好評連載

株式歴35年
改名北浜さんの
 華麗なる過去


我が華麗なる過去?2

我が華麗なる過去?3

我が華麗なる過去?4
      
我が華麗なる過去?5

我が華麗なる過去?1♪

私が株式投資を始めたのは,S40年の7月でした。32才の夏のことです。この年景気は最悪で,姫路の山陽特殊鋼が倒産し,大阪府にある泉佐野の農協が取り付けにあうなど、本当に大変な年でした。私はこの時、たとえ小さな農協と言えども,政府の許可を得た金融機関が,取り付け騒ぎにあうとは,民衆の心は疲弊の局にあると思い、不景気もここに極まれりだと感じていました。

東証ダウ「当時はまだこう呼んでいました」は、S36年の高値1829円から下げつづけ,途中政府が共同証券を発足させて買支えをやりましたが,買いの四大証券が、近藤坊に売り崩されて(近藤坊一人だけではありますまいが)S40年の七月には1020円の安値をつけていました。この月になって政府は時の大蔵大臣福田赳夫の案を入れて赤字公債の発行を決定したのです。

市場は,赤字公債発行、即インフレと読んで低迷していた株式市場はいっせいに反騰を始めました。私が相場に参入したのはこんな状況のときでした。

手持ちの金150万円を資金に,いきなり信用取引で買いまくりました。特定銘柄の平和不動産「これはボロというあだなで呼ばれていました」をはじめ東京海上,三菱地所,日本郵船などなどが、いっせいに吹き上げ出しました。

当時、北浜仕手株の代表、中山製鋼などは204円の安値から1000円台まで吹き上げ、実に勇壮な上昇相場が展開され出しました。第一規制が掛かった11月まで,それはそれは面白い様に買えば上がるの繰り返しで、相場に参入して間もない私は相場の面白さにすっかりハマッテしまったのでした。目の前に大穴が開いているのも知らずに・・・。


我が華麗なる過去?2♪

S40年7月、東証ダウ1020円を下値に赤字国債発行の報を得て猛烈に上げ出した相場は、11月に第一規制を打たれるまで、まさに昇竜のごとき感がありました。私は、先週申し上げた通り利食っては買い、利食っては買いの連続で,かなりの儲けを掻き入れていました。

そこへ予期せぬ規制が掛かり、相場は突然の暴落に転じました。たしか信用取引の担保の増額だったと思います。目一杯買いこんでいた私は、始めての経験でもあり、随分うろたえましたが,ここは思い切ってと、買玉を投げました。折角儲けていた利益は,あっという間に消えて仕舞いました。それでも,幸いな事に元金だけは残りました。が。一時はどうなる事かと本当に腹の底から震え上がったものでした。そんなドラスチックな下げを演出しながら、相場は翌年の4月1日の1588.73まで、9ヶ月間上げ続けたのでした。

そんな相場の毎日のある日,この地場証券の相場師とも言われた人が、やはり上昇相場に誘い出されたかのように現れました。聞けばS33年から38年にかけての上昇相場の時,大きな儲けを得ながら、あまりの大量の買い玉を持ったため,わずかな下げで,大損をして消えて行ったと言うことで、この人が来たなら,大相場になるよ、とみんなが期待をしたものでした。

兎に角、彼の張り方は物凄いものがありました。最初から郵船だけを標的にして買いまくるのです。そして利がのれば評価益が出るので又買い乗せする。
そんなこんなで瞬く間に彼の建て玉の評価は、5000万位になったと言うことでした。元金は100万円位と聞いていましたが。

たしか60円位にいた郵船の株価が,郵船ん十万買い,ん十万買いと言う彼の買いと共にじわっ,じわっと上がるのです。私達他の張り客は,いつも固唾を飲んで彼の姿を見つめたのでした。たしか郵船が100円を超えたあたりから,東京海上も買出した様に思います。しかし、その頃から社員の誰言うともなく、おっさん、又と飛ぶで〜、と言う声が聞こえ出しました。そして間もなくその通りになってしまったのです。

