What's New

 彼女の肩越しに壁に掛かった白くて丸い時計が見える。マンハッタンを一望できるお洒落なレストランにしては実家の居間の柱にでも掛かっていそうなごく平凡な時計だ。
 私が最後に言葉を発してからもう既に3分と30秒が経過しようとしている。それから更に3分間、私は窓から見えるマンハッタンの夜景と、彼女の肩越しに見える時計と、彼女の首に下がったクロスのペンダントを順番に5秒ずつ何度も繰り返し眺めた。


 最後に彼女と会ったのは去年の秋で、それから約1年が経過しようとしていた。当時私と彼女は杉並区にある公団住宅で一緒に暮らしていた。私は月給は安かったが普通にサラリーマンをしていて彼女は西新宿にあるホテルのカフェでウェイトレスをしていた。まぁ、ささやかではあったがそれなりに幸せな生活をしていたわけだ。
 だが1年前の秋、私は彼女の前から突然姿を消した。2人で結婚のためにと貯金していたお金のうち半分の50万円をドルとトラベラーズチェックに両替して、気がつくと、朝出勤の時に来たスーツのまま成田空港へむかう成田エキスプレスに乗り窓の外の不思議な田園風景を眺めていた。1枚の航空チケット以外の荷物はいつも持ち歩いているブリーフケースのみ。成田からの出国も通勤電車の乗り換えの延長線上に過ぎなかった。

    ノースウエスト航空 347便 行先

 最初の1週間はミッドタウンにあるエコノミークラスのホテルに泊まった。英語はそんなに出来る方ではないが出世のために何度かうけたTOEICのおかげかそれほど苦労する事は無かった。
 N.Y.について最初の夜、私は部屋に入るとそのままベッドに身を投げ出した。整理する荷物もない。見たことのない天井を眺めながら明日以降のことでも考えるつもりだった。しかし次の瞬間身体中の血管を駆け巡るような恐怖に襲われた。私は特に何も目的も持たずにこれまで生きてきたしN.Y.に来たのもこれといって何か理由があるわけではなかった。私はあるはずの無い理由を探した。YAHOOみたいなサイトで検索する所を必死でイメージした。検索というボタンを押せば確率の高い理由がいくつも表示されるはずだ。しかしどんなにイメージしてもモニターに表示されるのは『Not Found』の文字だけ。ブラックホールのような奥行きのある黒の背景に『Not Found』の文字のザッピングが繰り返される。目に映る景色、壁に掛かった抽象画や窓から見えるエアコンの室外機が並んだ隣のビル。それらは実在するもにには見えなかった。とても平面的でツルンとしていて、丸められて押入れのなかで何年も忘れさられている、あるいはトイレに貼ってあるポスターのようでもあった。私はとにかく泣いた。こんなに泣くのは小学校4年生以来だなと思いつつ、それでも泣きつづけた。すべてが悲しかった。日本でのささやかな暮らし、10年間続けてきた仕事、長時間のフライト、イエローキャブ、ブルックリンブリッジ、CAT'Sの看板、ベルボーイの帽子、すべてに馬鹿にされているようだった。そして何よりも日本においてきた彼女を思うとなおさら涙を流さずにはいられなかった。

 だがそれ以来不思議な事にそんな気持ちになることは1度も無い。
それから約1ヶ月後に語学学校に通い始め就学ビザを取得しある程度の長期滞在が可能になった。そして9ヶ月後にはじめて日本においてきた彼女にハガキを出した。近代美術館で買ったシャガールの絵ハガキに

