惑も十分理解していたから、『あくまでも名目上だけ』という上層部の言い分もあながち嘘ではないと踏んでいたけれど、所詮軍属は軍属だ。いざ何か常ならぬ事態が発生した時、はたして兄の身の安全が今同様に保障されるのかといえば当然それはありえないことだ。兄は昔から一度自分で『やる』と言ったら意地でもその考えを変えずに遣り通してしまう頑固な人だから、もう彼が自らの意思で軍から遠ざかることは期待出来ない。そうなれば僕のとるべき道はたった一つしかなかった。迷う余地など、あるわけが無い。自分も兄と同じ条件の下で軍属となり、兄の近くにいてこの人を自分の力で護っていこうと決めたのだ。
兄がこれを知れば反対する事は分かりきっていたから、計画は秘密裏に進める必要があった。ところが僕は、あの黒髪童顔の切れ者な筈の総司令官殿が旧知の仲である人間に対してだけはガードが甘くなるというウィークポイントを持つ事を失念していた。そう、よりによっていつもの軽口の応酬の末にぽろりと零して下さりやがったのだ。
「まったく、こんなに落ち着きの無い“大佐”もいない。これでは君の弟にはそれ以上の階級を与えるべきか検討した方が良いかもしれんな」
ハボック少佐からはそんな台詞だったと聞いた。当然の如く兄はその言葉を聞き逃さず中将を問い詰め、あとの結果はいうまでもない。それから兄は軍部に日参しては中将に僕の軍籍取得の承認を差し止めるようしつこく迫り、そのあまりの執拗さにとうとう音を上げた中将は、僕に軍籍の取得は見合わせたほうがいいのではないかと説得を始める始末だった。
「アルフォンス、私はエドワードを、君が心配するような危険に晒すつもりなど微塵もないのだよ。君にだって分かるだろう?今のアメストリス国軍で一度軍属の身となったらどれだけ除隊が困難なのか。そう躍起にならず、もう一度熟考してみてはどうかね」
受話器の向うの声は、とても中央軍総司令官のものとは思えないほどに腰の低い物言いだった。けれどそれこそが老獪な人間のやり口だと僕は十分に心得ていた。
「分かりました。僕の兄を守りたいというささやかな願いすら、あなたには聞き届けて貰えないのですね・・・」 「そんなしおらしい声を出さないで貰えないか」 「僕はいつでも慎み深い人間ですよ。ですが、この件に関しては一切引く気はありません。非常に不本意ですが“お願い”の仕方を変えるしかないようですね。」 「ま、待ちたまえアルフォンス!」 「待・ち・ま・せ・ん。では、間もなく出勤時間ですので、これで」
まだ何か言っている受話器を静かに戻し、僕は決意を新たにした。我ながらえげつないという自覚はあったから出来れば使いたくない手だったが背に腹は代えられない。早速その作戦を実行するべく覚悟を決めた。その作戦とは至ってシンプルなもので、ただ単にこちらの言い分を否が応でも聞くしかない程の窮状にロイ=マスタングを追い込むこと。英雄色を好むとは全く以って上手く言ったものだ。そう、色好みの司令官殿の恋人達を全て此方に引き寄せ、ターゲットを女日照り状態にするという算段だ。実はこういう事もあろうかと、あらかじめターゲットの女性関係やプライベートの際に足をよく運ぶ場所は全てリサーチ済みだったから、僕の攻撃はその日の夜から早々に開始された。
落とし気味の照明に、控え目な音量で流れてくるピアノの音。濃紺のカーペットのフロアにはオーナーの趣味を疑うようなデザインの、しかし素材だけは上質なソファとテーブルがいくつか置かれている。その店内にいる客のほとんどは男女の二人連れだ。僕は座り心地も今ひとつなソファに身を預け、組んだ足の膝の上で先ほどから飲む振りをしているブランデーの入ったグラスを両手の中でゆらゆらと温めていた。その僕の肩に綺麗な亜麻色の髪をふわりとカールさせた頭を寄せてうっとりとしな垂れ掛かって来る女性は、当然ロイ=マスタングから巻き上げた恋人の一人だ。
