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奥州和賀氏四百年の歴史

石畳紋

立会雲紋

笹竜胆紋

立会雲紋+石畳紋

丸内二引紋

 

 鬼 剣 舞

和 賀 忠 親 

岩 崎 城 址

享保17(1732)年の『念仏剣舞由来録』には、延文5(1360)年、岩崎城主の岩崎弥十郎が主君の和賀政義を城に招き、剣舞を踊らせたところ政義が大いに喜び、家紋の笹リンドウの使用を許したという記述がある。

豊臣秀吉の小田原参陣に背いたため奥州仕置により領地を没収された和賀一族最後の当主。一揆を起こしたが失敗し、伊達政宗を頼って仙台へ落ち延びたが最期は自害して果てた。(殺害説・替玉説等もあり)

奥州仕置後、最後の当主和賀忠親が一揆を起こし最期の砦となった場所。和賀川と夏油川(げとうがわ)の合流点付近の高さ30Mの段丘の上に築かれた城で現在は北上市和賀町岩崎地区の公民館が建っている。

 

 

【流れ矢】落城の詩

 

おん痛わしや和賀の大守 武運つたなくおわしまし

妖雲天にみなぎりて 敵は四方より攻め囲む

今は最後と見えければ 奥方若君を抱きしめ

懐剣おっ取り身をかため さらば御供と覚悟する

太守はこれを押しとどめ そちの覚悟はさりながら

忘れがたみの粂の助 それをどうする心ぞや

それをば大事に育てあげ 後の謀りをなし給え

ことば尽くせし仰せ言 否むに否む由もなし

心は二つ身は一つ 泣く泣くお別れなし給う

小原縫殿の計らいで おん若君を唐櫃に

いれ参らせて強力の ご家来せなに負いまつり

母君これにつき給う 翠帳紅閏の御身をば

比丘尼の姿に変へられて 十六人のご家来は

山伏すがたにいでたちて 前後左右を警護する

修羅の巷を抜けいでて 六原野辺や胆沢森

いばら柴原かきわけて 雑の羽音にも驚かれ

忍び忍びて歩まるる 頃は五月の末っ方

二十六夜の真の闇 川は北上身を漕いで

ようよう岸につきし時 北を眺めば恐ろしや

焔えんえん雲赤し 思い回せばお殿様

今はいずこにおわします それともかなわず御最期の

あの世この世にお在すとも おん若君の行く末を

案じ給うぞいたわしき 思いつめては胸せまる

疲れし足をたよたよと 江刺黒石山内に

一夜を明かせ給ひける 長の旅路に若君の

むずかり給うもぜひもなや 綾のしとねも草の上

どんすの枕も岩の角 昨日に変わる境涯に

来し方行く末案じては しばしまどろむ暇もなく

夜明けの袖に露重く 落ち行く先も判らねば

いかに摺沢あてもなし 的をはずれし流れ矢か

 

 

(北上市和賀町岩崎深山 田村家蔵)

この詩が発見されてから、和賀氏に関する史実の1つが大きく覆ったとされる。

 

和賀氏(わがし)とは

今から約800年前、現在の東北地方一円を支配してきた奥州藤原氏が源頼朝により滅ぼされ、鎌倉には幕府が開かれた。その後の東北地方を統治するため、頼朝の家臣らの坂東(関東)武士団が各地に領地を与えられ配属された。和賀氏もその1人とされ、現在の岩手県北上市や和賀郡一帯(東和町、湯田町、沢内村)、花巻市笹間、宮守村達曽部、江刺市稲瀬、秋田県仙北郡および平鹿郡を約四百年間統治し続けた。

しかし時は豊臣秀吉の時代の1589年、小田原参陣の命に背いた結果、そのすべての領地を没収された(奥州仕置)。この強引な仕置に反抗し、領地を没収された諸大名(大崎氏、葛西氏、和賀氏ら)は各地で一揆を起こした。

和賀氏は旧領地を奪回すべく家臣や領民らとともに立ち上がり、強大な秀吉軍に立ち向かったが敵わず、終に落城して命からがら密かに伊達政宗に頼ったが、最後の当主和賀忠親(ただちか)は7人の家臣と共に仙台の地で自刀(または殺害)して果てた。

歴史とは“勝者の歴史”でもあり、勝者にとって都合のいいように書き換えられ、一方敗者の歴史はその名誉とともに無残にも消し去られたのが戦国の世のならわしである。“敗者”であるが故に歴史上の痕跡が少ない和賀氏。史家にとっては研究しにくいが、逆に考えれば史家の思い通りにその“史実を作り出す”ことも可能といえる。それ故、和賀氏についての史実は諸説多々あり混迷をたどるいっぽうである。

