甘い時間
一日の勤務を終えた僕が家へと帰り着くと、リビングの窓からレースのカーテン越しに温かな明かりが零れていた。いつも研究に没頭しては僕より帰宅が遅くなる兄が、今日は珍しく先に帰っているようだ。
玄関の扉を開けた途端、暖められた空気がふんわりと頬に触れてくる。これまで凍てつくような外気に晒されていた皮膚が、瞬く間に血流を盛んにして熱を取り戻していく。 コートとマフラーを壁に吊り下げてあったハンガーに掛け、僕はゆっくりとリビングへ足を踏み入れた。コーヒーの香りに混ざって漂ってくるのは、チョコレートや飴玉の甘い香りだ。その事で、3ヶ月程前から取りかかっていた兄の研究がいよいよ大詰めにきているのだと分かった。
兄も僕も甘いものが苦手ではなかったが、進んで口にするほど好んでいる訳でもなく、我が家には甘いもの・・・・・つまり、菓子の類が置いてあることは普段あまりない。時折人から貰う焼き菓子などで十分足りていたから、自分たちでわざわざ買う事もしないのだ。ただ例外的にある時期だけは、この家のあちこち至る処でチョコレートの小箱や、キャンディの入った瓶などを目にするという現象がおこるのだった。
「俺の脳が糖分を要求している」
これは、研究が佳境に入った時の兄が度々繰り返すセリフだ。それを言っては新しいチョコレートの箱の紐を解き、キャンディの封を開け、次から次と口へ運ぶ。見ているこちらが胸やけを起こしてしまいそうなペースでそれらを平らげていく様子は、呆れを通り越していっそ見蕩れてしまう程凄まじいものだ。
今も兄は僕の帰宅に気付きもしないまま、自分の書いた研究レポートの綴りを片手に分厚い専門書を捲りつつ、雑然と広げられ折り重なった書物に紛れている煌びやかな箱から一口大のチョコレートを指先で摘みあげて口に放りこんでいる。 共用スペースであるはずのリビングを勝手に個人の研究室に仕立て上げたその人は、ソファを背凭れ代わりにモスグリーンのラグに直接座り、周囲に甘い香りを漂わせていた。
既にいつもの夕食時間を過ぎていたから、僕はその様子を眺めながら自分と兄の夕食をどうするか思案した。キッチンのストッカーには比較的保存のきく野菜がいくらか残っていたしパンもチーズも切らしていないから、用意しようと思えば出来ないわけではなかった。ところが、こうなってしまうと兄は「集中力が鈍る」と、菓子類以外のものを殆ど受け付けなくなるのが常だ。いつもは栄養バランスに気を使い模範的な食事を摂る事に拘る僕だけれど、今は然程空腹を感じていなかったし、一食くらいなら偶にはこんなジャンクな食事(?)もいいかと考え、兄のご相伴にあずかることにした。
キッチンで自分と兄のお替り用にコーヒーを淹れながら手を洗ってうがいをし、何の気なしに傍らの木製のワゴンに目をやると、ラメ入りロゴが入った大きな袋や高級感のある小振りの手提げ袋などが置かれていた。わざわざ中身を開けて見るまでもなく、これらは全てチョコレートやキャンディやマシュマロだろう。しかも豪華な外装からして、どれも庶民的とは言いがたい値段で売られているものばかりのようだった。
「甘いもの好きな人間じゃないくせに、なんだって今回は高級品に拘るんだか・・・」
苦笑をもらしつつ、その中から琥珀色の大きなキャンディが入った瓶と、マシュマロが入ったパラフィン紙の袋。それから真っ赤な絹のリボンがかかった矢鱈立派なチョコレートの箱を選んで、コーヒーと一緒にトレイに乗せた。
ローテーブルの上は広げられた書物でいっぱいになっていたからラグに直接トレイを置いて、僕も兄と同じようにソファにもたれて隣に座った。
「ん・・・・・なんだ、アル。帰ってたのか?お帰り」
チョコレートの箱を空にしてしまった兄は、宝石のようなキャンディをポンと口に入れながらようやく僕に目を向けた。
「ただいま兄さん。どう?研究は上手くいってる?」
「まーな。もう纏めの段階に入ってる。組み立てた理論を最初からなぞってるトコ」
「もう?いつもならこの状態が2〜3日は続くでしょう」
