とある2階建てのアパートの一室で、俺は小じんまりしたダイニングキッチンと二間続きになっている6畳間のど真ん中にあるローテーブルの横に体育座りをして、どうでもいいバラエティー番組をぼんやり眺めている。目線は液晶画面を見ていても、下らないテレビの内容なんぞ右の耳から左の耳へと抜けて行くばかりで、ただただ途方に暮れていた。
未だに状況が良く掴めない。一体どうしてこんな事になってるんだろうか。
昨夜、気仙沼の漁港にある漁業組合の事務所から積み荷と伝票を受け取っていつもどおり築地に向かってビッグエドワード丸を走らせた時にはまだ、翌日の自分がこんな場所に座っているなんて想像もしなかったというのに。
それというのも・・・・・・・・目だけを動かし、キッチンで鼻歌まじりにテキパキと小気味良く動く大きな背中を睨みつける。
――――――今でもまだ脳裡に焼き付いている、先程の凶悪な光景。
こいつだ。こいつのファッションセンスが悪いんだ畜生―――――ッ!!
大事な相棒であり恋人と言っても過言ではないビッグエドワード丸の車内は聖域だ。だから俺はこれまで何人たりともこいつに自分以外の人間を乗せた事はない。それなのに白バイ野郎はお構いなしに肩に担ぎ上げた俺ごと押し入りやがったのだ。ビッグエドワード丸の純潔は奴に穢されたも同然だ。
「アーッ!テメェ俺のビッグエドワード丸の内部に踏みこみやがったな!?大体違反金が肉体労働で代納できるなんて聞いた事ねえぞ!俺がロクに学歴もないトラック野郎だからってそんな子供騙しが通用すると思って舐めてんじゃねえぞこのクソお巡り!」
「肉体労働?う〜ん・・・労働というならむしろ僕の方が労働するカタチになるかと・・・・まぁでもこれはまだ先の話だから!というか、これは冗談だから本気にしないで。そんな汚い手段でアナタに近づくつもりなんてない」
頭に血が上り暴れる俺を、アルフォンスと名乗った白バイ野郎は意味不明な事を言いながら涼しい顔で運転席の後ろにある仮眠スペースに押しこむと、自分も靴を脱いで「お邪魔します」と礼儀正しく頭を下げて入りこんできた。
「このスペースは俺一人が横になるのでやっとこなんだよ!てめぇのそのデカイ身体まで入る訳ねぇだろうが!」
というか、ビッグエドワード丸に乗り込むのは勿論のこと、その上何故わざわざ男二人で仮眠スペースに鮨詰め状態にならなくてはならないのだろうか・・・・・って、どうしてチマっと正座しながら仮眠用のカーテンを閉める貴様!?
「さて、いきなり本題に入らせて貰います。エドワード・エルリックさん」
それまでの笑顔を引っ込めいきなり鋭い目つきになったアルフォンスは、グイと上体を乗り出して俺に迫って来た。尋常でない殺気を感じてまったく展開の読めない俺は、情けなくも後ずさってソイツと距離を取るくらいのことしか出来ない。
薄暗い密閉空間で、妙に息の荒い水色の制服を着た白バイ野郎と二人きり、膝を突き合わせてガンを飛ばしあう事数十秒か数分か。
―――――ビッグエドワード丸の聖域にズカズカと乗り込んだ上、この俺様相手にメンチ切りやがる相手に、先程持ち始めた好印象など一気に吹き飛んだ。
ジリジリとソイツの顔が近づいてくるのを、俺も負けじと前のめりになって応戦する。
男エドワード・エルリック。ここで引いてなるものか!いくら相手のガタイが良かろうと、そのバックに国家権力が控えていようと、長いものに巻かれる体質が性に合わない俺は断固闘う決意に満ち満ちていた。
向こうが顔を突き出してくれば、突き出してきた分だけ俺も前のめりになる。
俺が成人男性の標準よりちょっとばかりち・・・ち・・・・ち・・・ち・・・・・・・・くても・・・・・ッ!舐めやがったら承知しねぇ。俺は絶対に背中を晒して逃げたりはしねぇんだぞコン畜生!!!
ジリジリと距離が近づき、とうとう鼻先が触れ合うまでになった。後はもう先に目を逸らした方が負けという時、とうとう相手が目を閉じた。
よっしゃ・・・・ッ!この勝負、俺が頂いた!