やがて彼は姿を見せなくなりましたが,おっかなびっくりで小さな玉を買っていた私に、勝負度胸をつけてくれたのも彼の相場度胸を見習ったこと大でした。ある時、当時北浜仕手株と名高い中山製鋼を、1000株買っていた時のことでした、たしか400円台だったと思いますが、いきなりストップ安を食らったのです、その時は本当に真っ青になっものです。後で冷静に考えたら,全部なくなっても40万あまり,自分でもあまりのふがいなさに、アホかと自嘲したものです。

そんな私が、彼並の大玉を張るようになるのには、大して時間の掛からぬことでした。やがて本田技研が大相場になり、と言ってもい100円台から499円まででしたが、売ったり買ったりしながらついていったある日、3人ほどのおばさん達が店に来て、きゃーきゃー言いながら本田を買っていました。その日は他の客たちも本田々々でした。そして前場の引け前480円位から一気に499円まで駆け上がりました。私は思わず本田5000売り、とやってしまったのです。私はちょっとへそ曲りなところがあって,人が買いといったら売り,売りといったら買いと反対ばかりするのです。でも,それは私なりにある程度考えてのことでしたが。「人の行く,裏に道あり,花の山」の格言はその頃憶えたものです。しかしこの格言は今になっても役にたっています。

そして,本田は499円を天井に暫くの間天井波瀾をしながらやがて下げ相場となるのですが、私の売り玉は天井波瀾をする度に売り増して、およそ15万株ほどの売り玉が溜まって仕舞ったのでした。ちょっと売りすぎたな〜、と少々不安になっていましたが、相場は間もなく、じわっじわっと下げ始め、今度はじっと我慢の子でありました。利乗せして頑張るのは本当は怖いものです,夜寝ていても明日は急反発するのではないかなどと思い。なんでこんな怖い思いまでしてがんばるんかと自問自答したりして・・・。それでも頑張り通して売りの平均値が約460円当たりでしたから、260円迄待って買い戻しに入りましたが,その頃親しくなっていた,大阪の業界新聞の記者から電話が来て,あんた本田を買い戻しているんか、みんな、あんたの買いに向かって投げよるで、と,言ってきたのを昨日のように思い出します。これは,約3000万円程の利入れでしたから天にも登る心地でした。何しろ30数年前の話ですから,今とは金の値打ちが違います。暫くは福原、「神戸の色町」で夜毎芸者を上げてドンチャン騒ぎしたり,有馬まで遠出をしたりして,若気のおもむくままに遊びまわったものでした。今,思い出してもあの頃が楽しさのピークだったんですね。

勢いに任せて相場観はさえる一方で。当時どの証券会社でも,黒板に各銘柄の名前が書きこまれていて,女子社員が,時事放送の値動きの放送を聞いては白墨で値段を、書いては消し,書いては消しして,客はその前でじっとその値動きをみつめていたのです。いまは、どの会社でも店頭に専用のテレビがあって,値動きはそれで見ていますが、当時は黒板でした。その黒板の値動きを見ているだけで、2〜3日後に動く株がわかるのです。一種の超能力ですかね。道に依って賢しと言いますが,一心不乱に相場の事ばかり考えていたせいでしょうか。まぁこんな状態が続けば,人間誰しも慢心するものでしょうね。私も論外ではありませんでした。その結果がとんでもない所へと繋がって行くのですが,これは,またまた,次回のお楽しみとさせて頂きます。



我が華麗なる過去?3♪

さて、またまた一週間がすぎました。相場の方は”二日新甫は荒れる”のジンクス通り荒れ回っていますね。私は、あらかじめ建て玉はみんな手仕舞いしていたので(利乗せしている現物はホールドしていますが)楽しく拝見しています。
さて,来週はどうなるでしょうか。楽しみですね。では,パート3に掛かりましょう。

