以下の文章は、写真集「デスバレー」の解説文から引用しています。興味のある方は是非写真集をご覧ください。


過酷な世界

 デスバレー(死の谷)という名前は1849年、ゴールドラッシュのさなかにカリフォルニアに向かっていた移民の一行が近道をしようとしてこの谷に迷い込んだ結果、メンバーのうち数人が飢餓と水不足のために命を落としてしまった事故に由来している。そのデスバレーの特殊な自然環境は以下のデータから読み取ることができる。

最高気温:56.7℃(1913年7月10日)
最低気温:−9.4℃(1913年1月8日)
年間最小降水記録:降水なし(1929年、1953年)
年間最大降水記録:11.7cm(1941年)
最下地点:−86m(Badwater)
最高地点:3,368m(Telescope Peak)

砂漠の特徴である暑さと乾燥はデスバレーにおいても顕著である。デスバレーの最高気温である56.7℃を超える気温はかつて一度だけリビアにて記録されている。しかし夏季の平均気温について見るとデスバレーが最も高い。2001年度のギネスブックでは43日間連続で華氏120度(摂氏約50℃)を超えた世界でもっとも暑い場所として紹介されている。参考までに上記の気温と降水量は測定設備のあるFurnace Creekでのデータである。

 デスバレーの特殊な自然環境が作り出す風景は不思議な美しさを伴っている。一面を覆う色のない世界、乾燥した砂丘、冥王星を連想させるような荒涼とした岩山などはデスバレーを象徴する光景である。一方では、その名前に反して、サボテンをはじめとして意外に多くの生命が存在する。中心部を離れて周囲の山岳地帯に入っていくと多くの動植物が生息している。美しく過酷な世界と、そこで生息している動植物のハーモニーがデスバレーの最大の魅力である。


デスバレーの歴史
 “Goodbye, Death Valley”。1849年、ゴールドラッシュのさなかにカリフォルニアを目指していた移民の一人がこの場所を去るときに残した言葉であり、デスバレーの名前の由来とされている。彼らは当初、安全な迂回ルートを進んでいたが、近道をするためにこの地域の横断を試みるという過ちを犯したのである。その結果、数名が飢餓と水不足のために命を落とすことになった。その事故については多くの記録があるが文献によって細部が異なる傾向にある。以下は文末に示すいくつかの資料からまとめた概略であるが厳密な記述ではない。物語として読んでいただければと思う。

Goodbye Death Valley
 1849年、カリフォルニアのサッターズミル という場所で金鉱が発見された。全米各地の人々が所持品を荷馬車に積み込み、一攫千金と豊かな新生活を求めて西部を目指して移動し始めた。その数は80,000人以上と言われているが、カリフォルニアへの大移動の多くは1849年に始まったので彼らは一般に49年組(Forty Niners)と呼ばれた。開拓者たちの多くはユタ州のソルトレークシティでカリフォルニアへの長旅の準備を整えた後、グレートベースン の砂漠を横断し、シエラ山脈を越えていった。彼らにとって重要なことは、シエラ山脈に雪が降る前にソルトレークシティを出発し、砂漠を越えることだった。そのわずか数年前には、開拓者たちがソルトレークシティを遅れて出発したために嵐にみまわれて悲惨な事故を引き起こしたばかりだった。1849年秋、ある荷馬車の一団がソルトレークシティに到着したころ、その事故のことはまだ人々の記憶に新しかった。山脈を安全に越えるには時期的にかなり遅かったので彼らは冬の間ソルトレークシティでの足止めを余儀なくされると思われた。しかし、そこで彼らはシエラ山脈の南端を迂回する、冬でも安全な古いルート(Old Spanish Trailと呼ばれた)があるという情報を得た。それは、いったんロサンゼルスまで南下し、そこから北上して北カリフォルニアにあるサッターズミルを目指すというルートだった。しかし、そのルートを荷馬車が通ったことはかつてなく、彼らを案内するガイドは一人しか見つからなかった。

その男、ジェファーソン・ハントは荷馬車1台につき10ドルという条件でガイドを引き受けた。彼は、約200人の人々と110台の荷馬車、そしてそれを牽く500頭の牛を引き連れ、1日10マイルのペースで南へ進んだ。この遅いペースは一番遅い荷馬車に合わせた結果であったがグループ内の短気な連中をいらだたせることになった。彼らの間にはもっと西よりのルートがあるらしいという情報が流れはじめた。
問題の発端は途中から一行に加わった別のグループのリーダーであるウェズリー・スミスが西よりのルートを示す地図を作成したことから始まった。その地図によると、500マイルの近道が可能であると思われた。ハントは当初の計画通りのルートをとることを主張したが多くのメンバーは最初に計画したルートよりも数週間早く目的地に到着できると信じて別行動をとり始めた。約100台の荷馬車の一行がスミスに従い、西方向の近道を進み始める一方で、ハントとともに当初のルートを南下し続けたのはわずか10台ほどだった。ハントは別行動をとろうとするメンバーに警告した。“スミスについて行きたいのであれば私には止めることはできないがそれは地獄へ向かうことを意味するだろう。”
 スミスの一行はハイペースで西へのルートを進んでいったがハントの予告が事実であることを証明するのにそれほど時間はかからなかった。彼らは険しい絶壁に面してたびたび立ち往生するはめになった。スミス自身を含む何人かのメンバーはハントを追いかけて引き返して行った。その後、移民たちはいくつかのグループに分かれてそれぞれ別のルートを進むことになったといわれている。しかし、それらのグループの運命はミステリーのままであり、今日でも歴史上未解決の問題とされている。