・・・・と、強敵を打ち破った勝利の味に酔いしれたのも一瞬の事。
唇に触れる生々しい感触に俺の思考は急停止した。
え?え?え?・・・・イヤ、俺ちゃんと自発呼吸してるし、人工呼吸の必要はねぇんだぞ、ちょっと待てよクソお巡り!?
茫然としていると半開きになっていた唇の隙間から滑った生温かいモノがそろそろと侵入し、前歯を通過して上あごをゾロリと舐め上げる。同時に腰から背筋をかけ上がる感覚に全身が震えた。
「ン・・・・・ッ!?な・・・・・ナニ・・・・・んフ・・・・っ!」
反射的に顔を背けて逃げようとしたものの、いつの間にか回り込んでいた手にガッチリと後ろ頭を捕えられていて叶わない。そればかりか、もう片方の腕が腰に回ってグイと引き寄せられた俺の身体は相手の正座した膝の上に乗り上げてしまい、なんというかもう、あり得ない密着度だ。
ショックのあまり、俺の脳は完全に考える事を放棄していて、まるで人形のようにされるがままだったから、ヤツは好き勝手に俺の唇とか舌とか口の中とかをジュルジュルちゅくちゅくと舐め回し吸いつき、随分と長い間やりたい放題してくれやがった。
暫くして解放された時には、まるで口からエネルギーを吸い取られたように力が抜けてしまい、ぐったりとヤツの身体に凭れかからずにはいられなかった。
その俺の顔に手を添えて、またしても至近距離からガンを飛ばしてくる相手に、もう対抗するだけの気力は残されていなかった。
抜かった。闘争心と体力を根こそぎ奪い去る、こんな画期的な手があったとは・・・・!
この男は、一体俺にどんな無体な要求を突き付けてくるのだろうか?
もしや、先程便宜をはかった見返りとして法外な額の金品を要求されるのだろうか?
その要求を撥ね退けたりしたら、さっきコイツに手を上げた事を理由に逮捕とかされるんだろうか?
留置所なんかに入れられでもしたら、明日からの仕事はどうすればいいのだろうか。前日になっていきなり運べなくなっただなんて、信用ガタ落ちじゃねぇか。今後の営業に関わる。下手すりゃ死活問題だ。まだ先日新調したばかりのバンパーや、特注で取り寄せている最中のマーカーランプの支払いだってあるのに・・・・!!
ギリギリと歯ぎしりしていると、ガッチリと両手を掴まれた。
その瞬間俺は半ばヤケクソ気味に心を決めた。
例え得意先を失くして路頭に迷おうが、ビッグエドワード丸と一緒なら何度でもやり直してやる!
そうして負けじと相手を睨みあげた・・・・・・・・・・・・・の・・・だが・・・・・。
ヤツはうっすらと頬を染め、ヤケに甘ったるい眼差しで俺を見下ろしてきた。俺の手を掴んでいる両手はジットリと汗で濡れていて、小刻みに震えている。持病でもあるのだろうかと俺が首を傾げるのと、ヤツが口を開いたのはほぼ同時だった。
「ゴメン・・・・順番が逆になっちゃったけど・・・・す・・・ッ好きなんですエドワードさん、アナタの事が!!」
「・・・・・・あ?順番?なんの?」
またしても肩すかしをくらった俺は唖然として気のきいたリアクションをする余裕もない。
「だって、普通こういうのはまず告白してからキスでしょ!?ああ緊張し過ぎて手順を間違えた!しかも舌まで入れちゃった!ホントゴメン!!やっぱり平静ぶってアナタに接するなんて僕にはハナから無理だったんだ・・・折角途中まではクールな自分を演じていられたのに・・・・クソッ」
――――――お前の目論見の失敗は、多分『シャオメイ印の甘々ココア』をチョイスした時点で決定していたんだと思うぜ?それにクールつーか後半部分は完璧エロオヤジモード入ってたし。
心の中でツッコミを入れる俺の目の前でオロオロと一人勝手にどこまでもテンパっていくアルフォンスに、どんな対処をすればいいか全く分からず途方に暮れていると、やがて奴は興奮も最高潮に達した様子で、さらに続けた。