楽しくて,楽しくて,たまらない毎日が続いていました。
S41年4月1588.73で一応の天井を打った相場は、翌42年12月の1250.14まで途中がぶりながら下げ続けたのですが。下げ相場は下げ相場で、今度は空売りで、売っては買い戻し,売っては買戻し,しながら相場を楽しんでいたのです

取り引きをしていた店へは、毎朝8時半になると,きちんと出勤し,8時50分の,特定銘柄のセリが始まるのを待つのです。皆勤賞をもらっても良いくらい精勤なことでした。そして,時間が来るまで社員の人達と未来の予想話に花を咲かせたものです。

当時は今と違ってあらゆるものが未発達でした。車,家電製品,住宅,わずか30年あまり前のことですが,ほんと,今とは雲泥の違いがあったものです。年配の方はよくご存知のこととおもいますが、道路は信号も少なく車で走っていても車そのものが少ないので,飛ばし放題。主用道路に歩道もありませんしガードレールは勿論、横断歩道などあるはずがありません。

人々は、てんで勝手に好きなところを横断してくるのです。その間をジグザグに,縫って走るのです。そんな状態ですからどこへ止めていても駐車違反になることもありません。のんきな時代でした。

そんな頃に,私は、今に、お金を取って止めさせる駐車場ができるとか、酒の瓶は,画一的な瓶だけでしたが、形の変わった瓶になるとか、住宅は、パンフレットで売るようになり、自動車は陳列して売るようになるとか予想して,そんな事ばかり言うので、しまいには、あんた、頭がおかしいよ、などといわれたものです。しかし,後年になって私が言っていたことはすべて現実となったのです。

ただひとつ予想が外れたのは,私の資産状態です。これは,今に至るも当時に予想していた状態はとはほど遠いものです。まぁこれは,これからの課題ですが・・・。

話が横道へそれたので、もとへ戻しましょう。

市場は将来の発展に向けて、暗中模索の中で、それぞれの思惑の銘柄が物色されておりましたが、私が狙ったのは,住宅関連でした。

それは、戦後20年も経つて、やれ食編だの、糸編だの,金編だのと,(食編は食料関係、糸編は繊維関係、金編は鉄鋼関係)それぞれに供給され、戦後の何も無かった頃から見れば、かなり行き渡っていましたから、みんなの求めるものは,これからは,住まいの関係になるのではないか、と思ったのです。

S42年の春先のことでした。住宅建設の会社で,大和ハウスがこの頃80円位でした。これが,命取りになるとは、その時、思いもよらぬ事でしたが、少しづつ,少しづつ目立たぬ様に買い始めました。何故かと言いますと、その頃私のフアンが結構まして、社員さんに,あの人が買ったら同じものを買ってくれなどと言う注文が出始めていたからです。後から思うに、パート2に出てきた相場師を見るような目で私を見ていたのですね。

「得手(当り屋)に付くより不手(曲がり屋)に向かへ」と言う格言がありますが,当り屋だと思ってついて行くと,いずれは曲がって、えらい目に合うから,それよりも,曲がり屋は,いつも曲がっているから,これに向かっている方がいつも儲かる、と言う意味と思うのですが。実際にその通りで,みんながついてきだすと、私が曲がるのにそう時間はかかりませんでした・・・。

私が当っているからと,みんながついて来るようになったので、なるべくわからぬ様に仕込み始めたのです。 

当時この株はあまり注目されていなかったので,かなりの玉を値を飛ばさずに集める事ができました。やがて市場の方でも私が思った通りの予想をしだしたのか,じわり,じわりと上げ始めました。

私は,自分の思い通りの展開になって来たので,もう,有頂天でした,何しろん十万株を買い集めていましたから,本田どころではありません。目の前に億単位の金が、ちらつき始めても当然でした。利食いたいのを我慢して、ついに
360円がらみまで待ち、相場を崩さないように少しづつ利食いしながらすべての玉を売り切ったのでした。またまた大当たり。無一文で昭和25年の秋、神戸に来てから17年の歳月をかけて、一生食いっぱぐれのない金を掴んだという満足間に浸る毎日でした。

