株式歴35年
北浜老松氏の
 華麗なる過去


お読みでない方は最終回まで目が離せませんよ(^_^)


少し重いようなので
我が華麗なる過去?1〜5
はこちらから

我が華麗なる過去?6〜10


完結編
      ここからです




我が華麗なる過去?11♪


又,退屈な土,日、が巡って来ました。今週はようやく反騰で終わって
来週の相場が大いに期待されますが、この、二日間は、本当に退屈です。
せめて、我が稚拙な思いで話で、退屈を紛らわせてください。

人間の運命は、何時、何処で、どう変わるか分からないもので、山田君と私の不満が一つになって、全国五大紙と地方紙の各新聞紙上に、その成果が発表されるとは…、まさしくそれは、夢の実現でありました。これが運命と言うものでありましょうか。私は、この現実に改めて運命の不思議を感じると共に、運命を予知する能力のあることも認識したのでありました。

と言いますのは、予知というよりは、未来の出来事を想像するという事でしょうか。そして、その想像が実現した時、これは、その事を予知していたために、想像できたのではないでしょうか。私は自分の過去を振り返って見た時、それが、良い事であろうが、悪い事であろうが、実現以前に、必ずその結果を想像していた、ということです。相場で失敗した時も、勝ち進んでいる時に、失敗して裸になっている自分を想像していました。その時は、え〜い、くだらない事を考えるなと、自分を叱っておりましたが、結局はそうなってしまいました。相場を始めた頃は逆に、バリバリ相場を張って大金を湯水の様に使っている自分を想像していました。そして、その現実もやってきました。

私は、この事に気が付いた時、これは面白い、この想像力を自分で意識的にコントロール出来ないだろうか、もし出来れば、将来はばら色だぜ、なんて思ったものです。が、まぁこの件については、後日、又、項を改めてお話したいと思います。

では、パート10の続きをお話ししましょう。
新聞発表によって、ある日突然に脚光を浴びた我々の排ガス防止装置は、関係する人々を欲望のルツボに叩き込んでしまいました。先週お話しした様に、大阪の会社が三社ほど、販売代理店の交渉を打診して来ました。どの会社も、小型ではありましたが他の商品の販売実績はかなりのものでした。

山田君達の結成した新会社の社名を、仮に「クリーン」としておきましょう。で、このクリーン社の面々は、予期せぬ反響にただもう舞い上がってしまいました。そして、最早儲けは絶対であると予想して、販売促進のために大阪から来ていた販売代理店の話を、何とか契約したいとあせっていましたが、大阪の商社は、各社とも、全国だとか、近畿だとか、私の権利の範囲内ばかりで、私がいる限り話が進みません。

クリーン社は、私に出した代理店契約を、今更ながら後悔していると言う感じでした。しかし、私を説得しない限りどうにもならないので、様々な譲歩案を持ってきました。その一つに、広島以西の販売代理権と、準備資金として100万円出そうというのがありました。文無しの私には、悪い条件ではないので一応考えるということで、しばらく待ってもらい、大阪の商社に、私の持っている関西一円の販売権をいくらで買ってくれるかと打診しました。

三社の内二社はいくら時流に乗った新製品であっても、売れるかどうかも分からぬものに、金は出せんということで、相手にならない。しかし、後の一社はかなり乗り気で、私の話に乗ってきました。結局、この会社が100万円で売ってくれぬかと言う事で、鉄は熱い間打てと言いますから、私としてもこの辺の値ごろが手の打ち所だと、OKしたのでした。

結局、最初に儲けたのは私でした、そして、損をしなかったのも私一人でした。先程私が、鉄は熱い内に打てと言いましたが、私は、一般のユーザーが、いくら排ガス防止の為だとと言っても、身銭を切ってまで、排ガス防止に協力するかという不安を持っていましたから、ドラスチックな発表で関係者の欲望が燃え上がっている期間は、そう長続きするものではなく、熱が冷めて冷静に後先を考える様になれば、出来る話も出来なくなると思ったので、鉄は熱い内に打てといったのです。

しかし、実際に商品が動くようになるまでは、皆さん、カッカと燃え上がっていた様です。何しろ、山田君の何億、何十億の話が連日会社内であじられるので、無理もなかった事でしょう。

さて、私が関西一円の販売権から手を引くことになったので、会社の皆さんのご機嫌のいい事、人間こうもあからさまに態度を変えられるものでしょうかね。ったくもう、一生懸命に、皆さんの為に頑張って来たのに、(まぁ、私のためでもありますが…)この商品を世に出すために、ドラスチックな演出までやったのに、現在であれば、テレビも動員したでありましょうに。人の良いのもアホの内と言いますから、私は、彼等にとって人の良いアホなピエロでしかなかったのでしょうか。

ま、しかし、私としても、大阪の商社に販売権を売ったことは、クリーン社には内緒の話なので、五十歩百歩ですが。

さて、広島以西の販売代理店の話は、大方まとまっていたのですが、またまた山田君の父親の案で条件を付けて来たのです。その条件とは、山田さんの知り合いで、過去に販売会社をやっていた人がいて、いま遊んでいるので、その人と共同でやってくれないか、と言う事です。私は、広島へ居を移して、販売店の募集をやれば、かなりの参加者があると思って、其れなりに、計画を練っていたのですが、この話が出た時に、何か、ひらめくものがありまして、即座に承知したものです。

それは、どう言うことかといいますと、前にも申しました様に、この商品が、自動車のユーザーには、後ろ向きの費用の負担になるために、売れるかどうかの不安があったからです。それと、もう一つ心配なのは、商品としては完成しているのですが、いわゆる、実用テストが出来ていないと言うことです。もし、この装置をつけたことが原因で、エンジントラブルなど起きたら…、等などの不安が、私には最初から付きまとっていましたので、ここは、目先の欲に惑わされず、将来の自己保全を考える上でも、山田さんの話を飲んだの方がいいと判断したのです。

そんな訳で、広島へは、クリーン社から紹介された、Tさんと一緒に行く事になりました。クリーン社の連中からすれば、文無しの癖に発言力の強い私を、お目付け役を付けて広島へ放り出す事で、目の上のたんこぶが取れたように思ったのでしょう。 私は、先に書いたような不安を持っていたので、ここは、思いっきり譲っておいた方が、もしもの時に安全だわいと、クリーン社には、Tさんを社長にして、私は、平の営業部長と言うことで了解してもらいました。山田さんは、私の謙虚さにご満悦の様子でしたが、後になってこのことが、私を救う大きな決断になっていたのです。

Tさんは、流石に商売人で、当りも柔らかく、最初から私と馬が合う様子で私も一安心、そして、私が社長のイスを譲った事で、大変に恐縮してくれていました。私にすれば海のものとも、山のものとも分からぬ、小さな販売会社、(会社の登記はしてない)の、社長であろうが、平の営業部長であろうが、どっちでもいい事、広島行きも、暢気な一人旅のような気なので、すこぶる快適な移住でした。文無しの私が、100万円の銀行預金も出来たし、又、クリーン社からもらった100万円で広島事務所を開設出きることも楽しい事でした。勿論、この金は、Tさんと二人のものですから、すべて私の自由と言う訳には行きませんが、Tさんとすれば、こんな、うまい話に横から飛び入りしたと言う引け目があるので、常に控え目でした。

昭和二十五年の秋、神戸の地に居を移してより今日まで、一度も離れた事のない第二の故郷とも言うべき此の地を離れるのは、かつて親元を離れた時のように離れ難い思いがありました。六十七歳を過ぎた今から振り返って見れば、まだまだ甘ちゃんだった様です。当面の着替えと日用品を入れたボストンバッグ一つを持って、新幹線の新神戸駅でTさんと待ち合わせ、見送ってくれる者一人もない静かな旅立ちでした。

広島駅近くの、光町のマンションの一室を借りて、Tさんとの共同生活が始まりました。この辺りは原爆の被爆で放射能の為に、数十年は草も生えないと言われていたそうですが、私が行った昭和四十五年頃(だったと思います)には畠もあり青々とした作物が繁っていました。なんでも、この辺りの人は、終戦後に前記のような理由で、1坪当り一円で買ったとか、真贋の程は分かりませんが、そんな話を聞いた事があります。

広島には、Tさんの知り合いがいて、その人に随分とお世話になったものです、が初対面の時には、凄い御面相に少なからず驚いたものです、と言いますのは、顔面の左半分が焼け爛れ、左の耳は垂れ下がって顎に引っ付いていたからです。彼の話に依りますと、ピカ(原爆)でやられたとのこと、昭和二十年八月六日の朝、学校から勤労奉仕で元安川の堰堤を歩いていた時、友達が、

「おい、あれはなんだ」

と指差す方を見上げると、B−29(アメリカの爆撃機)が飛び去った後の空に、落下傘がフワフワと落ちて来たそうです。彼は何かしら急に不安を感じて両手で目を覆い、しゃがんだのだそうです。その瞬間にピカーッと来て次に腹に応えるドーンという音と共に元安川へ吹き飛ばされたのだそうです。後は無我夢中で川岸に這い上がり、人の顔を見るとまるで皆んなお化けの様に、顔の皮が垂れ下がってたそうです。「お前その顔どうしたんな」すると、相手も、「お前こそ、その顔どうしたんなら」と生きていたものも、死んで川に浮かんでいたものも、すべて、焼け爛れていたそうです。

そんな、リアルな話を聞かされて、彼の顔を見てひどい事思った自分に腹が立ったものです。人間が人間を殺し合う野蛮な事は絶対に止めねばならんと改めて思うのでした。

彼のお世話で市内に事務所を構え、いよいよ営業活動を始めましたが、何処の自動車修理工場に打診しても、やはり、良い返事は返って来ません。私が危惧して居たように、環境改善などと言う、錦の御旗を振りかざして見たところで、所詮、個人の利益にはならいので、無理があります。そこで、私が考えていた販売代理店を募集する事に注力する事として、新聞広告を出したところ、長崎と、沖縄から反応があり、営業部長の私が出張する事になって、先ず、沖縄へ飛びました。空から見る沖縄の海は、コバルトブルーで、あぁ、南国へ来たな、の思いがしたものでした。当時の沖縄は、まだ、アメリカの占領下にあり道路も右側通行で、道路を横断しようと思うと、いきなり左から車が来るのでびっくりしたものでした。

沖縄では、那覇市で代理店を一店つくり、何とか出張の費用を生み出す事が出来ました。帰路、長崎に立寄り、ここでも一店契約し、営業部長の面目躍如でしたが、結局この二店共に利益を上げてもらう事は出来ませんでした。沖縄の人も、長崎の人も、良い人ばかりだったのに、出資した全額が損失となって仕舞った事は、後日本当にすまなく思ったものでした。

広島へ行ったのが秋も深まった時期だったので、いきなり寒くなって来ました。男所帯で部屋の中は殺風景なもので、寒さをしのぐのには、二人共風呂ばかり入っていたように思います。事務所に行っても、電話一本掛かってくる事もなく、格好ずけに雇った女子事務員も手持ち無沙汰がいやだと辞めてしまう始末。クリーン社からは、何故売らんのかと矢の催促。会社の話では、大阪の代理店はじゃんじゃん売っているらしい。

やはり土地柄によって違うのかななんて、Tさんと悩んでいたのですが、ある日、その大阪の代理店から、電話が入り、クリーン社から、広島の代理店は、かなり売っていると聞いていますが、一体どんな売り方をしているのか、教えて欲しいという話で、クリーン社のけつ叩きと言う事が分かり、Tさんと二人で大笑いしたものです、

が、事態は深刻です我々二人の生活費の事も考えねば、クリーン社から出してもらった百万円も、座して食らえば山をも空し、でいつまでも有るものではなし。進退ここに極まれりと追い込まれたのは、広チョン二人の生活がはじまって、半年余りの事でありました。こんな中でも、始めて来た広島市内にも精通し、薬研掘(やげんぼり)流川町(ながれがわ町)田中町などの夜の町には、特に精通していたものです。Tさんは私より十才ほど年上で私は三十代、男って奴は,本当にしょうがないものです。

またまた,私が想像していたことが現実となってしまいました。広島へ来る時から,希望に燃えて大きな夢を見ていなければならないのに、どうしても,逆の想像が逞しくなっていたのです。これには,過去の経験から気分の悪い思いをしたものです。しかし,現実は,又、想像通りの状態になってしまいました。やはり,予知能力が働いていたのでしょうか。

今度の場合は、最初にTさんに社長の座を譲っておいたお蔭で、クリーン社からの風当たりは社長のTさんばかりで、こうなると平の営業部長は、いたって楽な立場でした。大阪の商社へ販売の権利を売った金は、手付かずで私の預金通帳に入っています。私は,いつかこの金を元手に又、相場の世界へカムバックする事を夢見ていましたから、逆境に放り込まれた今も、未来の楽しみに慰められていたものでした。

Tさんと私は、とうとうこの商品に見きりを付け、折角広島へ事務所を出したのだから、何とか他の商品を探して売る算段をしようではないかと言う事になり、幸い資金も少しは残っていたので、Tさんの昔の知り合いを頼って、健康器具の販売をする事になりました。

当初の夢破れて、広島の街をさまよう広チョン二人は、来週から、ストレッチという健康器具を抱えて、広島市内を這い回る事になります。

今週の話は、なんとも勢いのない話で、お読みになった皆さんも、いまいちではなかったのではないでしょうか、来週は、少しは面白い話をお聞かせ出来ると思います。それでは,又、来週をお楽しみに。


我が華麗なる過去?12♪


1970年(昭和四十五年)アメリカで、自動車の排ガスを規制する法律、マスキー法が制定され、わが国においてもあらゆる公害問題がクローズアップされ、自動車排ガス問題も当然アメリカに追随して世論の高まりとなったのでありますが、こうした世論に対して、腰の重い自動車メーカーに先駆けて、いろいろな排ガス防止器機が出現したのでありました。

我々の,開発した装置は、こうした中小メーカーの動きの、いささか後塵を拝した感がありましたが、先にお話した様に、制作したのが上場会社であったと言うだけで、マスコミの取り上げ方に違いがあったのではないかと思っています。そして、そのお蔭で、当初の人気が出たのでありましょう。

しかし世の中そんなに甘いものではありません。建て前と本音は、世の常であり我々の商売も、この建て前を勘違いした為に失敗したと言う事でしょう。やはり商売は、お客さんに直接利益をもたらす商品を扱はなければダメだと言うことを、いやというほど認識させられたものです。

その後,この排ガスの問題は、自動車メーカーの手によって、解決された事は,皆さんのよくご存知の事で、排ガス防止器メーカーは、すべて淘汰され、大儲けの夢は儚くも破れたものです。そんな訳で、Tさんと二人の広島事務所も、食って行く為の方法を健康器具の販売に求めたのでありました。

クリーン社から送ってきた商品は事務所に山積みになっていて、その決済をやいやいと言って来ましたが、売れない商品に金を払うわけにも行かないので、引きとってもらう事になりましたが、先方さんも在庫の山積みで、最初の意気込みは何処へやら、会社内部では大揉めだった様です。結局、交渉の矢面に立っている社長役が、山田さんの知人であったので、山田さんの決断で,広島の商品は引き取ると言う事になったそうです。

と言いますのは、クリーン社を結成する時に、息子の山田君と、自分とで、株の半分以上を強引に要求し、会社の実験を握っていたとの事で、自分が強引に私にTさんを押しつけた責任を取ったようです。山田さんは、私に対していろいろ文句を言って来ましたが、平社員の待遇は最初に山田さんに確認させておいたので、流石の山田さんも、私の責任を追及することは出来なかった様です。あの時,私が欲に目が眩んで社長をやっていたら、山田さんから、どんな仕打ちを受けていたかと,今更ながら自分の幸運を自覚したのでした。

クリーン社との解決も無事終わったある日、相棒のTさんが意外な事を言い出しました。

「北浜さん、実は,私が貴方と広島へ来る事になった裏には、五十万円の出資を山田さんから要求されて、この商売なら、成功するだろうと確信して、山田さんにその金を渡したのですが、もし、このことが貴方に知れたら、貴方が契約違反だと言って来るに違いない、そしたら T君が身を引かねばならん事になるから、と,沈黙を守るように言われていたので今日まで黙っていたのです」

