好評連載

株式歴35年
改名北浜さんの
 華麗なる過去



我が華麗なる過去?7

我が華麗なる過去?8

我が華麗なる過去?9
      
我が華麗なる過去?10

我が華麗なる過去?6♪


大きな鉄砲商いを無事に受け渡しをすませ、ほっと一息。一世一代と言う大博打に成功し,自分ながら運の強さにあきれたものです。大取引をすませた三日後くらいに,売りを頼んだ店の社長さんと外交さんが,わざわざ我が家まで挨拶に来てくれました。直径40センチくらいもある竹籠に、松茸を山盛り入れたやつを持って。そして社長さんの曰く。

 「一日の商いとしては、うちの会社が始まって以来の大商いでした。あんたは年の若いのに似合わぬ大胆な事をするお人や、大手四社を向こうに回して,きりきり舞をさせよったわ、と、北浜界隈では、えらい評判でっせ」ってなことを言われて、まるで、大相場師にでもなったような気持ちでしたが、もし、これが,反対に失敗していたら、いい物笑いの種にされていただろうな、と思うと手放しで喜んでいる場合かと自戒するのでした。

 当時の地場店では、一ヵ月の商いが100万株〜150万株くらいのものだったらしく、そこへ、一日に50万株もの大商いをしたものですから、社長さんがびっくりしたのも当然だった思います。後で,その店へ遊びに行ったら社員さんの態度が、まるで大スターに接するような感じで,何だかこそばゆいような,面映いような、けったいな気持ちでした。

 しかし、このうわさが神戸の方にも伝わって来て、私の使っている店にも知れる事となり、そのうわさの主が私だと分かった時、思わぬ事なって来ました。その店の幹部連中が、この事で私に対する態度を硬化させてしまったのです。大和ハウスの引かれ玉の担保はかなり前から不足していたのですが、その都度店が面倒を見てくれていたのです、しかし,私が危険な鉄砲商いで、資金を作っていたのが分かってしまうと、この客は危ない、鉄砲商いに失敗したら,自分達が面倒見ている建て玉も危ないと、急に警戒し出して、とにかくいくらかでも買い戻して、荷を軽くしてくれと、言い出したのです。

 まぁ、店の方から見れば、これは当たり前の話で、最終的には相場が下がって買い戻すか,どこかで損切りするかで、決着を付けねばならんのですから、いつまでも面倒を見る訳にもいかん話で,その相手がとんでもない商いをして、もがいているのを知った現在、足元の明るい内に処理しようと思うのは当然の事でありましょう。

 さぁ、いよいよ土壇場に追い込まれて仕舞いました。もう待ったなしです。自分で最終処理の決断の時がやって来ました。例え、いくらかでも買い戻せば,必ずなにがしかの損失が出ます、損失は新たな担保不足へと繋がって,その処理のためには、また、いくらかの買戻しをしなければなりません。結局は,全部の建て玉を買い戻すより方法はありません。

 今,全部の建て玉を買い戻したら、一体どの位の損失になるだろう、おそらくは担保の金はすべて無くなるでしょう、店がどのくらい担保の補てんをしてくれているのか,その額によっては,私の金が無くなるのは当たり前ですが,マイナスになってしまう事になるかも分かりません。おそらくはそうなるでしょう。でも、けじめはつけなければ・・・。

 一昨年の秋、この店の社員さんが、外出先から不動産の権利書を持って帰って来た事がありました。偶然、私が店にいたので、その時の話を聞いたのですが、どこかの公務員さんが、やはりこの店で大損して足を出し、結局家を売る羽目になってしまったと言う事で、その時は、将来自分の身に,こんな事が起きるなんてことは、夢にも思わなかったので、「アホな奴やな〜、なんぼ好きや言うても、そこまでやるか」なんて批判したものですが、私が,そのアホな奴になってしまったのです。人様の事,悪う批判するもんやおまへんな。

 ここで,買戻しの様子を、ことこまかに書きたい所ですが、思い出を手繰って行くうちに、当時の苦しみが昨日のように思い出されて、今週は週初めから気持ちが重くてやりきれないので,何とかさらっと書かせてもらうことにしました。 スミマセン。

 店に尻を叩かれ,ようやく重い腰を上げて最終処理を行いましたが。34才にして我が人生の半分(今68才ですから)を掛けて築いてきた本業も,相場で儲けた一生食いっぱぐれのないような、当時の約8000万円の金も、夢幻泡影、うたかたの夢と消えたのであります。時にS42年11月のことでありました。

 突然で、あまりのことに愛想をつかした妻は、子供を連れて実家へ帰ってしまいました。妻にはこんなに大変な事になっているのに,一言も言っていなかったので、晴天の霹靂だったことでしょう。妻の怒りは当然の事であり私に弁解の余地はありません。只,ひたすらに詫びるのみでありました。

 すべてを失った私は元の木阿弥、しばらくは呆然自失、何も手に付かず只いたずらに日を過ごすのみでした。一体何でこんな事になってしまったのだろう。春先から強気一方で、みんなにも相場は大きくなるぜ、景気は良くなるぜ、年が明けたら相場は全体に上げ相場や、なんて、弱気を吐く連中にハッパをかけていた私が、大和ハウスの大相場を当てていた私が、その大和ハウスの空売りでやられるなんて、いくら考えてもこんなバカな話はない、この世には、自分の意思以外の働きをする何かがあるのでは、と、考えるようになりました。運命。運命とは何か。34才の今日まで、自分がやろうと思うことは必ず実現して来ました。なのに、株式市場は自分の予想通りになっているのに、現実は正反対になって、今ここに無一文の自分が居る。運命とは一体何であろうか・・・。

 去る,S二十五年秋、「男子、志を立て郷関を出ず、学もし成るなくんば、死すとも帰らず」な〜んちゃって、大層な気迫で大望を抱いて、この神戸の地にやって来たのでありました。つるべ落としの秋の陽が落ち、暮れなずむ三宮駅頭に降り立った私の目に飛び込んで来たのは、浜側の真正面にあったキャバレー富士桜のネオンでありました。都会の華やかさに憧れていた私は、ブルーに輝くネオンサインの光に都会の雰囲気を一気に味わったものでした。あれから十七年,様々な職業を経験し,何とか成功者の仲間入りを果たしたか,に見えた矢先のこの有様。やはり,自分の力では抗しきれない、運命と言うものがあるのかと、しみじみを思うのでありました。

 そして、それならそれで、今度は運命とやらを探求する道を学んでやろうではないかと思い、本屋さんでそれらしい本を探し回り、見付けたのが気学,方位学と言う本でした。気学とは、木火土金水、これを五行と言いますが、この五行と、一白から九紫までの、各人の生年月日から割り出した星回りを組み合わせて、その人の運命を占うと言う,一種の統計学ですが、しばらくは、一生懸命にこの法則を憶えました。そして、もう一つの方位学とは、東西南北と四隅の八方位の吉凶を知る学問で、これもしばらくの間に商売人顔負けくらいの知識を得ました。