しかしターゲットの恋人達を横から掠め取るとは言っても、実際に奪う訳ではない。 今日の恋人はソフィアという、小柄で亜麻色の綺麗な髪が自慢の美人だ。彼女の注文は、『ロマンチックなデートを』だったから、僕はもう既に観た事がある甘ったるいストーリー構成がいかにも女性受けしそうな恋愛映画に誘い、予想通り陶然としている彼女を抱き寄せながら近くのロケーションの良い公園をゆっくりと歩き、彼女の好みそうなレストランで食事をした後、部屋まで送りがてら通りすがりのこの店にふと立ち寄ったのだった。
「ね・・・・アルフォンス君」 「何です?」 もう4杯目のカクテルグラスを空にして、すっかり夢見心地といった風情の彼女がいつも以上に甘ったるい話し方で上目遣いに視線を寄越してきた。なるほどこうやって甘えられると大抵の男は落ちるだろうな、などと感心しながら優しく囁き返した。
「酔っ払って言う事だから、忘れてね?」と前置きをして彼女は僕に尋ねてきた。 「ミランダと、ケイトと、アンジェリーナと、モニカと、レイチェルと、ビアンカ・・・・と私。一番魅力的なのって誰?」 (彼女達は皆ロイ=マスタングの恋人達だ) 「それは僕の意見として?それとも・・・・」 「君の意見でいいの。ねえ、私はちゃんとロイさんの目に魅力的な女として映ってるのかな」 僕の見解を求めていると言いながらしっかりとロイ=マスタングの本心について探りたいのだという心情を吐露している可愛らしい彼女の様子に、僕の頬は演技ではなく綻んだ。 「男なら、誰でも必ず思いますよ。貴女がとても魅力的だって」 「・・・・・ありがと。多分ロイさんも、同じように答えてくれたと思うわ」 当たり障りのない僕の受け答えをあらかじめ予想していたのだろう。彼女は僕からの返事にあまり関心を向ける事無く、また元のように華奢な身体を凭せ掛けてくると、独り言のようにぽつりぽつりと話し出した。
7人いる恋人の内の一人にしか過ぎない自分。そして会えば必ず大切に自分を愛してくれる、けれど自分一人の物には決してならない相手。自分には何をおいてもやり遂げなければならない事があるから、恋人という存在に自身を与えることは出来ないと言う男。だから全身全霊をかけて自分を愛することをしないで欲しいと、自分が戦場で死ぬようなことがあったら花の一つでも手向けてくれればそれでいいと、冗談めかしながら遠い目で語った恋人。 それでも良いと頷いて今の関係を続けてきた彼女だけれど、いつしか最初の約束を違えてしまったのだろう。
「内緒よ、あの人には」 「僕も飲みすぎてしまって、多分明日の朝にはすっかり忘れていると思いますよ」 「ふふ・・・っ!もう、イイ男ねえ君って。それなのに何でずっと片思いなの?」 「は・・・・?」
僕の表情が停止したのは急な話題転換についていけなかった訳ではなく、彼女から発せられた言葉の意味を掴みかねたから。
「片思い?僕がですか?」 「ウソ!まさか自覚がなかったの?これは驚いちゃったわ・・・・!」 「いいですよ驚かなくて。片思いの相手なんて一体何処にいるっていうんですか?そんな心ときめく存在がいるなら僕が教えて欲しいです」
今まで付き合った相手に対して、誰一人として本当の意味での愛情を実感できた事がない僕だったから、彼女の言葉に心底衝撃を受けてしまった。それが表情に出てしまったらしく、そんな僕の様子を目の当たりにした彼女は得意満面な笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「じゃあ、ヒントをあげちゃうわ!その人は絶対金髪で髪が長い人よ」 「なんでそんな見てきたような事を言うんです?」 「だって、これって実は結構有名な話よ?あのアルフォンス=エルリックには長い金髪の想い人がいるって。そういう人に心当たりは?」 「・・・・・故郷の幼馴染みが金髪で長い髪をしていたけど彼女は家族みたいなものだし。大体誰から聞いたんです?そんな突拍子もない話」 「それはあちこちでよ。それどころか私だって聞く以前からそう感じてたもの。あのね、君の方から声をかけて付き合う相手って、みんな長い金髪の人だって・・・・自覚はないのよね?」 「・・・・・それは知りませんでした。そうなのかな?」