と言うのです。私は、山田さんが、Tさんを私の目付け役として送り込んだ、と思っていましたから、この話を聞いて、今更ながらに山田さんの商売根性に感心したものです。結局,私に出した100万円の金の半分は、Tさんの金だったのです。私の大阪の商社との裏取引と言い、山田さんのやり方と言い、まるで、キツネとタヌキの化かし合いみたいなものです。商売が上手く行っておれば、皆んな何も知らずに目出度し目出度し、と言ったところですが、すべてが裏目に出た事で、いかに狡猾に企んでも、お互いの損得がはっきりした事でした。

と言うのは、山田さんは、会社の実権を握る為に、他の出資者以上の出資金を出していますから、会社の清算によりその金はすべてパーとなったのに対して、私の場合は文無しが幸いして、無手勝流?で手に入れた販売権の売却代金と、広島移転の承諾料の金を手に入れて、過分の儲けでした。

金持ちが損をして、文無しが徳をする。欲目に眩んだ者と、冷静に判断する者との違いは実にはっきりと結果が出ると言う事の実証でした。しかし、損をした山田さんには、その種をまいたのが私ですから、今日に至るもすまない気持ちが消えません。まぁ、生きていればなにかで報いて上げることもあるだろうと、自分を慰めております。

そう言えば、技術部長のKさんも、北浜さんに説得されなければ、こんな事にはならなかったのにと言っていたとか、よかれと思って努力した結果がみんなを悪目に引き込んでしまって、ままならぬ運命に張り切りボーイの北浜さんも、息消沈すること大なる事でありました。

さて、健康器具の販売なんか止めて広島から引き上げ様か、などと思っていたのですが、相棒のTさんの話を聞いて、Tさん一人を広島へ放り出す事も出来ず、ここは、Tさんが何とか身の立つまで,協力してあげようと腹を決め、いよいよ第二の営業活動を始めることになりました。

商品は、ストレッチと言って、その器具を仰向けになって背中の下に敷き、背骨を弓なりにそらし、電気で、器具の表面に取り付けられた12個の指圧玉を振動させて、脊椎を矯正しながら内臓の働きを活発にして全身を活性化させると言う、いたって簡単なマッサージ器で、取り扱って見ると案外に好評で、前の排ガス防止器とは違って、使ってくれる人が喜んでくれるので、やりがいのある仕事になりました。

相棒のTさんが、知人のつてで東京のメーカーから、商品は代引き現金払い、一度の取引台数は、30台と言う事で、かなり安く仕入れる事が出来たので、当時の販売価格が確か13000円くらいだったと思いますが、定価で売れば半分以上の儲けが有ったように記憶しています。この商品は今でも健康器具を販売している店に出ていますが、約四万円近くしている様です。

私は、前にベルトマッサージャーを売っていた経験がありましたし、今度の商品は持って歩けるので、割合簡単に販売に馴れて来ました。先ずは、ご近所からと,光町界隈を個別訪問しました。各戸に飛び込みで行くので、最初から相手にしてくれる家はまずありません、ほとんどの家が門前払いです、まして,世間狭い地方都市のことであればなおさらのことです。(広島の人すみません)

それでも何回も同じ家を訪ねる事により、最初はけんもほろろに断わっていた人も、根負けするのか、顔見知りになったと言うのか、冗談の一つも言えるようになると、何とか話を聞いてくれる様になります。
「お兄ちゃん、どしたんな、何回も何回も来て、何ええもん持って来たんな」
と大抵は相手になってくれるようになります。そこで、ここぞとばかりに、商品説明をやります。
「健康器具なんて、使ったことないわ」
と言う家は、まずダメでしたね。その代わり、そんなもん売るほど有るわ、と言う家は、必ず買ってくれたものです。訪問販売のコツは、一度で諦めない事、必ず数回はアタックする事。同一系の商品を持っている人は,必ず興味を示すから、押して押して買わす事が出来るが、一から説明を要する人には、時間の無駄だから、すぐに引き上げる事。などなど、現場で経験する事によって編み出したセールスティクニックでした。

ある日、いつもの様にアタック中の家が、話を聞いてくれる事になりました。出て来たのはまだ、うら若い(40代くらい)美人の奥さんです。いつもはインターホーンで声を聴くだけですから、相手はどんな人かもは分からなかったのですが、(私が女性を評価すると,必ず美人だと言いますが、本当に美人だったのです)私は、綺麗な奥さんだな〜位で、その時は商売大事と必死のセールストークです。

その奥さんは、私の説明を聞いているのか,いないのか、私の顔を見詰めながら、分かったような,わからないような顔してときどきうなづくだけ、一応の説明を終えると、商品を持って夜もう一度来てほしいと言うことで、ホイ,一台売れたわいと喜び勇んで事務所へ帰り、Tさんに報告すると、Tさん曰く、

「北浜さんええ話やないの、充分楽しんでお出でや,」

なんて言うので、鈍い私も言われて見れば、もしかして、夜に来てくれというのは、別の要求があったのかな、なんて勘繰りが出て、こりゃ〜困ったぞ、あの美人に迫られたら、よう断わるやろか、などど思いを巡らせながら夜の来るのを待ったのです。

さて、皆さん方もご期待の夜がやってまいりました。当人の私はなおさらの事、ピンク色の期待に胸を膨らませながら、ピ〜ンポ〜ン。

「昼間の、者ですが、」
「あ〜、入ってちょうだい」

まぎれもない美人奥さんの声です、恐る恐る入って行くと、なんと彼女はすでに艶かしいパジャマ姿ではあ〜りませんか、おいおい、これからどうなるや、私の胸はまだ異性を知らなかった少年の頃の様に早鐘を打っています。奥の間へ誘われると、真っ白なシーツを掛けた,布団が引いてあるではありませんか。

進退ここに極まれりだ。こんな所でこの人と縁を結んだなら、広島の地を離れられなくなるぞ。いやいや,いいではないか、こんな美人と暮らせるなら、もう一苦労しても後悔しないぜ。など、一瞬の間にいけない想いが頭の中を駆け巡ります。

「あんた、持って来たあんま器の使い方教えて」

私のみだらな胸の内を知ってか知らいでか、彼女の冷めた声に、ハット職業意識に目覚め、

「はい、それではお布団に横になっていただきます。」

仰向けになった彼女の背中の下にストレッチ(マッサージ器)を入れ、スイッチを入れるブルブル〜ッと振動音がして彼女の体が小刻みに振動します。弓なりに反った彼女の口からは、ほ〜と吐息が漏れる、薄いピンク色のパジャマの下の豊満な肉体が心地よさそうにうねる…。ったくもうたまらんな〜。私は、自分の気持ちをそらすように、

「奥さん、気持ちいいでしょう」

彼女は、気持ちよさそうにうっとりと目を開け、

「ええ気持ちや、昼間あんたがあんまり上手に薦めるから、いっぺん試して見ようと思って今夜来てもらったんよ、ほんまに、これはいいわ、それにあんたええ男じゃけんね」

そ〜れお出でなすった。どないしょう、そりゃ〜考えても見てください、だ〜れも居ない二人っきりの部屋で、布団に横たわったあでやかな美女を前にして、その彼女から、お誘いの声一発。頭はクラクラ、お目目もクラクラ、からだの全部がコチンコチンに固くなり、即戦OKの状態。しかし、その時、母親の話が突然脳裡に蘇えってきたのでした。なんでこんな時に,母親の話を思いだすんや。と思いながらも、今まさに暴走しようとする狂気に急ブレーキがかかったのは事実です。

私が常に母親から聞かされていた話は、人間は、いつも良心に恥じない生活をしなければならん、男女の中も、同じこと。お前達が、両親揃って大きくなれたのも、お母ちゃんが身持ちを固くしておったお蔭だよ。昔,お父さんが気ままして東京へ飛び出して行った時親戚のものに、あんな男とは別れて他の人に嫁ぐ様に勧められたが、子供達の事を考えると、独身でおって父なし子にするのも可愛そうだし、かといって他の人と一緒になれば子供らには他人の父親になるし、ここは、子供達の為に、飛び出した父親について行こうと決心して、東京へ出て行ったのだ。

その後一方ならぬ苦労はしたけれど、あの時、お前達の父親に付いて行って良かったとつくづく思う。だから,お前も、大きくなって家庭を持ったら、決して家庭を壊すような遊びはしてはいけないよ、これは,母の願いだと思っておけ。と言われていたことを、今,一番大事な時に思い出したのです。

頭から冷や水を掛けられた様に,いっぺんに冷静な私に立ち返りました。

「奥さん冗談はいけませんよ」

未練たらだらの奥さんを振りきって事務所に帰り、事の次第をTさんに報告すると、

「あんたもアホやな、先方さんが可哀想やないか、なんちゅう男や、据え膳食わぬは男の恥と言うではないか」

と散々でしたが、私はあれでよかったんや、と自分を慰めたものです。

訪問販売をしていると,本当にいろいろな人と知り合いました。良い人,悪い人,良い出合い,悪い出合い、と、様々な出合いがありましたが、あの時、私が誘惑に負けて彼女と縁を結んでいたら、広島が離れ難い街になっていた事でしょうし、後々まで苦しむ事になったと思います。あれから三十年余り経ちましたが、今、心穏やかに暮らして居れるのも、若かった時代に、後で困るような因縁を結ばなかったお蔭だとつくづく思います。

今日は、昨日の原因の結果であり、明日は、今日の原因の結果であります。今日幸せに暮らそうと思へば、昨日、その種を蒔いておかなければなりません。明日を幸せに過ごそうと思へば、今日その種を蒔いておく必要があります。蒔かぬ種は生えぬ、といいますが、本当にその通りで、善因善果、悪因悪果は自然の法則です。な〜んちゃって、えらそうなこと言ってすみません。まぁ、皆さんも身の回りには充分に気を付けて下さいよ。
母親の話は充分に私の為になったものです。

話が横道へそれましたが、広島での新しい商売も何とか軌道にのり、横目で見ている株式相場が気になりだしました。いかに事情があったとは言え、種銭を眠らせたままで、この相場好きが、いつまでも我慢できましょうや。いよいよ眠りから覚めて動き出したのは、昭和四十六年の秋頃でした。

今週は、柄にもなく、色っぽい話になりましたが。来週は、素人相場師カムバックのお話を致しましょう。お楽しみに。



我が華麗なる過去?13♪


毎日、毎日、マッサージ器を持って広島の街を這い回り、着々と販売の実績を上げながら、もう一人の私は、夏過ぎからじり安を辿る株価を克明に記録して、虎視耽耽と仕掛けのタイミングを計っていたのでした。狙いは船株。資源のないわが国が、物を作る材料を輸入するにしても、作ったものを外国に売るにしても、海に囲まれたわが国では、船がなければどうすることも出来ません。そんな訳で、今後、日本経済が発展するに連れて、船会社の儲けも大きくなるはずだ、と読んだわけです。

当時、船株も他の業種と同じで安値に放置されていました。これは,チャンスではなかろうか、と、仕掛けのターゲットを船株に絞り、銘柄は川崎汽船に定めていたのです。何故かと言えば、私の知り合いに船乗りさんがいて、彼は、飯野海運の船に乗っていたのですが、海運業界の統合で、川崎汽船に合併された方を選んで同汽船に移転したのです、(飯野海運は、川崎汽船と合併したのだが、一部は、飯野海運として残った)

川崎汽船へ変わって見て、作業の厳しさに驚いたそうです。飯野海運にいた時は、外国航路から帰ってこちらの港に入港すると、大抵は、三日くらいは荷物の積み下ろしに掛かるので、その間は休みが取れたそうですが、川崎汽船に変わってからは、一日停泊したらすぐに出港するので、休む暇がない。とこぼしていたのを思い出したからです。彼の言を借りれば、如何に川崎汽船の経営姿勢が、シビアであるかと言う事で、つぶれる会社と残る会社は、こう言う所で違ってくるのだなと言う思いがして、大事な資金を投資するにふさわしい会社だと決定した訳です。


時に、昭和四十六年十月も半ばを過ぎた或る日でした。いよいよ機は熟したと感じた私は,相棒のTさんに、二〜三日留守にすることを告げ、第二の相場人生のスターとを切るべく、広島駅より出発したのでした。排ガス防止器の販売に金儲けの望みを託して、新神戸駅を出発した時の夢は破れはしたものの、広島での生活は、また、別の意味でも楽しいものでありました。が、今又、新たなる希望に燃えて、東上するL特急のシートでくゆらす煙草の味は、また、格別なものでした。(L特急とは、当時、JRの在来線を走っていたローカル特急の事です)

後へ後へと飛び去る窓外の景色を眺めながら、過ぎ越し方を振り返り、変転極まりない我が人生に、運命の不思議さを感じるのでした。何故,私の人生は,こんなに激しく変わるのであろうか。穏やかに一生を終える人も沢山いるではないか、やはり見えざる世界からの支配を受けているのだろうか、等々と疑問は次から次へと頭の中を去来し、際限がありません。しょせんこの問題の探求は、私の一生の課題になるであろうと、長期戦を覚悟したものです。

しかし、今後、相場を張って行く上で、運、鈍、根と言われるように、一番大切なことは運である事を、強く自覚しておりましたから、そうそうのんびりと,この問題を放置する訳にも参りません。そんな訳で、何とか運が強くなる方法はないものかと考えて居りました。

そして、ふと、本屋で見つけた本の中に、人間は、希望する事を、強く思う事に依って、その実現性は高い。と書いてあったことを思いだし、それでは、「自分は運が強い」と思へば、運が強くなるのであろうか、と考え、よし、それならば、自分でそれが正しいかどうか、実験してやろうではないかと思い、思い立ったが吉日と、早速、「私は運が強い」「私は運が強い」とやりだしたのです。そしてその結果、現在まで、いろいろと大変な出来事に遭遇しながらも、大過無く過ごして来れたのは、「私は運が強い」と思うことで実際に運が強くなっていたのであろうと、実験の結果は正しかったと確信しております。

さ〜、又やるぜ。新しい希望に胸膨らませて、相場の街、北浜へ乗り込んで来ました。店は、鉄砲商いを受けてくれたあのK証券です。係りは,勿論あの時の外交さんのAさんです。このAさんは、私が相場を止めてからも、いつも年賀状をくれたり、時には、広島まで電話をくれたりしていました。他の人たちは、金の切れ目が、縁の切れ目と言いましょうか、たまに道でであったとしても,知らん顔する人がほとんどでした。たまに声を掛けてくれても、それは好奇心からで、冷たいものでしたが、Aさんだけは、前と変わらぬ付き合いをしてくれていました。

そんな訳で、取引をするならAさんと決めていました。「情けは人の為ならず」といいますが、私を引き付けたのは、Aさんの情け深い人間性でした。前もって店へ行くことを知らせていたので、彼は大歓迎をしてくれました。そして、四年ぶりの再会をお互いに喜び合ったものです。社長も出て来て、「こりゃ〜珍しい、大相場師のお帰りやで」と一応の歓迎をしてくれました。「又鉄砲打ちかいな」などとひやかしておりましたが、内心は、良い張子が帰ってきてくれたわいと、満更でもないらしい。

「社長、今度は、前みたいな張り方はしまへんで、この四年間じっくりと考えて、金をへらさんように張らせてもらいまっさ、それに、大した種銭も持ってまへんさかいにな」

と挨拶すると、「何を、真面目な事言ってなはんねや、三っ子のたましい百までと言いまっしゃろ」なんて冷やかされます。無理もありません。大きな玉をドテン、バタンと張りまくっていた者が、そう急に変われるものではありませんからね。でも、私は、今度は絶対に無理な張り方はしないと心に誓っていたのです。しかし、実際に売買を注文する段になると、またまた、前の癖が出てしまいました。