 そこで、先ず第一に将来の自分の運命が良くなる方位へ移転しました。そこは、三畳一間のアパートでしたが。これは、住んで見て非常に便利の良い部屋でした。何故かと言えば、部屋の真中に居て何にでも手が届くのです。横着者には持って来いの部屋でした・・・がこれは強がり、今まで沢山の従業員を使って商売をしていた大将が、何と言う惨めな有様か、だが、いつまでも悔やんでいても仕方がありません。ここは一つ「行く末は、大海となる水なれど,しばし岩間の、下くぐるなり」だ。そうだ、若い時の苦労は,買ってでもせよ。と、よく母親が聞かせてくれたものだ。よっしゃ、私は幸いにまだ若い、この部屋が私の人生の第ニのスタートだ、と自分を慰め励ましたのでした。

 しばらくは、自我の考えから放れて自然のままに、つまり今までのように、こうしなければダメだとか、ああしなければいけない、と自分を常識で縛るような行き方は止めて、気の向くままに生活して見ようと思い、気ままに、まぁ,今までも多分にそう言う傾向はありましたが,商売の関係や,人間関係によっては,どうしても自分の気に染まない事でも、従わなければならない事もありましたから・・・。これからは自分一人で当分生きて行けるので,色々と実験するのに都合がいいわいと、気ままに生きることにしました。

 相場の方は、私と言う錘りが取れたせいか、この年の12月11日の1250.14を安値に、1989年(平成元年)12月29日の38.915.87まで延々と実に22年間の上昇相場に入って行ったのでありました。

 人間の運命というものは、ちょっとした事が原因で大きく変わるものですが、何気なく入ったタイル屋の店先で拾ったチラシに、手をかざすだけで病気が治る、とか、神とは何か、なんて書いてあったものですから、もともと無神論者の私は、神には興味はありませんでしたが、閑な時期だったので会場へ行って見ることにしました。世界〇〇××教団の主宰でしたが沢山の老若男女で会場は溢れていました。

 やがて、演壇の何とか長さんが、おごそかに「のりと」のような言葉をのたまい、座っている人の一列おきの後ろの人は、前の人の背中に右手をかざして下さいと言うので、私は手をかざす方でしたから、言われた通りに手かざしをやりました。しばらくするとあちこちで、ウーとか、アーとか、唸り声がし始めました。私の前の老人も、ぐらぐらと揺れ始めました。そして、あぁ、手が動くと言い出したのです。係りの美人の人、この時私には、この女性が天女の様に美しく見えたのでしたが、その人が「どうしました」とたずねると、何とその老人は、今まで動かなかった腕が動く、と感動的な声を上げるのです。

 ほんまかいな,私は半信半疑でしたが、そのおっさんは,演壇の何とか長さんに向かって手を合わせるのでした。とその時、教団の幹部らしい人が私を立ち上がらせ、この人は、普通の人のように見えますが、かなりの霊能力の持ち主です。普通の人よりも強烈な霊力を持っていらっしゃる、誰か他に体の悪い人は居ませんか、と場内の人に問い掛けるのです。やがて、場内がざわめき出して、あちこちで、先生私も,私もと手を上げるのです。私は、これはえらいことですよ、となかば逃げ腰になっていましたが、教団の人たちは、スター誕生とばかりに、逃げ出すどころか、とうとう演壇まで連れて行かれてしまったのでした。

 会場の目はいっせいに私に注がれます。なんてえこった。思わぬ展開に、しばらくは戸惑っていました。なにしろ大衆を前に演壇に立つなんてことは,中学生時代に,学芸会で「コーネリアの宝石」という話を英語でやった時以来の事でしたので、戸惑うのも無理はありませんでした。

 やがて壇上に体が悪いと言う人が、2〜3人上がって来ました、教団の人は私の首に何かネックレスのような物を着けさせ、これは、神の力を受けるための大切な物です、これを着けると、今まで以上の能力がでます、と言うのです。最初の人は,最近目が見えなくなって来たと言う人でした。係りの人が,貴方の右手の親指の先で、彼女の黒目の所を指差して下さいと言うので,言われるままにそうすると、しばらくして彼女は目が熱くなって来たと言い出しました。ハイ、それまで。係りの人がどうですか見えますか、と行った途端に、見えます、見えます。といって泣き出すのです、おいおい、ほんまかいな、この人さくらと違うんかいな。私はあっけにとられていました、場内のどよめきも耳に入らず・・・。そりゃ〜無理も無いことですよ。こんな世界は初めての体験ですからね。

 そんな事があって、私もその教団に入る事になったのですが、相場師の夢破れた私の行く手に、早や次なる運命が待ち構えているのでした。今度は上向きの運命になって来たのです,早や方位学に従って吉方位への移転の効果が出て来たのでしょうか?。人間落ちる所まで落ちれば、相場と一緒で好転する人生が待っていたのです。

 次ぎからは、気楽な一人旅のさまざまな追憶をお伝えしたいと思います。相場からは、しばらく遠ざかりますが、今まで通りのご愛読を・・・。

 アメリカ大統領選挙の行方も、来週中は混沌としている事でしょう。その間日米の株式相場もふらふらする事でしょう。登り下りの銘柄をしっかりと把握して沢山儲けて下さいませ。

 皆さんが御幸運の保持者でありますように。




我が華麗なる過去?7♪

世界〇〇××教団へ、5000円の入会金を支払い、三日間の研修を受けて道場とやらで早速の訓練。荘厳な神殿の前で,沢山の人と一緒に拝礼して、訓練に入るのですが,もともとが,仏ほっとけ、神かまうな、の無神論者の私が、なんでいつまでもこんな事に我慢が出来ましょうや、最初っから,神にすがる気もなく、ただ,不思議現象に興味があって、なんとか,その原因を探りたいのが本心でしたから、三ヶ月くらいまでは辛抱しましたが,不思議現象についても私なりに解明出来、(ここでは差し障りがあるので言えませんが)そんな訳で三ヶ月目で,脱会。得たものは、新しい友人二人でした。

 結局、私と彼と彼女の三人で、脱会し,今度は又、性懲りもなく「〇道」なる、これは仏教関係の新興宗教団体でしたが、そこへ,入信。ここは砂文字と言って、目をつむった天才と称する少年,又は少女が、両手で持った自動車のハンドルのような丸いわっぱの先に付いた棒で、実に巧みに砂の上に文字を書くのです。いわゆる見えない世界の諸仏からの通信だと言うことでしたが、この砂文字で書かれた言葉が又すばらしい教え?なのです。さまざまな教えを、砂をはじき飛ばして書く様は、実に不思議な光景であり,しばらくは幻惑されてしまいました。しかし,ここでも親しくなった天才役の少女の一言で、はい,左様なら。

 この天才役の言った言葉は、「大人の人ってアホやな、あんな砂文字を信用するなんて」だったのです。その裏話をいくら聞こうと思っても、それ以上は絶対に言いませんでしたね。あれから三十年も過ぎた今でも、やっぱりニヤニヤ笑っているだけで、答えくれませんね。おそらく、死後の世界までも影響するような,誓約をさせられているのではないのでしょうか、まぁこれは私の推測ですが。

