僕は煮詰まっていた。
原因は、言わずと知れている。そう、いわゆる欲求不満という奴だ。
件の鼻眼鏡事件以来、僕もただ手をこまねいていた訳ではなく、当然の事ながらリベンジを図ろうと果敢な挑戦をするにはしていたのだ。しかしここぞという段で強力な敵に阻まれ敢え無く撃沈・・・・という無残な結果に終わっていた。
たかが鼻眼鏡。されど鼻眼鏡。時にはチュチュでぬか喜びさせておきながら股間から白鳥の首をにょっきり生やしたりなんかさせるフェイント攻撃まで織り交ぜてくる。敵は手強かった。
さて、今日は珍しく同時に職場を出ることが出来た為、僕と兄は帰りがてら食料品や消耗品などを買いに寄り、今はこうしてふたり並んで夕食の準備をしている。
僕が下味をつけたチキンをソテーにしている横では、兄が小難しい顔で棚に並べてある調味料の小瓶の配置を入れ替えていた。一度ラベルの色別に並べた後、すぐに気に入らない様子で今度は瓶の大きさ順に並べ替えたりしている。こんな馬鹿馬鹿しいほど瑣末なことにさえ夢中になれる兄が、僕は愛おしくて堪らない。うっかりチキンを焦がさないように注意しながら、横目で兄の様子を玩味するように眺めた。
『鬱陶しいから切っちまいてぇ』と愚図る兄を宥めすかしてどうにか死守している長く美しい金髪は後ろの少し高い位置で結ばれていて、兄が首をかしげる拍子にさらさらと繊細な線を作る。その隙間から見え隠れする白い項、シャープな肩の線、小さく尖った顎の線、白いシャツの上からでも見てとれる引き締まったウエストとその下に続く細い腰のラインが・・・・・小さくて色っぽいお尻の控え目な膨らみが・・・・・・ああ。夕飯よりも僕はあなたが食べたいよ兄さん。こんなチキンなんか放り出して、あなたをこの両腕に抱き上げ軽やかなステップ&ターンでリビングへ。そして、ソファに愛のダイブをしたい・・・・・・・・!!!!!
それなのに組み敷いたあなたの顔にはきっとアレが装着されているんだ。この間、思いあまった僕がこっそり内緒でゴミに出した筈なのに、翌日にはしっかり枕の下に隠されていた、アレ。さらにリビングのソファのクッションの下や玄関の壁に掛けてある額縁の裏、果ては書斎の机の引き出しにまでスタンバイ済みという手回しの良さだ。
『ヤろーぜ』のサインのつもりなのか、はたまたサインとは名ばかりの僕除け用の護符なのか。
兄さん・・・・・あなたの心が見えないよ。
重苦しい気持ちを抑えきれず溜息を吐いた僕は、サラダ用にするつもりらしい玉ねぎを手に取った兄に質問を投げかけた。
「兄さん。アナタは夜の営みをどう心得ているのかな?」
脈絡のない僕の言葉に手を滑らせ玉葱を落としそうになりながら、兄は可愛いつり目をぐりんとこちらに向けてきた。
「な・・・・・・おま・・・・・・何、急に?」
駄目だ。これ以上目をあわせていたら襲いかかってしまいそうだ。僕はさりげなく目を逸らしながら続けた。
「僕は思うんだ。もしかして兄さんは、仮装大会と勘違いしてるんじゃないかって。まあね、いつもと違うシチュエーションを演出するというのはとても良い試みだと思う。でもなんだか・・・・・・段々路線が妙な方向に行っている気が・・・ううん!確実に妙な方向に暴走し始めているよね。どんなに愛し合っている者同士でも別々の人間である以上、お互いの趣味嗜好が完全に一致することはないよ。それは仕方の無いことだ。でも、だからこそ、歩み寄りの姿勢は大切だよね。そうは思わない?」
今までの鬱憤が堪りにたまっていた所為で、一度口にしてしまえばとどまる事を知らない不平不満の数々。欲求不満で愚痴を零すなんて体裁の悪い事はしたくなかったけれど、僕の口は止まらなかった。自分で思っていた以上に精神的にキていたらしい。
