……観自在菩薩。行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。


 三蔵は写経の手を止めて軽く目を閉じた。そのまま眉の付け根を指で押さえると、鈍い痛みが走った。
「…………」
 傍らに置いた湯呑みに手を伸ばすが、冷めきった白湯をひと口含んでさらに忌々しげな表情になる。ため息をついて、三蔵はそれを卓に戻した。
薄暗い四畳ほどの小さな部屋にひとり。湿った黴臭い空気のせいで奇妙な息苦しさを感じる。
 三蔵は二十日以上前からこの部屋に籠もって写経を続けている。歴代の「三蔵法師」が受け継いできた儀礼の一つである。約一ヶ月間、人との一切の交わりを絶って庵や小部屋に籠もり、潔斎して「般若波羅蜜多心経」を写す。その間、生活の全ては外界から切り離される。忌みものを断つのは僧侶として当然の事、茶なども刺激物として控えなくてはならない。当たり前だが灰皿も手元になかった。
 三蔵はこの寺院に着院して以来、北方天帝使として賊の討伐にあたり、同時に寺院内の職務をこなすという多忙な毎日を過ごしていた。かえってそのせいで「三蔵法師」としての宗教儀式といったものからは比較的縁遠かったのだが、こればかりはやらずに済ます訳にもいかなかったようだ。
 花の季節が終わった長安は雨季に入る。外は曇天。飾りかと思うほど小さな格子窓からはわずかな光しか入らない。三蔵はぼんやりと手元の明かりを見つめた。
 静かだ。ここは寺院の一室に過ぎないのだが、文字通り隔離されている。この部屋はちょうど広大な寺院の東のはずれにあたり、僧たちの生活空間とはまったく切り離された場所に位置する。二階なのだが窓の外を通る人の声も聞こえない。
「………―――――」
 三蔵は格子越しの空を見た。空は白く、鈍い光を放っている。窓からわずかに見える桜の樹は、遅い花を雨に流されて、ようやく葉が目立ち始めているところだった。
(桜は、終わったんだな)
 ふと、そう呟こうとして三蔵は声を飲み込んだ。答えるものはここにはいない。掠れた吐息が蝋燭の灯りをかすかに揺らした。
 何やってんだ、俺は。
 三蔵はわずかに動揺する。そしてそんな自分が許しがたく腹立たしい。舌打ちをしかけて、唇を噛む。そして無理矢理自嘲の笑みの形に唇をゆがめると、再び筆をとった。


 ……是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。


 しばらくは紙の上を滑る墨跡と己の精神が溶け合い、ただただ無心に経を写す。しかし、半刻もたたぬ内に再び筆先が止まってしまった。またため息をつく。
 ――――――――静か過ぎた。
 三蔵はふ、と顔を上げ、煤けて淡く斑になった壁を眺めた。その向こうを見透かそうとでもするように、目を細める。
 そうやって耳を澄ましても、何も聞こえない。
 本当に何も………聞こえなかった。


『なぁっ!!!さんぞー!出て来いよ!何でそんなとこに入ってんだよ!飯も食わねぇで、そんなとこいたら死んじゃうだろ!?聞こえてんのかよ!なぁさんぞー!!』
 分厚い樫の戸板を破る勢いで、激しく扉を叩きながら小猿が声を張り上げている。
『やめんか!!三蔵様はお籠もりの最中でいらっしゃるのだぞ!』
『だからそれって何なんだよ!?みんなで三蔵こんなとこに閉じ込めて、ふざけっ……がっ…はなせっ!はなッ』
 むりやり口を塞がれて、廊下を引きずって行かれながらまだ暴れている様子がありありと伝わってくる。失礼いたしました、と取ってつけたように言って、僧たちが足早に去っていく気配もわかる。それを三蔵は聞くともなしに聞きながら写経を続ける。
 不用意に他人には手を出すなと悟空にはきつく言ってある。それは倫理の問題ではない。悟空がこの寺院で生きていくために必要なことだ。
 悟空を快く思わない連中がこの寺院の中に多数いる。奴らは言い訳さえあればどんなことでもする。それは間違いの無い事実だ。
 三蔵はそれを、確かに知っている。
 だから、悟空は僧たちを力でどうこうすることはしなかった。ただ毎日、三蔵が籠もる部屋の前で大騒ぎをして、他の僧たちに取り押さえられる、その繰り返しだった。
 バカ猿が。
 飯は食ってんだよいいから帰れうるせぇんだよこのバカ。
 そう言って一発ハリセンで叩く事が出来たらどんなにすっきりするだろうか。そう思っていたら、やがて悟空は部屋の前には来なくなった。ようやく諦めたのだろうと、三蔵は思っていた。
 ただ、その日からしばらくして、声が聞こえはじめた。昼となく夜となく。三蔵にだけ聞こえる「声」が、狭い部屋を満たしている。それは悟空が五行山に閉じ込められていた頃とは桁違いの激しさだった。