ここでも、一人の友人が出来ましたが、彼とのその後が面白い事になったのです。
まぁ,彼との事は後回しにして,もとの三人の話しに戻しましょう。結局,神とは無縁の三人組みが、食って行く為の方法を考える事になりました。彼,仮にAさんとしておきましょう,Aさんは、もとは商事会社(穀物相場)の外務員でしたので,相場の話しをするのは持って来いの相手でしたが、彼の凄い所は,その話術でした、私も人には負けない位の話し上手だと自負しておりましたが。完全に脱帽。どこえ行っても必ず相手を説得して来るのです。真面目でさえあれば素晴らしいセールスマンなのに,Aさんには少し金銭面で,ルーズな所があり,これが,Aさんの人生を駄目にしていたようです。

まぁ彼の欠点はさておき、彼が健康器具の販売をやろうと言い出し、特約店と交渉して我々三人に委託販売をOKしてくれたのです。金は売れてからで良い、自動車は使わせて上げる。注文さえとって来れば,品物はいくらでも出す。まぁなんとも好条件ではあ〜りませんか。我々三人は,社長の所へ挨拶に行きましたが、私はAさんの性格に気づいていたので、Aさんに使われる立場だと自己紹介しておきました。が、これが,後に幸いしたのです。

相場師変じて、健康器具のセールスマンです。笑うセールスマンではなく,笑われるセールスマンです。私を知る人は,又なんでそこまで落ちないかんのかと、同情してくれましたが、何せ、一文なしでは相場の種銭どころか、食って行くのにどうしようかと思う有様、
 元の同業者に頼めば, 生活するくらいの給料はくれるのですが、男一匹,なんで彼等の軍門に下れるものか、石に噛り付いてでも初志を貫徹してやるぞってなことを思って恥をしのんだものです。私がもっと世事に長けていたならば,そして,少し悪るであったならば金の五百万や一千万くらいは,どこえでも隠せたのですが,あまりにも綺麗に出すぎて,と言うよりもバカだったんですね。すってんてんにしてしまったので,仕方ないですね。
でも,お蔭で心にやましい所はなく,晴れやかなものでした。(やっぱりアホや)

ところでAさんのアイデアは,素晴らしく、物品販売なんて今までした事もない私などは,およそ考えつかない事ばかりで、本当に彼には色々と教えられるところが多かった事です。
その器具は、ベルトマッサージャー、と言って幅の広いベルトを腰にまわし前方に取り付けられたモーターの回転でベルトが振動して腰をマッサージするのですが、まぁ使ってみると気持ちのよいもので,ご婦人方の,ダイエット用に割合人気がよかったのですが、彼の提案は,先ずゴルフ場で売るということでした。

彼曰く、ゴルフに来る人に貧乏人はいない,たかが45.000円くらいの品物だったら,気に入れば、誰にでも買える金額だよ。なるほどそう言う考え方もあるな〜っと感心したものでした。実際にあちこちのゴルフ場で売って見ると、結構売れるのです。しかし,肝心のゴルフ場が,そう簡単には売らしてはくれないので、その件では苦労しましたが、Aさんが交渉すると実に簡単にOKしてくれるのでした。Aさんはやっぱ天才でしたね。お蔭で,なんとか利益もあり結構なしばらくが続いたのでしたが,同じ所でそうそう売れるはずもなく、新しい売り場を模索せねばならぬ事になりました。

今度の彼の提案は、牛や豚を殺す屠殺場だというのです。あんな所で売れるかというと肉屋さんは金を持っているから絶対に売れるというのです。ほんじや行って見ようかと言う事になり,先ず,神戸市内の屠殺場にいきました。なんとこれが、お肉屋さんに好評で結構売れるのです。この頃になると,私もいっぱしのセールストークを憶え、この器具の性能や,体に及ぼす効果など、面白可笑しく説明するものですから、「にいちゃん、うまいこというやないか、ちょっとまけとけや」なんて値切られながら,それでもかなり売ったものです。

やがて,次ぎの売り場は、今度はもっと大きな屠殺場を探そうと言う事になり、少し遠方だが大阪府下の松原と言う所に大きな屠殺場があるからと、そこへ行く事になりました。特約店の社長さんは、もう、われわれに対して絶対の信用で,社員のセールスさん達に,「お前達どこえ行って商売してるのか、Aさん,Bさん、(これ私)Cさんたちを見てみろ、ばりばり売って来るではないか、少しは見習え」なんてハッパを掛ける始末、まぁいつまでもこんな調子が続けば良いのですが、Aさんは一発勝負を考えていたらしく、これはあとでわかった事ですが、なんとも大変な事になってしまったのです。

ここで、まだ紹介していないCさんのことですが、勿論三人組の内の一人、彼女のことです。私が、初めて世界〇〇××教団の説明会で天女の様に美しい人だ、と言っていた彼女の事です。その後Aさんと私の話に賛同し、行動を共にするようになったのですが,彼女は同教団の上級信者だったので、脱会することになった時は,多少の抵抗はあったようですが、我々二人の説得で決心がついたようです、その後、彼女には二人共随分とお世話になったものです。といっても,男女の関係はありませんでしたから、念の為。

勿論美しい人でしたから,私も無関心ではありませんでしたが、大望ある身で色事などと自戒していたものですから、彼女には悪いことしたようにも思います。えっ,何ですって,そうです、彼女は,私に惹かれて教団を出たのですから…。これ、のろけとちがいまっせ、ほんとの話。私には変に潔白な所があって,相手の気持ちをもてあそぶ事になる,素人さんとは常に一線を隔しておりましたから。その代わり相手が商売人さんであればご遠慮などは致しませんでしたが。お蔭でいまでも友人関係で付き合わせて頂いております。歳月は残酷なもので,当時あれほど美しかった彼女も,ご多分にもれず今はしわくちゃになっておりますが…。

さて、大変な事の顛末をお話しましょう。
前出の大阪松原の屠殺場へ行ったのですが、やはり大阪は規模が違います,場内の広さも勿論ですが,屠殺される牛、豚の数が違います。丁度私等が行った時にトラックに積まれた豚が沢山入って来ました。やがて、トラックの荷台がダンプカーの様に上がり出すと、コンクリートで作られた池の中へ、ボチャンボチャンと落ちて行くのです。ブーブー
ギャーギャーと泣き喚いていた声が静かになると,係りの人が早や物体と化した豚を引き上げ、即、解体です。その手際の良い事、初めて見る私には凄惨極まりない現場が,係りの人には,日常の事なんですね。まぁ、いろいろな人生があるものです。

私が、そんな現場に度肝を抜かれている間に、Aさんは、とっくに商談をまとめているのでした。そして、今日はよう売れたで、29台売ったでと言うのですから、ほんま、びっくりしたのでした。29台もよう売れたなというと,ここは,さすがに違うは,みんな気前が良い人ばかりやというのです。明日トラックで、買ってもらった人の家まで配達やと上機嫌です。それで、なんぼで売ったんやというと、何と、28.000で売ったというのです。原価が27.000だから、1台当り1.000円しか利益がありません。29台で29.000円の利益です、「Aさん、そりゃ,あんまりやで,売りっぱなしという訳にもいかんし,アフターサービスもせないかんし」と言うとAさんは、「俺に考えがあるから任しとき」と言うので彼のことだから又何かよいアイデアでもあるのだな,と私も納得したのでしたが。

