ぴちゃん
 ぴちゃん
 天井から滴り落ちる水滴の音。
 ギィと錆び付いた音を響かせて、重い鉄扉が開かれる。
「――花喃」
 躊躇いがちに呼びかける、声。
 自分はもう狂っているのかもしれない――あの人の声が聞こえるなんて。
 ここまで、彼が辿り着けるはずはないのに……。


「いやぁ…」
 悲鳴のような、泣き声のような懇願する声が遠ざかり、厚い鉄扉の向こうに消えていった。
 今夜、あの化け物に供される生贄はあの子なのね――何も感じない心で思う。
 ここには、昼も夜も無い。岩で閉ざされたこの空間には、陽の光は差さないから。だから、時間の流れは判らない。自分がここに連れて来られて、どれだけ経つのか。いつまで、ここに繋がれているのか、も。
 ここに連れて来られた当初、先に捕らわれていた少女の気配が、ある日を境に突然感じられなくなってしまった。
 あの女の言葉が甦る。
『所詮、最後にはあの人に食べられてしまうのだからねぇ』
 自分は、いつまでここにこうして在るのだろう。


 湯浴みをさせられ、鏡の前に座らされる。
 香油を塗られ、髪を梳かされ――。
 数人の女たちが主(あるじ)のための人形を、彩(いろど)り、飾りたてていく。
 他人事のように、鏡の中のその様子を眺めやる。感情はとうに死んでしまった。ここに連れて来られた時からひとつずつ。少しずつ。それは、正気を保つため――何も感じない心が、果たして正気であると言えるのかしら?
“バカみたい”
 鏡の中の自分に、虚ろな視線を向けたまま、思う。
 バカみたい。なんて、無駄なこと。全ては乱され、剥ぎ取られてしまうのに。
「お戻りください。お方様!」
 廊下から、甲高い女の声が響く。と、同時に勢いよく開かれる部屋の扉。
 扉の先には、数人の女に遮られるようにして立つ一人の女。金銀玉で飾りつけられたその姿は、一目でそれが先程『お方様』と呼ばれていた人だと知れた。
「たかが人間の分際で」
 その女の口から絞り出される怨嗟の言葉。かつては美しかったであろうと察せられるその容姿は、やつれ、衰え、その両目だけが嫉妬で異様な光を放つ。
 嫉妬?誰に?何に対して?
“バカみたい”
 望んでこんな場所にいるのではないのに。
 ここにいるのは、私の意思ではないのに。
「でも、そうねぇ――」
 女の瞳に蔑みの色が加わる。
「所詮、最後にはあの人に食べられてしまうのだからねぇ……あははははは」
 精神の失調を示すような旋律の狂った嘲笑が、部屋いっぱいに響き渡る。
“バカみたい”
 愛しているわけではないのに。
 愛されたいわけでもないのに。
 正妻であるが故のプライドが女を狂わす――なんて、バカらしいこと。


「牛魔王の息子に横槍入れられたんだって?」
「ああ。ちょっと無い上玉だったんだけどな」
 すれ違いざまに向けられる視線――頭の先からつま先まで舐めまわすような。
 そんな下卑た視線にも慣れてしまった。平気。だって、彼らは私に指一本さえ触れることは出来ないのだもの。
 まだ、今は。
 私が彼らの主のモノである間は……。
 皮肉にも、そのおぞましい事実が私を守っている。
「言ってろ。逃した魚は大きいって?で、いくら、ふっかけたんだよ」
「何のことだ?」
「とぼけるなよ。結構、貰ったんだろ?」
「さぁてねぇ?ケケケケ」
 彼らは、狩を楽しむように女を狩る。
 全ては、与えられる報酬のため。


 日に三度の食事――律儀に与えられるそれは、捕らえた獲物を生かすためだけの物。
 冷え切った食事を口に運ぶ。
 味など判らない。ただ、ひとりの食事の寂しさを噛み締める。
 ここには、あなたがいないから。
 あなたに会いたい――その想いが私を生かす。
 あなたが私を助けに来ることは判っている――希望ではなく、これは真実。
 あなたが私を諦めたりはしないことを知っているもの。それは、傲慢なまでの確かさで。
 だって、自分自身を取り戻すのに躊躇する人間がいるかしら?
 だけど、助け出されるのを待つのも無駄なことだと判っている。
 あなたがここまで辿り着けるはずはないのだから。
 妖怪に立ち向かう術(すべ)を人間は持たない。
 隊を組み、妖怪から人間を守ることを生業としている人達がいることは知っているけれど、そんな人達を雇うだけのお金――私達にはそんな大金を用意できる当ても無く。私を躊躇いもなく差し出した村の人達が、彼に協力してくれるとも思えない。
 それでも、悟能が私のためにここに向かっているのであれば、それはそのままあなたの死を意味するの……。
 だから、祈らずにはいられない。
 私を助けようなんて、馬鹿なことは考えないで。私のことは諦めて……。