「とにかく、二年前初めて遠巻きにアナタを見た時から、ずっとずっとアナタだけを想ってきたんです。最初はまさか自分が男性に心惹かれるなんてと悩んだりもした。でもこの気持ちを抑えるなんてとても出来なくて・・・・・せめて、見ているだけで良いと自分に言い聞かせてきた・・・・だけど!!」
「うぎゃ!」
ガバリと抱きしめられ悲鳴を上げる俺に、今度はゴーリゴーリと頬擦りをしながら愛を語る白バイ野郎の暴走はもはや止まりそうにない。
「今日アナタを初めて間近で見て確信した。好きなんて言葉じゃ全然足りない。僕はアナタを心から愛してるんだ!エドワードさん・・・いや、エド!!お願いだから僕と将来同じお墓に入る事を前提としたお付き合いをして欲しい!!自分で言うのもなんだけど、高学歴で高身長で健康だし、親無し親戚無しの天涯孤独の身の上だからわずらわしい事一切無しだし、何と言っても一生涯安定の公務員!それに料理上手に床上手でとってもお買い得なんだよ僕!!」
「・・・・あう・・・・・・・」
・・・・それに何と返事をしたのかあまりのショックに半分目を回していた俺はイマイチ良く覚えてはいないのだが、気がつけば夜勤明けであとは署に一度戻って引き継ぎをするだけというアルフォンスと飯を食いに行く事になってしまっていた。
ヤツが引き継ぎと着替えを済ませてくるのを警察署近くのコンビニの駐車場で待ちながら、俺はまだ知りあったばかりのアルフォンス・エルリックという男について考えていた。
次から次へと俺を驚かせる言動ばかりしやがる男だがどうやら悪い奴ではなさそうだし、俺に惚れたとかなんだとかいうのもきっと自分の勘違いに気付けずにいるだけに違いない。一見器用そうで何事もスイスイとそつなくこなしてしまう、どちらかと言えば軽薄なタイプに見えたが、実際はやることなす事一々丁寧に真剣に全力でとりかかるクソ真面目で熱血で誠実そうな人柄が見てとれ、それは作ったものではないと感じた。こんなヤツだから、勢いで自分の想いを少々取り違えてしまったのかも知れない。友人として実際付きあってみれば、いずれその勘違いにもアルフォンス自身がおのずと気付くだろう。聞けば驚いた事に俺より一歳年下だというし、偶然にも姓が同じで、大人の男相手に可笑しな気もするがどこか可愛らしさみたいなものを時折覗かせるあいつが、弟のような身近な存在に思えなくもない。
「なんてな。まだ会って数時間だっつーのに・・・・」
そんな気持ちになっている自分に苦笑をもらしたところで、背の高い金髪の姿が近づいてくるのに気付く。遠巻きながら鞄を肩から下げて歩くアルフォンスと目が合い軽く手を上げた俺だったが、次の瞬間思わず目を見開いた。
「ウソだろ・・・・・オイオイオイオイ・・・・・うわ・・・・ちょ・・・・・・!」
目の錯覚という事にしてしまいたがる本能がパチパチと瞬を繰り返す間にも、ヤツの姿はどんどん近付いてより細部まではっきりクッキリと俺に悲しい現実を見せつけた。
「信じらんねぇ・・・・・・あんまりだろソレ・・・・」
とうとうアルフォンスがビッグエドワード丸の前までやって来たところで、俺は運転席から飛び降りてヤツの目の前に立った。
「お待たせ、お腹すいてるでしょう?何食べたい?どこに行こうか?」
爽やかに笑いかけるその顔はそんじょそこらの芸能人も太刀打ちできない程の美形だ。そして襟足とサイドが潔くスッキリと短く、少し長めの前髪がさり気なく横に流されそこから零れ落ちたひと房ふた房が眉にかかっている髪型も実に男らしく好印象だ。声だって耳に心地いいし、話し方も癖がなく穏やかで魅力的だ。肩だって胸だって服の上からでも立派な筋肉の線が見てとれるし、足も長い。素材が良いだけでなく、しっかり鍛えている、怠慢とは無縁の身体だ。
嗚呼ッ!!それなのに何故なんだ―――――ッ!!