帰って、社長さんに今日の結果を報告すると、「あんた達、どないしたらそんなに売れるんかいな」と目を白黒、でも、翌日早朝までにはチャンと品物を揃えていてくれました。その日は,夜遅くまでかかって配達を済ませ,集金も全部キャッシュでくれたので,さすがは,お肉屋さんは,金持ちだなと感心したものです。

所で問題はこれからです。Aさんは、その売上の一割を会社に入金して、あとは三ヶ月の手形で支払ったと言うのです。結局お客さんに三ヶ月の月賦で売ったと言う事にしたらしいのです。手形の名義はAさん個人の名義にしているから,あんた達には迷惑はかけないよ,と言うのですが、なんとも困った事をしてくれたもんだと思ってみても、後の祭り。

社長さんは,一応反対はしたらしいのですが,彼一流の話術にかなうはずもなく、しぶしぶOKしたと言う事でした。私は,最初に彼の使用人の立場だと挨拶をしてあったので、後日何かあったとしても,責任はないのですが,三ヶ月どころか,来月の月末にはどうなるのか予想出来るので、なんとも言い様にない気持ちでした。Aさんはそんな事どこ吹く風というような顔で,久しぶりに手にした、70万あまりの金に,顔も緩みっぱなし。

そして、今度はちょっと用事があるので,山陰の松江まで行ってくれないかと頼むので,又,何か企んでいるのではないかと,警戒はしていたのですが,乗り掛かった船で、ままよこうなれば、どうなるか分からないが,しばらく付き合ってやろうと,一緒に行く事になりました。勿論,車は会社の物です。時に、十一月三十日,兵庫県戸倉峠を上り詰めると,はるか鳥取の上空は真っ黒、おい,Aさん、鳥取は吹雪やで。と言いながら、松江目指して吹雪の夜道をひた走るのでした。

横目でにらんでいる株式相場は,人の気をそそるように上昇していきます。なんともむなしい心でハンドルを回すのでした。Aさんは、どこえ何しに行くのでしょうか、この先事態はどう展開するのでしょうか。又来週をお楽しみに



我が華麗なる過去?8♪

静かな松江の一夜が明けると,あたりは一面の銀世界、山陰の冬は早い。純白の雪は、さながら、すべてを一新した我が胸のうちを表している様だ。過去は記憶の中、未来は想像の中,現実はその間に挟まれた一瞬でしかない。しかし、この無時間にも等しい現実の一瞬が,未来永劫の彼方へと続いているのだ。

人間は何のために生まれて来たのだろう,人生にはどんな意味があるのだろう、この世は何の目的で,どんな意味があって存在しているのだろう。ぼんやりと,外の雪景色を見らがら,いつとはなしに、いつもの疑問が頭の中を駆け回っている。美しい雪景色に心が洗われたせいであろうか。

「寒いな〜、よう寝られたか」Aさんの声に,ハッと我に返る。

「あぁ、昨日は吹雪の中のドライブで、ちょっと気ぃ使こたからな」
「ほんで、今日はどこへ行くんかいな、何にも聞かずに来たけど、ええ話かいな」

「いや〜、あんまりええ話とちゃうんや、実は,豆屋(商事会社)に居った時に、
ちょっとトラブルがあってな、今日、裁判所に呼び出されとんねや、ほんで、
金もちょっと払っとかななあかんしな、ほんまに難儀なこっちゃ」

何と、Aさんは,先日の大商いや、仕入の金の支払いなど,今日の為の準備だったのだ。
しかし、なんぼ考えてもこんなにぴったしの準備が出来るものだろうか、いやはや,恐れ入谷の鬼子母神だ。天晴れとしか言い様がない、やっぱAさんは天才だ。私は感心する事しきりでした。

何でも,違法商いの責任を被って、客に掛けた損害金の一部を弁済するのだそうだ。彼の言うことだから,嘘か本当かは分からないが、金を払い込まなければならないのは間違いない事だろう。私は体の良いピエロだった訳だ。儲けにもならん販売活動に一生懸命になり、雪の松江までのドライブ、何の訳も聞かずに…、私のようなお人良しでなければ、誰がこんな手伝いをしてくれるものか。私は自分のバカさ加減に腹が立ったが、いやいやこれも,何かの勉強だと思って自分を慰めたものでした。

彼の裁判所での手続きが終わるのを待って、さぁ,神戸まで帰らねばと積雪した道を帰り始めたのですが、カーラジオが,戸倉峠はチェーン無しでは通行不能と報じているのを聞き,困ったな、このまま雪の山陰に閉じ込められるのかいな、と、一瞬不安になったものですが、Aさんの広島回りで帰れるのでは、の提案にほっとしたものです。しかし、これも、雪のあかな峠越えという試練が待っています。すり減ったタイヤで,雪道を,それも,鳥取県と広島県の県境の峠越えが出きるだろうか、あ〜ぁ、ついてないな、なんて思いながらも,車は広島めがけて雪の峠をお尻をふりふり登って行くのです。

雪はかなり深く、止まったが最後、雪の坂道ではスリップして、次のスタートは出来ないことを私は知っていますから、ローギアで、スロースローと走るのです。ちょっとエンジンを吹かすとお尻をずるずるっと振ります。そんな苦労をしながら,やっと頂上のトンネルを抜けた時は、まるで、大玉を売りぬけた時のように、ほっとしたものです。トンネルを抜けるとそこは雪国だった。とは,川端康成の小説ですが、ここは、反対の,トンネルを抜けるとそこは別天地だったでした。あれだけ苦労した事が嘘の様です、雪のゆの字もない滑らかな道を心地よいドライブで一路広島え、どアホウ二人の膝栗毛,車中は、お互いの過去の自慢話に話に花が咲き、何とものんきなものです。

Aさんは、商品相場の外交さんだったので,小豆相場で儲けた話、客の勧誘のやり方,等面白おかしく話してくれるのです。ここで彼から聞いた、お客の勧誘の特技を披露しましょう。彼は、農村方面で,お金の有りそうな家に電話を借りに入るのだそうです、(当時は携帯電話などありませんから)そして、電話が済んだら,さりげない世間話をして,お礼を言ってその日は帰る。そして,数日後に手土産を持ってその家に立ち寄るのだそうです。家の主は,電話を貸した位で大層なと恐縮しますが,「いやいや、会社に急用が出来て、何とか連絡しなければならないのに,どこを探しても,公衆電話は無いし、途方にくれていたので本当に助かりました」などと丁重に御礼を言ってその日もそのまま帰る。しばらくして又訪ねる、こんな事を二、三回繰返す内に,だんだんと打ち解けて、先方さんの警戒心も緩んでくる。ころあいを見計らってやおら,儲かる話を切り出すのだそうです。

ここまで来れば、ほぼ、契約間違いなしだそうです。そして,虎の子の金を預かると、その金は、100%貰ったと同じだと言うのです。何故かと言えば、客は完全に損をするし,売買は,場に出さずに店が受け手になっているから,お客の損は,即ち,店の儲けと言う事になるのだそうです。今の時代には、こんなやり方は絶対に出来ませんが,当時は、いわゆる、のみ行為といって,どこの店でもやっていたそうです。相場界の会社では,当時はみんなそんなものでしたから,私もその話には納得がいったのですが、彼の話術に掛かれば、どんな人でもいちころだったろうと,感心したものです。そして,私が現役で商売をしていた時に,彼に会わなくてよかったと思うのでした。