そんな様子の僕に、兄は喧嘩した後などに良く使う語尾を伸ばし気味ののんびりした口調で過去のコスプレ歴について話しを向けてきた。無意識にだろうが、僕を宥めようとする気持が働いたのだろう。
「最初は・・・・・・確かお前の誕生日に、メイド服を着たんだっけなぁ」
そう言いながら、氷を入れたボウルから冷えたレタスを取り出す兄の指先が、氷水で冷やされてピンク色になっている。色っぽいなぁ。たったそれだけの事で、下降気味だった気持ちがほんの少し上向きになる。
「可愛かったよねぇあれは」
「アレのどこがイイのか、俺は未だにワカランけどな」
「僕が分からないのは、兄さんが僕にまでメイド服を着せるという奇抜な発想にどうやって行き着いたのかという事だよ。・・・・そうそう、それで兄さんがコスプレ好きなのかと思って、軽いノリでタキシードとウエディングドレスを用意したこともあったよね。兄さん、僕のウエディングドレス姿に引いてたケド」
「俺、布が多いとどうも燃えねぇ。やっぱり筋肉がムキッと出てるのがいい・・・・」
繊細で可憐なデザインのメイド服を身に纏う兄の姿を思い浮かべた僕は頬を緩めたが、同時に封印したい記憶までをも蘇らせてしまった。そう、僕の誕生日プレゼントと称して兄がメイド服プレイを持ちかけてきた事が過去あったのだが、どういう訳か兄ばかりか僕までもが豪奢なレースや贅沢なフリルがついたメイド服を着せられるという衝撃的な体験をしたのだった。兄は職場の人間の入れ知恵でメイド服という発想を得たものの、結局最後までその『萌え処』を理解することはなかったのだ。思えば兄と僕の趣味のズレはこの時すでに露呈していたのに、何故僕はすぐに対策をとらなかったのだろうか。裸エプロンをしつこく強請られたのも、その後全身網タイツをリクエストされているのも、先だっての摩訶不思議な異国のオヤジスタイルを強要されたのも、全てが常人の域からは明らかに外れている兄の趣味嗜好の仕業だ。ほら、今だって僕の裸エプロン姿でも思い浮かべているんだろう。兄は乱暴にレタスをむしりながら、うっすら頬を染めて、ぱちぱち瞬きなんかしている。
「また・・・・・そんな色っぽい顔しないでくれない?」
もう駄目だ。今度こそ、駄目だ。
あまりにも卑劣な方法だから、どんなに苦しくなっても決して使うまいと自身を戒めていた禁じ手を、僕は使う事にした。もう形振りなど構っていられる状況ではない。
その禁じ手である最終手段とは、アルコールだ。
酒豪の部類に入る僕(東の国の言葉では、ウワバミとかワクとか言うらしい)と兄弟であるのに、兄はアルコールに極端に弱い。酒の味はどちらかといえば好きで、偶に勧めれば美味しそうにちびちびと口にはするけれど、ほんのひと口ふた口で抑えるようにしているようだ。
何故なら、兄は酒癖がすこぶる悪いのだ。暴れたり、泣いたりするのならまだ良い。この人は、とにかく乱れるのだ・・・・・・・・・・・・性的な意味で。普段はひたすらストイックで性欲がないんじゃないかと疑うような人なのに、酔った途端にがらりと豹変し、むやみ矢鱈と色香を振りまき、素面の時にはどんなに追いつめても決してしてくれないようなアレやコレやを進んでしてくれる。そんな兄を目の当たりにした僕が平静でいられる筈などなく、また必死に自制をしようとしてもあの兄が可愛くお強請りなんかしてくれちゃうからもう・・・・・大変なのだ。兄がその翌日から1週間程度を有給の消化に充てることになってしまう程に。
さて、用意するのは最近の僕のお気に入り、ソルティ・ドッグだ。味の嗜好は僕とほぼ同じ兄だから、きっと喜んで飲んでくれることだろう。ふたつ用意したグラスに気づいた兄に軽くウィンクして晩酌のお誘いをすると、一瞬だけ驚いた表情をした兄は強気な笑みを浮かべて僕の耳に唇を寄せてきた。
「俺を酔わせて・・・・お前、どうするつもり?」
勿論、美味しく頂くつもりです !!