手付かずに持っていた100万円の金をそっくり持って行ったので、いきなり、社長、これで、川崎汽船を五円買い、10万株買わせてくれぬか、と頼んだのです。(五円買い、10万株と言うのは、買値から五円下がったら、反対売買をして、清算してもらうと言う事です)
ですから、その当時,川崎汽船の株価は、額面の50円近辺をウロチョロしていましたから、例えば、50円で10万株買って五円下がれば、50万円の損と言う事になります。100万円の元手ですから、50万円は、半分の損になりますから、痛い事は痛いですが、反対に上がれば、一円の上昇で10万円づつの儲けになります。

普通の信用取引ですと、現金担保で30%ですから、100万円を目一杯に買っても,総額300万円分しか買えません。川崎汽船が50円として、6万株です。それを4万株よけいに買わせろと言う訳です。本当に博打をするなら、20万株といくのですが、それでは、五円下がれば元手の全部が飛ぶ事になります。四年前の私なら迷わずそれをやった事でしょうが、いまは、半分を残して、まんまん悪くても、種銭を僅かでも残す、と言う賢い?やり方に変えたわけです。

勿論、社長は、即座にOKをしてくれました。その裏には、私の鉄砲商いの腕を知っていますから、こいつなら必ず成功させるだろうと思ったのでしょう。Aさんに、50円の指値で10万株の買い注文を頼み、その日は、久し振りにミナミの鰻屋で夕食を楽しみ、あの、私の師匠格の新聞記者さんも一緒で旧交を暖めたものです。新聞記者のFさんも、

「あんた、よう帰って来たな、普通なら、あれだけコテンパンにやられたら、ポシャッてしまうんやが、案外達者なやっちゃな」

等と冷やかします。そこで、元手を作った話や、広島での仕事の話などいろいろ話して聞かせると、二人共、あんたの人生本にしたらどないや、今度食い詰めたらそいつで食えるで、などとまたまた冷やかします。

まぁ、しかし、四年前に今日のこんな日が来るとは、夢にも思わかったのに、歳月は一瞬に過ぎ去り、今又再び、株式相場のスタートを切ったのです。外交のAさんには、私の相場の張り方を説明し、どんな事があっても、相場の強弱は言わないこと、売り買いのタイミングに付いても、アドバイスめいた事はいわない事、そうでないと、取引はしないと強く要望しておいたのです。

私が、何故ことさらに、Aさんにこう言った事を強く約束させたかと言いますのは、かつて神戸の株屋さんで取引をしていた時、ベテラン外務員の人達の雑音に悩まされて、相場の判断を狂わせられた事が幾度となくあったからです。最後にやられた大和ハウスの空売りの時も、結果的にはこの雑音にやられたようなものです。最終的には自己責任ですから、他人様の事を理由に挙げるのも大人げないのですが、助言の相手がベテランであればあるほど、影響され易いのです。

大和ハウスの時には、その会社でも、一番のベテランだったMさんと言う外交さんでしたが、その人は、相場の知識は、他に並ぶ者がいないほどの物知りで、知性豊かであり、文章を書けば実に素晴らしいものでした。しかし相場の判断は、いつも私の方が上だと思っていましたから、この人の相場の強弱の話は,余り参考にはしていませんでしたが、他のお客さん達は、話し上手で、なんでも知っているMさんのフアンは多かった様です。
そのMさんが、大和ハウスをナンピン売りして売り上がっていた私に、

「北浜さん、相場と言うものは、人の懐を覗きに来るもんや、今が頑張り時やで、筒一杯まで来たら一気に崩れるで」

などと、励ましの助言をしてくれた事がありました。当時の私には、Mさんの助言がありがたいと思うことはありませんでしたが、何分にも負け戦でジリジリと持ち上げられている最中だったので、その助言の故に、買い戻す潮時を失った事は事実でありました。結果的に、前に書きましたようなことになってしまったのですが、その事があってからは、いくらベテランの証券マンの話だとて、聞かぬようにしているのです。そんな訳でAさんにも固く、口を、閉ざす様に頼んだのです。

その後一昨年秋、彼が他界して彼との取引を止めるまでの約三十五年間、彼との取引は本当に事務的なものでした。これ、なんぼ買って。ハイ。これ、なんぼ売って。ハイ。の付き合いが、今思うと、私が今まで相場を張り続けて来れた、最大の原因ではなかったかと思っています。彼との取引が終わって、昨年春からネット取引に変えましたが、なんと静かに相場が張れるようになったものだと、本当に時代の進歩に感謝している現在です。

私に一番邪魔だったものは、証券マンの話でした。(証券界の皆さん、御免なさいね)
ネット取引が出来るようになった今、目の前にあるPCに向き合って、リアルタイムの株価を見ながら、クリックするだけでサイトを変えて、いろいろな材料を静かに検討出来る、考えて見れば、これ以上恵まれた博打場が他にあるでしょうか。長生きはするものです。

私が昔相場を張っていた頃、まぁこれは,今でも同じ事ですが、複数の株屋さんと取引していた人がいて、あっちの店で買い、こっちの店で売りして、結局どっちつかずで損ばかりしている人がいましたが、何故こんな事になるかと言えば、あちらの店で弱気を聞かされ、こちらの店で強気を聞かされ、自分の判断が出来なくなって、つい、証券マンの奨めにしたがってしまう。これでは、儲かる筈はありません。こう言う人は今でもいますし、株式掲示板でも同じ事が起きています。あちらの掲示板で弱気を吹き込まれ、こちらの掲示板で強気を聞かされ、そして、自分の相場観に合う人の意見の方を重視してしまう。

まぁ、普通の人であれば、付和雷同して多数意見の方へ付くものですが、相場の世界では、狩猟民族的な、単独行動を取れる人でないと、相場が一方通行にでもならない限り、儲けるのは至難の技といえるでしょう。「人の行く 裏に道あり 花の山」言う諺は皆さんよくご存知の事と思いますが、例えば、友達三人で相場の話をしていたと仮定しましょう、三人全部が良しとするような銘柄ならば、これは、見送る方が賢明です。もし、自分以外の二人が自分の反対であれば、自分の思う通りにおやりなさい。そして、自分と,他の一人の意見が一致したならば、反対している人の意見に従うのが、賢明です。そんな訳で相場は博打と心得、絶対に,多数意見には付かないことです。

先程、証券マンの話に従って儲かるわけがないと申しましたが、証券マンには悪気は無いのでしょうが、自分の生活が、客の売買する手数料で成り立っているものですから、どうしても買えば売れ、売れば買えになってしまうのでしょうね。如何にベテランの証券マンでも、百発百中は不可能ですから、いつかは、損失が多きくなってしまうのです。これは、証券マンだけではなく、手数料が最大の収益源である証券会社も同じ事です。最近のネット証券でも、売買回数に依って手数料が優遇されたり、ポイント数をつけたりして、売買回数が増える様に計らっているのは、皆さんご存知のことでありましょう。

こうした証券市場のメカニズムの中で、利益を上げて行こうと思えば、上記のようなことを熟知して、自分なりのやり方を考えねば、希望は挫折することが多いのです。話を横道へそらしてまで、こんなことを書いたのも、拙文をご愛読下さる皆様に、命から二番目に大切な資金を、損切りで失って欲しくないからです。

相場は反対売買で成り立っています。だから、相方のどちらかに必ず損益が発生します。株式市場、相手の顔の見えない博打場です。だから、損失で相手を恨むことはありません。これが、掘りごたつにでも入って、相対する相手との金の取り合いならば、いくら仲の良い友達であっても、いつかは仲違いになるでしょうが、株式市場にはそれがありません、ありませんどころか、相場で勝って大金持ちになれば、相場師として尊敬したりするのです。自分の金をむしり取った相手をですよ。へんな話ですが,これが株式市場の面白い所でしょうね。

まぁ、そんなわけで、私の相場師としての第二のスタートは始まりました。四年前の苦渋の反省で、少しは張り方を変えるつもりが、やはり同じような注文を出してしまいました。大阪の店へは当分来ることはまだ出来ませんので、広島へ帰って毎朝の新聞の株式欄が頼りです。しかし、今度の私は、店先に座って相場を見つめると言う、前のようなやり方は止めようと思っていましたから、しばらくは,マッサージ器を売り歩きながら、中期張りの覚悟でした。相場が急変すれば、Aさんが電話で知らせてくれることにしているので、何かの時には、それなりの対応が出きるようにはしておきましたから、心配することもありません。準備万端整いまして、第二の相場師人生 始まり始まり〜♪♪♪♪♪

銘柄は、川崎汽船、指値は50円、株数は10万株、果して買えたでしょうか、その後はどうなったでしょうか。次の話は、又来週のお楽しみに。




我が華麗なる過去?14♪

"スズメ百まで踊り忘れず"といいますが、本当にそのことわざ通りで、あれだけひどい失敗をして、一家離散までしたのに、僅か四年ほどで過去の痛手はすっかり忘れてしまって、またまた同じことをやろうとしているのです。株式投機への復帰はまぁいいとしても、注文の仕方は、前回とあまり変わっておりません。

空売りでやられた口惜しさをバネに、いつか株式市場という、天下ご免の博打場へ張り手としてカムバックする日を夢見て、知力,労力、を駆使して頑張って来た甲斐あって、幸運にも恵まれ、100万円の元手を作り、四年の歳月を費やして、ようやく博打場、北浜へ帰って来たものの、今度は、絶対に無理な張り方はしない,と言う決意も空しく、またまた博打張りの注文を出してしまったのです。

広島へ帰ってからも、自分の意思の弱さにほとほと腹が立ったものです。しかし出した注文を今更引っ込めるわけにもいかず、え〜い、ままよ、今回の注文は天命だ、などと勝手な理屈で自分をまぎらわせ、次からは、もう二度とこんな注文はしないぞ、と、固く誓うのでした。燃え盛る欲望を押さえる事ほど難しいことはありません。しかし、投機の世界では、自分の欲望を押さえない限り、欲目を半分で押さえない限り、勝ち目は少ない事を、過去の経験から学んだ大切な事でしたから、克己心を養う事が、相場で勝つ一番大切な要素だと固く認識するのでした。


川崎汽船の買いが全部成約出来たのは、広島へ帰って四、五日経ってからでした。買い付けを頼んでいたAさんから、例の弾むような声で、
「大将、10万株全部出来ましたで、さぁ、後はどうなりますかな」
Aさんは、人ごとだと思って、暢気なこと言っています。
「Aさん、ほんで、下値はなんぼ位まで付けたんかいな」
Aさんは、最近の安値は48円だと言います、あと3円下げれば50万円がパーです、もし相場が下げて、45、44と来たら、私の玉で一気に売り崩す事でしょう、当時の出来高は少ないものでしたからね。

しかし、もしかして,あのタヌキ社長の事だから、私の10万株の買い注文を場に出さずに、店で売り向かっているのかも知れません。商品相場の店では、客の注文を場に出さずに店で受けていたそうですから、当時は、そんな話をよく聞いたものですから、株屋さんとて,同じ事やるかもわからんな、と,思ったのです。もし、私の買い玉が、場に出されずに店が受けていたとしたら、安値で投げても、場に出すことはないので、自分の玉で相場を崩すことはないのだ。私とすれば、投げる時のためには、店が向かっていてくれる方が安心です。

なんて考えた事もありましたが、勝つために仕掛けた玉ですから、そんな後ろ向きな考えは、気持ちを沈ませるだけです。私は、いつも運の強さを自覚する訓練をしているのだから、考えかたも、良い方へ、良い方へと考えねばならんとと思い返すのでした。

結局、私が買い付けて間もなく付けた48円が最安値となり、8月に時のアメリカ大統領ニクソンが、金とドルとの交換を停止を発表し、円がそれまでの固定相場制から,変動相場制へ移行された事が原因で、急落していた全体の株価も、11月頃から翌翌年の昭和四十八年一月までの十四ヶ月にわたる上げ相場となったのです。いかに情勢待ちをしていたかにしても、あまりに運のよいことでした。

我が川崎汽船も、48円を底値に12月頃には、たしか130円がらみまで上げていたと思います。二ヶ月足らずでやく80円の利乗せです。10万株ですから800万円の利乗せです。やはり博打はするものです。金だけ預けておいて何もせずにこんな利益があるなんて、どんな商売でも不可能でしょう。

さて、利食いして次なる銘柄をと思ったのですが、考えて見れば、過去と同じように勢いに任せてやれば、今度はもっと大量に買いつけることでしょう。ですが、どの銘柄も同じように上がっているので、他の銘柄に買い替えるのが危険な事は、言うまでもありません。ここへ来て,ようやく過去に舐めた苦汁の味が蘇えって来ました。まだまだ商売大事で生活しているのに、相場師の真似して相場一本になる事は、結果的に前と同じことになってしまうぞ、と思い止まりこの相場はまだ始まったばかりだからと、買い玉はそのままにしておく事にしました。

広島での商売も何とか軌道に乗って来たので、ここらが引き時だと思い、相棒のTさんに「ここまで来たら、あんた一人でやって行けるやろ、私は、身を引きたいんやが…、勿論会社はあんたのものだから、私は身一つで出ていく考えだが」と相談をすると、Tさんも、快く承諾してくれて、目出度く広島をおさらばする事になりました。

と言うのは、北浜へ行った時に、借りっぱなしにしていた、アパートの管理をしている不動産屋さんが、住宅ブームで手が無くて困っているんだが、手伝ってもらえないだろうか、と頼まれていたので、これは,神戸に帰って来るいい機会だとわい思ったのです。そんなわけで、今度は不動産屋に転職です。その不動産屋さんは、自分の会社で住宅の建売もやっていたので、私の仕事は建売の販売です。マッサージ器の販売部長は、今度は、住宅の販売員です。

一ヵ月の給料は、いくらだったか忘れましたが、それプラスの販売住宅の価格の何パーセントかが私の取り分、と言うことで勤め始めましたが、何分にも父ちゃん社長に母ちゃん専務の二人の重役と、販売部員の私で総員が三名のチッポケな会社です。会社と言っても普通の不動産屋の店舗ですから、いたってのんびりしたしたものです。貸しアパートの仲介から、賃貸人の諸々の苦情、相談まで、何でも屋です。いろいろやって来た私には持って来いの職場でした。

そこの社長も相場が好きで、私とは話が合うのです。しかし、この社長が又変わり者で、競輪、競馬、株式相場となんでも知っているくせに、絶対にやらないのです。朝,店に行くと、競輪の新聞とニラメッコして、赤鉛筆で各レース枠にしるしを入れて、今日のなんレースは1―4だとか、3−6だとかいっぱしの予想屋みたいに熱中しています。そのくせ絶対に買わないのです。変わった人もいるもんで、さすがの私もほとほと感心したものです。

奥さんに言わせると、気が小さくて、金を捨てるような遊びをようやるかいな、何て言っていましたが、私が店にいた間も、その後に遊びに行っても、やはり何もやっていませんでしたね。しかし、話は好きで、私の相場で失敗した事や、大相場を張って成功した話などすると、目を輝かせて聞いているのです。昼前に出勤して、話に夢中になって、昼が来て昼飯を食べて、午後のおやつにお茶を飲んで、夕方になってお仕事はお終い。夕食は娘三人交えて六人で、わいわいがやがや楽しみながら、一日が終わる。大体こんな毎日でした。

何の事はない、社長の話相手に雇われたようのものでした。それでも、入ってきた客にはそれなりの応対をするし、住宅を買いたいお客には、車に乗せて新築の売物件を見に連れていったりして、話の合間に結構商売もしていましたね。当時の家は下二間で、2階が二間の家で350万円位でしたかね。土地30坪で延べ建坪が40坪くらいで、500万円くらいだったと思います。しかし、それが僅かな期間に同じような家が700万円位に値上りしていましたね。当時はサラリーマンが買える上限が、400万円位だったと思います。それ以上の家は親に金を出してもらえる人か、商売人クラスでなければ無理な時代でした。ローンなんて言葉もなかった頃です。銀行借り入れを起すなんて言っていましたからね。

そんな頃、私が覚えた気学が多いに役立ちました。家を買いたいと言って来た客に、それとなく生年月日を聞くのです。生年月日を聞けばその人の星回りが分かりますから、今,その人が家を買える勢いがあるかどうかが大体判断出来るのです、と言うのは、家を買うなどと言う事は、一生の間に何度もあることではありません。だから、よほど運勢の強い時でなければ買うことは出来ません。

