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空が見る見るうちに暗くなる。屋根を叩く雨の音のひとつひとつも強くなっている。僕の恋人は料理をしている。フライパンで何かを炒める、音が聞こえるから僕はそう思った。そして実際、炒めたにんにくの香りがドアの隙間から(子犬はドアを閉められない。)香る。
僕は煙草に火をつける。それからCDプレイヤーの前に散らばったCDをきちんと重ねて、重なった一番上から一枚づつとって、フローリングの床の上に重ねていく。山を移す作業。無意味な作業だろうか。実際の行動を見れば無意味かもしれない。
ぼくは、その作業にこれから聴くCDを選ぶ、という意味を持たせることができる。
そして、最初の山の最後の一枚をプレイヤーに入れた。
ブルーの種類。というアルバムで、それは僕が勝手に訳しただけなんだけど、それはやっぱりジャズだった。雨の音とハイハットのおとが上手い具合にしっくり来る。
小沢健二の歌に出てくる女の子。
僕はその女の子のことを想像する。長い腕を不器用に伸ばし肩にかかるストレートの黒髪を耳の後ろにかきあげる。
テーブルのひとつひとつに天井から電球が垂れ下がった薄暗い喫茶店で、細い指の間に挟んだ煙草が黒い艶のあるテーブルの上に落とす影を見ながら、そして長くなった灰をめっきがはがれかかった銀色の灰皿に落とす。アルバイトの女の子が店の中央に置いてあるターンテーブルのレコードを交換する。
彼女が針を置くと、針がレコードを滑る乾いた音がして、マイルス・デイビスなんかがかかる。あ、マイルス。
なんて言いながら、煙草の火を押し潰して、自分の爪を気にしている。綺麗な大人の爪だ。僕はクアーズの瓶についた水滴を指ですくって黒いテーブルに落とす。何で知っているの?
と僕が聞いたのは、彼女がマイルスを何故知っているかを知りたかったのではなく、彼女がそう聞いて欲しそうだったからだ。
綺麗な白い額ににきびがひとつできていて、ちょっと可愛らしいけれど、出掛ける前の鏡の前では困ったわと思ったに違いない。ジャズ好き。彼女はまだ爪を気にしながら言う。ねえ。
ブルーの種類って知ってる?自分の爪に飽きて、今度は僕の眼を見ながら言う。
僕は落ち着かずに目を逸らし、彼女の顔のほくろの数を数える。全部で二十一個あった。なにそれ。このアルバムのタイトル。僕は黙って肯く。
ブルーの種類ってかわいくない?ぼくはクアーズに口をつける。だって、気分の、ブルーって、気分に、種類って、考えたこともなかったのに、気分って普通、種類って言葉と、一緒に使わないじゃない。
彼女は頭のいい女の子なんだけど、頭で整理する前に言葉を口に出してしまうから、文章にすると句読点が多くなるタイプだ。
それから彼女はこう言う。
ブルーの準備はできてるの。
僕は、はっとして彼女の眼を見る。彼女は笑っている。
小沢健二の歌。彼女は笑っている。
窓から見える空がますます黒くなり、雨粒は大きくなっている。時折空が真っ白に光って、時間をあけて地響きのような低い音が響く。
子犬は僕の腕を抜け出て、ベッドの端に落ち着いた。遅い昼食の準備が出来上がった。
恋人が子犬の名前大声で呼ぶと、子犬はベッドを飛び降りてフローリングを走って(時々滑って)部屋を出て行った。子犬はテレビでのスポーツ観戦が好きだ。野球や、バスケットボールをじっと観戦している。僕は歓声を不思議がっているんだろうと思っている。立ち上がって、雨を見る。
クリーム色の革で覆われた椅子に彼女と向かい合って食事をした。肉と野菜の炒め物と、大根とねぎの白味噌の味噌汁を、ゆっくりとよく噛んで食べる。幾つかのくだらない話をした後、ブルーの種類って知ってる?と僕は聞いた。
なにそれ、色?
僕の恋人はそう言った。僕は黙って野菜を噛み続けた。
ブルーの準備は出来てるの、と僕は言う。なにそれ、歌詞?
僕は子犬に(子犬の)豚の耳をやった。子犬はそれを咥えてソファに持って行く(ソファが彼の場所だからだ)。カシャカシャカシャと爪を鳴らしながら。
僕は何も言わない。
彼女は何も言わない。
彼女は僕が干渉されたくない部分を知っているからだ。
僕は彼女の何を知っているだろう。名前と容姿と職業と、彼女の前の恋人と。僕は彼女を何も知らない。知らないし、知ろうとも思わない。彼女を深く知って、薄れてしまう彼女に対する気持ちが不安だからだ。だから、これも言い訳。彼女に対する気持ちって、もともとなんだろう。例えば思いやりの気持ち。これは、あるつもりでいる。でもそれは恋人だから持つ感情じゃなくて、誰に対しても持っていたい。恋人だから持つ感情はなんだろう。それはもちろん好きとか、愛してるとかだろう。
考えるのを止そう、なんて考えていたら、食事を終えた彼女が席を立ち、流しに食器を置いてから、子犬を引き連れて彼女の部屋に戻って行く。僕が意識してゆっくりと食事をしているのは、つまり、一人になりたかったことに対する言い訳だ。僕の食器にはもう何も残っていない。
雨と雷鳴は強さを増し、空は殆ど黒かった。風が雨粒を窓ガラスに叩きつける。小石を当てているような音がする。ガラスが割れてしまいそうで、気味が悪い。
鍋に残った味噌汁を温めなおすその間、僕は部屋に戻り、パソコンのスイッチを入れる。その動作は、けじめだ。気持ちを切り替えて、だから、その動作には相当の覚悟が要る。
それからパソコンを起動している間にコーヒーでも入れて、といけば、ちゃんとした社会人のようで、それなりの格好もつくのだろうけど、僕はコーヒーが嫌いだから。味噌汁を温める。一番大きな雷鳴がアパートを揺らし、電気が消えた。
ガスコンロの仕組みを僕は知らないけど、鍋にかけた火を止めた。空が光る。
窓を強く流れる雨の波模様がフローリングに映る。
空はすでに真っ黒だ。なのに、部屋よりも外の方が明るい。
不思議だった。
午後三時の夜。フローリングに打ち寄せる波。停電を知らない恋人。
僕はフローリングに座り込んで、子犬を呼ぶ。僕の声はちょうど、雷鳴に掻き消される。雨は止むだろうか、夜は明けるだろうか。
僕の恋人が部屋から出てくる。何でこんなに暗くしてるの?