――早く、迎えに来て……。
 
 ぽつんと小さな波紋がひとつ。


「きゃあぁぁ……」
 自らの悲鳴で目が覚める。
 また、あの夢――化け物の子が私の腹を食い破り顔を覗かせる……。
 呼吸を整えながら、自分で自分の体を抱き締める。ここには、優しく抱き締めてくれる腕も、宥めるように髪を梳いてくれる指も無いから。
 それは、眠りに落ちる毎、訪れる悪夢。
 判っている。これは、不安が見せる悪夢なのだと。
 ここに連れて来られてから一度も月のものをみていないだとか、時折、胃の辺りに不快を感じることがあるだとか――それらは精神的なモノなのだと、自分に言い聞かせながらも、それでも拭い去れない一抹の不安。
 もし、この腹(なか)にあの化け物の子が宿ったのだとしたら、私はいつまで生きていられるのかしら?いいえ、生かされるのかしら?
 くすっとひとつ笑いが零れる。
「ヘンなの……」
 呟いたはずのそれは、思いの外、大きく響き耳に返る。
 ヘンなの――この生命(いのち)は私のモノ。私とあの人のモノなのに、今、それを自由にしているのはあの化け物だなんて。
 ヘンなの――生かされているのに、生きていたいだなんて。
 そして、もうひとつの可能性――それこそが、あってはならないこと。
 私と彼が愛し合うことが罪だというのなら、神は――神という存在が本当にあるのなら――何故、ひとつの魂をふたつに裂くようなマネをしたのかしら?
『花喃。君は今、幸せかい?』
 そう訊く彼の声はいつも不安に揺れていた。今の幸福(しあわせ)を確かめるように。出会ってしまった運命を悔やむように。
 あなたの後悔は、自身のためではなく、いつも私のため。
 でも、バカね。悟能……。
 こんな運命に私を巻き込んでしまったと、あなたは懺悔を口にするけれど、手を差し伸べたのはあなたでも、その手を待っていたのは――、その手を取ったのも、私なのよ?
 本当に判ってないんだから。
 こう在ることを望んだのは、そして選んだのはふたりでしたこと。自分の半身にやっと出会えたのだもの、惹かれ合うのは当然なこと――それが罪だというのなら、その罪さえもふたりだけのもの。
 あなたがいれば、他に何もいらないもの。
 あなたと私――世界はそれで完結するの。
 これ以上、あなたを苦しめるものなんて欲しくない。だから――

――罪の子なんて、いらない……。

 揺らぎが広がる。


 ギィと錆び付いた音を響かせて、重い鉄扉が開かれる。
「――花喃」
 躊躇いがちに呼びかける、声。
 自分はもう狂っているのかもしれない――あの人の声が聞こえるなんて。
 ここまで、彼が辿り着けるはずはないのに……。
「ここにいるのか?」
 そう、普通の人間である彼がここに居るはずはないのに。でも――まさか?
「悟能…?」
 恐る恐る呼びかける。応えるように駆け寄る足音。
「花喃…!!」
 信じられない。あなたがここに居るなんて。
「悟…能。悟能なの…?」
 ああ、髪が少し伸びたのネ。また切ってあげなくっちゃ……。
「――生きてたんだ。良かった!!」
 安堵の息を吐くように紡がれる言葉。私の好きだった声のまま。
 鉄格子越しに伸ばされる腕。好きだった指。好きだった……。
「その右目…どうしてここに…!?」
 綺麗な碧は赤く染まり、よく見れば、彼の体も血にまみれていて……。
「ごめん。こんな目にあわせて」
 バカね、悟能。
 こうなってしまったのは、あなたのせいではないのに。
「――帰ろう、花喃」
 抱き寄せられる。好きだった、温もり。

「僕が守るから…」
 涙が出そうなほど、嬉しいの。でも――。
 
 二人を遮る鉄格子が現実をつきつける。その冷たさが――痛い。

「…もう、遅いよ。悟能」

 そう、もう遅いの。
 何も無かった頃には戻れないもの。
 あなたは、私を守りきれなかったとずっと悔やむのでしょう?そして、腫れ物に触れるように、私に接するのだわ。
 判るわよ、あなたのことだもの。
 そして、私は――。
 
「花喃?」
 悟能の腰に手を伸ばし、彼の温もりの残る短刀を両手でそっと包み込む。
「――!何を……?」

「このお腹の中にはね」

 私の中には、

「あの化け物の子供がいるの」

 あさましい感情が澱のように淀んでいるから。
 気付いてしまったから、あなたの愛してくれた私のままではいられない。
 もう、綺麗な無邪気さであなたを愛することはできないもの。

「……だから…」

 あなたは、綺麗な私を憶えていてね――。

「さよなら。悟能」


 鮮やかな軌跡を描いて、花が散る。


〈Fin〉

(C)AkiraUshio 2002



元々「あとがき」があったのです、このお話。結局本人の申し出で割愛したのです…が、私の横暴な権能行使により抜粋v
『(いろんな意味で)変わっていくであろう自分を悟能の前に晒したくなかったのかな、とふと思いまして。彼の理想を崩したくはなかったのかな、と。かなり勝手な解釈ですが……。』化け物の子を孕んだ事それ自体が、彼女に死を選ばせた決定打では無かったと。
気付いてしまった「あさましい感情」。女ならば理解出来なくもないのでは?アンチ花喃派(ち、違っ)の私も、解る気がする。でもそこで死んじゃえるのが花喃だよなー…。
でソレ、"あさましい"―「花喃」という女が一気にリアルに、生々しくなる。過酷な運命に翻弄された悲劇の女(ひと)をただ可憐にゃ死なせないあたり…その拾い方汐さんならではかと(笑)



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