しかし,世に好事魔多し,の諺通りのことが起こり始めたのです。ここで,来週、と行きたい所ですが,今日は,もう少し話しておきましょう。

人間、当り始めると,いらぬ事をするもので、止めておけばいいのに,相場の、がぶりの事を”アヤ”と言いますが,上げ相場の中の下げ、即ちアヤを取ろうとしたのです。これは,相場をする上で大切な事ですから,皆さんご存知とは思いますが、ご注意申し上げておきますが、上げ相場と見たら,絶対に買いしかしてはいけません。相場が見えるようになると,ついアヤ押しを取ろうとするのですが。これは、非常に危険ですから,絶対にやらないことです。

のぼせあがった私は、この禁じ手をやってしまったのです。360円がらみで全玉を利食ったのですが、相場がまだ上げ続けるので,今度は,空売りを入れだしたのです。逆に窓を開けてでもいいから,買えば良かったのですが,何分にも,相場は自分の思った通りに動くものと思い上がっているものですから,止めとけばいいものを、金のあるに任せて売り上がっていったのです。やがて相場は400円,420円とじわじわと上げ続けるのです。そして、もうダメだ買い戻さなくては,と思う頃になると少し下がるのです,相場とは本当に人の心がわかるのでしょうか、やれやれと思って,買い戻すのを止めると、又上げ出すのです。やっぱダメだと思うと又下げる,そんなこんなで私の空売りの評価損は,かなりな額になって来ました。もう,夜も寝られません。一夜大名,一夜乞食とはよくいったものです・・・。

夜も更けて来ました、キイと叩く指もかなり疲れてきたので今日はこの辺で。さて、来週は,どんな,悲惨な場面が展開されるでしょうか、苦し紛れに
私は,どんな事をやったのでしょうか。では,又来週のお楽しみに。





我が華麗なる過去?4♪


大阪の中之島に公会堂があります。この公会堂は,大正時代に米相場で大儲けをした、岩本英之助(字が違っているかもしれません)と言う人が、外国旅行をして来て,アメリカには公会堂と言うものがある,大阪にも作ろうではないかと言うことで、当時の金で百万円を寄付したそうです。その金で今の中之島の公会堂ができたそうです。が、当の岩本さんは、今度は大損をして、公会堂が出来るのも待たずに、ピストル自殺をしたと言うことです。

私が出入りしていた店は、社員さんよりも歩合外務員の方が多く、皆んな年配者で歴戦の勇者が多くいて、一緒に昼飯を食っている時など、よく昔の相場関係の話を聞かせてくれたものです。上記の岩本さんの話もそんな方から聞いたのですが、大きな建て玉を引かされていた私には、まるで今度はお前だぞ、と言われているようで、いやな気持ちで聞いたことを思い出します。

問うに答えず語るに落ちる、のたぐいで、その人は,この若いの今に飛ぶで、と思っているのが、岩本さんの話に繋がったのでしょうね。
そして、会社へ行っても、今までとは私を見る皆んなの目が違うように思えるのでした。勝ち進んでいる時は、皆んなの私を見る目が生き生きとして,よいお得意さんとして見ていたようでしたが、一旦負け戦になると,途端に態度が変わるのです。まぁこれは,人間の常ですから仕方のないことですが,まったく参りました。

ここへ,追い込まれるまでは、まるでスターでしたからね。朝の寄り付きに買い、前引けに売り,後場寄りに買って,大引けに売る、と言ったような商いが続いていたのですからね。今で言えば、さしづめ、デイトレイダーと言った所でしょうか。それも、万単位の玉でドタンバタンとやるのですから,会社としても最高の扱いをしてくれたものです。

当時の地場証券では、今のような固いことは余り言いませんでしたから、証拠金が不足しようが、商いのためなら、大変な融通をしてくれたものです。
そのためか客が事故を起こす事もままあったようです。

100万円の金を持って来て、10万株を10円買い張らせてくれ、と言うような客の注文でもOKでしたから、今考えれば本当に博打場でしたね。勿論大蔵省ではこんな事、許すはずもありませんが。そこは、それで、何とかなっていたようです。まぁ,証券界以外の各省庁でも、おおまかな事が、まかり通っていた時代でしたからね。