曖昧に笑いながら過去の記憶を辿っていくと・・・・・・・確かに。過去恋人として付き合った相手の内、自分から交際を申し込んだ相手はことごとく長い金髪をしていた事実に思い当たったのだ。
「なんでだろう?不思議ですね」 首をかしげる僕に、彼女は満足そうに微笑みながらカクテルグラスを上げてお代わりを頼んでいる。 「分かった!じゃあ、君のママがそうだったんじゃないの?」 どうやら今度は彼女の中での僕の人間像に、マザーコンプレックスの疑義が生じたらしかった。 「残念ながら母の髪は長いけど栗色です」 そういえば父は長い金髪だったと思い出したけれど、更に厄介な疑いを掛けられそうなので僕は口を噤んだ。納得いかないという表情で新しいカクテルグラスを傾ける彼女の目は、すっかり酔いがまわって今にも眠ってしまいそうだった。僕はまだソフィアの部屋の所在を知らなかったから、これは早く部屋に送り届けてあげなくては不味いだろうと彼女に手を貸し店を後にした。
作戦開始から今日で13日目。敵もそろそろ音を上げる頃だろうが、此方も連日に及ぶ気遣いと時には応じなくてはならない肉体労働にすっかり疲れきっていた。仮初の恋人契約は3週間だったけれど、既に2週間の経過を目前にしてこの疲労困憊ぶり。とてもじゃないがもう一巡は遠慮しておきたいのが本音だった。このあたりで作戦を変え、一度本陣を叩いてみるのもいいかも知れないと、今日会う予定のミランダとの約束の時間を少し遅らせた僕は早速敵陣へと足を向けた。
「また模様替えですか?動物愛護を訴える過激な団体から命を狙われますよ?」
総司令官執務室とは名ばかりの、おそらくアメストリス国中で一番模様替えの頻度が高いだろう『趣味の部屋』のドアを開けた僕の発した第一声がこれだった。
「やかましい。これは断じて私の趣味でやっているのではない」 実に面白くなさそうな心情を隠す事無くむすっとした表情をした中将がふんぞり返って座る椅子には、頭部から足先までを見事に剥ぎ取った一枚物の熊の毛皮が掛けられていた。壁にはおびただしい数の鹿やらライオンやらの頭部だけの剥製が掲げられ、それらから発せられる獣臭が部屋中をこれでもかと満たしていた。
「執務中に脱走したバツゲームっすよね〜。中将」と、うきうきと横槍を入れてくるハボック少佐に書類の綴りを叩きつけるように手渡しながら、イライラと部屋から出て行くように指示をしている。
このセントラル軍総司令官殿のあまりにも有名な趣味、それは司令官執務室の模様替えだった。ほぼ3ヶ月に一度の頻度で行われるこの大掛かりな作業は、もう模様替えという範疇を越え改装といってもいいかも知れなかった。熱帯地方の密林かと紛うほど鉢植えの植物をそこかしこに配置するのはまだマシな方で、扉を開けるなりビリヤード台やバーカウンターが出現し頭上からは特大のミラーボールなどがぶら下がる馬鹿げた光景を目にした時には思わず部屋ごと錬成し直してやりたい衝動に駆られた僕だった。しかしこの模様替えは、いつでも中将の好みに沿って行われるわけではない。つまり、中将が執務中にサボタージュ行為に及んだ場合に課せられるペナルティとして、部下達からこの上なく悪趣味な部屋へと強制的に模様替えさせられることもあるのだ。
「なるほど、ではこれはハボック少佐の趣味ですか」 「アルフォンス、違う違う!これは単なるイ・ヤ・ガ・ラ・セ」 なんて悪趣味なという口調を隠しきれない僕の肩をすれ違いざまに叩きながら、火の付いていない煙草を銜えた少佐が楽しそうに言い、こちらの返事を待たずに部屋を出て行った。