私が気学を覚えてから、事あるごとに、人様に生年月日を聞いては、研究していましたから、当らずとも遠からずで、かなりの確立でその人の性格を当てたりしていましたから、上記の様に家を買う時はなどは、より確立が高い様に思いました。

そんなわけで来る客,来る客に生年月日を尋ねるものですから、奥さんが気付いて、
「あんた、なんでそんなことばっかり聞くんや、嫁さんや,婿さんの世話でもしようと言うんかいな」何て聞くもんで。
いや、実は,これこれこうなんです。と言うと、そんな事で客を判断して、仕事の手加減せんといてや、何て言っていましたが、ある時、とても運勢の悪い客が来て、家を買いたいというのでしたが、私が例の星回りでダメだこの人は買えないよと言ったら、奥さんは、客は家も見て気に入ったと言って,明日、手付金を持って来ると言っているのに、買われへんとは何事や、と、怒っていましたが、さて、手付金を持ってくる日になりますと、その客から電話が掛かって来て、金を出して貰う筈になっていた叔父さんの都合が悪くなって、買えなくなったと言って来たので、さすがの奥さんも、私に脱帽して、以後私のとりこになってしまいました。

人間には、やっぱり運命なんてあるんかいな〜、なんて感心していましたが、判断している私の方が、その的中率の高さに驚いていました。社長なんかは、もうその気学とやらを教えてくれと頼む始末で、何が身を助けるやらと思ったものです。以後、客が入ってく来ると必ず、私に、目で合図をするのです。それで,私がダメの合図をすると、客にはけんもほろろで、まことに現金なものです。

ある日、みすぼらしい客が家を買いたいと入って来ました。例に依って星回りで判断すると買えると出たのです。そこで、社長、OKやでと言うと、風体で判断した社長は、なんぼ北浜さんがOKを出しても、この客だけは冷やかしやでと取り合いません。そこで、それならば、もし、この客が買ったなら私の歩合を倍にしてくれるかと言ったら、よろしい文句なしに、歩合を倍払うよと約束するのでした。

私も、本当は、こんな客に家が買えるのかいなと思ったほど、悪い風体でしたが、気学の判断では強い運勢の時期なので、まぁ、一丁試してやれと思って、当時約700万円ほどの新築を見せに連れていったら、一度に気に入ってしまって、この家貰うというのです。それで、他の客が買いに来たら売らないでくれと言って,手持ちの現金を10万円しかないけど手付に預けておくと言うのです。店に帰って社長に報告すると、びっくりしていましたが、手付の件は、売値の1割が決まりだから、10万円では手付金として預かる訳には行かないと断わると、それじゃ、手付金ではなく、明日、私が来るまでこの金を預かっておいてくれというのです。社長も、お客さんがそこまで言うのなら、家は誰にも売りませんと約束して、一応の成約が出来たのです。

この商談以後は,さすがに社長も私に一目置くようになりましたが、やっぱり星回りの運命ってあるんですかね〜。私自身が今もって半信半疑です。何故かといいますと,私の運命が、星回りにあまり影響されないからです。振り返って見ると、相場でやられた昭和四十二年は、私の一番運気の強かった星回りの時でしたからね。まぁ、運気が強すぎてやりすぎたのかも知れませんがね。

神戸へ帰っての不動産業は、そんなわけで、遊んでいるような商売で、楽しみながらの商売でしたが、やはり、その裏には、買い持ちしている川崎汽船の値上がりに依る、心の余裕があったからでしょう。その後の川崎汽船の足取りは、買いっぱなしにしているので、六ヶ月目には反対売買して買い繋ぎをせねばなりません。買って二ヶ月程で100円台に跳ね上がったのですが、その後半年位は百円台で持ち合っていました。一度は70円台まで下げて来て、あわや、と思った時もありましたが、何とか持ちこたえることが出来たのは、やはり当時の相場がまだ若くて強かったせいだと思います。

たしか昭和四十七年の夏過ぎからだったと思いますが、それまで持ち合いしていた株価が徐々に上げ始めました。140円、150円と10万株が引き上げられるのです。一円刻みに10万円の値上りです。150円になれば,一千万円の利益です。私は、過去の経験から、大天井を付けるまでは、どんな事があってもしがみ付いていてやる、と決めていたので、相場の方は新聞で見るだけ,短波ラジオも聞かず、株屋さんにも電話もせず、たまに外交のAさんから電話が来て、大将生きているんかいな、と言って来るくらいでした。

今になっても思いますが、玉を仕掛けたら慌てたらあきませんな、じっと我慢で利幅を伸ばす。その為には本業に精だし、相場の事は忘れるくらいがいいですね。かと言って、いつまでもほっておいて、絵に書いた餅にしてしまってもいけませんがね。兎に角、昔取った杵柄と言いますか、過去の経験をフルに生かして、この度はとことん頑張り通す覚悟で、利食いたいのをじっと我慢の子でありました。

仕掛けて始めての六ヶ月目の乗り換えは、90円台でした。外交のTさんは
「まだ頑張るんかいな、いつもの大将らしくおまへんな」
と、買いっぱなしで商いにならないので、ぼやいています。こちらにすれば、なにもTさんや、会社のために相場を張っているわけではないので、
「まだまだ、まだよ、他の張り手さんが、汽車も電車も止めてくれ〜、と言うくらい燃え上がって来るまでは、絶対に放なさんで」と、明日暴落するかも知れない恐怖と戦いながら不動産の販売業務に励むのでした。

やがて、うだるような熱さに、人々があえぐようになった八月頃になって、それまで持ち合っていた相場がようやく動き出しました。こうなると、もうじっとしては居れません。毎日、毎日克明に方眼紙に記入している罫線(その頃チャートなんて洒落た言葉はありませんでした)が、じりっ、じりっと下値を切り上げて行きます。何しろ、1円で10万円の評価益ですから、鼻くそ程の歩合の仕事なんか手に付きません。

又々、前回の癖が出そうになります。なにも、じっと玉を固定させて待っている事も無いじゃないか、利食っては売り,利食っては売りすれば、利益は数倍になるではないか、心の中では悪魔が囁きます。その都度、いや、そんなやり方はしないと決めたはずだ、と自分を戒めておりますが、利益の計算がネズミ算式に増えてどうにも止まりません。一度などは,とうとう店へ出陣して値動きを追うと言うこともありました。が、何とか思いとどまり、年末の高値330円を見たのです。

S四十七年の市場は、一年間でダウ2500円台から5000円台まで吹き上げたのです。当然他の銘柄も一様に上昇していましたが、我が川崎汽船も年初の100円台から年末には330円の高値まで吹き上げたのです。待つ事久し、ようやく待っていたバイイング・クライマックスがやって来ました。店頭の湧き具合は異常でした。ここは、一度売っておいた方がいいわいと、二番天井も待たずにがぶる相場に乗せて315円の指値で、売り逃げたのでした。ここに来ると10万株なんて、まるで煎餅でも売るようにペラペラと売れてしまいました。
燃え盛る買い気は、大崩れする前には必ず爆発するものです。ほんとに売るのが惜しいような気持ちです。この気持ちに負けたら絵に書いたもちになります。売り切って得意満面、

「Tさん、どないや、ここで、ドテン空売りをやれば,きっちり儲かるで、元利金合わせて2700万円はあるやろ、300円やりで30万株売れるで、今やったら少々の玉やったらはまるで、50円抜いても1500万円あるで、どや、いこか」

またまた悪魔が誘惑します。本当にここで売っていたら翌年の四月には、150円台まで急落したのですが、何とか大事を取って、それだけは思いとどまりました。しかし、逃がした魚は大きいの例えで、今考えても何であの時なんでよう売らなんだんやと、後で悔やんだものです。

人間の運命は、いつどうなるものか本当にわかりません。数年後にその当時のチャートを振り返ってみて、あの、急騰したS四十七年に、大きな建て玉を持てたのも、運が良かったとしか言いようがありません。その後の相場は、またまた下げ相場に入ってダウは、3000円台まで下げ、一時は、相場はもう終わった、と皆んなが思ったほどでしたから…、そして、ダウが、翌年の一月に付けた5359円を抜くのに五年の歳月を要するとは、たとえ、強気でいた人でも、予想外の事だったと思います。

相場が好きで、またまた、北浜に舞い戻ってきた大馬鹿者に、来週からは,どんな人生が待ち構えているのでしょうか。

現在の相場も、ようやく官民一体になっての市場対策が実を結んで、反騰相場に移るのでしょうか。これも楽しみですね。

では又来週をお楽しみに。






我が華麗なる過去?15♪


運がつくとは本当に恐ろしいものです。かつては、運の尽きを経験した私ですが、今回はどう間違ったのか運がついて、僅か一年あまりで、資金が約26倍に増えてしまったのです。
四年前の私なら、そ〜れここで一気に責め上げるで、とか何とか言って、またまた目一杯の玉を張り倒したでしょうが。どっこい今度は少しは学習効果があったのか、先ず頭を冷やして、銭の谷底から這い上がり、小山のひとつを征服した現在、この金をこのまま相場に継続して使うのは愚の骨頂であると考え、一度銀行へ預金し、しかる後に再出動だと腹を固めました。

外交のAさんに、その旨を伝えると、

「大将えらい変わりようでんな、ついこの間までは行け行けどんどんで、大鉄砲を打ちまくっていた人が、買い玉を建てたら一年あまり建てっぱなすし、利食いの金は持って帰ると言うし、この五年ほどの間に,人が変わってしまいはったでんな〜」

と まるで変人を見るような目つきをします。

「いや、Aさん、別に変人になったわけではないんや、なんぼ相場が見えても、しょせんは人間や、いつも同じ思いで売買できるとは限らんのや、その時の気分で売りと買いを反対にやる場合もあんねやで、大和ハウスを売っとった時にそう思ったもんや、買い上がって儲けた金で、ドテン売りに回った時に、相場に意地をつけてしもたんや。あの時、春先から上げ出した相場に付いて買い増しながら、今年はどんなことがあっても、空売りはしたらあかんで、と、言いもってやな、あや押しを取ろうとスケベ根性を出して、つい売ってしまったもんや。押しが浅うて買い戻しに失敗したもんやから、皆んなが、ほ〜れ引っかかったで、と言うような顔して見ているし、つい、意地になってナンピン売りを重ね、結局は、それが命取りになってしもたんや。ここやでAさん、ここはひとつ一旦相場から離れて頭を冷やすわ、利食って休めやで」

と、心境を話すと、

「大将、よう反省しとってでんな、大したもんやで、よっぽどえらい目を経験しはったんやな、そんでなかったら、そこまで腹を固められまへんで、よろしおま、次の仕掛けまで待ってまっさ。ほんでも社長が落胆しまっしゃろな、大将が大利食いしはった時、社長が北浜の兄ちゃん、ようけ取りよったな〜、あいつ又,メチャメチャ張り捲りよるで、何て言うてましたさかいにな」

Aさんは、流石に苦労人らしく、私の気持ちをすぐに理解してくれました。
「社長には、Aさんからよろしく言うといてな、一旦資金は引き上げるけど、またすぐに仕掛けにくるから言うとったで言うてな」

Aさんに社長への伝言を託し、大和ハウスでやられて手を上げるまで取引していた銀行ヘ、資金を移動させたのでした。何故、この銀行へ預金したのかと言うと、負け犬復活を、アピールするためでした。現金なもので、株屋さんから入金が確認された明くる日、支店長がわざわざ私の借りていたアパートを探し当てて,挨拶に来てくれました。男一人が住まいするために最低限必要な広さの?四畳半の部屋です。襖の下張りなら色っぽい物語ですが、いくら綺麗好きだとはいえ、男のわび住いでは、殺風景なものです。

尋ねてきた支店長は、なんと四年前に取引していたあの当時の支店長でした。やりっ放しにしていた私の口座に2700万円もの入金があった事を知って、びっくりしたと言う話で、慌てて私の居所を探し出したと言うことでした。
「マスター、お久し振りです。長い間、何処で何をされていたんですか、マスターが、店を売って商売をやめられた当時は、なんやかやと噂を聞いたものですが、最近は誰もマスターの話をする人もいなくなり、失礼な事ですが、すっかり忘れていました。そこへ、昨日ドカーンと、でっかい入金があったので、どなたかいなと調べて見たら、なんとまぁ、マスターの口座やないですか、あぁ、元気で頑張っておられたんやな、と、先ずはご挨拶に参上したようなわけですわ。」

金で世渡る世の中よ、金の光は阿弥陀ほど、なんて言いますが、金の御威光は現金なものです。わざわざこちらから出向かずとも、向うさんから居場所を探してご挨拶にお出で下さいました。

「支店長さんこそ、お元気そうで、こんなむさい所へ、わざわざ来ていただかなくても、こちらから再起のご挨拶に行こうと思っていた所なんですよ。支店長さんこそ、まだ居座りですかいな。とっくに他の支店に変わっておられると思っていたのに」

などと、長い取引相手の親しさで、お互いに好きなことを言っております。銀行とは言え、地方の相互銀行の支店あたりでは、そうそう大きな金額が動く事は少ない事だったのでしょう。突然の巨額?な入金にびっくりしたのも無理はありませんね。負け犬の復活は、労せずして,その目的を達したのでありました。

「マスター、それで、今後は又元の商売をするのですかいな、又,売上の集金に行かせてもらいまっせ」

と言う支店長の話に、この金で、相場師の真似事をやろうと思っていた私の心に、そうだ、なにも、千三つ屋の仕事をやっていなくても、(千三つ屋とは、昔から、不動産の周旋業者の事を言ったようです、何故かと言いますと、昔は不動産屋さんの商売は、なかなか話がまとまり難く、千回の話の中で、まとまるのは三つくらいと言うことで、それが千三つ屋の語源になったようです)元の喫茶店をやりながら、前のように相場をやればいいのだ。という思いがよぎりました。

「支店長さん、良いことを言ってくれましたな、それが良いでしょうね、早速考えて見ますわ」

人間は,他人の一言で運命が変わることもあるんですね。今まで、相場の事しか頭になかったのに、支店長の一言で、堅実な生活設計をする気持ちが湧いて来たのです。子供達の事もあるし、ここは別れた妻と相談して見よう。この四年間、子供の事は彼女に任せっ切りで無責任な事をしていた自分の行動に、少しは反省する気持ちが湧いて来たのです。

それから暫くの後、別れた妻に連絡して、事の次第を御報告申し上げ、もう一度、いっしょに店をやってみないかと,恐る恐る問いかけて見ましたら、

「あんたは、いつでも、何の前触れもなしに人をびっくりさせるんやな、前の時は、本当に心臓が止まるかと思ったほどびっくりさせられたけど、今度も又いきなり何を言い出すんやいな。店をやる言うても、そんな店どこにあるんやいな。ましてそんな金何処にあるんかいな」

そこで私はおもむろに、これこれしかじかで、店の一軒を買うくらいの金はあるんや、お前が賛成してくれるなら、今度は商売一筋に頑張るつもりやと言うと、なんや、又,株やってたんかいな、あんたから、株を取り上げることは出来へんな、また、前と同じ事になるんと違うの、と、すぐには承知してはくれません。よほど前のショックが大きかったようです。

そんな彼女を拝み倒して何とか承知して頂いたのも、やはり母親の意見が身にしみていたからでしょう。母親は、いつも私に意見をする時は、自分の苦労話をして聞かせるのです。お前達が、両親揃って大きくなれたのも、母親が辛抱して父と添い遂げていたからだ。子供は,両親揃って大きくしてやるのが一番いいのだ。ふたこと目にはこの話を聞かされて大きくなった私には、二人の子供のためにも、よりをもどさねばと、いつも気にかけていたものです。

そんなこんなで、何とか彼女の承諾を得たのですが、今度は、株には絶対に手を出さないと言う約束をさせられたのです。が、私には、勝算がありました。今度の株のやり方で、店をやりながら、誰にも知られずに相場をやる自信が出来たからです。勿論、妻を騙すつもりはさらさら在りませんが、結果的に騙す事になったとしても、過去の失敗は二度としないと思っていましたから、この際妻の言い分を立ててやり、一家水入らずの生活を先ず作る事に専念する事になったのです。

