「……悟能。ねぇ、悟能ってば」
 久しく呼ぶ者の無かった、その名前。
 だから、これは夢をみているのだと、心の隅で感じながら緩(ゆる)やかに覚醒する。
 そして――目の前に自分と同じ色の瞳を認め、懐かしさに捕らわれる。
 これは遠い記憶――花喃と暮らし始めて、少しした頃の思い出。
天気が良い休日に、いきなり花喃がピクニックに行こうと言い出して、二人でちょっとした遠出をした時のこと。


「もう。こんな処に来てまで、本を読まなくってもいいじゃない」
 スネたような物言いとは裏腹に、その瞳に浮かんだ表情(いろ)は楽しげに揺れていたから、機嫌を損ねていないことはそれで知れた。
 僕は彼女の瞳の色が好きだった。
否、彼女と再会するまでは、自分の瞳の色が嫌いだった、と言ってもいいかもしれない。
この瞳の色を指して、綺麗な色だと言う人がいなかったわけでもないが、自分ではそう思ったことは只の一度とてない。むしろ、自分自身を映し出す無機質な冷たい色だ、という思いの方が強かった。
今だって、鏡を覗けばそこに寒々しい光を見て取ることが出来る程に。
同じ色彩(いろ)なのに、彼女の瞳の碧を暖かいと感じるのは、偏(ひとえ)にくるくると良く変わるその表情に由来するのかもしれない。
「でも、花喃。こういう場所で読書するのも、なかなか気分がいいものだよ」
 小高い丘。そこに枝を広げる一本の大木――まるで、絵画の中のような風景――その幹に背を預け、眼下を見遣れば、広がるまだ青い麦畑の上を風が渡って行く。
 心地よい風が頬を擦り抜け、僕を覗き込む花喃の前髪を攫う。
「だからって、居眠りなんてしてると風邪をひくわよ。ところで、ネっ、とっても素敵な場所を見つけたの」
 心底、楽しそうに彼女の瞳に光が踊る。
「楽しそうだね」
 僕の言葉に、花喃は当然だと言わんばかりに目を見開く。
「当たり前じゃない。こんなに天気が良くって、風が気持ちいいのよ。本の虫の悟能には、判らないかもしれないけど」
 そんなことを向きになって主張する彼女に愛しさを覚えて、その体を抱き寄せる。
「ちょ……悟能?」
「花喃、幸せかい?」
「ヘンよ、悟能」
 腕の中で、花喃が怪訝そうな視線を向ける。
「いいから答えて、花喃。君は、今、幸せ?」
「幸せよ」
 僕にもたれかかって、そう答えた花喃の柔く少しクセのある髪が鼻先をくすぐる。
「だって、独りじゃないもの。ここにあなたが居るから」
 つかの間の蜜月――この数ヶ月先に起こる悲劇を予感した訳でもないけれど――あまりにも孤独な時間に慣れ過ぎて、手に入れたこの幸福(しあわせ)が長く続かないのではと、いつも怯えていた。
 だから、そっと抱き締める。
 愛しい恋人(ひと)を。その穏やかな時間を――。

「ねぇ、悟能。ちょっと先に小さなお花畑を見つけたの」
 花喃が思い出したように僕を見上げる。
「行ってみましょうよ」
 そう言うと、包む腕を擦り抜けて軽やかに丘を駆け下りて行く。
「そんなに急ぐと危ないよ」
 声をかけた矢先、突然の突風が彼女の姿を視界から攫う。
 風が止み、再び青い麦の海に彼女の姿を見出す。
 穏やかな日差しの中、楽しげに微笑む笑顔――彼女は、こんな柔い陽光(ひかり)が似合う女性(ひと)だった。あんな冷たい、陽も差さぬ岩牢の中で生命(いのち)を終わらせていいはずはなかったのに……。
 そして、その傍らには――あの日の悟能(ぼく)。
 確かに、幸福な時間(とき)はあったのだと――それは宝物のように、夢のように幸せな光景。
 出来ることならば、その穏やかな季節を君と歩き続けていたかった。
でも、夢の中でさえも、そこには八戒(ぼく)の居場所は無いのだと思い知らされる。

 僕の手は、あの日に戻るには多くの血で汚れ過ぎてしまった。
そして――僕の手は君を救うことさえ出来なかった。


「おい、八戒」
 肩を軽く揺すられ目覚めれば、そこにはよく見慣れた深紅の瞳。
「はい?」
「『はい?』じゃねぇっつーの。三蔵様がそろそろ出発だとよ」
「もう、そんな時間ですか……」
 休憩を兼ねて、川辺の木陰に昼食の場を広げた。水面(みなも)を渡ってくる風の心地よさについうたた寝をしてしまっていたらしい。
 そして、耳に微かに響く川のざわめき。
 夢の中、絶えず聞こえていた青い海を渡る風の音(ね)は、これだったのかと得心がいった。
「お前、無理してんじゃねぇ?」
 八戒の生返事に、悟浄は気遣うようにその顔を覗き込む。
「疲れてるなら、運転代わるけど?」
 そんな些細な心遣いが嬉しくって、そうと知れないように八戒は口元に微かな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。でも、この先、山越えですから。僕が運転した方がいいと思いますよ?」
 その一言に、悟浄がげっという表情を浮かべる。
「そりゃあ……俺だって命は惜しいしな。ま、あんまり無理はしなさんな」
「大丈夫ですよ」
 そう言って、八戒は川の流れに視線を転じる。
「夢をみました」
 呟くように声に乗せれば、黙って先を促す視線を頬に感じる。
「彼女、笑ってました」
「よかったな」
 細かい事は聞かずに、それでも欲しい言葉をくれる。だから、ついその優しさに甘えてしまう。
「ええ、そうですね」
「さてっ、と」
悟浄は立ちあがり、大きく伸びをすると顎でジープを指し示す。その助手席には、仏頂面の三蔵の姿。
「さっさと行かねぇと、三蔵の血管、切れかねないぜ」
「あははは。それは困りますねぇ」
 八戒はそう応えると、悟浄と並んでジープへと足を向けた。


 ねぇ、花喃
僕は君と逝くことはできなかったけど
 もう一人の僕が一緒だから、寂しくないよね?
 僕は君を忘れない
 だから、せめて記憶の中でだけでも
君は幸せだったあの日のまま、微笑んでいて
――永遠に

  
<Fin>

BGM:「静かの海」
Song by scudelia electro 

(C)AkiraUshio 2001



私はね、元々嫌いなの、花喃。だってあざといじゃない、あんな死に方。儚げな様でいて、実は非常に逞しい女ですよ。
―残酷な過去にほんの少し入り混じる幸せな時間。そこにさえ纏いつく、計り難い後悔と懺悔(思い描くその人が笑顔だから、余計始末が悪い)。それでも彼は、心に去来するその光景を拒めない。
読後、「いつか"ただ懐かしく"振り返る事の出来る日が来るといいね」て思いました。愛おしかったです。…はっ。コロビそうになった今(笑)
彼は、一連のこの夢を「無意識の内に故意に」見るんだと思う。勿論、贖罪と奢るつもりは更々無くて。もしやこれは、少しずつ昇華させる過程、なのかも。故人を、そして「あの日の僕」を。内なる葬送。レクイエム。
一方、彼に「宝物のような、夢のような」幸福な時間を与えることの出来た彼女。…うん、イメージアップしたかも(笑) ありがと。
from きゃらいあ



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