やがて,広島の街に着き,原爆記念館の悲惨な遺品など見学し、当時の惨状に胸をいためながら,夕方神戸に向けて出発、Aさんは,早々と白川夜船を決め込んでしまったので,神戸までの長い道中を一人旅。当時は高速道路も無く、信号を一つ一つ拾いながらのドライブなので,時間の掛かること、神戸までは約七時間ほど掛かったものです。今考えれば,倍の時間ですね。文明の発達はありがたいものです
 
一人旅のつれづれに,少し昔に帰って,話上手にやられた話を致しましょう。
それは、まだ、相場を張りまくっていた当時の話ですが,私が取引していた銀行の預金係長が、2〜3日に一回は,売上の集金に来ていたのですが、ある時、
「マスター、私の銀行の貸付に、借入を頼みに来るお客さんの中で、貸し付け枠が一杯になっていて、貸して上げられない人がいるのですが、マスターとこは、預金したら月末まで預金の移動はほとんどされないので、その間手貸しで(手形で貸しつける事)融通をして上げられないでしょうか、利息は日割りで、ん%付けますし、私が全責任を持ちますから」
と言うので、割合に利息はいいし、話上手な彼の話につい乗ってしまい、OKしてやりました。

最初は、いつものように現金の仮預り証を貰って預金の為の現金を渡し、預金通帳には,客が返済した時点で入金していたのですが、いつの頃からか、客の手形をもって来るようになり、私も深く考えないで、利息はきちんと計算してあるし、その手形を預かるようになっていました。

当時は今の様に金融機関の発行した手形ではなく、文具店で買って来た手形に収入印紙をはり、金額を記入して流通していたので、手形は誰でも簡単に発行できたものです。元金に利息を合わせ、その金が又元金として貸し出され、いわゆる短期間の複利計算で元金は見る見る内にふくらんで行きます。最初百万円くらいだった元金が,いつの間にか四百万円近くまで増えていました。金貸しとはこんなにぼろいものか、と、一時は悦に入っていたものですが、ある日、その預金掛長の,おかしな噂を小耳に挟み、鈍感な私も手形を預かっていることの危うさを感じたのです。
 
その噂とは,彼が,銀行には内緒で顧客に手形融資をしているとの話でした。それもかなりな額です。その金額から,私以外の人も,私と同じことをしている様子が考えられ、このことが会社に発覚したら,私の金は預金の為の一時預けではなく,完全な手形割引であり、私と手形発行者の間の問題になってしまう。こりゃー危ない、私は慌てて彼を呼び出したのですが、時すでに遅く、私的な手形割引の事が銀行に発覚して、会社を休んでいるとのこと。

さ〜て、えらい事になりにけりや。貸し付けでふくらんだ金にせよ、四百万円ともなると、もしもパーになるとすれば,惜しい金額です。何とか彼を捕まえて、前後策を立てねばと、無い知恵を搾り出して考えたのが、預かっている手形を彼に返し、預金用の現金仮預り証に変えさせる事でした。そこで,彼の家に行ったのですが,勿論留守。奥さんが一人で留守番をしているだけ。仕方がないので,車の中で待つことにしました。

彼の家は団地の中で、回りはマンションだらけ,し〜んと静まり返っているので,エンジンをかけておく訳にもいかず、寒空にヒーターもかけられず、しんしんと冷え込んでくるのを辛抱しながら、今夜は帰ってこないのではないか、など思いながら待つ事数時間。
夜中になってやっと彼が帰ってきた時は、やれやれと思ったものです。まるで刑事の張り込みのような真似でした。

彼に事情を聞くと,やはり,私以外にも十数人の人に手形を持たしているとのこと、
「えらいことやってんねやな〜、どないするねんや、わしの手形は返すで、そやから現金の仮預り証と変えてくれや」
彼はなかなかウンとは言いません、そんな事をすれば,自分が横領罪になってしまうからです。それを、脅したり,なだめたり、最後は,
「それでは,このまま警察え行こう、わしの金は返って込んでもええ、うまいこといわれて預金前の金を利用された私にも責任の一端はあるが,私もこのまま帰るわけにはいかん、けりをつけようではないか」
というと、彼は観念したように、
「わかりました。それでは仮預り証を書きましょう。だから、それを会社に出すのは,私の処分が決まるまで待ってください」と言うのです。私もその事は承知して,やっと仮預り証を書いてもらいました。

彼の奥さんは、勿論彼のやっていた事は少しも知りません。事の重大さに泣きながら、ただおどおどとするだけ、私は彼女が気の毒やら可哀想やらで,途中で何度も諦めようかと思ったことでしたが、心を鬼にして自衛の為に頑張ったのでした。

こんな話しをしている内に、車はやっと岡山のあたりまで帰ってきました。神戸まではまだ道半分です。横で寝ているAさんは自分の目的を果した安堵感からか、ぐっすり眠っていて起きそうにもありません。今度は,銀行との渡り合いになるのですが、その話は,来週にさせて頂きます。では又来週をお楽しみに。

相場の方もようやく流れが変わった様子。政治の方も自民党の野中さんが幹事長を辞任したとか、こちらの方も何やら面白くなりそうです。では。





我が華麗なる過去?9♪

車は漆黒の暗闇を突き破って山陽道を北上する。深夜ともなれば、いくら国道とは言え、すれ違う車の数もまばらである。ヘッドライトの光芒に浮き上がる道路脇の家々が,後へ後へと吹っ飛んで行く。まだまだ灯りの着いた家々が目立つ、今頃はどこの家でも夕食をすませ一家団欒の時間であろうか、別れた妻や子供達は今頃どうしているんだろう、そぞろ侘しさが襲ってくる。たとえ、一人のわび住まいであっても神戸が恋しい、早く帰ろう、帰心矢の如しと言えども、時間の壁は厚く目の前に立ちはだかっている。まぁ,先週の話の続きが残っているので,暫くは思い出話で気を紛らすとしようか。

預金係長に因果を含めて,やっと手にした現金仮預り証を持って、銀行を訪れたのは,彼が懲戒免職になって暫く経ってからでありました。

「支店長おってか」
いつもの調子で取引銀行へ入って行くと、奥のほうから支店長が,マスターいらっしゃい、今日はじきじきのお出ましで何ですかいな、急がしおまっか。と、へつらい笑顔で出てくる。まさか、今から自分の修羅場が始まるとは露知らず、お気の毒な事です。

「支店長さん、実は、預金係長に預けた金が入金されてないんですわ。どないなってまんねや」
支店長は、こいつも他の十数名と一緒で,手形を持たされているんだな,ってな顔して、
「実は彼はちょっとした事件を起こして解雇され、当行にはもう居らんのですわ、それで、
彼から手形を預かっているのと違いますか。それやったら当行は一切関係ありませんから手形の発行人さんと直接に話し合いをされたらいががですか」
と、涼しい顔してのたまうのです。
「いや、何の事でっか手形とか、彼が解雇されたとか、一体何があったのでっかいな」
私は,あくまで何も知らんふり、支店長と言い,私と言い、まるで狐と狸や。お互いに
みんな知り尽くしていて、すっとぼけている。いや、支店長の知らない切り札を持っていてとぼけている私のほうが、悪玉かもしれない。
「マスター、実は,彼は役職を利用して、当行のお客さんの預金の金を、言葉巧みに不良客の手形を持たせて運用していたのですわ。先日その中の手形に不渡りが出ましてな、この事が発覚しましたんですわ。えらいことでしたんやで。他の、手形を持たされていたお客さんも,事件に気が付いて沢山来られたんですけど、事情を説明して,預かった手形は、解雇された預金係長と手形の発行人さんを相手に、そちらさんで解決してもらう様に話がついたのです。
マスターも,その内の一人と違いますのか。被害顧客の名簿に入ってまっせ」