思わずゴクリと喉を鳴らした僕からひらりと遠ざかり何食わぬ顔で鼻歌まじりに料理の皿を手にキッチンを出ていく憎たらしい後姿を見送りながら、知らずに額に浮き出ていた汗を拭った。
「全く・・・・やってくれる。後で覚えてろよ兄さん」
少な目にしておくつもりだったウォッカをレシピの分量より少し多めに兄のグラスに入れたのは、ピュアな弟の心を弄んでくれた事へのささやかな仕返しだ。
その一時間後。
僕の目論見どおり、兄は自力で上半身を支えていることすらできずテーブルに顎をつけてグッタリしていた。目はトロトロに蕩け、唇からは甘やかな吐息が零れて、まるで誘っているようだ。
僕は夕食の後片付けをしながら、その兄の媚態を目でじっくりと楽しんだ。
時々降りてきそうな瞼に慌てて瞬きを繰り返し、ヤバいヤバいとしきりに呟いている。ようやく自分が窮地に追い込まれていた事に気づいたらしい。最後の皿を戸棚にしまっていると、ズルズルと椅子から這うように降りて、懸命に階段を目指している本日のメインディッシュ。本当の晩餐はこれからだよ、兄さん。
僕はキッチンをぐるりと見回し、火を落とした事を確認すると灯りを落とし、御馳走の後を追った。
満足に立つ事も出来ず四つん這いで頑張る細い腰に片腕を回し持ち上げながら、もう一方の手を膝裏に入れてくるりと横抱きにしてしまう。モゾモゾと可愛い抵抗をしながら潤んだ目で僕を見上げてくる恋人は、どこもかしこも僕を誘っているとしか思えない艶っぽさだ。
「アル・・・・・・・マジで・・・・・今日は勘弁してくれよ・・・・・」
もはや制止の言葉さえ僕を煽り立てるだけだ。愛おしい身体をベッドにそっと横たえて想いのままにキスを繰り返すと、うっとりとした表情になるのがまた僕に余計な火をつける。
「ゴメンね。でも、兄さんもいけないんだよ?『酔わせてどうするつもり?』だなんて・・・そんな挑発するもんじゃない。お陰でいけないと思いつつ、本当に酔わせちゃったでしょ」
兄のシャツのボタンをスルスルと外しながら、あちこちに唇で触れた。愛おしい気持ちで胸がいっぱいになる。今日はこれから兄がどんな挑発的な行動に出ても僕はなんとしても自分を抑えて、出来るだけ優しくしてあげようと心に誓った。
「アル・・・・・どうしてもヤんのか?明日じゃダメか?」
「ダメ。今、欲しい」
ぐったりした熱い身体に体重を乗せると素直な身体はちゃんと反応を示してくれていて、つい笑みを零してしまう僕に、掠れた声で懇願する恋人。
「い・・・・・一回だけで終わりにしてくれ・・・」
「無茶言わないで」
ごめんね。優しくするから。無茶なんかさせないから、だから 。
これから愛を確かめ合う灼熱の時間が始まる・・・・・・・・・はずだった。
「兄さん・・・・・・・・・ソレは、何?」
「え・・・・・・『ヤろーぜ』のサイン・・・・・・?」
そうか。やっとあなたの心が分かったよ。鼻眼鏡は合意のサインなどではない。僕という名の吸血鬼から身を守る為の、これは十字架だったんだね、兄さん。僕がこんなにふたりの愛の日々の為に頭を悩ませているのに、あなたはその僕からどう身をかわそうかとそればかり考えていたという事なんだね?
項垂れた僕だったが、いやここで引き下がってはなるものかと闘志を湧きあがらせ、自分を奮い立たせる為に自らエールを送った。
「頑張れ!ガッツだ!グレートあるほんすJr.!!お前は出来る!お前はやれる!」
そうだ!兄との愛の日々をこの手に取り戻すのだ!
しかし、折角良い具合にモチベーションが上昇してきたところで、鼻眼鏡の恋人が僕に跨り股間部分に向かって激をとばしている光景を目の当たりにした時の落胆といったらなかった。
「何だかさ・・・・・・どうしていつも僕と兄さんって、神聖なはずの愛の営みがコメディチックになっちゃうんだろうね?流石の僕も落ち込んできたよ・・・・」
今日も惨敗かとすっかり諦めモードの僕だったけれど、酒に酔って理性を飛ばした兄が次に起こした行動に救われる事になる。
「仕方ねぇなあ。兄ちゃんがジュニアのスイッチ入れてやるから落ち込むなよ?ほれ」
そう言った兄は、僕の前を寛げてさり気なく取り出したジュニアに、ちゅっとキスをお見舞いしてくれたのだ。
ブラボーです兄さん!!!!!!
その後、僕たちがどんな素敵な夜を過ごしたかなんて、とてもじゃないけど勿体なくて誰にも教えられない・・・・・・・・・・・・ふふふ。
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