   今、オレはNew Yorkにいます   愛している

 とだけ書いて送った。実際愛しているのかどうかも分からなかった。
「黙って家を出て申し訳ないと思っている。オレはどうしようもない人間だ。だからもう君に愛される資格は無い。許してくれ・・・・・・」
とでも書けば良かったのだろうか。たが実際そう書く気にはなれなかった。
 それから1ヶ月後、クイーンズのスタインウェイの駅の近くにあるピザ屋で買ったシーフードピザを食べようとしていた時、突然電話が鳴った。日本においてきた彼女からだった。はがきに電話番号を書いたことも忘れていたので、私は多少動揺していた。その動揺が声に出ないよう冷静になるように努めた。
しかし、会話は恐ろしいほどごく普通だった。約1年の時間の経過をまったく感じない。唯一それを感じたのは「元気だった?」の一言だけだった。
「今ねぇ、青山通りの歩道橋の上からかけているのよ」
歩道橋の上と聴いて、もしかしたらそこから飛び降る気なんじゃないかと思ったが彼女の声は明るかった。
「そうか、今日は休みなんだ?」
「そう、これからランチするの」
「オレはもうすぐ寝るところだよ」
「あさって会えない?」
 彼女は今、日本にいる。あさってだなんてまるで近所にでも住んでいるかのような言いかただ。
「ああ、大丈夫だよ」
「じゃぁさぁ、メグ・ライアンとトム・ハンクスみたいに、あのビルの展望台で会おうよ」
「いや、あそこはダメだ。展望台に上るには2時間以上は待たないといけないからね」
「そっかぁ」
「それよりもワールドトレードセンタ−ビルなんかどうだ?エンパイアステートビルよりも高いんだぜ」
「わかった。じゃぁ、あさっての午後7時でいい?」
「ああ、いいよ」

 それから2日後の今日こうして1年ぶりに彼女と会っているというわけだ。
「あれから変わりない?」
約6分30秒の沈黙を破って彼女が発した言葉は1年間のブランクという事実を埋めるための唯一の言葉だった。
「いろいろ変わったよ。いや、変わったという言い方は正しくないな。何かが終わって何かが始まった」
言った後しまったと思った。終わったとか始まったとかいう言い方は今の2人にとって、デザートの後に納豆を食べるようなものでどう考えてもふさわしくない。もしかしたら目に前に並んだフォークやナイフが飛んでくるかもしれない。
だが彼女は恐ろしいほど冷静だった。彼女のしぐさからは腹の底でふつふつと煮えたぎっているヒステリーを押さえているようには感じられない。
「あなたちっとも変わってないわ」
「そうか?」
オレは今ひどく動揺している。こんな時は両手を組んで、その組んだ手の親指のつめを見るとなんとか落ち着く事ができる、という事を最近発見した。
「また会えてうれしいわ」
何も答える事が出来なかった。おそらく自分もうれしいと感じている。しかしそれを口に出したら彼女とは2度と会えないような気がした。
「ヴィレッジでJAZZでも聴かないか?」
「いいわね。でも、もうちょっとここに居ていい?私ね、エンパイアステートビルを見ながら食事するのって夢だったの。」
「ああ、いいよ」
「あのビルにキングコングは登ったのよね」
そう言ったあと彼女は笑った。屈託の無い笑顔だ。
その時1人のオスカー・ピーターソンに似た黒人の男が私達2人の横を通って奥においてあるピアノの前に座った。そして何の躊躇も無くスローなバラードのイントロを弾きだした。すると今度は若かった頃のヘレン・メリルに似た女性がピアノの横で静かに歌い出した。
「What's New」

 彼女は私を見て笑った。目薬のように私の上に一滴だけ落とされた微笑みは過去と現実、つまりN.Y.夜景を見ながら食事をしている2人と杉並区の公団住宅で一緒に暮らしていた2人の姿を曖昧にさせていく。
「私、帰るわ」
突然彼女は席を立った。だが私は彼女を止めようとはしなかった。
「そうか、ホテルまで送っていくよ」
「いいの、今日は楽しかった。私は何も変わってないって事、あなたは知らないでしょうけど」
「いや、知ってるよ。2人とも何も変わってない」
「そうね。また会いたいわ」
「そうだね、会いたい」
「あっ、それとハガキありがとう。私の好きなシャガールだったわね」
「またハガキ送るよ」
「じゃぁ、私行くわ」
曲が終わろうとしている

   Adieu! Pardon my asking what's new

「じゃぁ、さようなら」

   Of course you couldn't know I haven't changed, I still love you so

 永遠に会えないかもしれないという意味のさよならは今、彼女の飲みかけのワインの中にある。

What's New

What's new? How is the world treating you?
You haven't changed a bit; Lovely as ever, I must admit
What's new? How did that romance come through?
We haven't met since then, gee but it's nice to see you again

What's new? Probably I'm boring you, but seeing you is grand
And you were sweet to offer your hand; I understand

Adieu! Pardon my asking what's new
Of course you couldn't know I haven't changed, I still love you so