支店長は勝ち誇ったような顔で、しゃあしゃあとおっしゃる。

「支店長さん、あんたの言われるように、一時は私も手形を預かった事もあるが、最初の約束が,月末までの流用と言う事で決めていたので,最近は,手形は預かっていないんですわ、だから、こうして仮預り証を持って来たんですわ。だから,この金額はわしの預金通帳に記入してもらわんと困りまっせ」
と、例の仮預り証を見せると,何と支店長の顔が、見る見る真っ青になって行くではありませんか。そりゃー無理もない事でしょう。十数人の顧客と数千万円の被害金額を,預金係長を切り捨てる事によって,銀行とは無関係にした切れ者の支店長も、まさか私一人がこんな手を打っていたとは、知らぬ仏のお富みさんではありませんが、一難去って又一難の思いがしたのではないでしょうか。

支店長はしばしの間をおいて,絞り出すような声で、
「うーん、マスター,あんたはひどい人やなー」と私を睨むのです。
「あほらしい、何でわしがひどい人なんや。、今まで銀行の為に預金をしてくれていた大切な顧客が、お前とこの預金係長の口車に乗せられて,手形を持たされたのをいい口実にして、使用者責任も取らずに全責任を顧客になすり付けて切り捨てた、お前の方がよっぽどひどいのとちがうんかい」
私の怒りの言葉に支店長も二の句がつげず、
「本店と相談しますから、しばらく待ってください」と急に殊勝な態度になったものです。

日ならずして、本店に来てもらえないかと連絡が入ったので,早速参上して見ると,何と,本店の会議室に,銀行トップの面々が五人、内裏雛よろしく居並んでいるではありませんか、そして入って来る私を、この若造が何を文句を付けに来たのだ、と言うような顔で私を睥睨するのです。一歩中に入った私は,この様子に、自分達の使用人が顧客に不始末をしているのに,この態度は何事だとカチンと来たものです。

同席していた支店長が、
「マスターどうでしょう,出来た事は仕方がないが,何とか穏便に済ませてもらえないだろうか、ここに居られる幹部の方々とも相談したのだが、ここは、あなたに金をお貸しして何かで儲けてもらって,損害金の穴埋めをしてもらうと言う訳にはいかないだろうか」
と言うのです、私は、またまたカチンと来ました、自分たちは無傷で逃げ様と言う魂胆がありありとしていて、私の潔癖感に触るのです。
「いや、わしは三百八十何万円の金を通帳に入れてもらえば文句はおまへん。なんでそれが出来まへんねや、銀行から見れば,微々たる金額と違いまんのか」…。

すると、やおら偉いさんの一人が口をきき、
「それが,出来れば一番いいのですが,その金を出す口実が無いのですわ、何とか支店長の言う方法で解決してもらえないでしょうか」
と言うのです,私としては、金を借りたとて、この不景気に簡単に儲かることなど無いし、下手をすれば金利と返済に追われるのがいい所になる。それよりも、人に金を貸して金利も取ると言う事になれば,当たり前の銀行業務ではないか。いくらピンチはチャンスだと言っても,こんな問題が起きている最中に,儲ける為の正当な銀行業務で解決しようと言う彼等の考え方に腹が立って来て、
「どうしても、預金の入金をしてもらえないとなれば,わしとしても、何とか入金してもらう方法をかんがえなあかんな」
と言うと、支店長は,
「マスター、お互いにいい方法は,この方法しかありまへんで、金の使い道は,当方で,考えて上げますがな」
とおためごかしに言うのです。私も一瞬,相場の資金を出させてやろうかと思った事も事実ですが、その時はまだ勝ちいくさで、そんな金を必要ともしないし,それに,事件ものの金なんぞ相場に持ち込んだら,それこそ縁起が悪いわい、ここは,本当の資金は百万円あまりだったのだから、少々負けてやってもいい、と弱気になった事も事実でしたが、
内裏雛みたいな顔して、私を見下している奴らに腹の虫が納まらず。

「明日まで待ちましょう,明日の正午までに,わしの口座に仮預り証の全額が入金されない場合は、(近畿財務局銀行課行政部)に苦情を申し立てましょう、今のわしにあんた達と対等に渡り合うのは難しいので、当局の判断を仰ぐつもりだ」

と言い残して決戦の場を去りました。私には充分に勝ち目のあることは分かっていましたが、近財行政部と言う言葉の威力がこれほどの効果があったとは実際に驚きました。
明くる日を待たずに,帰宅した私に支店長から電話があり,

「マスター、あんたには負けましたよ,金は全額入金させてもらうようになったので,手荒な事は絶対に止めて下さいよ、でないと今度は、私の首が飛ぶ事になるので、よろしくお願いします。今度の件で私の左遷が決定しました。恨みはしないけど…」

と言ってきました。私は早速、業界紙の友人の記者に、このたびの会談の結果を報告したのです。と言うのは、私如きが、金融界の泣き所を知っている訳もなし。近財行政部、なんて所があることさえ知らない私に、今日の銀行との話し合いがうまく行かない時は、最後にこう言う所があると言うことを、言ってやんなさいよと、彼に教えてもらっていたのです。彼には、後に私の知らない鉄砲張りも教えてもらったし、本当に頭が上がらない相手です。

後日、私が相場でやられて無一文になってから、その時の支店長に出会いましたが、彼が当日の裏話をしてくれたものです。あの時、同席していた銀行のトップ連中があの若いの本当に近財にいくかもわからんで、何とかせねば…、脅迫で訴えることは出来ないだろうかと、非公式に、親しい兵庫県警の警部に、事の一部始終を話して相談したら、「そら相手が怒るのも無理は無いよ。あんたとこが悪いよな〜」と逆に怒られたよと言っていました。そして、あんたは、切れ者過ぎて相場にも、失敗したんだな。と、誉めてくれたのやら、くさされたのやら、けったいな具合でした。この支店長もあの一件で、出世が参年ほど遅れたそうです。後に銀行幹部にまで登り詰めましたが、考えればよい喧嘩相手でした。

その後、私はまだ相場全盛の頃だったので、懲戒免職になった預金係長の家を訪ね、彼のお蔭で儲けさせてもらった金の半分を持って行ってやりましたら、泣いて喜んでくれました。その彼も、今はいい年を重ねて穏やかな、やはり話し上手な老人になっています。毎年、年賀状をくれるので、その度に過ぎた昔の出来事を思い出す事しきりであります。

松江行きの後,Aさんとはすぐ別れました。彼の本性が大変な人物であることがわかったので、彼との付き合いが長くなれば、決して私の人生にプラスにはならないと判断したからです。自分がいくら注意していても、朱に交われば赤くなるの例えです。その後彼がどんな人生を辿ったのかは音信不通でわかりません、風の便りも聞く事が無いと言う事は、最早、この世には居ないのではないかと思います。若い時の僅かに触れ合った相手ではありますが、何か印象に残る人でした。