「お前・・・・お前・・・・・・そのカッコ・・・・・・ナニゴト?」
そう問いかける俺の声は震えていた。思わず顔を覆ってしまっていた両手の指の隙間からアルフォンスを見る。見たくないのに見てしまう不可解な衝動。どうする事も出来ない人間の性。
そう・・・・・これは、怖いもの見たさだ。
縫製に難がありすぎる田舎くさいドブねずみ色のポロシャツの左胸に入っているイモリのマークと『LOWCOST』というロゴ文字。これはもしかしなくても、アレか?ワニの代わりにイモリなのか?『L●COSTE』を意識しての『LOWCOST』なのか?
『イモリ』に『安価』・・・・あんまりだ・・・・・!
大体イモリはワニと同じ爬虫類じゃなくて両生類なんだけど、その辺の微妙なズレはどうなんだ!?
気の毒で思わず涙目になる俺。
しかし、これでさえ後に続く悲劇のほんの序章でしかないのだ。
あまりにも寸足らずでくるぶしまで見えてしまっている誰かの借り物としか思えない、『お前それ、絶対ウエスト部分ゴムだろう!?』と詰め寄りたくなる黄土色のチノパン。しっかりアイロンをあててセンターラインがくっきりしているのがより一層哀れをさそう。その下から見える薄ピンクと白のストライプの靴下もこれまた抜群の破壊力で、気の毒を通り越してなんだか悲しくなってくる。
極めつけが茶色のローファーだ。しかも年季の入ったオヤジ族にしか履きこなせないだろう、俺達若年層には30年早いオーストリッチ!
あまりの『未曾有の大事故』的コーディネートに、とうとう我慢できなくなった俺はヤツの足元を指差して「オイお前!お前誰かの靴間違えて履いてきてねぇか!?間違えられたヤツ今頃困ってるぞ。早く取り替えてこいッ!」と叫んだのに、奴はしれっとした表情で事もなげに答えたのだ。
「大丈夫大丈夫、ちゃんと僕のだから。この春異動になった上司が、息子さんのお嫁さんから貰ったもののサイズが合わなくて履けないから良かったらどうかって言うから、通勤用に有難くもらったんだよ。これが履き心地が良くてね、愛用してるんだ」
「・・・・・・・・・・・・」
信じらんねぇ・・・・・コイツ、自分がどういう恰好してるのか全く頓着してねぇ!これはお前アレだぞ?『妙チキリンな恰好をして街中一周してこい』っつー罰ゲームとかのレベルだぞ?分かってんのかよオイ!いや分かってないんだろうよその顔は!
俺は普段はわりと、自分も含め人間の外見とかはあんまり気にしないタイプだ。俺の美意識の対象はほぼ全てビッグエドワード丸だけに集約されていて、はっきり言ってその他はどうだっていいからだ。とはいえ流石にそんな俺でも自分が着る服くらいは趣味に突っ走りたい気持ちを抑えて、街中を歩いても注目を集めない程度の当たり障りない物を選ぶ最低限のセンスはあるし、そうするだけの分別も多少ある。
そ れ な の に コ イ ツ と き た ら ―――――――!!!!!!