当時私の知り合いが、相続税の問題を相談に来た時でも、私は税理士ではありませんが,税務署への対応次第で何とかなった時代ですから、つまり要領ですね、だからその相談をOKして、税務署員を毎夜色街へ招待して、クチャクチャにして、上手にまとめた事もありました。これ本当の話。

警察関係でも,その頃,ようやく交通課で、スピード違反の取締りをやりだしましたが、神戸市内のスピード制限が、20マイル、約32キロでしたから、検挙しようと思えばいくらでも検挙できましたから,これも,知り合いの警官を作ってもみ消しばかり、もう悪い奴でした。今は、とてもこんな事出来ませんが,当時は何事もファジイで行けたものです。関係省庁の方が見られたら、昔の事ですから、悪く思わないで下さいよ。

株の方も,当時は今のようなチャートはなく,大きな方眼紙に数銘柄印刷し、こちらで記入出来る余白が作ってあったものが、一ヵ月に一回位発行され、それに寄り引け高安を記入して、相場の目安にしていたのですが、私は、自分で方眼紙を買って来て、自分の銘柄を克明に記録し、それを相場の判断の基準にしていたものです。

不思議なもので、そんな事に熱中していると、罫線を見なくても過去の罫線が目に浮かぶ様になり、あの株は何月何日に,高値いくらで、安値がいくらだったと言うようなことまでわかるのです。人間意識を集中すると,とんでもない能力が出来るもので、社員さんがよく過去のデータを聞きに来たものです。

私の家の近くに、百人一首で全国一になった人がいましたが,ある時その極意をたずねたら,兎に角並べられたふだをじっと見つめるだけで,それが額に焼き付いていて、うたが読み上げられた瞬間に無意識にそこのふだへ手が飛んで行くのだ。と言っていましたが、まぁ、能力はあるにしてもやはり集中力ですね。好きこそものの上手なり,と言う言葉がありますが、好きでこそ集中力も生まれるのですね。

話がそれましたが、毎日毎日が針の筵と地獄の責め苦が続くのです。買い戻せばこの苦しみから開放されるのですが、それをやれば,今まで儲けてきた膨大な利益が吹っ飛んでしまうし、かといって、大きな玉を建て過ぎているため、もうこれ以上は,証拠金を持って来なければ、いかに会社が融通をきかせてくれるといっても限度があります。相場は人の気も知らないで、じりじりとがぶりながら上げて来るし、もうどうにもならない所まで追い詰められたのは、s42年の9月頃でした。

そんな時,大阪の業界紙の人が、鉄砲商いのことを教えてくれたのです。鉄砲商いとは、株は買い付けてから四日目に現金と受け渡しするのですが,この四日間を利用して,無一文で商いをやるのです。どうするかと言いますと、買いつけた株の売買伝票を、北浜の地場証券に持っていって、三日目に売るから明くる日,即ち買い付けて四日目に金をくれるか、と交渉するのです。当時はどの店でも商いが欲しいから大体OKしてくれるのでした。何故かと言えば買いは現金を持って行くか,信用がなくては受けてもらえませんが,売りは、買ったことさえ証明できれば、株券は四日目には必ず入ってくるからです。株券さえ入れば一日位の金融は、どこの店でもやれた事でしょう。

問題は、買う店です。先程も言ったように買いは、四日目に株券と引き換えに現金を支払うのですから,実際は一円の金もいりません。でも、最初から一文なしでは取引出来ません。そこは、新聞関係者の紹介と言う事で,どこの店でもOKしてくれました。

そんな事で、追い詰められた私は,ついにこの危険な取引をやる事になるのです。しかし、もし失敗すれば、というのは、買値より三日目の値段が下がっていたら、売った値段との差,即ち損金は私が払わねばなりません。その時の私には差金を支払う金もありませんでしたから,絶対に値上りする株を見付けなければなりません。最早絶対絶命の崖っぷちです。