2300万円ほど掛けて新築した立派な店が出来たのは、昭和48年の夏でした。八月一日が祝開店の日になりました。一家離散して六年目のことです。

「いらっしゃい」「ありがとうございやす」客の送迎の挨拶も昨日の事のように滑らかです。こうして、カウンターの中で前と変わらぬ生活を始めると、いろいろとあった過去のことが、まるで夢の中の出来事だったように思えるのです。記憶は、夢の記憶も、現実に過ごしてきた記憶も同じことで、ごっちゃになってしまって、見境いがつきません。悶えるような別離の苦しみも、たった一人のわび住いで味わった、人生の哀感も、喉元過ぎればのたとえの通りで、むしろ楽しい思い出です。

運が強いとしか言い様がない私の人生、極貧の谷間に放り込まれて、僅かに六年ほどで元の様に立ち直れる、こんな夢みたいな話があるでしょうか。全く恵まれた人生です。と。その時は思ったにですが、私の人生はこんな事では納まりません。二十数年後にはとんでもないことに撒き込まれるんですが、その事は後述するとして、今は、六年間で大きく成長した子供達との生活を取り戻した喜びに浸るのでした。

開店後暫くは、忙しい店の経営に忙殺されておりましたが、種銭も300万あまりはプールしてありますので、妻の目を盗んではチャートの研究です。私が川崎汽船を売り抜けた後、東証ダウは、翌年の一月二十四日に付けた、5359円を天井にまたまた下げ相場に入ったのです。私が新築の店を開店した八月頃は、まだ5000円台にいた様に思いますが、以後どんどんと下がり続けて、昭和四十九年の秋には、3300円台まで下げてしまいました。

開店して一ヵ月目のある日、新聞の株式欄を見ていたら、下げ相場に逆行している日本合成という株を見付けました。足を調べて見ると、六月頃に額面割れしてから急騰し、私が気づいた九月頃には80円台まで上げて来ていたのです。他の銘柄はがぶりながら下げているのに、これは、何かあるなと思って、次の仕掛け銘柄はこいつだと決めて、80円で又10万株の注文を出しました。私は、玉を仕掛けるのに,あちら,こちらと分散買いはしないで、一銘柄集中買いする方ですので、取る時も大きいですが,やられる時も大きかったです。

今度は社長に無理を言わなくても、300万円の現金を入れておけば、担保は充分です。今度はあっさりと買う事が出来ました。しかし信用買いなので、油断は出来ません。もし、65円を切ったら投げてくれるようにと、係りのAさんに頼んでおいて、又今度も気張り込み作戦です。しかし幸運はやはりついて回るのか、今度も買値を大きく下回ることなく,年内一杯は持ち合いしていましたが、昭和四十九年の初頭からじわじわと上げだし、四月頃には250円台まで上げたのです。

今度は、川崎汽船の時のように天上売りはせずに、何処で大天井を打つのか見定めてやるつもりで、250円台を見送り、下げ過程の180円で売り逃げたのですが。この銘柄も又翌年の12月には70円台の安値まで下げつづけたのでした。この様に店で客の相手をしながら、のんきに相場を張る事を憶えてからは、本当に気楽に相場を楽しむ事が出きる様になりました。

今度も又、800万円近くの利益を得る事が出来ました。店の売上を考えると、真面目に商売をしているのがアホらしい様です。が、店で儲けたお金は減る事はありませんが、相場で儲けたお金は、いつかやられて、大きく減らすこともあります。私には過去の教訓で、いやと言うほどそれが分かっていますから、その後は、この前の様に相場にのめり込んで、家庭を滅茶苦茶にするような事はありませんでした。

今考えると、昭和四十九年の十月に付けた3.355円を底に、昭和六十四年(1989年)の十二月大納会の38.915円の大天井まで、以後十五年にわたる上昇相場が続いていましたから、上手に銘柄を選んで長期投資をすれば、誰にでも儲ける事が出来た良き時代でした。そんな右肩上がりの相場の中で、取ったり取られたりしながらの過去を思い出しても、特に印象深い銘柄は2〜3しかありません。

昭和五十三年一月から上げ出した。科研製薬は一入思い出深い銘柄のひとつです。300円がらみから買い出して、乗せ買いしながら、仕手に振り回されて、売ったり買ったり、結局、その年の十月に、ゆり戻しの二番天井で付けた4020円まで、十ヶ月の大仕手戦でした。いつものように10万株を買いっぱなしにしておけば。三億円以上の儲けになっていたのですが、店をやりながらの仕手相場ヘの参加は、無理がありました。

妻には内緒でやっているものですから、相場の動きの激しい時には、じっとしていられないのです。ついつい、隠れてAさんに電話で場味を聞くと、急変する相場にじっとして居られなくて、少しの利益で売ってしまい、強い相場に、又、窓を開けて買う、と言ったようなことばかりやっているので、大きく儲けることが出来ません。それでも一相場終って〆て見ると。3000万円ほどの利益にはなっていましたが、今までの様にじっとしていれば、三億数千万円は確実に儲かっていた訳ですから、本当に口惜しい思いでした。

話が後先になりますが、新しい店を開店して半年後の翌年の二月に親父が他界しました。八十二才でした。短気で偏屈で、やたら手を振り上げる恐ろしい親父でしたが、心筋梗塞で死ぬまで医者知らずの元気者で、当時は、東京の姉夫婦の家族と同居していましたが、その姉から父危篤の報が来た時には、暫くは信じられませんでした。あの元気者の親父が死ぬなんて、考えた事もなかったからです。

取るも取り敢えず、入院先の渋谷の日赤病院へ駆け付けると、心筋梗塞の発作であるにもかかわらず、丸一日、私を待っているかのように生きていました。そして、私の顔を見て、あぁ、お前かと、まるで今まで一緒にいたかのように、一言言うなり、息を引き取りました。なんともはかない別れでした。しかし、私のような好き勝手な人生を送っている極道息子に、死ぬまで心を砕いていてくれたに違いないことは、最後にもらした、あぁ、お前かの一言で、私には充分過ぎるほど分かるのでした。常に親父の心の中に私が居たからこそ、久し振りの出合いにもかかわらず、あぁ、お前かの言葉になったのでしょう。

孝行を、したい時分に親は無し、さりとて墓に金の布団も掛けられず。とは、母親からよく聞かされていた言葉でしたが、親父の骸を前にして、これからは親孝行のひとつもしてやれたのにと、別離の悲しみと後悔の涙にくれたのでした。

その後,私の心に不思議な思いが浮かぶようになりました。今まで湧き上がって来た事のない思いが湧き上がって来るのです。それに、気持ちが不思議に落ち着いて来出したのです。親が死ぬと守護霊が変わる、という事を聞いた事がありますが、親父が死んだ事で、今までの私の守護霊が変わったのかいな、と思う程の心境の変化でした。守後霊の存在の有無は信じられませんが、あまりの心境の変化に一時はそんな事まで考えたものです。

しかしこうした心境の変化が、相場を張る上で大変有利になって来たのです。いままでより一層落ち着いて、相場や諸事に対処することが出来るようになっからです。店も順調です。相場の方も科研製薬で掻き入れた利食い金で、資金に不自由はありません。売ったり買ったりを楽しんでいたのですが、人間いくら運が良いと言っても取り続けることは出来ません。ある夜見た夢のお陰で、とんでもない事になったのです。

今日は何だか湿っぽいお話になってしまいましたが、来週は、夢から始まった、とんでもない負け戦のお話をお聞かせしましょう。

立春は過ぎたとは言え、まだまだ寒い日が続いております。皆様お風邪などお引きにならない様にくれぐれもお気を付けて下さい。 
私は、今日、(2月16日)所得税の申告を済ませました。これさえ済ませれば、後は、又一年間、気楽に過ごせます。みなさんも、お早めにどうぞ。では又来週をお楽しみに♪





我が華麗なる過去?16♪

友人の仕事の応援を頼まれたり、腰痛に悩まされたりして、この連載をお休みさせて頂いて、早や、一ヶ月半が経ちました。桜の花も満開の季節になり、ようやく春も盛りになろうとしております。そして私もようやく16号の執筆に取り掛かれるようになりました。長い間お待たせして本当に申し訳ないことでした。では、続きを始めましょう。

科研製薬の仕手相場に参加して、振り回されながら何とか利益にしましたが、それ以後は、仕手相場の後遺症といいましょうか、かつてのような張り方が出来なくなってしまったのです。何故かといいますと、激しく上下する相場に付いて行く癖が抜けなくなってしまって、相場が見えなくなってしまったのです。

そんなある夜、とんでもない夢を見たのです。夢と言うものは、目が覚めると、たいていは忘れてしまうものですが、その夜の夢は実にリアルに覚えていたものです。あれから二十年も過ぎた今でもその夢の各場面は、はっきりと憶えていますから、かなり印象深い夢だったのでしょう。いや、その夢によって被った被害の大きさ故に、忘れ難い思い出となっていたのかもしれません。

その夢というのは、場所は、なぜか大阪の天六商店街でした。そして、パチンコなんかあまりしたことのない私が、パチンコをやっていたのです。打つほどに、打つほどに面白い様に玉は穴の中へ吸い込まれます。そして出てくるのがパチンコ玉ではなく、なぜか品物が出てくるのです。時計に靴、背広にカッターシャツ、下着とか、果物とか、宝石などなど、パチンコ台の下から足元へなだれを打って落ちて来て、山のようにたまって来たのでした。

パチンコ屋の店員さんにどうして持って帰ろうかと相談すると、一台の荷車を貸してくれたのです。その荷車と言うのが、鬼退治に行った桃太郎さんが鬼を征伐して、帰りに宝物を山ほど積んで犬、猿、雉に引っぱらせていた、あの荷車です。金色まばゆい荷車に、景品の品物を山ほど積んで、天六商店街をガラガラと、わだちの音を響かせながら走っているのです。神戸まで引っ張って帰らねばなんて思いながら。

ふと、夢から覚め、布団の上に座り、今見たとんでもない夢を思い出して、一人でケラケラ笑っていたのですが、待てよ、これは、相場で儲かる暗示の夢ではなかろうか、と自分に都合の言い様に解釈したのです。何故かといいますと、いつか読んだ相場の本の中に、やはり、夢見の解釈で大儲けをしたという話しがあったのを思い出したからです。

それは、早川さんが、○○円という夢だったそうです。で、その人は、早川さんとは何者かと考えたら、今のシャープの前の会社名が早川電気と言っていたのですが。その、早川電気のことだと気付き、その当時、わずか、10円台だった早川電気をしこたま買ったのだそうです。はたしてその後早川株はぐんぐんと上昇し、百円台まで吹き上げて大儲けをしたそうです。

私は、その話を思い出し、これは縁起の言い夢を見たわいと大喜びでした。そして、それでは、銘柄はなんだろうと考えました。その日、都合良く?、ある会社のグッドニュースがありました。それは、今の、日石三菱です。当時、日石が東支那海で石油の試掘をするとかしないとか、今、はっきりとは覚えてはいませんが、そんな材料で、もし石油が出れば株価は、5000円だ、などと言っておりました。

当時はまだ、日石の株価は2千3〜4百円だったのですが、私は、夢の暗示はこの株だ、と、勝手に決め込んでしまい、その日の寄付きで、3万株の成行買いを入れたのです。出来て来たのは、忘れもしない、2480円でした、なんとこれが大天井でした。現在に至るもこの値段より上に行った事は一度もありません。そんな鳥も通わぬような大天井を買ってしまったのです。と、これは今だから言えることですが、その当時は、夢が、正夢だと信じていましたから、5000円台を夢見て、取らぬタヌキの皮算用をしていたものです。まっことお目出度い限りでありました。

まぁ、利乗せすれば買い増して行けばいいわ、仮に、3万株のままでも2000円抜ければ、6000万円の利益だ、先の科研では、揺さぶられて、じっとしていれば大儲け出来たのに、バタバタしたお陰で、10分の1くらいの儲けしかなかったので、今度は、しっかり持っているぞと、若干引かされた所で、損切り何ぞは思いもよらず、夢の暗示を信じ切って楽観していたのです。

その後は、じりじりと下げる一方になりましたが、何しろ、見た夢の印象が強すぎます。金色に輝き、景品を山ほど積んだ荷車が頭の中を駆け巡り、今に、切り返して大相場が展開されるぞ、と、おめでたいことです。唯一、運が良かったのは、三万株と言う買玉の数でした。何分にも、その時の日石は、3年前の200円台から上げ出して、チャートを見れば、かなりの高値になっていましたから、いかに夢見が言いからと言っても、そこは長年の感で用心していたのでしょう。本来なら、空売りすべき値段です。それを買うと言うのはやはり夢見の所為だったのでしょう。

しかし、今こうして原稿を書きながら、その夢のことを考えて見ましたら、やはり夢は正しい暗示をくれていたことが分かったのです、それはどう言うことかと言いますと、天六商店街の天六は、サイコロの目のことでしょう。一天地六の賽の目と言いますから、天は一であり上を表し、六は地であり下を表しています、そうすると、天六とは、上、下、を表し、相場は天から地へ、即ち上から下へ行くという暗示だったのでしょう。パチンコの景品は、足元へ山のようにたまった、のですから、下で儲かる、買戻しで儲かるだったのでしょう。だから、売りと解釈すれば、宝の荷車を引いて、即ち大儲け出きると言うことだったのでしょう。

今、夢判断をやり直して、夢が間違っていたのではない、自分の解釈が間違っていたのだと、何とか納得がいったのですが、当時は自分の夢判断が正しいものだと思い込んでいましたから、損切りラインを下回っても何のそので、今に見ていろ、なんて我慢していたものです。しかし、500円、600円と引かされてくると、さすがに夢見もかすんで来出しました。買ったのが、桜の花も散ってからの頃だったように思いますが、それから2ヶ月ほどで急落し出したのです。

こりゃ〜ダメだ、こんなことしていたら、元も子も無くしてしまうぞと、投げ出したのは、確か6月頃だったと思います。値段は1500円を切った所だったと思います。結局、1000円ほどやられて、3000万円ほどやられました。4000万円ほど有った金が、あっという間に、1000万円ほどになってしまいました。それでも、何とか幾ばくかの金が残ったのは幸いでした。その数日後には、1000円飛び台まで下がり、翌年には、700円台まで下がってしまったからですから。

大和ハウスの売り以外で、こんなにやられたことはなかったので、当時は、やられた金額の大きさに失望落胆したものです。まぁ、相場を張っていれば、こんな事は当たり前のことだといつもは思っているのですが、実際に会社から損益計算書が来て、損金を確認した時は、本当にガックリときたものです。まだ、一千万円の現金が残ってはいるものの、失った三千万円への未練が断ち切れず。しばらくは、店に出ていても悶々としていたものです。

妻に気付かれぬ様にはしていたのですが。それはそれで、女の感といいますか、いつもとは違う私の素振りで、あ〜、又相場をやっていて、上手く行かなかったのだなと、感ずかれてしまいました。後で妻に何でわかったんや、と聞いたら、前にあんたが失敗した時と同じ様子だったから、あ〜、又や、と、思ったそうです。

まぁ、隠し事は、ばれるものです。しかし、これがその後公然と相場を張れるきっかけとなったのですから、三千万円は失ったけど、結果は、私にはよかったと言うことでした。妻は結局私から相場を取り上げるのは無理だと思ったのでしょう、あまり無理な事せずに、ぼちぼち楽しみなはれと言ってくれました。

天下晴れて相場を張れるようになって、さぁまたやるで、と、張り切っては見たものの、どうも気持ちがすっきりしません。人間隠れてやっている間は、スリルがあって楽しみも倍加したものですが、公然とやれるようになると、何だか張り合いが抜けたような感じでした。

株屋のAさんに、相場張るの家内の公認になったでと報告すると、彼も、電話して来るのに偽名を使わんでもよくなった、と喜んでいました。まぁ、彼のためにも良かったなと、さ〜お祝いやと口実つけて一杯会です。まったく、男って奴は、いつまで経っても子供みたいなものです。