「それがよ、すげーンだわコレ。甘いモンなんてみんな砂糖の味しかしねぇと思ってたけど、菓子って高けりゃ高い程旨いんだぜ〜。やっぱ同じ糖分でも、旨いほうが脳の回転数上るな」
「一概にそうとも言えないんじゃない?安くたってそれなりに美味しいものは美味しいと思うよ」
元々それほどデリケートな味覚を持ち合わせていない兄の言葉に僕は疑問を持ったが、試しに兄と同じものを食べてみようかと考えた。そこで目に入ったのは、先ほどから甘い芳香を撒き散らす兄の口元だ。手元の綴りに目を落とす兄は研究モード時特有のストイックさを身に纏っているのに、口の中でキャンディを転がす度に動く唇だけが妙に卑猥だ。だから僕の声がいつもより低く、そして甘ったるい響きを含んでしまうのは、作為的なものでは断じてない。
「ね、さっきのチョコは、もう無いの?」
そろりそろりと近づきながら、恋人の表情を注意深く観察する。研究が終盤に差し掛かっているとはいえ中断できない状況が多々ある事は、僕も同じ研究者の立場として理解できるからだ。もし彼がこのまま思考の世界にいたいというのなら、邪魔をするつもりはなかったのだけれど・・・・。 兄は僕の『ソノ声』を聞いた瞬間パチパチと目を瞬かせると顔をあらぬ方へと向けてしまい、乱暴な仕草で首の後ろをゴシゴシ擦ったりなんかしている。何と分かりやすい意思表示かと、僕の唇は思わず笑みの形を作ってしまった。
「に い さ ん」
耳朶に唇を触れさせて呼びかけるのは、『お誘い』のサインだ。「NO」と言わないのは当然「YES」という事であるから、僕は遠慮なく恋人の手から無粋なレポートの綴りとペンを奪い華奢な顎を引き寄せた。
まずは唇の端から端までをじっくり舌で味わった。さっきまで食べていたチョコレートの濃厚な甘さを感じながら、まだ閉じたままの唇の上を行きつ戻りつし、時折啄ばむようにしてあげる。
「ん、確かにこのチョコレートは美味しいね。でもこの店のチョコって、一粒300センズはするでしょう?経費としてちゃんと会計課に申請しなくちゃいけないね」
わざと現実的な事を言いながらも、僕の手は的確に恋人の身体の要所要所を攻めている。もう何度身体を重ねたか分からないのに、いつまでたってもこの行為の始まりの雰囲気に慣れる事が出来ない恋人は、口を一文字に引き結び頬を真っ赤に染め、身体を固くして羞恥に耐えている。首筋に顔を埋めると、甘い香りがした。チョコレートやキャンディを摘まんだ手でそこに触れた所為だろうけれど、まるでこの人の内部から放たれる香りのように感じて、僕の気分はなお一層盛り上がった。
「いい匂い・・・」
既にボタンを外し終えていたシャツの内側に手のひらを入れ手際よくそれを剥いてしまうと、露わになった部分を余すところなく舌で舐め尽くす。甘い香りの中での行為。まるで兄が食べ物のようだ。
「ソレも・・・・どんな味?美味しい?」
項に手を添え上を向かせると自然に開く唇に舌を差し入れて中を探る。見つけた飴玉を舌先で転がすと、時折それが歯にあたってカチリと音をたてる。途中何度も甘い唾液を嚥下しながらそれを続けていたら、とうとう飴は兄の口の中で全て溶けてしまった。
「美味しいね。もっと食べる?」
ベタつく恋人の口の周りを舐めながら尋ねると「いらねぇ」と冷たく即答されたが、僕はコーヒーのトレイの上から先程自分が選んで持ってきたマシュマロの袋を取り上げた。片手で袋の端を持ち、少し行儀が悪いけれど歯を使ってパラフィン紙の包装を破いてマシュマロをひとつ咥えて取り出す。 それを「ん」と、口元に近づけると眉をひそめ頬を染めた兄が手で僕の顔を押し返してきたけれど、僕は強引に頬を掴んで口を開かせ、その大振りなマシュマロを兄の口の中へ押し入れた。
僕たち兄弟は、母の正しい教育と師匠の下で修業をした経験とから、決して食べ物を粗末にすることはしない。一度口に入れたものは、毒でもない限り必ず飲み込む習慣が骨の髄まで染み付いているのだ。(但し兄にとって牛乳だけは例外だが)だから当然兄は、その口いっぱいに入れられたマシュマロをモグモグと咀嚼し、時間をかけて飲み込もうと頑張っている・・・・こんな行為の最中にもかかわらず、だ。大きなマシュマロは簡単に口の中で溶けてはくれないらしい。僕はソファに凭れた状態でいた兄の身体をソファの上に押し上げるとその人のズボンのジッパーを引き下ろし、抵抗する間を与えず取り出した甘そうな兄の果実を口に含んだ。途端に頭上でくぐもった悲鳴のような批難の声が上がったけれど意に介さず、丹念に舌と指で愛撫を施す。