 ―――――モウ、今サラ失エナイ。ヒトリハ嫌ダ……。

 呼び声は日増しに大きくなっていった。ついには三蔵をひどく苦しめるようになり。
 耐え切れなくなる日が、やがて訪れた……。

 声は三蔵を呼び続ける。
(………うるせぇ………)
 苛立ちが募る。
 また激しい頭痛に襲われて頭を抱えた。低い気圧のせいばかりではない。
(………呼ぶな)
 胸に石を詰められたような錯覚を覚える。気道が発作を起こしたようにに収縮している。 三蔵は無理やり肺に空気を送り込んだ。狭く薄暗い部屋の空気は淀んでいて、吐き気がする。
(………俺だって好きでこんなことしてる訳じゃない)
 声が直接頭蓋に反響し、眩暈を引き起こす。机に肘をつき、髪の毛に指を突っ込んで耐えた。
(………うるさい)
 気持ちを紛らわすために硯に墨を押し付け、力任せに磨ろうとしたとたんにそれは音を立てて二つに折れた。
「………っ!」
三蔵は手の中に残った墨の欠片を壁に叩きつけた。黒い塊はさらにいくつかの細かい欠片となってばらばらに飛び散って、黒曜石のように冷たく鋭利な輝きを見せた。
 目の奥がしびれて、視界が暗くなった。
 呼ぶ声が聞こえる。
(………もうやめろ)
 三蔵は床に倒れこんで、左腕で目を覆った。耳を塞ぐことすら出来ない。
「やめろ………。俺を呼ぶな」
 そのまま三蔵の意識は闇に呑まれた。


 ……無有恐怖。遠離一切顛倒夢想。究竟涅槃。


 ――――ジジッ。
 蝋燭の芯が焦げる音がする。細い煙がゆらゆらと昇り、すぐに空気に拡散して消える。紫の瞳がその様子を捉える。煙はいつ「煙」という形象を失うのか?
 そんなくだらないことを気にするのは、雨が降り始めたからだ。絹糸のような雨が、辺りを包むように振りそそいでいる。三蔵は文机の上の蝋燭を吹き消して小さな格子窓の傍へ寄った。壁にもたれて淡灰色に煙る外界を見つめる。
 あのとき、自分は悟空の声を聞きながら意識を失った。それは何となく覚えている。目覚めたのはおそらくその次の日の早朝だったろう。
 目覚めてみると、悟空が自分を呼ぶ声が聞こえなかった。
 最初は、自分の耳が聞こえなくなったのかと思った。だがもちろんそうではなかった。ふっつりと、悟空の「声」だけが止んだのだ。
悟空の身に何かあったのか?
 それを確かめる術とてない。他の僧と口を利けば折角の潔斎を破ってしまう事になるし、何よりもう、三蔵には悟空の声も気配すらも感じ取る事はできないのだから。
 出会ったあの時、自分は岩牢に繋がれた悟空の「声」を聞いたと思った。
 呼ばれるままに近づいて、そうして悟空を見つけて、連れてきて。それから?
 五百年の静謐を過ごしていた悟空を勝手に連れ出して、手元に縛り付けて、結局何を与える事が出来た……?
 再び孤独のなかに放り込まれ、不安に駆られた悟空に呼ばれただけで、耐えきれず精神を壊す脆弱な今の己。苦しくなれば、その声をすら拒否するこの俺が、一体何を悟空に与えられるというのだろう。
 あの時、悟空は本当に自分を呼んでいたのか。必要としていたのか。
 出会ったとき、悟空は確かに言った。――――誰も呼んでなどいない、と。

 それが真実なんじゃないのか?

 誰かが脳裏で囁く。
お前を必要としている者がいると、本気で思い込んでいたのか?「声」なんて、聞こえているはずがない。誰も、お前なんて呼ばない。呼ばれる資格がない。
 因果の定めに従って死ぬばかりだった自分を拾い上げて、生かしてくれた師匠を、守れなかった。
 こんな自分に、誰かの「声」が聞こえるなどということが、果たしてあるのか?
 それとも、罪滅ぼしのつもりか?救いを求めるものを連れ出して、守ってやって。
「大切なもの」を守れなかった自分の過去を漱ごうとでもいうのか………。


 ――――――そこまで汚い己など、いっそ―――――

 三蔵はかるく目を閉じた。意識のたかぶりが鎮まるまで静かに待つ。
  己を御する事には慣れている。他人からどう見えているかは知らないが。
強くあるためには、心を冷やして生きてこなければならなかった。
 いずれにせよ、邪魔が入らないのはありがたいことだ。おかげで写経は当初よりもはかどり、今日を含めて後二日でこの軟禁生活から開放される。
 三蔵はちらりと机の方を見やり、小さく鼻を鳴らした。このひと月の間にいったい何百何千の般若経を写したのか。それを記した紙は、今は無造作に丸めて置いてある。きっとそれらは一枚一枚丁寧に表装され、寺院の奥深くに安置されることだろう、信心深い僧た ちの手によって。馬鹿馬鹿しい。こんな紙切れに、何の価値があるというのか。
 この俺が写した経なら尚更、無意味だろう。
 降りしきる雨を見つめ、雨音に耳を澄ました。
 何も見えず、何も聞こえない。ただ、雨以外は。
 湿気を含んだ木製の窓枠から雨の匂いが立ちのぼり、三蔵を包む。