依然不機嫌な表情の中将の方に視線をやれば、いつも傍に控えている懐刀の姿がない事に気がついた。 「今日は、ホークアイ中佐は・・?」 「軍法会議所に所用で出掛けている。で、何かね?私は君に呼び出しをかけた覚えはないのだが」 と、いつになくにべもない態度でそう返され、僕はついほくそ笑んでしまった。この様子では敵は相当のダメージを受けているらしい。陥落は時間の問題と思われた。
「そんなに角を出さないで下さい。何も貴方を捕って喰おうというわけでもないんですから」 「用件を言いたまえ」 「では言いましょう。僕に軍籍と兄と同等の権限を頂きたい。只これだけです」 「・・・・・・・・出来ん」
敵は此方から目を逸らしてあらぬ方を向いている。こうなれば奥の手でとどめだ。 僕は肉食獣が草食動物に忍び寄るが如く足運びで中将の座る椅子の横にするりと移動すると、執務机に片手をつき上体を傾け、まだ状況を読み取れていないらしい相手の耳にそっと囁きかけた。 「その無礼極まりない態度、いつまでも私が赦すと思うのかね?」 「例え何があろうと、全て覚悟の上です。最初に僕は申し上げたはず。兄を護る為ならばどんなことでもする覚悟が自分にはある・・・・・と。貴方は僕の覚悟の程度を見誤っておられるようだ・・・・・そう、何でしたら今ここで貴方を女性のように抱いて差し上げてもいいんですよ?そうすれば貴方にもきっと僕の本気が分かって頂けますよね」 「よ・・・・っよさないか・・・!」 言いながら軍服の襟元につ・・と指先を滑らせると、本気で取り乱した様子で静止の言葉をあげる中将の声に重なるように、背後から撃鉄を起こす音がした。
「何をしているの。中将から離れなさい」
振り向くまでもない。懐刀のご帰還のようだ。でも僕はその体勢のまま、ホークアイ中佐に言った。
「勝手をして申し訳ありません。しかし今、本作戦は重大な局面に差し掛かっていまして、自分としてもここで引くわけにはいかないのです。決着は間もなくつくと思われますので、それまで少々の猶予を頂くわけには参りませんか」 「・・・・・仕方ないわね。私がここに居てもいいのなら」 「是非。片時も目を逸らさずにご覧になっていて下さい」 「中佐!上官を見捨てるとは何事か!!」
その悲痛な声は黙殺され、哀れな総司令官殿は今やまな板の上の鯉といった有様だ。
中肉中背の標準体型のように見えて、そこは腐っても軍人。そこそこ鍛えられ筋肉のついた腰に腕を回しぐいと引き寄せると、ホークアイ中佐に聞こえないようその耳に直接吐息のような声で脅しをかけた。
「鎧の身体で過酷な数年を過ごした僕のこの覚悟を甘く見て貰っては困ります・・・・いえ、困るのは貴方の方かな。あの美しい部下の前で、あられもない声を上げてみたいと仰る・・・・?」
これまで老若男女問わず、僕のこのささやき声で堕ちなかった人間はいなかった。そう、その直後、あっけない程に僕は軍籍と思い通りの権限を手中に収めることに成功したのだった。そのあまりの手ごたえのなさに、初めから本陣攻めていれば事はもっと簡単に済んでいたのではとの疑念が脳裏に浮かんだけれど、僕はすぐさまそれを消去した。
「アルフォンス・・・・これは何だ?」
兄が片頬を引きつらせながら、僕が右手の指先に挟み込み掲げている一枚の紙を凝視している。
「見ての通り、中央軍総司令官ロイ=マスタング中将からの辞令書」 「・・・・あ・・・んの無能野郎〜〜〜〜!!!俺があんだけ釘刺したのによくも・・・・!」
職場である研究所から帰宅した兄が玄関先でコートを脱いでいるところを捕まえて、僕は早速軍籍取得の報告をした。予想どおり兄は僕が軍に属する身となってしまったことを大層無念そうにしていたけれど、これは決して譲ることのできない僕のささやかともいえる唯一の望みなのだ。
温かい左の手と、冷たく硬い右の手。 僕の身体を取り戻すことを最優先に考えていた兄は、結局自分の手足を取り戻すことまでは出来なかった。ふたりで犯した大罪の痕跡は今、この兄の身体にだけ刻まれている。