「ウ、ウウウ〜〜〜ッ!ん・・・・・ッンン〜〜〜ッ!ん、・・・・フ・・・・ウ」
可愛い声を上げながら、兄は渾身の力で僕の肩に両手を掛けて引き剥がそうと必死になっているようだった。やがて張りつめたものが吐き出した精を全て飲みこんだ僕が顔を上げると、両腕を顔の前で交差させて隠したまま固まっている恋人の姿があった。
「ゴメン、ちょっとペース早すぎたかな?大丈夫、兄さん?」
そう言って僕が伸ばした手を振り払うと、兄はソファの上で身体を丸めて両膝の間に顔を埋めてしまった。
「ええ・・・・と、怒ってるの・・・・・?ごめんね・・・?」
今度は頭を撫でる手が振り払われる事はなかったが、抗議の声が投げ返された。「ヘンタイ」・・・と。
「ちょっと・・・“変態”って・・・・・今のどこがどう変態的な行為だったっていうの?」
「何であんなイヤラシイ事すんだよッ!?」
「兄さんのを咥えてしゃぶって飲むくらいいつもして・・・・・」
「うわ〜〜〜ッうわ〜〜〜〜ッうわ〜〜〜〜ッ!!!!」
ガバリと凄い勢いで僕の頭にしがみつきながら掌で口を塞ぐと、その体勢のまま兄は説教口調で喚き散らした。
「いいかよく聞けコノ変態め!人間の三大欲求ってのはな、普通同時には満たせねぇモンなんだよ!!」
「んんん?」
口をふさがれている為に、今度は僕がくぐもった声を出した。
「何でかって?飯を食いながら眠れる奴がいるか?眠りながらセックス出来る奴がいるか?(お前なら出来るかも知れんが)その法則でいくと、食いながらセックスするのは無理って事!」
「んん〜、んーんんんんんんん〜んんんんっん〜」
「“また〜そんな適当な法則を作って〜”とか言ってんじゃねえ!俺がそうだっつったらそうなんだっつの!」
どうして「ん」の音とイントネーションだけで言っている事が分かるのだろう。エルリックテレパシーは未だ健在なのかと感心しつつ、僕は力ずくで兄の手を自分の口から引き剥がした。
「でも、今ちゃんとできたでしょ?兄さんマシュマロ食べながらイッたでしょ・・・痛ッ!!」
ゲンコツで頭を殴られるのなんて何年ぶりのことだろうか。兄は固めた拳もそのままにハァハァと肩で息をして、ただでさえ真っ赤な顔をさらに赤くしながら再度喚き散らした。
「この破廉恥野郎!!身体構造的には可能だとしても、人間には羞恥心という高尚なブレーキがあるんだよ!もっと人としての尊厳を持て!それだからお前はいつまでたっても獣並みなんだ変態ッ!!!」
破廉恥野郎。獣並み。変態。酷い言われようだけれど、この程度のことで僕の心に波風など立つわけがない。ただあまりにも必死な兄の様子が可愛くて、つい悪戯心が芽生えてしまっただけだ。
「な・・・・・な、ンだ・・よ・・・・!?」
ずい、と身を乗り出した僕に怯えたような声を出した兄だったが、ソファの背もたれに阻まれて逃げる事も叶わずいとも簡単に囚われの身となってしまった。膝のあたりに絡まっていたボトムと下着を抜き取ってしまうと、一糸纏わぬ姿の御馳走が僕の欲を刺激する。
「ねえ?アナタはそう言うけどさ、食欲と性欲はとても近い所にあるものだと僕は思うよ。特に男の場合、捕食と生殖の行為は本質的にそう変わらない・・・・・・・そうは思わない?」
兄が(感じすぎるからという理由で)嫌がるアノ声で囁きながら甘い香りのする首筋に舌を這わせ、裸の膝裏に手を掛けて割り広げると、僕はそこに身を滑り込ませぴったりと身体を密着させた。ふるり、と恋人が身を震わせたのは、僕のいつになく張りつめた熱源を肌で感じたからだろう。
「お前・・・・今日、ヘン。本能全開すぎ・・・・ッうあ・・・前、ヤッてからそんな経ってねぇじゃん。なんでそんなサカってんだよ?」
「こっちのセリフだね。あなたこそ、何でそんなに僕の食欲をそそるのかな?美味しそう・・・全部食べてあげる・・・・・」