電気をつけていなかった彼女は、やはり停電を知らない。空が光る。
停電?
そうだよ、と答えた僕の声は多分彼女まで届かなかっただろう。その後すぐに彼女が繰り返して言ったからだ。
停電?洗濯物!彼女は、ベランダに出ようとして窓に近づいた。今じゃなくていいだろう?今ならまだ大丈夫よ。
なあ、また洗い直せばいいだろう?水浸しになった部屋を想像するだけでも僕は疲れてしまった。
誰が洗濯すると思ってるの?なあ、洗濯なんか僕がするからさあ。
洗濯なんか?洗濯なんて一度もしたことないじゃない。それに、ワイシャツ綺麗なの一枚もないのよ。あなたがちゃんと洗濯に出さないから。
なあ、ワイシャツなんか汚れてたっていいんだ。部屋が、
部屋なんか、窓を閉めてから掃除すればいいでしょう?何着ていくのよ。明日。
明日は、会社を休むよ。停電が明日まで続いて会社のほうが休みになるよ。隅にまとめたカーテンが大きく広がって。フローリングを雨の粒が音を立てて叩く。
いつのまにか彼女の足元にいた子犬が、彼女に飛び付きながら、吠える。彼女の白いティーシャツはすぐに、彼女の肩甲骨を浮き出させる。彼女が窓を閉めてからも子犬は吠え続け、部屋は幾分か静かになったが、彼女の顔や、髪や、小さな胸が透けた白いティーシャツや、細身の緑色をしたスウェットパンツや、僕が彼女について知っている全ては、水浸しだった。それから、部屋も、テーブルも、クリーム色の椅子も、子犬も、ついでに僕も、暗闇の中で水浸しだった。彼女は洗面所で僕のワイシャツを脱水にかけ(洗濯機が使えないことに気が付き)、服を脱いでタオルを巻いて戻ってきた。
子犬はぶるぶるぶるっと水を振り払って、彼女が幾つか持ってきてフローリングに放ったタオルに、顔を擦り付ける。僕は洗面所で裸になって、新しい下着を穿いて、部屋に服を取りに行った。暗闇の中での行動。
子犬はフローリングを歩き回る。雨の粒は窓ガラスを叩きつける。玄関を叩く音。
停電、暴風雨、怒っている僕の恋人、落ち着かない子犬、こんな時に訊ねてくるのは何者だろう。いい予感はしない。雨の音に混じって、男の声が聞こえる。荷物だろうか。
コンニチハ。イエス・キリストヲシッテイマスカ。ワタシタチハ、二人の白人が、一つの傘をさして玄関の前に小さくたっていた。金色のカールのかかった髪と茶色のストレートの髪だ。子犬がフローリングを鳴らしながら近づいてきて、僕の足元を抜け、開いた玄関から外に出ようとしたところを、捕まえる。金色のカールが捕まえようとしゃがみこむが、凍えて動作が、鈍い。子犬を抱いて吐き出す僕の息は、白い。
ちょっと待って。中に入れば、どうですか。居間は水浸しだ。けれど、外よりはましだろう。電気がついて、彼らの白い顔が、寒さで真っ赤なのが分かる。彼女がタオルの山を抱えて洗面所にやってくる。どうしたの?
お客さん。部屋はもう、大丈夫?彼女は、僕の後ろから玄関をのぞくと、あら、大変、といわんばかりに洗面所にタオルを放り投げ、新しいタオルを二つ用意する。
やかんに火をかける。コーヒーかなんか飲みますか。と彼女が聞く。コーヒーは飲めますか。と僕が聞く。コーヒーを飲んでも平気かっていう意味だ。
イイエ。じゃあ、紅茶は?彼女はマグカップを二つ用意する。彼らは水以外を飲んではいけない。僕は煙草や酒が駄目なのを知っていたが、そこまで厳しいとは思っていなかった。
彼らは、彼らの聖書を見せながら、イエス・キリストについて話す。僕は、彼らの信仰を羨ましく思った。力強いと思った。彼らは、彼らの聖書を僕にくれた。僕は明日にでもこの聖書を彼らの教会に返しに行かなくてはいけない、と思った。
少し淋しい。同じ神様を信じていても、まったく違う宗教なんだって話を、僕は僕の恋人にしたら、よく分からない、と言った。
明日、会社休みにならないね。僕のベッドに転がりながら彼女は言う。仰向けになって、子犬を胸の上に持ち上げる。どうも、子犬は僕よりも彼女のほうが、好きらしい。暖房で熱いくらいの僕の部屋で、凍えた若い宣教師を思い出す。
あの人たち、停電のこと知ってたのかしら。
僕の恋人も、僕と同じことを考えていた、みたいだ。
雨は少しだけ弱くなっていた。

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