この人がもっと自分勝手で、もう少し冷たくて、他人の心の痛みに疎い人ならば良かった。
自分の全てを投げ出して僕を護ろうとするからいけないのだ。自分の身を守る余力は残した上で差し伸べられる手ならば、僕の心はここまで痛まないのだ。僕はあなたに守られてどこにも傷を負う事がなくても、そのあなた自身を一体誰が守ってくれるというのか。
「兄さん。あなたが何と言おうと、これだけは譲らない。今までもこれからも、僕は兄さんをずっとずっと守っていくことをやめないよ」
「おま・・・・なに、その悪役っぽい笑い。よせよ、何かさらに妙な事企んでじゃねえだろうな?ああそれにしても何て得体の知れない男に育っちまったんだ・・・・俺の可愛いアルは何処にいっちまったんだ。兄ちゃんは寂しい、寂しいぞアルフォンス!」 「兄さん・・・・それはあんまりだ」 「へへっ・・・・・・・仕方ねえ、辞令が降りちまったんなら諦めるしかねえな。こうなったら俺の背中にきっちりくっついて、ちゃんと俺が守ってやれる範囲にいるんだぞ?」 「肝に銘じておきます、エルリック大佐殿」 軍人らしく敬礼しながらそう言葉を返す僕の胸を、兄は軽く握った拳で叩いて嫌そうに口を尖らせた。
「よせよ。・・・なあ、それよりどうやってあの中将から辞令をもぎ取ったんだよお前?」 「その質問にはお答えいたしかねます」 「ヤバい事・・・・した訳じゃねえよな」 「自分は善良な一市民です」 「兄ちゃんに言えないような事はしてねえな?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 「何故目を逸らす・・・・?」 「逸らしてない」 「した」 「してないってば」
いつしか子供のような押し問答をしながら、僕たちはキッチンで夕食の準備をした。兄と僕だけの幸せな時間。こんな穏やかで優しい時間がいつまでも続いたらいいのに。ずっと兄とふたりだけで暮せたらいいのに。自分の中にある何がそんな考えを生み出してしまうのか、まだこの時の僕は全く気がついてはいなかったのだけれど・・・。
*********【おまけ その頃の総司令官執務室】************
「失礼しゃ〜っす・・・・と、あれ?アルフォンスは帰ったんすか?」 「ええ、つい先ほど」 「私の前で奴の名を口にするな!ええい忌々しい!」 「・・・て中将?なに床にしゃがみこんでるんです?」 「ハボック少佐。中将は腰が抜けておいでです。今は放っておいてあげて」 「ホークアイ中佐、余計な事は云わんでいい!ああああ思い出すだけでも腹の立つ。あれならば兄の方がまだ可愛気があるというものだ」 「・・・・何があったんです?」 「官能中枢に刺激を与えられたご様子」 「如何わしい単語を使うな!はしたないぞ中佐!」 「・・・中将、泣いてますケド・・・?」 「そうね。だからアルフォンス君の言うとおりにした方がいいと進言していたのに」 「・・・・このまま黙って引き下がる私ではないぞ。奴には総司令官ロイ=マスタングの名において“エロボイスマスター”という破廉恥な称号を与えてやる。ハボック!」 「ハイハイ、なんでしょ?」 「食堂でたむろする部下たちにそれとなく広めておけ」 「ええ?俺がっすか〜?嫌ですよそんな女々しい裏工作すんの」 「ほう。この称号、お前に与えてやっても良いのだぞ?」 「了解っす。では、ちょっくら行って参りマス」 「初めからそう返事をすればよいのだ」 「中将、そんな余計な頭を使う余裕がおありなら、さっさと仕事なさって下さい!!」
やがてアルフォンス=エルリックに与えられたその称号はセントラル中に知れ渡ることになるのだが、それはまた、別の話。
*********エロボイスという呼び名の誕生秘話でした(?) 200220************
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