夢のお陰で、相場は負け相場になりましたが、結果オーライと言うことになりました。「人間万事、塞翁が馬」、と言うところでしょうか。1980年(昭和55年)夏のことでした。

相場は、ダウ6000円台を右肩上がりにじり高をしております。残った一千万円の元手で、買い捲りです。中外製薬、昭和電工、三機工業、塩野義製薬、松下電産、川鉄、住金、などなど手当たり次第に買い捲り、破竹の進撃です。信用取引で目一杯買うのですから、短期間にかなりの利益を得たものです。翌年の夏、ダウは8000円台で目先天井を打ち、翌々年の秋の6800円台まで整理し、その後は平成元年(1989年)の12月29日の大納会まで、延々と七年間の上昇相場が続いたのです。

今思えば、日本相場界にとって、一番いい頃だったのではないでしょうか。まぁ、これから先まだこれ以上のいい時代が来るかも分かりませんが…。当時の株投機は、買った株をじっと持っていても、大金持ちになれた時代ですから、よほど下手をせぬ限り、儲かったものです。

しかし、運の良し悪しで、又、上手下手で、財産を飛ばした人もいたようです、何しろ上げ相場を買って損をすることもあるのですからね。何でって、それは、上がると見て買った株の、あや押しに引っかかって投げるのです。何故投げるかといいますと、信用で買い付けるからです。信用で買い付ければ、期限がありますし、又、あや押しが深い時には増し担保を請求されぬまでも、気持ちが持ちません。だから、怪我が少ない内にと投げるのです。結局投げたあたりが、あや押しの底で、振り落とされると言ったような有様で、上げる相場を買って損する人もかなりいるものです。現物で買っている人には、こんなことは先ずないでしょうがね、相場は、余裕を持ってやるというのが一番いいですね。

又、上げ相場は売り屋が作る、とも言います。空売りしては高値に担がれて買い戻す。この買戻しで相場は上昇する。高値に飛び付き買いし、あや押しに引っかかって投げる、そうして下げた所を空売りする、又担がれて買い戻す、こんなメカニズムで相場は躍動しながら、上昇するのです、下げ相場の時は、この反対になるのですが、だから、売り屋が作る上げ相場、買い屋が作る下げ相場、などといいます。今、現在の相場を見ても、空売りの多い仕手株はどんどん上がるし、高値憶えで押し目買いされている優良株は、買いばかりですから地合いが悪いと投げもので下げてしまいます。

ですから、まともに考えていたのでは、とてもじゃないですが、やられる方が多いようです、
本当に株の投機は難しいものです。結局は、損を憶えて経験を積むしか方法はありませんね。
私も、痛い目に合って経験して、何とか儲かる様になっていますが、上手下手では割りきれぬ運と言う要素も又あります。いくら上手な人でも、運次第では、儲かる相場も儲けることが出来ません。だから、相場は面白いですね。

まぁ、そんなわけで、平成元年の大天井まで、かなり儲けましたね。ところが、妻の公認でやるようになってからは、儲けの報告をさせられて、かなりな金額になると、貸し家の売り物を買えというのです。いつの間にかそんな家を物色していて、相場の世界にお金を置いておけば、又いつかのように損する時もある、物に変えておけば、無くなることはない、だから、沢山儲かった時には、貸し家に変えておけば、家賃の収入にもなって、不労所得が得られる、と、まるで経済学者の様にのたまう妻に逆らうことも出来ず、投機資金の細るのに身の細る思いをしながら、利益金の一部で家を買ったものです。

今、思えば、私が選んだ銘柄で、一番大当たりだったのは、失礼ながら、私の妻だったと思います。67才の現在、こうして元気でいられるのも、妻の作ってくれる食生活のお陰だと思っています、人間は口から入る物で、健康を維持しています。だから、現在の様にインスタント物の溢れている時代の食生活は、作る方も、つい簡単に出来るものですませようとします。しかし自然な食材に手を加えた食事とは、栄養の回り具合が違います。

私は妻と結婚して今日まで、いつも妻の作ってくれた手料理で、身体を造ってもらっています。この年まで、腰痛と、歯医者以外は医者に掛かった事はありません。こんな健康体は、妻の作ってくれた食事のお陰である、といつも思っています。その上、利殖のことまで考えてくれているのです。まことに私にはもったいない妻です。ですから、どんなに値上りして儲かった株を選んだ事よりも、妻を選んだ私の選択眼は冴えていたと思っているのです。何だか、のろけちゃってすみません。

そんなわけで、バブルがはじける前までに、一戸建ての家を10軒買って貸しています。今、その家賃は、震災後の無職の我々の生活を支えてくれています。まことに我が妻大明神です。 

さて、バブルの年は前年から上げて来た鉄鋼株を買っていました、平成元年(1989)の春先には、川鉄が1140円の高値、住金が965円の高値をそれぞれ付けていました。大型鉄鋼株がこんな高値をつけるなんて、後で考えれば気狂い沙汰ですが、当時は上がれ上がれ天まで上がれで湧き返っていたものです。不動産も、天上知らずの値上りで、私も妻の奨めで、マンションを二戸買っていました。これは、取引銀行からの融資の奨めもあり、私は気が進まぬままに買ってしまったわけです、家内は、人に貸せば家賃収入になると、貸せ貸せと迫りましたが流石にこのマンションにだけは借家人は入れませんでした。これは、あくまでも、値上り見込みの投機物件であり、長期間に渡る貸借は避けていたわけです。この判断は正しく、後に大変なことになるのを防げたのです。

株の方は、鉄鋼株の大量買いで、もうウハウハです。しかし、近くの3000万円ほどの建売物件が、一ヶ月も経たぬ間に5000万円の値段がつくに及んで、流石に鈍い私にも、この異常さは、要注意と気が付いたのです。そこで、株の方もいくらか逃げていた方がいいと思い、半分ほど手を空かせていたのです。気狂い相場の38.915円で終わった大納会、明けて四月までの暴落、五月にかけての鈍い戻り、私はさしもの相場も大天井を打ったと思ったものです。この戻りにかけて持ち株全部を売り逃げ、友人知人にもそのことを言いましたが、誰一人として聞く耳を持った者はいませんでした。

その後、数年経ってから、あの時、あんたの言うことを聞いていたら、等と泣き言を言っていましたが、後の祭、今でも当時の株を後生大事に持っている人もいます。それで報われたのは、ソニーを持っていた人くらいで、この10年間に惨憺たる状態です。暴落の年の10月、ダウが20.221円まで下がった時、こりゃ〜今後10年位はあかんで、等言っていたものですが、10年経って現在の有様は、当時予想していた以上の不景気になったものです。

暴落の年以後は、相場の方も以前の様に素直に稼げる状態では無くなりました。上げるかと思ヘば下げる、下げるかと思へば戻す、いはゆる、右肩下がりの下げ相場です。危なくて大きな玉を仕掛けることも出来ません。こりゃ〜当分相場はダメだ、本業に注力しようと相場の方は現物買いの玉をたまに回転させながら、商売商売です。

二人の娘も大学までやり、生涯の伴侶も見付けさせ、一応人並みに親らしいことをしてやることも出来ました。夫婦二人になって、馴れた商売で日々をすごしておりましたが。このままで人生をまっとう出来れば、めでたし、めでたしですが、私の人生はこのまま穏やかに過ごすことにはなりませんでした。それから数年後に起こった人生最大のアクシデントで、またまた大変なことになったのです。人生七転び八起きと言いますが、私の人生はなんと言う、楽しい人生なのか、と、本当に開き直ってそう言いたいような変わった人生です。

しかし、まぁ、昨日(4月5日)深夜に見たNHKの プロジェクトX「大地の子、日本へ」という番組を見ながら、終戦時に、中国大陸の戦乱の中で、一家離散して孤児になった人たちの悲惨な人生に比べれば、私の人生なんか本当に恵まれていたものだと、つくづく思うのでした。

では、またまた発生した、我が人生最大のアクシデントのお話しは、次の投稿までお待ち下さい。

         損志こと、北浜こと、北浜老松こと、アタッカー 拝




我が華麗なる過去?17♪

1989年大納会の38.915円を最高値に、さしもに強力な上げ相場も命運尽きて、翌年から、「山高ければ、谷深し」の格言どうりに、際限のない下げ相場へと転げ落ちていくのですが、実際の経済は、当時は皆様ご存知の様に、不況などとはまだどこ吹く風とばかりに景気のいい話しが多かったように思います。

株価は未来を予測するとはよく言ったもので、やがて数年後には、実際の景気にもその片鱗が現れる様になって来ました。バブル前に、(この言葉も、かなり後になってから使われる様になったと思いますが)買っていた2戸のマンションも一戸当り三千万円ほどで買っていたものが、一時は五千万円の値が付いた時もありましたが、急激に値下がりして、1994年頃には四千万円前後の相場に値下がりして来ました。

が、まだ、当時はこの現象は一時的なもので、やがて又盛り返して来るものと、世間では良い方に予想をしていた様です。相場の儲けで買った貸し家は、全部中古だったのと、バブルに至るかなり前に買っていたので、値段も安く、現金で買ったものだったので、その家賃の収入で、(マンションを買う時は全額借り入れで、30年払いのローンを組んでおりましたが、これは、取引銀行の顔を立てて借り入れたもので、当時、銀行さんは、いくらでも使ってくれとやいやいと頼まれたものでした)元利金の支払い(月40万円ほど)は楽に出来るようにしておったのです。

投機目的で買ったものですから、他人には貸さず、空家で置いていたのでした。しかし、じわじわと不動産の相場が下がって来るので、景気が回復するまで待とうと思っていたのですが、一度売って荷を軽くしておいた方がよいと思って、思い切って売ることにしました。後で振り返って見て、この判断が、自分を奈落の底へ突き落とす寸前で救ったのでした。やはり運がよかったとしか言い様がありません。

立地条件がよかったのと、マンションの玄関が当時はまだ珍しいオートロックだったので、買い手はすぐに決まりました。結局二戸共、3800万円で手放しましたが、単純に計算して一戸あたり800万円ほどある利益が、諸経費と金利でほとんど消えて、危なく足が出るところでした。それほど金利が高い時代でしたのですね。まぁ、あまり、儲けにもなりませんでしたが、数年間、がらんとしたマンションを自分一人で2戸も使っていたと思へば腹も立ちませんでした。

1994年、私が60才、妻が58歳の春の頃でした。商売も順調だし、子供達も、一人立ちして充分にやっているし、なにも言うことは有りません、四海、波静かと言った所で、日々是好日といった毎日を過ごしておりました。相場は1992年の夏の安値14.300台を底値に20.000円台を回復したかと思うと又、16.000円台まで突っ込み、又反騰して来ると言う持ち合い相場で、先高期待は強いものの、一向に儲からない相場でした。あのバブルまでの相場があまりにもよかったので、見果てぬ夢を見るのですが、現実は取りにくい相場でした。


いくら相場好きだとは言え、儲からぬ相場は面白くありません。そんなわけで、相場にもあまり力が入らなくなっておりました。年取ってから憶えたカメラにハマッタのもその頃です。あちこちで募集する写真コンテストに応募して、下位クラスに入選しては満足していたものです。しかし、そんな穏やかな日々は、私には、長続きするはずはありません。世に好事魔多しといいますが、まさにその通りでした。

さて、皆様ご期待の?、わが人生最大のアクシデントがやって来たのです。それは何の前触れもなく、突然やって来たのでしす。1995年1月17日早朝の事です。最初は、グラグラッと来ました、そうです、あの阪神大震災です。熟睡していたのですが、最初の一発目で目が覚めました。横で寝ていた妻に、「大きな地震やったな〜」と声をかけて、うつら〜とした所へ、すぐ次の奴がやって来ました。

これは、もう、なんとも言えぬ大変な揺れです。私は思わず「あか〜ん布団をかぶれ〜」と叫びました。ダダ〜ン、ドドド〜ン、グラグラ〜とかなり長時間大揺れに揺れていたように思いましたが、後で聞く所によれば、わずかに10数秒の間だったと言うことでしたが。かぶった布団の上にドド〜ン、ドド〜ンと何か落ちて来て強い衝撃です。何が何だかわからぬままに布団をかぶってじっと耐えておりました。

ようやく揺れも収まり、やっと静かになりました。辺りはシ〜ンとして真っ暗です。何かで布団の上から押さえ付けられて、身動きが出来ません。何とか動く右手でまわりを探って見ると、土と、割れた瓦が触るのです。「おい、家がつぶれてもとんで」私は、その時初めて我が家が倒壊してしまった事を知ったのです。妻の様子を尋ねると、何かで胸が押さえ付けられて、苦しいと言います、暗闇で手探りすると、タンスの下敷きになっているのです。「よっしゃ、タンスを潰したるわ、」と割れた瓦のかけらで,タンスを叩き出すと、「やめて〜、叩く度に胸が苦しい」と言うのです。

こりゃ〜駄目だ、何とか脱出して助けを呼ばねばと、渾身の力をこめてもがくと、少しづつ布団から身体が抜け出しましす、が、腰骨が何かに引っかかって動けなくなりました。その時、ふと目に入った赤い光に、アッ火が出たと思って、急に慌て出しました。しかし、身体は何かに押さえつけられていて動くことが出来ません。その時、いきなり私の胸に強烈な怒りがこみ上げて来ました。「こんな所で死ねるか〜い」横でタンスの下敷きになっていた妻が、後になって言うことには、私が気狂いになったと思ったほど大きな声で叫んだそうです。(余談になりますが、赤い光と言うのは、電話器に付いている赤い発光体だった様です。"幽霊の正体見たり枯尾花"と言った所でした)

その時です、火事場の馬鹿力が出たのは。クッソ〜と叫んで両腕に力をこめると、ヅル、ヅルっと布団の外へ抜け出したのです。後で、右の腰の辺りが痛むので見ると、パジャマと毛布と分厚い掛け布団の下にいたのに、腰のまわりが傷だらけで血だらけになっていました。いかに強く圧迫されていたかがわかったものですが、よく出られたものだと、今更ながら、危機に直面した時の人間の強烈な能力に驚いたものです。

さて、私は何とか瓦礫の下から脱出出来たものの、妻は下敷きのままです。強力に圧迫された状態で長時間は耐えられまいと思うと、一刻の猶予も出来ません。しかし、倒壊した屋根の下にいると思っていた私は、今度は、どうして屋根を破ろうかと手探りで上の方を探って見たのですが、手に触れる物はなにも有りません。真っ暗な中を手探りで這い回ります。と、やがてぼんやりと外が見えるではありませんか、あれッ、屋根がないぞ、薄明かりの中に空がうっすらと見えるのです。明るくなってわかったのですが、屋根が二つに割れて、私の上はぽっかりと開いていたのでした。

どうしてこうなったのかはわかりませんが、こりゃ〜ラッキーだわいと思いました。辺りはシーンと静まり返っています。私は、その夜明け前のしじまに向かって、大声を張り上げました。「オーイ誰か来てくれ〜、助けてくれ〜」しばらくは私の叫び声は、むなしく闇の中へ消えていくばかりでしたが、ややあって、「マスター、どないしたんや〜、今行くで〜」と誰かが返事をしてくれました。やれ、助かったとばかり、「家内が下敷きになっとんねや〜、手ぇ貸して〜な〜」「よっしゃ〜、すぐ行ったるで〜」と心強い返事が返って来ました。

彼は、顔見知りの近所のご主人でした。「すんまへんな〜、助かります、あのタンスの下辺りにおりまんねや」私は倒壊してささくれだっている、足場の悪い所を這う様にして、彼を連れて来たつもりだったのですが、さて、と思って振り返ってみると、彼の姿がありません。Hさん、と、名前を呼んでも今度は返事がありません。一瞬私はハットしました。柱がささくれだって、うっかりすると足を踏み外して、落ちてしまうような所ですから、彼の身に何か起こったのではと思ったのです。が、彼の姿はどこにもありません。

