| Sweet Emotion |
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[U] 「八百鼡さんっ!」 八戒は八百鼡に追いつくとその腕に手を伸ばした。 いきなり腕を捕られ、反動で八百鼡がバランスを崩す。 「きゃあ」 「危ないっ」 八戒はとっさに壁と八百鼡の間に自分の体を滑り込ませ、かろうじて彼女の体を受け止めた。 「大丈夫ですか?」 期せずして抱き合う形になってしまったまま、八戒は自分の腕の中に声をかける。 「あ、はい。ありがとうございます」 「何か用があったんじゃないんですか?」 重ねての八戒の問いかけに、間近に見る八百鼡の瞳が困惑で揺れる。 目の前の青年に直接用があった訳ではない。 独自に調査していた牛魔王蘇生実験について、判ってきた事柄だけでも大き過ぎて、自分だけの 手に負えないと判断した。だから、独角に相談すべく紅孩児たちの行方を追って来たのだ。独角に 紅孩児の行動を止めてもらうためにも――今の紅孩児には八百鼡の声は届かないから。 そして、その行方を追えば、三蔵一行の抹殺に動いている彼らだから、三蔵一行の周辺に辿り着 くのは当然のこと。 でも、八戒と視線があった途端、それだけでないことに気付いてしまった。心細かったのだ。 敵であるはずのこの青年の優しげな瞳に縋ってしまう程に、自分は心細かったのだと。李厘の姿が 消え、優しかった主君である紅孩児も今は遠い。そして、共に紅孩児のためにと闘ってきた独角さ えも、今は身近にはいない。 改めて、今、自分がいかに“ひとり”であるかを思い知らされる。 しばしの躊躇のあと、八百鼡が口を開く。 「皆さんは、桃源郷を覆っている妖怪に起こった異変について、どこまで情報を掴んでいらっしゃる のでしょうか」 「どこまでって、八百鼡さん、まさか僕から情報を引き出すだけのつもりじゃないですよね?」 八戒の瞳に一瞬鋭い光が走り抜ける。 「それは……」 言い淀む八百鼡を前にして、八戒は参ったなと心の中で思う。これでは、まるで自分がいじわるを しているみたいではないか、と。 「実際のところ、僕たちにも全然状況が掴めてないんですよ」 八戒はため息をひとつ漏らすと、自ら口を開く。 「牛魔王の蘇生に絡んで、化学と妖術の合成――禁断の汚呪が行われている、ということ。その途 中経過で発せられるマイナスのエネルギーが、桃源郷の妖怪に良くない影響を与えているのではな いか、というくらいなもので……」 「それが、もし意図的に行われているとしたら?」 「八百鼡さん?」 八戒の声に訝しげな響きが混ざる。 八戒から視線を逸らしたまま八百鼡は言葉を続ける。 「はっきりしたことは判りません。でも、最近になって、突然、城から李厘様の姿が消えてしまいました。 時を同じくするように紅孩児様も変わられてしまった。全て、玉面公主の行っている牛魔王の蘇生実 験にかかわってのことと思うのですが、事態が大きすぎて調べてみてもなかなか全容が掴めないの です」 八戒はその言葉にひっかかるものを感じて問いかけた。 「貴女は今、紅孩児の命で動いているのではないのですか?」 八百鼡が小さく頷く。 「砂漠から戻った後、紅孩児様は変わられてしまいました。あの方が望んでそうあるのであれば、そ の意思に私は従うまでです。でも、何かが違うのです。何か無理に捻じ曲げられているような、そん な不吉な感じが拭えないのです」 八百鼡の体の前で組まれた手はよほど力を込めているのか、指先から血の気が失せ夜目にも青白 く透けて見えた。 「そんな事、僕に話してしまっていいのですか?」 貴方には死んで欲しくはないから――八百鼡は、突然湧き上がった想いを打ち消すように表情を引 き締める。 「あなた方に死なれては困りますから。今の紅孩児様と闘ってもあなた方に勝ち目はありません。 でも、その勝利はあの方の本来望んでいたものとは全く別のものです」 きっぱりと言い切る八百鼡の姿に、八戒は苦笑を浮かべる。 「なんだか、僕たちに全然勝ち目が無いみたいな言い方ですね。でも、まぁ僕たちの目的は牛魔王 の蘇生実験の阻止と桃源郷の異変の解明であって、別に紅孩児と闘うことではないんですけどね」 それを最後に会話が途絶え、二人の間に沈黙が流れる。 先に動いたのは八百鼡の方だった。 「今日はありがとうございました」 ぺこりと頭を下げる。 「では、これで失礼します」 「今度は昼間にいらしてください。お茶くらいご馳走しますよ。それに、こんな時間の女性の独り歩きは 危ないですからね」 走り去る背中に向かって八戒が声をかける。八百鼡は振り返ると、小さく会釈をして寄越した。 「本当のところ、貴女とは闘いたくないんですけどね……」 八戒はひとり呟く。 いつも八百鼡は紅孩児のために一生懸命で、その必死な姿は痛々しいくらいに見える。 二度の手合わせで感じたのは、彼女は本来闘いの前面に身を置くべき人ではない、ということ。 能力の問題ではなく――能力だけで言えば、さすが紅孩児の側近だけあって、十把ひとからげで 送り込まれてくる刺客などより、よほど高い妖力を感じとることができる――、純粋に性質の点で。 八戒が見送る中、八百鼡は広場を横切るように駆けて行く。その足が突然止まった。 前方に浮かび上がる人影。 「紅孩児様……」 「役に立たないばかりか、敵と通じていたとは」 紅孩児の瞳に冷たい光が浮かぶ。 問答無用の勢いで八百鼡に向かい腕をひと薙ぎする。 「八百鼡さんっ」 八戒の張る防護壁よりも早く、紅い疾風(かぜ)が八百鼡に襲いかかった。 「きゃああ」 無数の刃が八百鼡の柔らかい肌を切り裂いていく。その中でも、一際大きい刃(やいば)が袈裟 懸けに大きな傷を残す。瞬間、痛みよりも体を焼く熱を感じた。 八百鼡は遠のく意識の中で、自分を見る紅孩児の姿を捕らえていた。 ただモノを見るようなその視線。蔑みや嫌悪を向けられる方がまだよいと思わせる、感情の全く こもらない瞳。 八百鼡の心が痛みで軋みを上げる。 |