 いくつかのグループがハントを追って引き返していく一方で、西へのルートととり続けたグループがあった。ジェイホーカーズ と自称するイリノイ出身の30人の若者たち、そして両親と子供からなる複数の家族である。彼らはお互いほとんどかかわりあうことなく旅を続けた。
ネバダ州に入り不毛地帯が延々と続く盆地にさしかかると彼らの楽観的な考えは砂漠の空気とともに蒸発していった。時間が経過し食料と水が欠乏し始めた。際限のない山越えが繰り返されると、移民の一行は再び分裂しはじめた。まずジェイホーカーズの男たちが足手まといになる子供連れの一家を見捨てて別行動をとった。彼らがグループを離れ、ばらばらになって北上するルートを進む一方で、ソルトレークで彼らに荷馬車のドライバーとして雇われていた二人の男、ジョン・ロジャースとウィリアム・ルイス・マンリーはおいていかれた家族たちと行動を共にする決心をしていた。

 そのうち彼らは1849年のクリスマス近くになってデスバレーに入り込んだ。一行はデスバレーの西側に立ちはだかるパナミント山脈を越えることを試みたが、それに失敗した後、ファーニス・クリーク の近くでキャンプを張っていた。彼らはすでに危機的な状況に陥っており、燃料を得るために荷馬車を壊し、連れていた牛を食料にするために殺さなければならなかった。その間マンリーは谷から抜け出すルートを求めて北と西の方向を探索したが、脱出するための唯一の可能性は南下することだという結論に達した。議論の末、一行はマンリーとロジャースの二人に南西方向の脱出ルートの探索を託すことにし、残りのメンバーはそこにとどまって救出を待つという方針が決まった。情況から考えて時間的猶予はなく、2人は15日以内にもどってくることを申し合わせていた。残された4人の子供を含む2つの家族にできることはそこで待つことであったが、長期間そこにとどまることは死を意味していた。

 2人の男はロサンゼルスへの道を探るためにパナミント山脈を越えるべく南西を目指して歩き始めた。彼らはロサンゼルスへの道のりは歩いて数日間と予測していたが、実際には200マイル以上あるということを知る由はなかった。結果的に彼らはロサンゼルスへの道程に2週間を費やした。彼らはロサンゼルスの北のサン・フェルナンドにたどり着くと、デスバレーに引き返すために必要な水と馬を手に入れた。彼らは疲れ果てていたが谷に残された人たちの命は2人の迅速な帰還にかかっていたので休んでいる暇はなかった。

 デスバレーに残った一行はマンリーとロジャースが15日以内に戻ってくるという申し合わせに基づいて谷にとどまっていたが、何人かは待ちきれずに自ら脱出のルートを求めて歩き出していた。しかし、途中で力尽きた彼らの遺体はマンリーとロジャースが谷に戻ってきたときに発見された。最後に残された一行は申し合わせどおりデスバレーにとどまっていたが、2人の男が出発してから25日間が経過したとき再び歩きはじめることを決心した。

彼らが残り少ない食料を集めて出発の準備を整えたとき、静かな谷に一発の銃声が響き渡った。ロジャースとマンリーがもどってきたことを知らせるために空へ向けて発砲したのだった。2人はロサンゼルスの手前30マイルまで到達し、必要な食料と水を準備して戻ってきたのである。一行は次の日を休息にあてたあと、パナミント山脈を越えるための最後の旅に出発した。2日後、彼らは山脈の最高部に到達し、彼らの1ヶ月間の投獄地となった谷を振り返った。”Goodbye, Death Valley”、メンバーの一人がそのとき口にした言葉がその谷の名前として今日まで用いられることとなった。

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以上が概略であるが冒頭でも述べたように正確な記述ではない。資料によって細部が異なる傾向にある。マンリーとロジャースがロサンゼルスを目指している間、デスバレーに残ったメンバーのうち何人かが命を落としていたとされているがその人数は文献によってまちまちである。資料によっては、弱った人を殺して食べたと書いてあるものもある。

参考文献
(1) Paul Withers, Putting the “Death” in Death Valley.
(2) Steven L. Walker & Dorothy K. Hilburn, Death Valley, A Scenic Wonderland.
(3) Christopher Smith, Group retraces trail of lost gold seekers.


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デスバレーの魅力