次ぎは、宗教法人、〇道で、知り合った友人との、これまた奇想天外な事業結成のお話を聞いて頂きます。

ダウも、ナスも、乱高下、大統領もほぼ決まり。こちらの内閣も改造されて、日本丸をどこえ連れて行ってくれるのやら、期待する事、大であります。
では又来週をお楽しみに。








我が華麗なる過去?10♪


昭和四十年代半ばになりますと、経済発展の副産物として、いろいろな公害問題が続発し、その元凶の一つとして、車の排気ガス、即ち一酸化炭素の問題が、クローズアップされて来ました。需要あれば供給ありで、様々な排ガス防止装置が出現して来ました。皆さんの中にはご記憶の方もあると思いますが、アメリカから輸入されたと言う,(APO ベィパーインジェクター)と言う、エンジンに水蒸気を送り込む装置が、マルチ商法で広がって来ました。

この装置は、エンジンに空気の吸入と一緒に水蒸気を送り込み、燃料の燃焼効率を高めて一酸化炭素の排出を抑制すると言われており、非常にその効果が期待されていました。そんな訳で、私もこの商品に惚れて、販売組織へ入り、公害防止に一役買ったつもりになって、頑張っていましたが、マルチ商法という販売方法が、いわゆるネズミ講のようなものであることが気に入らず、途中で止めてしまいました。

その組織に、宗教法人〇道で知り合った彼が居たのです。彼の名前を一応“山田君”としておきましょう。山田君もやはり、マルチ商法の弊害に気付き、商品そのものは、時流に合った社会的にも、よい商品ではあるのですが、販売の方法がどうも気に入らないと言う事で彼なりに悩んでいました。

二人の思いが一致して、山田君と私は、何とかこの商品のいい所を取って、自分達で作れないものかと、行動を開始したのでした。彼は器用な男で日ならずして、何とか簡単な装置の設計図を作り持って来たのです。

「北浜さん、こんなん書いて見たんやけど、これで、どないしたらいいの?」

そこで、私は先ず、これを制作してくれる所を探さねばならんが、それまでに、まだ先にやらねばならん手順がある。それは、特許申請をせねばならんのだ、何故かと言えば、この図面をどこへ持って行っても、必ず、特許の申請がしてなければ、取り上げてくれないからだ。特許庁から特許の受け付けをしたという書類さえあれば、どこの会社でも話の具合では取り上げてくれるから特許申請が先だよと、彼を連れて或る弁理士事務所を訪ねたのでした。

私が、何故こんな事を知っているかといいますと、かつて、特許に興味を持ち豊沢豊雄と言う人が主催していたクラブに、しばらく在籍した事があったからです。私の場合、結局は今に至るも何も、ものになりませんでしたが、まぁ、何でも知っておくもので、山田君の要求に応えてやる事が出来た次第です。

それからしばらくした或る日、彼が目を輝かせて、

「北浜さん、来たで、特許申請受理しました,と言う書類が来たで」

とまるで鬼の首でもとって来たような勢いです。

「そうか、来たか、あの程度の設計図で、よう受理してくれたもんやな」

と私はあまり期待していなかったので、さすがにびっくりしたものです。が、よく考えて見れば、実用新案の申請なんか、書式がしっかりしていれば、受理だけはしてくれたものでありましょう。

そこで、なんとかこの作品を、製品化してくれる所をと考えました。あまり小さな所では、仮に製品化しても、販売まで漕ぎ付けるのに難があるし、かと言って大きな会社では取り上げてくれないだろうし、何処か良い所はないかな〜と、肌身離さず持っていた会社四季報を嘗め回すようににして、やっとコツンと来る所を見付けました。

兵庫県内に存在し、資本金20億、電気関係で会社の業績は余り芳しくなく…、ここなら話の持って行き具合で取り上げてくれるだろう、よっしゃ、これやと、早速山田君に連絡しその会社を訪問、何処の会社でも同じ事ですが、会社の入口には守衛さんが、無用の者立ち入るべからずとばかりに、がっちりとガードを固めています。

「あのー、自動車のエンジンに取り付けて、排気ガスの浄化をする装置を持って来たのですが、どなたか、会って頂けないでしょうか」

こちらは、第1印象が大事だと思うから、門番さんにまで丁重に挨拶する。

「アポイントを取ってますか、なければダメです」

まるで,木で鼻をくくったような返事。こりゃーダメだ、こんな奴にヘコヘコする事はない。ガツンと行こう、ガツンと。私は今度は高飛車に、

「君は、この会社に勤めて何年になるんや、そんな杓子定規な事言うとったら何年経っても玄関番から抜け出す事は出来んぞ、少しは相手の話を聞いて、事の良し悪しを判断して、しかるべき部署に取り次ぐくらいの才覚を持てんのか、今、我々は環境浄化の為の素晴らしい装置の設計図を持ってきているんや、君の態度次第では他社へ持って行かねばならん、後日、このことが会社に知れたら君の立場はないで、どないするんや、今、この不況の中でどの会社でも新製品の開発に、しのぎを削っているんやないか、将来ヒット商品になるかも知れんアイデアを持って来てんねや。これでも追い返すか」

彼は、私のいきなりの高飛車な態度と話に度肝を抜かれたのか、

「ちょっ、ちょっと待ってください聞いて見ますから」

彼はまんざら馬鹿ではないらしい。なんと、取り次いでくれた先が、この会社の役員で、技術部長だったのです。 これには私もびっくりしました。何処でも、先ずは、下っ端からというのが定石ですからね。それが、いきなり技術部長の専務さんですから、一緒に連れて行った山田君は、北浜さん(この際私を北浜にしておきます)なんと上手いこと言うもんやね、一発でフリーパスや、ほんで技術部長とは、流石に彼もあきれていたものでした。

「まぁ、山田君これからが勝負や、いきなりの技術部長やから、手数が省けていいわ,そやけど手強いで、覚悟しときや」

と彼と一緒に、技術部長のkさんと初見参。そこで、私流の論法で現在の自動車公害を説き、政府の方針から時代の要求、そして、我々の製品の特徴とその性能のよさ等々を滔々とまくし上げたのでした。

アポイントもなしに、いきなり飛び込んできた私たちに、最初は警戒心をあらわにしていたk部長も、私の熱心な説得にだんだんとほぐれてきて、質問が返って来るようになりました。山田君も、彼なりに、現在国内にある車の台数から割出した販売台数、それに掛けることの価格及びその総売上などなど、彼が、いつこんな事計算していたのか、と思うほどの理路整然とした営業予想をやりだしました。

結局、一度、重役会に掛けて見るからと言う事で後日を約しその日は終わり、感触としては最大の手応えでした。

「山田君、どないや、飛び込みでもなんとか話になるもんやろ」

「いやー北浜さんの話術に掛かったら誰でも落ちるで、側で聞いてる僕まで本気でその気になってしまうんやから」

「君の販売予想も堂に入っていたで」

二人とも我が事成れりと得意満面でした。やがて、日ならずしてK部長からこの排ガス浄化装置を試作したいと返事があり、我々の喜びも本当のものとなったのです。

会社が一旦引き受けてくれたならば、後は順風万帆で流石に技術を売り物にしている会社だけに見事な試作品を作ってくれました。今はっきりとは思い出せませんが、守口市にあった排ガスのテストをする機関へ、試作品を持って行き、テストの結果はかなりの一酸化炭素の減少が証明され、会社としては量産したいとの結論になったようです。