「エド、どうしたッ!?何で泣いてるの?あ・・・・とにかく、ビッグエドワード丸に乗ろう?ね?ホラ、人が見てるよ?」
違うから!周りの人間が見てんのは俺じゃなくてお前だから!!!!なんで気付かないんだよッこんのタコ〜〜〜ッ!!!・・・・と心の中で叫びつつ、これ以上コイツを好奇の目に晒すのがあまりにも不憫で、俺はヤツを促してビッグエドワード丸に乗り込むとさっさとコンビニの駐車場を後にした。
その後結局俺はそのままどこにも寄ることなく、真っ直ぐアルフォンスの住むアパートまで来てしまった。
いくら顔が良くてもスタイルが良くても物腰や立ち居振る舞いなどが完璧でも、このいでたちの男と二人、他人の目のある場所で飯を食うだけの図太さを、生憎持ち合わせていなかったからだ。
とにかくこの服装をどうにかしない事には外を歩き回らせることもできないから着替えてこいと命じたのだが、すぐさま自分も座席から飛び降りて、鉄製の階段を上るアルフォンスの後を追った。アルフォンス一人では、とてもじゃないがまともな格好に着替えられるとは思えなかったのだ。
俺がついて来たことに気付いたアルフォンスは振り向き、またあの可愛らしい顔で嬉しそうに笑った。
「そうだエド。折角だから外に出るのは止めにして、このまま僕のウチでご飯食べない?ありあわせしかないけど、そこそこのモノは作れるよ。どう?」
その提案に、それが一番手っ取り早くて良い案だと思った俺は頷いた。
が、部屋に入って直ぐに食事の支度を始めようとするアルフォンスの後ろ襟をフン掴まえて着替えさせることを俺は忘れなかった。この恰好で目の前をウロウロされるのは耐えられない。下手に顔がいいだけになおさらだ。
洗濯物が増えると所帯じみた文句をいう男を一喝して黙らせ、勝手に物色したクロゼットから見るからにペラいがまあまあのジーパンと黒いTシャツを選び出して着替えさせ、漸く俺は人心地ついた。
初対面の時に見た青い制服姿の精悍さは薄れるものの、男っぷりは上々といった具合で、俺は自分で自分のセンスを褒めて一人悦に入っていたのだが、勧められるまま毛足の長いカーペットの上に座り出されたコーヒーを啜りつつ、キッチンに立つ男の後ろ姿を見ている内に、ふと先程のビッグエドワード丸の中での出来事を思い出し、遅まきながら頭を抱えた。
「ありゃあ人工呼吸じゃねぇだろ?キ・・・・キ・・・・・キ・・・・・・だろ?それも奴のベロが俺の口の中でニュルって・・・・!うがぁぁぁぁぁぁぁ!!」
普段ではあまり体験しないような出来事の連続で失念していたが、例えヤツの一過性の情熱による行動だとしても男同士でベロちゅーをしてしまった事実は事実だ。
言いたくないがソッチ方面の経験が豊富とは言い難い俺にとって、これは笑って済ませられる程軽い問題ではなかった。
アルフォンスはきっと・・・多分、いいヤツだ。そう思う。しかし普通に考えて、初対面の相手に愛の告白と同時にベロちゅーかますか?厳密に言うとコレ、強制猥褻罪にならねぇか?
小難しい事は良く分からないが、とにかくあのベロちゅーは俺の心にかなりの衝撃を与えたことは事実だ。
何より一番解せないのは、そんな男の部屋にこうして自らノコノコと上がり込んでコーヒーなんぞを啜っている自分自身だ。
いずれヤツが自分の想いが単なる勘違いの思いこみであった事に気付くだろうにしてもだ。今の俺の立場は、要するに冬眠前の熊の寝床に入りこんだ食べごろの羊って感じじゃねえ?コイツのガタイが見かけ倒しの伊達じゃないということは、さっきのビッグエドワード丸の中で既に身を持って体験済みだ。考えたくもないがもしヤツが性的に興奮して発作的に襲いかかってきたとして、俺にそれを撃退するだけの力があるかどうか・・・・・・由々しき問題だ。
それでいて、そんな事を心配するくらいならとっとと口実を作ってこの部屋を出ればいいのに、どうしたことかそう出来ない自分がいるのは何故なのだ。訳が分からない。無性にイライラした俺は残りのコーヒーを一気に煽り、相変わらず手際よく動くアルフォンスの背中を睨みつけて、胸の中で毒吐いた。
そうだ。こんなモヤモヤした気分になったのは全部お前の所為だ。俺がこの部屋に来ちまったのも、お前のファッションセンスがあまりにも酷いから放っておけなかっただけなんだ!そのありあわせの飯とやらが不味かったら、今度という今度は許さねぇ・・・・!!