 雨に、呑まれる。

 そう思ったとき、窓の正面にある桜の樹がふと眼にとまった。無彩色に染まる視界の中に、見慣れた色。
 緋色の組み紐だ。
 花びらを落とした桜の枝に、鮮やかな緋色の紐が結びつけられている。三蔵は眼を細めた。水分を含んで重たく垂れ下がってはいるけれど、それはまぎれもなく、

『じたばたすんじゃねーよバカ猿が。結べねぇだろうが』
『いたたたた痛いってさんぞー!髪の毛抜けちゃうだろー!?ハゲたらどうすんだよ三蔵のバカ!』
『誰がハゲだ、ああ!?』
『そんな事言ってな……たたた』

 悟空がいつも使っている、髪結い紐だった。毎朝自分が結んでやっている紐。最後に結んでやったのは、もう一ヶ月も前のことだ。
「……………あのバカ猿………」
 わざわざこの窓から見える位置にくくり付けていったらしい。いつからここにあったのだろう。全く気がつかなかった。

 ひとりじゃないよ。ここにいるよ。
 ―――――待ってるよ。

 三蔵はそのままの姿勢で、ゆっくりと息を吸い込んだ。ここの処ずっと悩まされ続けた、もやもやとした不快感が確かに和らいだ。雨の匂いも気にはならない。
 悟空の「声」が自分を苦しめたとばかり思っていたけれど、悟空はきっと、最初から自分を呼んでなどいなかった。
 そう。今ではもう、ひとりに耐え切れなくなっていたのは。
 ずっと「誰か」を呼んでいたのは………。
 ふと、雲間から光が差すように、三蔵の脳裏に一つの光景がよみがえった。もう、十五年以上も前のこと。とても大切だった、何よりもそばに居たかった、失うことを恐れた微笑み。それが突然、目の前から消えてしまった。
 光明三蔵法師が、同じく写経のため庵に入ったとき………。
 お師匠様の「声」が聞こえなくなって。とても不安になった。
 ………そうだ。思い出した。逢いたかった。待っていたのだ。自分は、来る日も来る日も、ただあの方だけを呼んでいたのだ、ひと月の間。
『―――――お待たせしましたね、江流』

(寂しかった……。)

 知らずにこぼれた表情は、苦笑と言ってもいい。普段の彼を知る者であれば目を疑うほど、それは柔らかくそして儚げだった。


 ……能除一切苦。真実不虚。故説般若波羅蜜多呪。


「三蔵様!」
「お疲れ様でございました、三蔵様!」
 重い樫の戸を開くと、眩しさに少し目がくらんだ。あっという間に僧達がどやどやと狭い部屋に押し入り、手に手に写経した巻紙を抱えた。口々にねぎらいの言葉をさえずりつつ、纏わりついてくる。うざい。
 三蔵は周りの騒ぎに構わず歩き出した。
「三蔵っ!!」
 遠慮も無く自分を呼び捨てにする高い声が左耳を打つ。キーンと鳴った耳を押さえて、三蔵は何か言うより先にハリセンを振り下ろした。
 スパァン!
「ふぎゃっ!」
「うるせぇんだよてめぇは!人の耳元ででけぇ声出すな!」
「〜〜〜〜〜〜〜っ」
 悟空は思い切り叩かれた頭をさすりながら恨みがましい目で三蔵を見上げ、憮然とした表情のまま噛み付くようにこう言った。

「お帰り、三蔵っ!寂しかっただろ!?」

「…………っ、誰がだ!」
 パァン!
その顔にもう一発ハリセンを食らわせて、三蔵は大股で歩き出した。
「だっ、もー、なんだよムカツク〜!俺は寂しかったのに!ずっと待ってたんだぞ!?だって誰も遊んでくんねぇし、メシも一人だし、雨ばっか降るし、それにそれに……」
「やかましい!」
 三蔵はいつも通りの不機嫌な顔で廊下を歩き続ける。
 雨はもう上がっていた。


*おしまい*
(C)みくり
コメディにおいては、前作「おつかい」ですでにでそのド級のセンスを発揮している彼女、シリアスも難なくこなすんですね〜('-'*)すごいわ。
元から文章が上手な上に、選ぶ語彙がまたドンピシャだから素敵なのよねえvv(と普通の表現しかできない私はボキャ貧?^^;)
あのねー…「匂い」と、「気配」がする。そぼ降る雨の音、匂い。静謐で、厳かな空気。三蔵がおかれた状況疑似体験してるような、「声」すら聴こえてきそうな…読み手に、情景を主観的に認識させてくれるのね。もしや、みくりちんがドロドロの愛憎劇とか、人が精神を徐々に病んでいくようなやつとか書いたら怖そう。読む人みんな不幸のどん底に陥りそうじゃない!(注:ほめてます、これはまちがいなく)
すてきなお話どうもありがとう!そして悟空はやっぱすげえやつだと思った。うむ。
きゃらいあ

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