「イア・・・・・・ッハァ・・・・うあ、止め・・・・・・・・ふ・・・・・」
手加減一切なしの愛撫は、敏感な身体を持つ兄には少々手荒だったかもしれない。けれど、いつも羞恥と快楽の挟間で喘ぐその人を早く恍惚の境地へと導いてあげたかったのだ。
僕を身の内に受け入れた恋人は、その僕の下で時折身体を震わせながら陶然とした表情で、なすすべもなくただ短い息を繰り返す。絶頂の手前で動きを止めてしまった僕に初めのうちこそ非難と安堵が入り混じった目を向けていたけれど、身の内で怒張が脈打つだけで耐えがたい快感を覚えてしまうらしく、絶えず首を振っては悲鳴を噛み殺している。 恋人の両脇に肘をついて片手で引き寄せたのは、チョコレートの箱だ。深紅の艶やかなリボンを解き箱を開け、みなそれぞれ形の違うものの中から何のトッピングもないシンプルなチョコレートをひとつ選んで半分齧る。
「ん・・・・甘・・・・・・兄さん・・・・口開けて?はい・・・・あーん?」
「ハ・・・・・ハフッ・・・・・・な・・・・・・・何言って・・・・く・・・・ウアアアーッ」
まだ理性が残っていたらしい恋人を数回荒々しい動きで突いてあげると、堪らず背を反らして嬌声を上げた。すかざずその口に半分になったチョコレートを入れる。
「ん、な・・・・に・・・・・」
「食べて。溶かして、飲みこんで・・・・ちゃんと、全部。こっちも・・・・ほら・・・っ」
意味深なセリフを耳元で囁きながらわざとゆるゆると腰を動かすと、美しい恋人は羞恥の為か全身をさらに紅く染め上げた。少し意地悪が過ぎたかと思ったものの制御が利かず立て続けに揺すり上げながら、僕はその後恋人が果てるまでさらに羞恥を煽り立てるようなセリフを繰り返してしまったのだった。
「変態」
「はい、その通りです」
「ケダモノ」
「はい、重々自覚しております」
「エロホンス大魔王」
「はい、威厳に満ちたネーミングにこの上ない喜びを感じます」
「威厳なんてあってたまるかコンニャロウ!!」
「えへw」
いつもの如く、行為後ふたりそろってバスタブで身体を伸ばしている僕と兄。当然のことながら、兄の口から零れ出るのは罵詈雑言の類のみだった。
「お前の趣味、ちょっとおかしくね?それともオトコって割と皆そんなモンなワケ?」
「同じ男性として、兄さんはどうなの?今日の僕みたいな行動に走ったり、そんな衝動に駆られたりした経験はない?」
「んな訳あるかッ!最中に飯食ってくれとか懇願したことなんかねえし、したいとも思わねぇな!」
「ああ!いいかもね?ローストビーフなんかを頬張って恥ずかしがりながら悶える兄さんとか、想像すると興奮して眠れなくなっちゃいそうだなぁ」
「おわ〜〜〜っ!?よせよお前!何のマニアだソレ!?」
本気で嫌悪を感じたらしい兄が慌ててバスタブから逃げ出そうとするのを、後ろから捕まえて再び腕の中に抱きかかえた。この兄の様子では、今後さっきのような趣向を楽しむことは望めそうにない。実に残念だ。
「だって、食べてる姿ってある意味とてもエロティックだと思わない?」
「今日から別々に飯食うか」
「大丈夫。例えあなたの食事をする姿がどんなにエロくても、テーブルで襲いかかったりなんかしないから」
「テメェの性欲が向こう10年は減退するような飯の食い方してやる」
「わあ、それは楽しみだな」
そんな他愛無い軽口の応酬をしながら、僕は考えていた。
兄の『食べる』という動作に僕がこれほど反応してしまうのは、視覚的にエロティシズムを感じるという事だけではなく・・・・・・。
食べて、食べられることによってひとつになりたい
「あなたとどこまで一体になれるのか・・・・詰まる所僕が考えている事なんて、ただそれだけなんだよ、兄さん」
ひとりごとのようにぽつりとそう零した僕の胸に背を預けた恋人は、それについて何も答えを返してはこなかったけれど、代わりに僕の唇の端にキスをくれた。「俺もだよ」とでも言うように。
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