そんな俺の心の声が天に届いたのか、はたまた知らずの内に口に出していてそれをアルフォンスに聞かれていたからなのか、程なくして出された料理はどれもこれもがこの世のモノとは思えない旨さだった。
薄皮ごと胡麻油で揚げてある新ジャガがゴロっと入った肉じゃが。旨い。
アボカドとマグロの、荒挽き胡椒がガツンと効いてるサラダ。旨い。
野菜も肉も細かく刻んである豚汁。旨い。
昆布の味が染みてるキャベツの浅漬け。旨い。
糸みたいに細い白髪ねぎを乗せられ、たっぷりのだし汁に浸かった揚げ出し豆腐。旨い。
ただの白飯に見えるのにほんのり椎茸の香りがするふっくらした飯。旨い。
あまりの旨さに黙々と無心に貪り喰う俺と、その俺をまるで新婚夫婦の嫁のような眼差しで見守るガタイのいい色男。
・・・・じつに妙な構図だ。
いつまでたってもまともに食べようとせず、俺の方ばかり見ている相手に次第に居心地が悪くなってくる。
「・・・・・・?なんだよ?お前、全然箸動かしてねぇじゃん。俺が食うの見たって面白くもなんともねぇだろうが。ホレ、無くなっちまうぞ?」
俺の目の前にばかり寄せてある料理の皿を向かい側のアルフォンスの方へと押しやれば、再び元の位置に押し戻される。
「嬉しいんだ。自分が作ったものを美味しそうに、誰かが食べてくれる姿を見るのが好きなんだ。まだまだあるから、おかわり沢山して?」
そう言って心底嬉しそうに笑うアルフォンスを見ている内に、ある確信めいた思いが俺の中に浮かんだ。そして特に何を考えるでもなく、俺は思ったそれをまんま口にした。
「こんな旨いモン作れるってことはお前さ、誰かに作ってやるために相当頑張ったりしたんだろ?」
言った後で、仮にも俺に好意を示したばかりの相手に向かって過去の恋愛遍歴を探るような話題は不味かったと焦る。しかしアルフォンスは目を細め、静かに、ごくすんなりと頷いた。
「うん。昔・・・とても大切な人の為にね・・・・・その人に『美味しい』って喜んでもらえるのが嬉しくて、自分なりに頭を捻って試行錯誤したなぁ・・・・・コレは、その成果かな?」
『とても大切な人』
やっぱり、恋人だろうか。
その言葉をアルフォンスの口から聞いた俺は、何となく・・・・・・・面白くなかった。
分かっている。俺にプロポーズまがいのセリフを吐いたからといって、ただそれだけでアルフォンスの何か一部でも所有した気持ちになっていたのは俺の勝手だ。
けれど、恋愛感情やまして将来的に肉欲めいたものをコイツ相手に持てるかどうかはさておき、一人の人間としてアルフォンスに魅力を感じて、早くもそれなりに好意を抱き始めている自分に気付かされ、少々面食らった。
最初に抱いた印象は、何もかもが完璧過ぎるせいで少し近付き難い男。次に感じたのは余裕綽々で意地の悪いいけ好かないヤツ。けれどその直後にいきなり素に戻って笑ったりするから、うっかり可愛いなどと思ってしまい・・・・・・。やがてコイツの余裕は人知れず地道に積み重ねた努力を礎にした根拠あるものであると感じ。クールなようで、実は勢い余って痛い事をしでかす恐れさえある程の熱血で。器用なようでいて、時々不意に子供のような無防備さで感情を曝け出す不器用な面もあり・・・。
まだ出会って数時間しか経っていないのに、何故俺はこの男をこんなにも理解した気持ちでいるのだろうかと不思議だった。
それはアルフォンスが自らの内面を俺に知らせようとしている所為もあるのだろうが、何より俺自身がヤツの事を理解したいと強く思っているからなのかも知れない。そしてその衝動の原動力となっているのは好奇心とアルフォンスへの好意だという、紛れもない事実。
・・・・・・そうか。こんな短時間の間に、俺は相当コイツのことを気に入っちまってたんだなぁ・・・・。
アルフォンスの悲しげな表情が気になったが、きっとそれはまだ俺が触れてはいけないアルフォンスの過去なのだろう。
それ以上口を開くことなく笑顔で豚汁のお替りを勧めてくるのに俺が頷いたことでこの話は終わったものと思い、わざと明るい話題を振って重苦しくなりかけた空気を払拭しようとした矢先、アルフォンスがぽつりと言った。
「・・・・僕ね、昔、新宿に住んでた」
「?・・・・へぇ・・・・?」