何かやって金を作らねば、今までの苦労は水の泡になってしまいます。もしこの危険な商いをやっても、失敗すれば同じことですが。座して死を待つよりも出でて活を得ようという心境で,ついにこの鉄砲商いに踏みこんだのでした。

しかし,案ずるより生むが易しといいますか、最初の商いは成功でした。10万株で諸経費を引いてきっちり10円の値上りが取れたのです。無手勝流で手にした100万円、本当に嬉しかったですね。このやり方で何とか資金を繋いで行けば,その内に引かれ玉の相場もやがて下げに入るだろうから、何とか頑張ろうと、少しは希望の灯が見えたのでした。仕掛ける玉も段段と大きくなり、その度に利益も大きいのですが,毎日の心労たるや並大抵のことではありませんでした。

八〜九回までは何とか無事でしたが、その間にも私の引かれ玉だけは値上りするのです。何とも意地の悪い。そこで、乾坤一擲の大博打に出たのです。ひと商いで50万株の取引を、今は潰れて無くなった山一証券でやりました。当時大阪の特定銘柄だった東洋紡を97円で仕切らせたのです。引け後,掛かりの社員と当時の株式部長が我が家に来て、私の命が掛かっていますから、必ず受け渡しをお願いします、と言ったのをはっきりと憶えています。

さて、この受け渡しは上手く行ったのでしょうか。この結果は、又来週までお待ち下さい。






我が華麗なる過去?5♪


旧山種証券の創始者,山崎種二氏。映画大番の、牛ちゃんのモデルになった、佐藤和三郎氏。それぞれ戦後の相場界に鳴り響いた,大相場師ですが。いつしか彼等が、私の強い憧れのスターになっていました。おっかなびっくりで僅かな株を買い始めてから,足掛け三年,いっぱしの相場師気取りで,いい気になって,後先も考えずに突っ走って来た私の前にもはや身動きの出来ない状態が具現されてしまったのです。

私の命が掛かっていますから、必ず受け渡しをお願いします。と真剣な眼差しで私を見つめながら言う株式部長の言葉に、ハッと胸打たれた私は、受け渡しが済むまでの四日間,値動き次第でどうなるか分からないけど、なんとか安心させて上げようと思い、とんでもないことを、口走ってしまったのです。

「部長さん、心配しさんな、実はこの玉は私のものとちゃいまんねん。私の友人のホンコン筋からの注文でな、対税上の、私がダミーになっとんねんからな。今まで他の大手さんでも、何回も同じことをやらせてもらってまんねや。これより大きな玉の時もあったんやで、受け渡しは○○銀行の応接室でやりまっさかいに、株券きっちり揃えて持って来てや」

言った私がびっくりするような、はったり、ようこんな言葉が出たものです。でも、私のその言葉で二人の顔がほっとゆるんだものです。考えて見れば、若い喫茶店のオーナーが、50万株、時価五千万円からものを買い付けたのですから、いかに商いが欲しいからといって、受けてからも、不安で一杯だったのでしょう。

当時の五千万円と言えば,市内の土地が、場所によって値段は違いますが,私の居た近くの土地が坪一万円くらいでしたから。今,その辺の時価は坪百万円くらいしてますから、土地の値段で換算すれば、百倍の、五十億円くらいの金額でしょうか。そりゃぁ心配して当たり前でしょうね。

「そやけど、言うときまっせ、絶対にこのことは、口外せんといてや、次ぎの商いもあるこっちゃさかいに、人に知れたら、私のバックが店変えっちゅうやろからね」

「は、はい、わかってます、絶対に口外は致しません。ま、よろしくお願い致します」

二人は安心したような顔で、帰って行きました。まぁこれであの二人、心配せんと四日間は過ごせるやろ、ほっと一息ついたところで、さぁ、こんどはこっちがハラハラ、ドキドキ、値動きと、地合いを計って仕掛けたものですが、あまりにも大きな玉のため、三日目の一日で売りきれるかどうか、はたして、値上りするだろうか、スリルが大き過ぎて体が押しつぶされるような感じ。あぁ,もう少し少ない玉にしとけばよかったのに、いくら悔やんでも、後悔先にたたず。