畜生、逃げやがったな。一刻を争うこんな大事な時に、なんと言う事だ。頼みの彼がいなくなっては、私だけではどうしようもありません。腹立たしい気持ちを抑えながら、またまた大声で叫びました。その頃になってようやくあちこちから、「助けて〜」と言う声が聞こえはじめました。私はそれまで、倒壊したのは自分の家だけだと思っていましたから、その時初めて、あれ、よその家もつぶれているんだと思いました。後で知ったような大惨事になっているなんてことは、その時は予想もしていなかったのです。

「おっちゃん、大丈夫か〜、どないしたんや〜」今度は声だけでわかる、いつもコーヒーを飲みに来てくれる近くの社員寮のお兄ちゃんです、「kちゃんか、おばちゃんが下敷きになっとんねや、手伝どうてぇな」私の声に、「よっしゃ、ちょっと待っといてや、みんなを呼んで来るわ」と走り去りました。やや有って、5人程仲間を連れて帰って来てくれました。手回しよく、懐中電灯やバールなどを持っています。その時は本当に鞍馬天狗が助けに来てくれたように心強く思ったものです。

「おっちゃん、おばちゃんどのへんにおんねや、」「そこのタンスの下やと思うんやけどな」「なんや、はっきりわからんのかいな」何しろ、メチャメチャに壊れた下にいるので、自分がどの辺から這い出して来たのかもわからない有様です。その頃になってようやく辺りが薄明るくなって来ました。寮のお兄ちゃん達は必死になってその辺を掘り返しています。

ようやくタンスを取り除いて、布団の下にいる妻を見付けた時は、みんなして、おった〜ばんざ〜いと、大歓声を上げたものです。一時はどうなる事かと思いましたが、外傷も無く無事に妻を救い出してもらった時は、本当にほっとしました。寮のお兄ちゃん達は、足場の悪いのにもかかわらず、妻を抱えて安全な所まで降ろしてくれました。本当に彼等のお陰で九死に一生を得たものでした。

「おっちゃんやおばちゃん、早よう、店を建てなおして又、僕等がゆっくり休める所にしてや」彼等は、いつも我が店にたむろして、まるで親子の様に、気さくに付き合っていたものですから、そんな事を言って、息消沈している我々夫婦を励ましてくれるのでした。情けは人の為ならずです。遠くから親元を離れて寮生活をしている彼等には、私等夫婦は気の許せる親戚の様に思ってくれていたのでしょう。お陰で、息子のような彼等には本当にお世話になったものです。

その頃になって、ようやく寒さを感じるようになって来ました。何しろ真冬の最中に、身にまとっているものといえば、かぶりのパジャマだけです。下にはパンツ一枚だけ、ガタガタと震えていると、寮のお兄ちゃん達が、見かねて寮へ連れて行ってくれました。その会社寮は、昨年改築して鉄筋作りになっていたのであの強烈な地震にもびくともせず、お陰でその日一日をお世話になることが出来ました。

ようやく落ち付いてそこのテレビを見ると、なんと神戸市内はおろか、かなりの広範囲にわたって大被害が発生しているではありませんか、表へ出て見ると、見渡す限り倒壊家屋ばかりです。えらいことになったな〜、これからどうしよう。金も一銭も持たず、身につけるものも無く、足は裸足のままです。一瞬の間に、長年の間馴れ親しんで来た生活空間が無くなってしまったのです。呆然自失とはこのことでしょうか、

このことを、親戚や、子供達に知らせなければと思うのですが、親しい人の電話番号はみんな短縮番号にしていたので、フルの電話番号など覚えてはいませんから、電話を掛ける事も出来ません。取り敢えず、無事でいることを知らせなければと思って、昔、ニュース映画で見た、戦争の焼け跡に伝言の立て札を立ててあったのを思いだし、寮の方にお願いして、紙とマジックペンを借りて、避難先の場所と私達二人共無事でいるからと書いて、倒壊した我が家の表に張り付けておいたのです。この連絡方法は以外に効果がありました。

電話器の側にあった電話帳で、妹娘の嫁ぎ先の市外番号が分かったので、その市外番号と、相手先の番号は出鱈目に回したら、幸いにも、娘のいる町の家が出てくれました。事情を言って、娘の住所を言い、連絡してくれる様に頼むと、快く引きうけてくれました。

しかし娘はテレビで神戸の破壊された様子を知り、私からの連絡が行く前に、生まれてこの方一度も自分の側から手放したことのない、一歳と2ヶ月の孫娘を姑に預け、誰が止めるのも聞かず、車で神戸へ出発したと言う事で、繋がりにくい電話が先方から避難先の寮へ掛かって来て始めてその事を知った我々は、今度は無事に神戸まで来れるのかと心配するのでした。

娘にすれば、両親の生死もわからず、無我夢中で走って来たのでしょう。夜もふけてからやっと到着して元気な顔をお互いに見合った時は、本当に、涙々の対面でした。聞けば、いつもなら高速を走って2時間も掛からぬ道程が、今日は、12時間も掛かったそうです。そりゃ〜、高速道路のあの太い橋脚が倒れるほどの強烈な地震でしたから、真っ直ぐに走れる道路など皆無であつたと言うことでしょう、パトカーや、救急車や、消防車の後について走って来たと言うことでした。12時間もの間、親を思う一心で飲まず食わずに、この、困難な道路事情の中をよく来てくれたものだと、その心根のいじらしさに、落涙一入でありました。

地震、雷、火事、おやじ、と言いますが、地震は、避けようが無く、恐ろしい事の一番手にされていることを、被災して始めて実感したものです。そんな、こんなで地震の第一日目は、近所の会社寮でお世話になりましたが、他の被災者の方々は、近くの小学校へ避難されていました。私達は会社の人の暖かいお世話で、ストーブまで焚いて頂いて被災第一夜を過ごさせてもらいましたが、小学校へ避難した人たちは、あの寒さの中を着の身着のままで震えながら過ごしたそうです。ここでも私は自分の幸運を感じたものです。

外では、夜になっても、いつ消えるともわからぬ紅蓮の炎が空高く吹き上げております。消防車はあっても、水道がほとんど駄目で、無用の長物です。火は燃えるに任せて勢いの衰えも感じられません。倒壊した我が店舗住宅もいつ焼失するやら時間の問題です。

あ〜ぁ、又や、折角どん底から這い上がって二十二年の歳月をかけて、やっと老後は安泰と思ったのも束の間、今度は思っても見なかった大地震に遭遇して、元の木阿弥、私の人生は一体どうなっているのだ。まぁ、今度は家がつぶれただけで、金の心配はあまりありませんでしたが、それにしても大変な損害です。

ふと、あのマンションをよく処分していたものだと思い、今更ながら慄然とした事です。何故なれば、一瞬の間に、住む家はおろか、収入源の店までつぶれてしまったのです。もし、あのマンションを売らずにいたら、月々の元利金の40万円の返済はどうして出来るでしょうか、売ったマンションも全壊に近く、今、仮に売るとしても、二束三文でしょう。あのまま持っていたら、二戸で六千万円ほどの負債を一気に抱えてしまう事になったのです。買ってくれた人には気の毒に思いますが、これも運命でありましょう。自分の判断と言うか幸運と言おうか、あ〜売っといてよかった〜と心の底から思ったものです。

一夜空けて、さしもの大火事も衰えを見せ、我が家の倒壊場所までは来ない様です。何とかやれやれです。しかし倒壊をまぬがれた近所のお寺には、十数個の棺桶が並んでいまして、聞けば、みんな知り合いの人ばかりです。それも若い人が数人いて、付きそう遺族に掛ける慰めの言葉もありません。中には、下敷きになった息子さんを助け出す事が出来ず、目の前で焼け死ぬのを、どうする事も出来ず見殺しにしてしまった、と泣き悶えて話す知人には、本当に生き地獄を見る思いがして、その悲惨さに胸のつぶれる思いでした。

哀別離苦だけが、人間の人生であろうか、阿鼻叫喚の最中にあって、あらためて人生の目的はなんぞやと思うのでした。こうした困難や苦しみの中にも、全国の、いや、全世界の人々の暖かいご好意を頂き、その心の温かさに、人の情けの有難さをしみじみと感じたのも、こうした逆境にいればこそでありましょう。不自由の中にこそ真の幸福感は、生じるものでありましょうか。病んで、健康体のありがたみを知り、不自由を体験してこそ自由のありがたさがわかる。人は幸不幸の変遷の中に、真の幸せを感じる心を育てるものでありましょう。何か、もの思う、被災後のひとときでした。

今度は、有馬温泉の近くに住む、姉娘が自宅は大した被害が無かったと、迎えに来てくれました。昨日は連絡が取れずに困ったが、何とか私の近所にいる友達に連絡がつき両親の店がどうなっているか見て来てくれるように頼んだところ、店はペチャンコだが、両親は無事だと、書いて張ってあったとのことで安心した、と言うことで、急遽迎えに来たとのこと、お世話になった寮の方々に心からお礼を言って、今度は姉娘の家へ避難です。

ここで、約4ヶ月いることになるのですが、金の事を何とかしなければ、無一文では、どうにもなりません。銀行は、通帳が無いので、いくら、長年のお得意さんであっても、預金を払い戻してはくれません、しかし、身分を証明する物があれば、10万円までは出すとのこと、しかし、身分を証明する物と言っても、何もかも倒壊した家の中では探しようもありません。その時、県警から、運転免許証の再発行をしてくれるとのことで、明石の運転免許更新センタ―まで行き、何とか再発行してもらったのですが、なんと、ここのコンピューターも故障していて、手書きの免許証をくれたのです。これは、記念品として今でも保存してあります。

その免許証を身分証明にして、当座の金は引出しましたが、株屋さんに預けてある株を全部売ってこれからの資金にせねばと思い、地震の明くる日、株屋のAさんに避難先の寮から、電話して、買い付けてある株を全部売ってくれるように頼みました。Aさんとこはひどい揺れだったが、大阪市内には被害は無く、ふだんと何ら変わらないと言う話し、神戸はえらい事でしたなと、慰めてくれましたが「大将、あんたは何でそんな目にばかり遭うんでっか、穏やかな人生は送らせてもらえまへんな」と、へんな、慰めを頂き何となく納得したのも、自分でもそんな思いがあったからでしょう。

「大将、災害は買いだといって、建設株が暴騰してまっせ、指くわえて見てまんのか」Aさんは、こちらの事情がわかっていないらしく、相変わらず、相場の実況をやってくれますが、こちらは今、相場どころやおまへんのや。今後の人生をどうして行こうかと頭を悩ませている最中なのです。しかし、スズメ百まで踊り忘れずといいますが、こんな目に合いながら、やはり相場の事が気になります。明くる日売った金額を尋ねに引け後に電話したら、約、千二百万円ほどあると言うことで、四日目に全額銀行に振り込みましょうかと言っていましたが、建設株の値動きが気になるので、どないやと尋ねたら、「何もかもみんなよう動きまっせ、大地震様様でっせ」などとこちらの神経を逆撫でするようなことを言います。

考えて見れば、災害は買い、などと言ってこちらも過去には買い捲った憶えがありますから他人様の事をとやかく言えた義理ではありません。「Aさん、何かええもんあるんかいな
こちらは、動くに事欠いて、家がつぶれてしもたがな」ところが、Aさんが、「動かないって会社がありまっせ」と、冗談を言うのです。「なんや、それは」と、Aさんが、「不動建設って、動かないと書くのとちゃいまっか」とおどけて言うのです。「いや、ほんまやな、不動か、お不動さんやな、待てよ、お不動さんは、わしのお守りさんやで、これ、おもろいな、なんぼで引けてんね、」

よせばいいのに話しのアヤで、つい乗ってしまいました。「ちょっと待っとくんなはれや、足見てみまっさ」Aさんは、早速調べてくれます。「え〜と、地震の日は、始め値が、前日の10円高の520で、高値引けの610、昨日は、S高の710の寄りで、引けが690で安値引けですわ。それからやね〜今日は、10円高の700の寄りで高値が707安値が663で引けは674ですわ」私は、あの日押しつぶされて死んでいたかも知れない、今、61にもなって、後、何年生きられるのかもわからん、あくせく考える必要はないわ、ここは、守り本尊のお不動さんに賭けて見るか。Aさんは続けて、「それに出来高が震災の日から急増してまっせ、地震の前日までは、せいぜい4〜5万株しか出来なんだのに、地震の日が、1269千、次の日が3382、今日は4481も出来てまっせ」うん、こりゃ〜ちょっと異常やなと、私はこの株を買ってみることにしました。

「明朝、寄付きに不動建設5万買行こか、S高に寄ることは無いやろ。仮にそうなっても、マージンで買えば1200万有りゃ〜担保はあるやろ、ほんでな、寄りから100円安で逆注掛けといてや、もしそうなっても半分は残るやろ」

家はペシャンコで、姉娘の所へ居候の身が、やけくそ半分の博打相場に打って出たのです。まだ、辺りは火災の余燼のくすぶる、地震発生から三日目の事でした。世間はまだ打ちひしがれたままで、この先どうなるのか不安の真っ只中でした。

くっそ〜、わしゃ〜、負けへんで〜。どんなことがあってもへこたれへんで〜。空虚な思いを吹き飛ばす様に、わしは運が強いんだ、わしは運が強いんだと、アホの一つ覚えのように、力を込めて思うのでした。その甲斐あってか、お不動さんは、えらい事になったのです。

今日は、かなり長くなりましたので、この辺でキーボードを叩くのをやめておきます。
では、この続きは、次の投稿までお待ち下さい。

                      北浜老松こと アタッカー拝



最新号
我が華麗なる過去?18♪

長らくお楽しみ頂きましたが、今回を持ちまして最終回とさせて頂きます。

昭和48年夏から21年数ヶ月を営々と働き、老後の蓄えも出来て、さぁ、これから少しは楽をしようかと思っていた矢先に、今度は思いもよらぬ大地震で壊滅的な打撃を受けるとは、まったく一寸先は暗闇だと言う事を実感させられたものです。

しかし、災難に負けているわけにも行きません。地震による火災の余燼もまだくすぶり続ける地震発生から四日目、早くも心を建てなおして、自分をを押しつぶした災害を買いに出たのでした。

1月20日寄付き、ひょんな動機で選んだ不動建設5万株の買い付けが、665円で出来ました、前日の引値が674円でしたから9円安の寄付きです。株屋のAさんから報告を受けた時は、正直言ってひやっとしたものです。その後651円の安値を付けて切り返し、その日の高値は712円と急騰二日目のS高710円の寄付き値を上回って、引けは702円でした。

今日の引値は、急騰4日目だから、2日目、3日目と安値引けはしていましたが、相場になるなら、必ず高値引けをして来るだろうと読んでいましたから、予想どうりの引値でした。何よりだったのは、二日間のS高の高値をクリアしてくれたことでした。

私は被災して3日目には、無傷で残ったホンダのリードと言うスクーターで、街中を走り回って被災状況を確認して回っていましたから、少なくとも3年や5年では街は元どうりにはなるまいと思っておりましたので、建設株の相場も一日や二日で終わることは無いだろうと予想しておりました。

不動建設のその後の足取りは凄まじく、1月31日には地震発生から立会い日数がわずか11日間で、地震前日の引値510円から960円高の1470まで吹き上げたのでした。私は26日の100円S高、27日200円S高、週末をはさんで月曜日の1月30日200円S高と3日間連続のS高をじっと見ておりましたが、1月30日のS高は終日S高に張り付いたままで、出来高も前日の3分の一に落ちたのを見て、ここは潮時と見て明くる日の寄付き、成り行き売りの注文を出したのでした。

Aさんは、「大将上げ出してまだ日数も少ないのに、もう逃げるんでっか」とまだまだ強い相場に何か不満そうです。彼にすれば、資金を引き上げると言っていた私が、彼の一言で気持ちを変え、思い切った勝負に出たので、少なからず満足感を持っていたのでしょう。そして、又、私が彼の言う事を取り上げたのも初めての事だったので、強い相場とあいまって、私の売却注文に文句のひとつも言いたかったのでしょう。

「Aさん、チャートを見ていると、この上げは無茶や、この相場は二番天井を付けに来る相場とは違うで、いきなりハシゴを外されるような気がするで、もしかすると明日寄付きに売りもん、と来る可能性もあるで、反対に明日もS高するかもわからんけどな」