突然の話題転換に短い返事を返し、豚汁を啜りながらこっそり覗き見たアルフォンスの表情は、再びさっきの悲しげなものに戻っていた。雰囲気で、どうも軽い気分で受け止められるような話ではないだろう事をさとり、椀と箸を置き代わりに湯呑を手に取る。
「エドは知ってる?新宿駅の西口から都庁に続く長い地下通路があるんだけど・・・ソコがね、僕の家だった」
口許に持って行きかけた湯呑を持つ手が止まった。
「・・・・・・・・え。て、お前・・・・それ、いつの話だよ?」
「うん、もう随分と昔の事。・・・物心ついた時には既に母親とふたり暮らしだったんだけど、ある日突然母が部屋で倒れてそのまま死んで・・・・・僕はその時4歳になったばかりだった。身寄りも何もないし、水商売で稼いでた母と僕はしょっちゅうあちこちを転々としてたから面倒みてくれる知り合いもいなくてね。でも、お腹すくでしょう?母の遺体にとりあえず布団をかけてから・・・・・あ、ごめんね、急に重い話で」
黙って首を振るしか出来ない俺にアルフォンスはニコリと笑い、俺が手に持ったままの湯呑に茶を注ぎ足しながら続けた。
「母のバッグから財布を持ちだして、コンビニとかで食べるものを買って・・・・そうやって暫くしのいでた」
俺の脳裏に、急死した母親の骸の横に座り、コンビニのおにぎりを食べる幼い子供の頃のアルフォンス・・・・・・そんな情景がまざまざと浮かんだ。それはまだ年端のいかない子供にとって、どれだけ酷な体験だったろうか。胸が抉られるような思いに、無意識に唇を噛んだ。
アルフォンスはただ静かに、淡々と、ときおり苦笑さえ交えて話し続けた。
「その内お金も無くなって、今度は服とか歯ブラシとか詰めたリュックを背負って街を歩き回った。・・・で、ホームレスのオジサン達に混ざっておこぼれを貰ってるうちにね、その人に出会ったんだ」
幼いアルフォンスが生きる為に辿りついた場所。多くのホームレスが住処にしている新宿駅の地下道で、アルフォンスは『ヨキ』という名の一人のホームレスに出会った。
ヨキが子供のアルフォンス相手に自分の過去を語ることはなかったが、他のホームレスから聞いた話では、東北の小さな港町に家族を残して一人都心に出稼ぎに来たものの、会社の金に手をつけてクビになりやがて酒や賭けごとに溺れ・・・・・という、ホームレスには良くある転落の一途を辿った人間のようだった。ただ、ヨキはホームレスの仲間の誰とも打ち解けることがなかった。むしろ誰からも敬遠され、忌み嫌われていた。
ホームレスにはホームレスなりに、互いに無駄な諍いを避ける為、暗黙の了解や決まり事があったが、ヨキはそれらをことごとく無視し、時には自分が利潤を得る為に同じ立場であるホームレスを平気で食いものにする事さえあったからだ。
ところが、他の大人のホームレス達のように寒さを凌ぐ手段を持たず凍えていたアルフォンスに手を差し伸べた唯一の人間が、ヨキだったのだ。
後々成長したアルフォンスがその時の感謝をヨキに告げると、『ただオレは冬場に丁度良いカイロを拾っただけだ。夏になれば捨ててやるつもりだったのが勝手に居ついちまっただけだろうさ』そう言って恥ずかしそうにしかめっ面を作り、笑った。
また、ヨキが他のホームレス達から嫌われる理由はもう一つあった。自分が如何に優秀であるかを事あるごとに言葉尻に匂わせる癖があるのだ。しかし事実、ヨキは他のホームレス達の誰よりも頭の回転が速く、そして博学であった。それだから、役所の職員に保護され児童福祉施設に身を置くようになる13歳までの間、アルフォンスは一切義務教育を受けることなくヨキからおよその学科をまんべんなく学んでいたが、その学力は既に高校卒業レベルを超えていた。
アルフォンスとヨキ。二人の間に親子のような精神的な触れ合いが明確にあった訳ではない。常に一定の距離を置き、だがしかしヨキは必死に、アルフォンスが自分と同じ轍を踏まないように導こうとしているのではないか。アルフォンスにはそう思えてならなかった。
時々ヨキは、気の良いボランティアのメンバーが差し入れてくれるウィスキーを呑んで酔いが回ると、かならず口癖のように繰り返し言った。
お前はオレのような人間になるな。人の信頼を裏切ってはいけない。一度でも裏切れば、その負目は一生自分を付いて回る。