エーイ。くよくよしたってしゃーないわい、度胸尻馬だ〜,山より大きな獅子は出えへんで〜、なんて開きなおってしまいました。

私は、"流転"と言う歌が好きで、いつも口ずさんでいたものです。

♪どうせ一度はあの世とやらへ
 落ちて流れて行く身じゃないか
 鳴くな夜明けの 鳴くな夜明けの 渡り鳥♪

人生の目的も分からず,気侭奔放に生きてきた私の心情に、一番ぴったしの歌です。その夜も大きな声で歌ったものです。無謀と言おうか、アホウと言おうか、とにかく、売り玉を締め上げられて、もう、無茶苦茶ですわ。明日はどうなるのか分からないのに・・・

妻や子供たちは、可愛らしい寝顔ですやすやと横で寝ています。もし、私が飛んだら、こいつ等いったいどうなるんやろ、山種や、牛ちゃんに憧れて、いっぱしの相場師気取りで、無茶な商いにのめり込んだ報いが早や,我が身をギリギリとさいなんで来る。自業自得とは言え,あまりにもつらい。人生で初めて味わう地獄の苦しみ,一生食いっぱぐれのないほど儲けて来た金は,場合によってはもうすぐパーだ。妄想は悪い方へ、悪い方へと逞しくなって行きます。ようやく眠られぬ夜が白白と明けて来ました。

さぁ,今日の相場はどうなる。場の開けるのが待ち遠しい。場が開けて見ると、我が希望の星,東洋紡はじりじりと上げていくではありませんか、読み通りの展開です。98円、99円、ついに100円台に乗せて来ました。やれやれ大きな節目は越えたな、と一安心。当時の市場は今と違って大きな動きは余りなく、10円取るのがやっとのような有様で、東洋紡のような大型の株はなおさら値動きが遅いのでした。

仕掛けた時から,せいぜい手抜けの10円あればいいと思っていたので、100円はまず第一の関門でした。一日目の前場に100円を付けたので、まぁやれやれと思ったのですが、とにかく,三日目までは100円以上には居てもらはないと、手数料も出ないので、それこそ、かなわぬ時の神頼みと言うやつで、仏ほっとけ、神かまうなが信条の私が、少し厚かましいけど、神さん、仏さん、お願いしますと、心から拝んだものです。その甲斐あってか、一日目は101円と大台に乗せて終わりました。

私の鉄砲商いを知っているのは、売りを頼んでいる店の歩合外務員さんと、常に私を指導?してくれる新聞記者さんの二人だけ、夜になって北の新地で三人で呑みながら、この玉の始末について、ケンケンガクガク,面白おかしく話合ったのですが、気のまぎれているのはその間だけ,一人になるとなんとも例えようもない、空虚な気持ちに襲われて泣きたいような思いでした。男はどんな事があっても泣かないんだ。なんて強がってみても,頬に伝わる冷たい感触に思わず我にかえり,自分の不甲斐なさに腹が立ったものでした。

二日目も、全体の相場は弱いのですが,我が東洋紡だけは,まるで別物のように力強く一円,一円と上げていくのです。どうやら私の50万買いが火を付けたようで、予想以上の動きになって来ました。なにしろs42年は前半高の後半安で、8月から急に下げだし、12月の11日の1250円まで下げ続けでしたから,こんな中での鉄砲買いは、まるで神業のようでした。

自分で言うのもなんですが、10回くらい続いた四日目勝負で,仕掛けた株のほとんどが、思った通りの値動きをしたものです。それにしても売り上がっている大和ハウスの強いこと、これも、下げ相場に逆行してじわじわと,私の売り玉を締め上げて来るのです。まるで,誰かが,私の懐を狙っているかのように・・・。