こうなると、人間の欲望は逞しくなるもので、山田君の親も、初めて顔を出し販売会社を作って大々的に売り出そうと言う事になり、会社側からも,k部長を始め会長までがしゃしゃり出てきて、一口乗せろの話。儲かりそうな話になると、皆んな、目が血走って来て
早、株の持分でもめる有様。売れるかどうかも分からないのに、今頃から利益配分でもめるとは、いやはや、先が思いやられるわい、この場は皆んなに任せて、金のない私はオブザーバー。

だが、ここまで事を運んできて、トンビに油揚げさらわれたでは、私も納まらない。そこで皆さんにお集まり願って、私の今までやって来た事の功績を理解して頂き、金がないから、皆さんと一緒に会社の経営には参画できないが、私の働きを評価していただけるならば、せめて、関西一円の販売の権利を頂きたい、と相談したら、なんと、K部長が一番の見方になってくれて、

「私は、北浜さんの功績を評価するなら、この位の報酬は当然だと思う、何故なれば、彼が私を説得してくれなければ、この商品の今日はなかったからだ、今、私は、北浜さんに心から感謝している、もし、彼に出資の力があるのなれば、社長のイスは、当然彼のものだと思う。」

とやってくれたのです。山田君も当然の事だと同意してくれたし、山田君の父親を除く全員が納得してくれました。が、山田君の父親だけが、金のない者に関西一円の販売権を任せて、どうして販売することが出きるのか、と、一人反対したのでした。私はその時すでに、ある、計画を持っていたのです。それは、二部市場の上場会社が制作し、当時の脚光を浴びていた排ガス浄化装置を、ドラスチックに世間に発表すれば、必ず販売希望者が出て来ると予想していたので、なにはともあれ、販売の権利だけは確立しておかなければ、次ぎの手が打てないので、ここはなんとしても山田君の親を説得する必要があったのです。

「山田さん、貴方は私を知らない、あなたの息子さんを補佐して今日まで来たことは、貴方の息子さんが一番よく知っている事ですよ。そんな能力を持った私が、この装置を一番よく知っている私が、貴方がたの足を引っ張るような事すると思いますか、今日までの事情は息子さんから聞いてよく知っておられるはずですよ。それとも、私なんか、用事がすめば、はい、さようならですか、世の中、それではすみますまい」

と強談判すると、もともと、息子の親というだけで、シャシャリ出てきただけの人だから、それ以上に反対する事も出来ず、しぶしぶ承知したのでした。そして、滋賀、京都、奈良,和歌山、大阪、兵庫の一府五県の販売権を書面をもって確約してくれたのでした。

これさえ、手に入れれば、後は、世間へ発表の日を待つだけ、販売会社の方は、欲の皮の突っ張った方々が、押したり、引いたりしながら、何とか、とあるビルの一室に会社を設立し、またまた私の出番が回ってきました。これは、余談になりますが、技術部長のkさんは、株式の払い込みの為に、持っていた自社株を五万株も売ったそうです。いやはや皆さん、海のものとも山のものとも分からぬのに、大変な投資をされた様です。

そんな話を聞かされては、私としても、何とかこの商品を世に出す責任があります。そこで、私は、発表の日を決めて、全国紙の五大新聞社と地元紙に電話を掛け、

「明日、○○時に自動車排ガス浄化装置の発表を行いますので、ご招待致します。急を要しましたので電話で失礼致します」

とやったのです。来てくれるかどうかは、博打でした。皆は、どうなる事かとハラハラしています。私も内心はビクビクしながら、そんなことはおくびにも出さず、時節柄、新聞社では、こんなニュースを待っているから、必ずおいで下さいますよと、一人自信満々を装っておりました。

さて、発表の当日、朝から黒板に装置の図面を書き、茶菓子を用意して準備万端怠りなしで、待つ事しばし、なんと時間には、昨日お知らせした全新聞社が来てくれました。
やった〜、私は、発表の結果は、大成功だとその時に感じました。私の読み通りに事が運んでくれた事は、各新聞社が、ニュースになると踏んで集まってくれたに違いないからです。

図面を前に私の説明にも熱が入ります。内燃機関の説明から、この装置がどう言う働きで排気ガス中の一酸化炭素を減らすのか,微に入り細に渡って私の熱弁が部屋一杯に響き渡ります。約一時間に渡る説明中記者さん達の走らせるペンの音だけ、質問も核心を突いたものが多く流石にベテランの記者さん達だと感心したものでした。

新製品発表の記者会見も大成功の内に終わり、後は、明日の朝刊を待つだけ、新会社の面々も大満足、夕食は豪華なものでした。いつもは一滴の酒も飲まない私も、この日だけはお祝い酒だと、つい飲んでしまい後で苦しんだものでした。しかし、何か肩の荷が下りたような、何かをやりあげた後の満足感が全身を覆うのでした。

いつもなら、ここで、明日の各新聞社の朝刊は、又来週のお楽しみとやるのですが、今度の話の内容は、一週間待ってもらうのは,いかにもひどいと思うので、今から頑張りましょう。

さて、待ちに待った朝刊が来ました。と言っても私は新聞を取ってないので、山田君に電話です。今日なら、携帯でしょうが、当時そんな便利なものはあるはずもなく、借りている部屋に電話もないので、近くの公衆電話まで出かけてのことです。

電話の向こう側では、山田君の声が震えているのがわからる位に彼は興奮しています。

「北浜さん、えらいこっちゃで、みーんな出てるで、M社なんか、一面に六段ぶち抜きやで〜」

それを聞いて、流石に私も事の重大さに身が引き締まる思いでした。各新聞社の報道の反響は意外に早く、昼過ぎまでには問い合わせの電話がひっきりなしに掛かって来て、急場仕込みの事務員さんはてんてこ舞い、その中に早くも私が予想していた販売の話が二〜三入って来ました。大阪のある会社は、近畿地区の販売を任せて欲しい、今から行くのでよろしく頼むなんて掛かってくるのです。私は、先に販売の権利を取っておいて良かったとしみじみと思ったものです。

何故かと言えば、もし、こんな、状況で私が販売地区の権利を主張しても、欲たれべえの新会社の連中が承知するはずもなく、現に、大阪から販売の権利の電話が来ただけで、しまったと言った顔する連中ばかり、山田君さえも、北浜さん、先方さんに譲って上げられないだろうか、などといい出す始末。

相手も分からんのに何を言い出すのだ、販売地区の問題は、私と先方との話だから、君達には悪い様にはしないよ。任せておきなさい、と慰めてやりましたが。この件は、一歩先読みしていた私の勝ち。

ここでこれから先の話は来週の楽しみにして頂きます。販売権利の問題と、次なる販売地区を合わせてお話しましょう、そして、次週の話に現在の私の投資資金の発生原因があることを予告しておきます。