得られる時に得られるだけの知識を貪欲に食って蓄えろ。それらはいつか必ずお前の援けになる。
どんなどん底にいても、旨いものを旨いと味わって食べられる内は人間大丈夫だ。食い物は絶対に残すな。そして旨く食う為に、持てるすべての知恵を絞り、ありとあらゆる手を尽くすんだ。
どれもある意味至極あたりまえな事だが、幼いアルフォンスはその言葉を父親からの大切な教えのように忠実に守った。
唯一の保護者である母親を亡くし空腹と寒さと心細さに震えていた時、無償で手を差し伸べてきたヨキに、男親の存在を知らないアルフォンスが『父親』を求めてしまうのは仕方のないことだった。
アルフォンスはヨキの言いつけどおり、それがどんな相手であろうが自分を信頼してくれる相手には誠意を持って接した。暇さえあれば古紙回収業者の倉庫から拾ってきた古い教科書や参考書で学ぶ一方、ホームレスでありながら贅沢にも舌の肥えたヨキを喜ばせる為、限られた食材を工夫して立派な料理に仕立て上げる技を磨いた。
目の届く距離ではあるが其々独立したねぐらで生活しながら、ヨキがアルフォンスに知恵を授け、アルフォンスはヨキの笑顔を見たいが為に料理を作る。そんな暮らしが9年続いたある日、児童福祉施設の職員と名乗る人間がアルフォンスのもとへやって来た。
施設の職員は、ヨキと名乗る男から13歳になる身寄りと住む処がなく就学もしていない少年が居るから保護して欲しいという連絡が入ったのだと話した。
慌ててヨキが寝床にしている場所へ行けば、いつも必ずあったヨキの家財道具であるダンボールやコンパネやビニールシートが見当たらない。これまで場所を移動する事はあったが、必ずアルフォンスに移設先を知らせてきたというのに、昨夜言葉を交わした時に何も教えられていなかった事がアルフォンスを悲しませた。
自分はとうとうヨキに疎まれて、見限られてしまったのだろうか。
いつしか身内のようなつもりでいたけれど、それは自分だけが一方的に持っていた情だったのだろうか。
施設に生活の場を移し、生れて初めて学校に通うようになったアルフォンスは、その後も頻繁に地下道や新宿駅周辺の路地などを見て回ったが、ヨキの行方はようとして知ることができなかった。
訃報は、突然だった。
福祉施設での暮らしも学校に通うことにも慣れ、中学校での生活も二年目を数えた秋・・・・・来週は修学旅行に行く、そんな時に福祉施設の先生に呼ばれた応接室で、大阪から来たという日雇い労働者のバックアップをしているNPOの職員と名乗る男から突然告げられた。
そして、ビニール製のボストンバッグを渡される。
ヨキは、アルフォンスがあの場所を去る前の晩、既に新宿から姿を消していた。大阪にある日雇い労働者が多く集まる街に住処を移し、日雇いながらも真面目に働いていたらしい。
そして一週間前、建設現場の足場から転落した。即死だったという。東北に居る筈のヨキの家族とは連絡が取れなかった為、簡略な葬儀と埋葬がボランティアの手により行われ、遺品を業者に引き取らせる手配をしていたところ、酒呑み仲間の一人が生前ヨキが口にしていた言葉を思い出したことで、それがアルフォンスの元に届けられたのだ。
情に脆いらしいそのNPOの職員がハンカチで目頭をおさえながら言った言葉。
『ヨキさんの飲み友達だった人から、生前酒に酔ったヨキさんが度々言っていたという言葉を聞いたよ。ヨキさんね、東京に息子を残してきたっていつも言ってたそうだよ。自分のような人間がそばにいたら息子の為にならないから置いてきたって。オレの言う事を良く聞く、気立てのいい真面目で優しい子だ・・・自慢の息子だ、唯一の生き甲斐だってね。そのバッグの中に入ってる修学旅行用の服とか、パジャマとか靴下とか・・・・まあ、色々揃えてね、君に送るつもりでいたそうなんだよ・・・・・』
アルフォンスは、母を失ってからこれまでの間の自分が、天涯孤独の身ではなかった事を知った。
例え人伝にでも、ヨキの真実の言葉が聞けた嬉しさと、そして同時に襲ってくる大切な父親を永遠に失ってしまった悲しみに、アルフォンスはその日、一生分の涙を流したと思える程泣いた。
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