いよいよ、決戦の,三日目がやって来ました。我が東洋紡の昨日の大引は、104円、このままの値段で売ることが出来れば、万万歳です。昨夜は明日に決戦を控えて,心は明鏡止水のように穏やかで,前夜のような乱れはありませんでした。と言っても開き直って不貞腐れているだけでしたが、それも104円と言う大引け値お蔭だったと思います。そんな訳で,ゆっくり寝てしまって、こんな大切な日に朝寝坊をしてしまい,立会い時間までに大阪までいけなくなってしまいました。

しまった。この大切な日になんてこった。あぁ、不吉な予感。しかし今更悔やんでも仕方がないので、店に電話して、寄り付きの場味を聞くことにしました。

「どないや、とんぼう(東洋紡の事を私はこう呼んでいました)どないなってる」
「はい、2円高の106円の寄りです、寄りあと6円買いで20万ありますが」
「ほんまか、やった〜、それ20万売ってくれ〜」
「はい、6ヤリ20万・・・出来ましたで〜、20万売れました〜」
「サンキュウ、あとないか?」
「まぁまぁ、慌てなさんな大将、慌てる何とかは貰いが少ない言いまっせ〜」
彼の声も思わぬ高値の成約にはずんでいます。
「N証券から6買い10万出ました〜」
「よっしゃ、それ10万売ってくれ〜」
「はい、6ヤリ10万出来ました〜、たか30万です」
(たか、と言うのは、業界用語で合計と言う意味です)
なにしろ、彼は、場伝の側に陣取って、直接場伝に指示を出し、場伝から取引所の場立ちに指示が行き、場立ちがすぐ取引して、復唱するから早い。今のネット取引より早かった?かもしれない。
「あと、20万残ってるで〜、次ぎ出えへんか〜」
「はい、D証券から5買い10万出ました、どないします、売りまっか〜」
「よっしゃ〜、それ10万売ってくれ〜」
「出来ました〜、たか40万です、残り10万でんな〜」
「そや、残り10万や、もうなんぼでもええで〜」
「何を、もったいない事いうてまんねや、がっちり行かなあきまへんで〜」
「なんや、わし、励まされとんかいな!」
「そや、励ましてまんねやないか、この玉、大き過ぎて苦労しとったんちゃいまんのか」
「いや〜、あんがとさん、あんた、命の恩人やで」
あまりの調子のよさに二人とも本当に浮かれてしまったのでした。
「ほい、又、N証券から5買い5万出ました」
「売って、売って,その5万売って」
「ほい、出来ました」
「あんがと、あんがと、残り5万や」
「大将、場で、山一が買うた50万、地場から売っとんちゃうか言うてるらしおまっせ」
「何とでもぬかせ、もう遅いわい」
「買いもん、引っ込みましたで〜」
「かめへん、かめへん、昼から値叩いてでも、売ったるわい」
「ええ値で売れて、大将、えらい強きでんな〜、ほな、昼から待ってまっせ」
「よっしゃ、美味いもんでも食おで、おごったるわ」
「あったりまえでんがな、なんぼの儲けでんね、ちょっとはお裾分けたのんまっせ」
「よっしゃ、まかしとき、ただ働きはさせへんで〜」

締め上げられている玉の事も忘れた様に、大玉売却の成功に酔い痴れるのでした。後場はさすがに買いの手も、あまりありませんでしたが、ちらほらと大証券に提灯買いが出て、残りの玉は103円で全部売り切り、目出度くこの勝負は勝ち。胸のしこりが取れたような快感でした。

株式部長さんの笑顔を見ながらの受け渡しは,本当に晴れ晴れとした心境でした。

もう止めた。こんな危ない商いしていたら,何時か失敗するに決まっている。今日の儲けで担保の金も多少は入れられるし・・・。

しかし,運命はいたずらなもので、それから、間もなく一大危機が訪れることになるとは、多少の予測はあったにしても,それは,あまりにも急なことであありました。

では、又,次回をお楽しみに、11月相場はどうなりましょうか,これもお楽しみに。

皆様に強運がありますように。