私は、過去の経験から、ここは売っておくべきだと判断したのでした。翌日はたして、20円高の1420円と力のない寄付きでした。依り後1470円までありましたが結局それが最高値となり、予想していたように最高値の日の2600万株あまりの出来高が最後の大商いとなり、その日買った人や、売りそこなった人は、ハシゴを外されたのでした。その後6月には646円の安値まであり、8月には1420円と揺り戻しの二番天井を付けに来ましたが、それまで持ちこたえて逃げた人は果して幾人いたでしょうか。

今、こうして細かい数字が言えるのは、当時のチャートブックを持っているからです。震災以前のものはすべて無くしましたから、記憶を辿る外は無かったのですが、今、記録を見ながら書いていますと、当時のことが昨日のことの様に思い出されます。

1月31日、前場の寄付きの1420円で5万株を売ることが出来ました。1月20日に買ってから、わずか11日目、立会い日数にして8日間です。665円買 1420円売ですから、=+755円です、×5万株ですから、合計3775万円、諸経費を引いても、3700万円あまりを、あっと言う間に稼ぎ出したのです。

これで元利金は約5000万円程に一挙にふくらみました。地震で潰されるのも早かったですが、取り返すのも又、早かつたです。と言っても、取り返したのは金だけですから、倒壊した、長年慣れ親しんで来た店舗住宅や、生活はは元へは戻りません。胸に開いた空虚な穴は、金だけでは埋まる物ではありませんでした。その後、4000万円は引き上げ、残る1000万円が、投機資金の原資になったわけですが、幸いにも勝負運に恵まれて今日現在で、28倍になっております。

"がんばろや神戸"のスローガンで、みんなは一斉に復興へと立ち上がりました。政府も自治体も、被災者にその為の惜しみない援助をしてくれたのですが、私は一途に復興へ取り掛かっている人たちとは違った目で近未来を予想しておりましたので、生活の不安もないことだし、しばらくようすを見ることにしました。

知人達は、倒壊した店を再建したり、住宅が一挙に無くなってしまったので、急場しのぎの賃貸住宅を建設したりしておりました。しかし、私は、廃墟の様になってしまった街に人影はまばらで、ここで、大金をはたいて店を復興して見た所で、客が来なければ商売になりません。

まして、慌てて店の復興に取り掛かっている人たちの大半は、3年間は無利子で、返済は3年目からと言う、被災者優遇の借り入れ金を頼りに建設しているので、もし、こんな不況の最中、まして、人口の減ってしまった街で、商売が上手く行かなければ、それこそ借金地獄になることは目に見えておりますので、会う人ごとに私の考えを伝え、建設資材は少ないは、工事費は高いこんな非常時に、慌てて再建することはない、3年くらいようすを見ていれば、その内に工事費も下がるし、世の中の動きも落ち着いて来るだろうからそれまで待つようにと、口をすっぱくして説いて回ったのですが、残念ながら当時、私の言う事に耳を貸そうとする人は皆無でした。

あれから6年の歳月が流れ、当時、元気良く商売を再開した人の中で、営業不振で借り入れ金の返済に追いまくられている人々の.いかに多いことか、当時この現実が目に見えていただけに、少しでも私の言うことを聞いていてくれたらと残念でなりません。

そして、又、私は、日本経済の衰退の予想から、デフレヘッジをする様にと、知人達に説いておりました。デフレヘッジとは、インフレヘッジの反対で、インフレは物の価格が上がって、お金の値打ちが下がるので、お金の目減りを防ぐために、即ちインフレヘッジをするために、お金を物に替えておくのですが、デフレヘッジはこの反対で、物の価格が下がるので、不要な物は現金に替えて、現金や、預金で持っておくと言うことです。

私は自分の考えどうりに、遊休土地や、採算性の悪い貸家など震災後にすぐに売却して現金化し預金しておりますが、わずか6年間ではありますが、私の考えは正しかったことが不動産の値下がりなどで、ハッキリして来ました。この動きは今後も続くことでしょう、インフレは、物の供給が少なく、金が余っている時に起こりますが、お金がいくらあっても物があふれている時はインフレは起こらないと思っています。

今、中国経済がすさまじい勢いで発展しております。これは、終戦後のある時期、日本が安い労働力で製造した安価な製品を、外国へ輸出して発展して来たのと同じことだと思います。今、この安い労働力で生産された、安価なあらゆる製品が世界市場を駆け巡っております。ユニクロがその製品を扱うことで巨利を上げていることは、皆様もよくご存知の現実であります。

この結果、国内の製造業者は倒産に追い込まれている者も少なくない現状です。セーフガードは国際問題に発展して思うように使えないでしょう。こうした動きは今後あらゆる製品の値下げ競争となり、言うなれば、中国発デフレ経済、とでも言いましょうか、中国経済の発展に比例して大きくなる事が予想されます。デフレスパイラルは続いても、インフレに反転することはむずかしいと思います。だからデフレヘッジはまだ必要だと私は思っております。

さて、話しが横へ反れましたが、地震後の私は、有馬温泉近くの姉娘の家からスクーターで神戸市内へ出かけるのが日課でした。皮ジャンを着て、上下の雨合羽に身を固め、フルフェイスのヘルメットをかぶり、寒風を突いて有馬街道を走るのです。おかしなもので、震災前の店にべったりの生活から、いきなり開放されたライダー生活は、何だか楽しささへ感じられて、環境にすぐに順応出来る自分が、ありがたいとさえ思ったものです。

有馬街道は、中国縦貫道路を利用して神戸市内へ入る北神戸唯一の南北道路なので、救援物資を積んだトラックや、自衛隊の車輛などで大渋滞。こうした車輛は上下2車線しかない狭い道路の中央部を、左右に車を避けさせて走るのです、娘の家から神戸市内までは20キロ程しかないのに、車で走ると2時間ほど掛かる始末でした。しかしバイクで走ると、車の間をぬって走るのでいつも40分ほどで走っておりました。まるで、モトクロスを毎日やっている様で、爽快な気分で走ったものです。

神戸市内へ入ると、もう戦場の後のように、どこもかしこも倒壊家屋で一杯でした。やがて神戸市のはからいで、倒壊家屋の撤去をしてくれることになりました。私はそれまでに業者に撤去費用の見積もりをさせていたのですが、その見積もりによると、600万円あまりでした。幸いにも見積書を貰った日に神戸市が、神戸市と、業者と、被災者の三者協約をして、費用は神戸市負担で撤去すると言う事が発表され、危なく助かりました。

震災直後の、災害は買いの鉄則にしたがって、不動建設の買いでふところ具合は良くなったのですが、前に書いた様な理由で、店舗の再建は見合わせて、当分は強制隠居をさせられたと思ってのんびりすることにしました。

幸いにも、私の持っていた貸し家は、地盤の固い北神戸地区に集中して持っていたので大きな被害も無く、倒壊して土地を売ったのと、店子が買いたいと言って来たので売ったのと2軒を処分して、8軒は無傷で残りました。とは言っても、一軒当り100万円ほどの修理費は掛かりましたが。その内の一軒の店子が、家主さんが住む所がないのに気の毒だと言って出てくれたので、被災後、4ヶ月目の5月に娘の家を引き払ってそこへ転居して現在に至っているわけです。

我が倒壊家屋を撤去した跡地は、アスファルト舗装して、貸しガレージにしております。当時、市営、民営の賃貸住宅が、倒壊したり、焼失したりして極端に不足していたので、神戸市は仮設住宅に被災者の方々を収容していましたが、安住出来る住宅がない、住まいする所がないと言う声に、力のある人は、賃貸住宅をこぞって建設していました。当時は完成するとすぐに入居者で満杯になっていましたが、6年経った今、物件は余り返っていて空家率は高くなるばかりで、私の知人なども3億円余り掛けて7階建ての賃貸マンションを建てたのですが、当時は一杯だったのに、今は半分が空いていて元利金の返済に困ると言って嘆いているありさまです。

私はこのことあるを見越して、倒壊した我が家の跡地を、僅かな費用を掛けて、収入のある貸しガレージにしておいたのですが、これも正解でした。当時、私の話に耳を貸さなかった友人たちは、今頃になって後悔しております。彼等が今後どうして行くのかと、人ごとながら気に掛かります。

人生最大の危機に直面して、早や6年の歳月が経ちました。近頃は皆様ご存知の相場三昧でのんきに暮らしております。どんな人生にせよ、過ぎて見れば苦しみも楽しい思い出となるものです。大和ハウスの空売りでテンプラにされたり、一家離散したり、大地震で倒壊家屋の下敷きになって、九死に一生を得たり、考えて見れば実に華麗なる過去ではありました。

今日は、完結編となりますので、最後に私の人生感などを少し語っておきたいと思います。相場の話しではないので、退屈される方もあるかと思いますが、案外皆さんの今後の人生に役立つ話もあるかと思いますので、しばらくご辛抱をお願いします。

かつて私は、少年の頃から、人間は必ず死んでいくのに、何のために生まれて来たのだろう、人生の目的とは一体どんな目的だろうと、いつも疑問に思っていたものです。そしてこの疑問は、長ずるにしたがってますます強くなり、我が人生の最大の探求テーマになってしまったのでした。

67才の現在、何とか自分なりの目的を見付けることが出来ましたが、その目的に付いては後ほどお話しいたしましょう。夢多き少年の頃は、又、悩み多い頃でもありました。ある時、意気消沈していた私は、人間の出生についてのメカニズムを知る機会がありました。それは、ある本に書いてあったのですが、私はそれを読んだ時、ものすごいショックを受けたことを憶えております。

現在は、テレビでも放送されたりしておりますので、皆様はよくご存知のことと思いますが、生殖行為によって、男性の体から放出される精子の数は、一回に約2億ほどあると言う事で、その内の一つの精子のみが、女性の卵子と結合して人間になると言うことでした。

私は、そのことを知った時、それはもう晴天の霹靂でした。なぜなれば、自分は実力も能力もない、負け犬のように、どうしようもない情け無い男だと息消沈していたからです。

しかし、一緒に放出された2億もの精子仲間との激しい競争に打ち勝ち、1等賞のなったお陰で今、この世にいるとなると、負け犬どころではありません。とんでもない実力者なのです。日本の全人口の約2倍近い人々との出生競争で、1位になったのですから。

私は、こんなすごい実力を持っていたのです。これは、私だけではなく、この世に生存している人々がみんな、このような、すさまじい出生競争に打ち勝って存在している実力者ばかりなのです。

そして、実力もない、運もないと自己卑下ばかりしていた自分が、何も知らない大馬鹿者だったと言うことにも気付いたのでした。しかし、ことは、2億人の一人としてこの世に君臨している実力者だけではありません。運と言うことを考えた時、これも、とんでもない強運の持主であると言うことも理解することができました。

何故なれば、一回に放出された2億人の我々は、横一線に並んで出たわけではありますまい。早く出た者もあれば最後の方で出て来た者もいる筈です。そうすると、真っ先に卵子に向かって突進するには、やはり早く出た者の方が有利です。この有利な場所に出られたのは実力ではありますまい。これはやはり運が良かったからでしょう。

さらに考えると、男性が一生に放出する子種は、一体いくらの数になるでしょうか、男性は生殖行為だけではなく、自慰行為もやります。その度に子種は放出されています。その回数掛ける2億人です。そうしますと、その数は天文学的数字になります。一人子なればその内の一人です。二人兄弟なればその内の二人。三人兄弟なればその内の三人です。

こう考えた時、私だけでなく、この世に生まれて来た人々は、みんな、とんでもない強運の持主だと言えるのだと思ったものです。落ち込んでいた私は、自分の出生して来たメカニズムを知ることにより、絶大なる自信を回復したものです。その後、幾度かの困難に直面しましたが、その都度、この事を思い出し自信を取り戻して困難の乗り切ったものです。

今、この文章をお読みのあなたが、もし落ち込んでいらっしゃるなら、あなたの出生のメカニズムを認識され、あなたの実力とあなたに備わっている強運を確認して頂きたいと思うのです。必ずや、あなたも、私と同じように自信を取り戻される事と思います。

さて、地震後はにわか隠居で、毎日が日曜日となりました。今まで仕事にかまけて思索の時間がありませんでしたが、毎日々々、する事も無くただ漫然と暮らしている内に、いつしか、又、人生の目的について考える様になりました。今度は、生活の心配もなく、誰が邪魔するわけでもありませんので、じっくりと考えることが出来るようになりました。

生まれて来た人間は、いつか必ず死んで行きます。先に書きましたように生まれて来る時は、大変な競争に打ち勝って出てくるのですが、何故、こんな大変な競争をしてまでこの世に出て来るのでしょうか。何の目的も無く只漫然と人生を送るためなら、あんな競争をしてまで出て来る価値がない筈です。そこには何か目的がある筈です。

そこで私は、心の中にその答えがあるのではないかと思い、自分が常に何を考えているのかと言うことを、自分の心を客観視する事で発見しました。それは実に単純なことでした。私は、いつも楽しみを求めていたのです。楽しみは又幸せでもあります。そうか、何も大それたことを求めているのではなく、楽しさを、幸せを求めて生きていたのだなと、気付きました。

そして、これが人生の目的であるとすれば、何とか辻褄が合うのです。私の心にある、楽しみたい、幸せが欲しいと言う思いは、万人の思いでもありましょう。すべての人々の心の底に同じ思いがあるとすれば、出生の目的は楽しむ事であると言えるのではないでしょうか。

そして、この世はその楽しみを得られる場所である楽園であり、レジャーランドであり、アドベンチャーワールドであるとも言えます。何故なれば、楽しみを求めた人々は、どこへ行くでしょうか。レジャーランドや、遊園地へ行くではありませんか。そうすると、楽しみを求めた人々が生まれて来たこの世と言う場所は、楽園であり、レジャーランドであり、冒険王国のアドベンチャーランドであると言えるのではないでしょうか。

すべての人々の心の底にある、楽しみを求める要求こそ、人生の目的であると私は断定したのです。私がそこに気が付いたのは、震災後2年くらい過ぎてからでした。それ以後の私は実に大らかになりました。昔、インドの偉い人が、人生は「生、老、病、死」の四大苦界だと教えたと言われますが、私はそうは思わない。かつて昔はその話しを信じて暗い人生観に惑わされていた時期もありましたが、今は、そうは思わない。もしそうだとしたら楽しみを求めている人々が、あのすさまじいばかりの出生競争をしてまで四大苦界へ来る筈はないと思うからです。

しかし、今は、ここでその問題を論じる気持ちはありません、この問題を論じるとなると、一冊の本になるほどの長文になるし、又、この掲示板の趣旨にも合いませんから、この問題については、いずれ、出版物として興味ある人々のご期待に添いたいと思っております。その時の表題は、「我が人生の目的」とする予定です。出版の時期は、かなり先になると思いますが、書店の店頭でこの表題をお見かけになりましたら、是非お読みになって下さい。

さて、楽しむといっても、遊ぶ事だけを言うのではありません。人生のあらゆる出来事が楽しみの対象となっているのです。私が、もっと若い頃にこの考えに到達していたら、その後の人生はもっと楽しいものになっていたことであろうと思うと、少し残念な気もします。

以上簡単な説明ではありますが、「私の人生の目的は、楽しむ事である」というのが結論であります。

そして、すべての人々も又、この目的に気付かないまでも、楽しさを求めて、人生を過ごしておられると思っていますから、同じ遊園地で楽しんでいる仲間として他人様の楽しみを邪魔しない様にと思いながら、これからの人生を楽しみたいと思っております。

この世に生を受けて、人生を送っておられるあなた、実力者であり、強運の持主であるあなた、どうか、これからの人生を、しっかりと楽しんでください。

18回にわたっての拙文をご愛読下さいましてありがとう御座いました。

「我が華麗なる過去?」はこれをもちまして完結とさせて頂きます。

最後になりましたが、この連載の発表の場を提供して頂きました、piscesさんに心からの御礼を申し上げます。

2001年5月5日(土)
          損志こと、北浜こと、北浜老松こと、アタッカー拝