真実はいったい何処にあるのか?学者が言うことや歴史家が書いた本がすべて真実とは限らない。何故ならその当時の証人が何処にもいないからである。

            

〜 先ず歴史家を研究せよ 〜 (歴史とは何か E.H.Carr 岩波新書刊より)

◇「我々が読んでいる歴史は、確かに事実に基づいてはいるけれども、厳密に言うと決して事実ではなく、

むしろ広く認められている幾つかの判断である。」                  ・・・Geoffrey Barraclough

◇「歴史上の事実というものは、歴史家がこれを創造するまでは、どの歴史家にとっても存在するものではない。」

・・・Carl Becker

◇「歴史とは歴史家の経験である。これは歴史家だけが『作った』もので、歴史を書くのは歴史を作る

唯一の方法である。」                                   ・・・Michael Joseph Oakeshott

 

どの世界にも“権威”と呼ばれる人たちがいる。学問の体系を創り出すのもその道の権威たちであり、だれも彼らを疑うことは無い。権威が言うことがすべて正しいのなら神も仏もいらない。歴史学も権威たちによって作りだされるのだ。一考してみよう。あの忌まわしい薬害エイズ問題の発生原因は、当時“血液学の権威”とされた安部氏らであった。彼を疑うものも逆らうものも何処にも居なかった。だから事件が起こり多くの人々が犠牲にされたのだ。医学は一部の人間の利権のためにそれを歪めることは人命に関わるため決して許されない。一方、歴史を歪めることで人命を脅かすことはない。しかし、それによって一部の人間の名誉を著しく損なうとともに、後世には誤った史実を伝えることになる。そんな虚構の歴史をだれが学ぼうとするであろうか。このままではいつかきっと歴史学は滅びるだろう。

    

コ ラ ム@   和賀氏ゆかりの地名の語源(アイヌ語)

◇ 和賀(ワガ)・・・・・・・・・・・・・・・ 「ワッカ」 = 清き流れ

◇ 煤々孫(ススマゴ)・・・・・・・・・・ 「ススマク」 = 柳など湿地植物が繁茂する場所

◇ 鬼柳(オニヤナギ)・・・・・・・・・・  「オンネ・ヤム・ナィ・キ」 = 大きな冷たい水の湧き出る処

◇ 黒沢尻(クロサワジリ)・・・・・・・  「クル・オ・シャパ・モシリ」 = 偉大なる酋長の支配する大地

    江釣子(エヅリコ)・・・・・・・・・・・  「カムイ・ヘチリコ」 = 神々の眠る場所、神々の園

小原藤次著 「没落 奥州和賀一族」より

 

    和賀氏の史実に関する矛盾点・疑問点

1.     和賀氏の出自について、源氏姓(頼朝庶流説)や小野-中条-刈田姓などルーツに関すること

2.     小田原不参陣の理由について

3.     和賀忠親の死の真相について(自害説・殺害説・生存説・替え玉説など)

4.     忠親の子供について(一子説・二子説)

5.     和賀江嶋(鎌倉市)の築港との関連について

 

■和賀氏所縁の地

岩手県北上市

飛勢城址(二子城)

(とばせじょうし)

和賀氏総領家の居城だった場所は現在、八幡神社が立つ市立公園となっている。

飛勢城追手門跡

和賀氏居城の飛勢城の入口でかつて追手門が建っていた場所。和賀氏滅亡後、南部氏領となり門は解体されて花巻城(旧鳥谷ヶ崎城)に運ばれそこで再び建造された。現在でも追手門は花巻市の鳥谷ヶ崎神社(後述)にあるが、北上市民の間でこの門を飛勢城があったもとの場所(北上市二子町)に戻したいといった話が常々あるとのこと。(北天塾第7号より)

岩崎城址(北上市立岩崎公民館)

和賀一族の城で、上記の飛勢城に次いで2番目に大きな城館(当時は平城)であったといわれる。豊臣秀吉による奥州仕置によって城と土地全てを没収された和賀忠親や家臣らが一揆を起こし立てこもって戦った最後の砦。四百年以上たった現在では地区の公民館が建っている。しかし、岩崎城をシンボルとした公民館は建物の老朽化のため取壊し案が市のほうから出されているとか。地元住民はこれに反対し公民館の改築を市に懇願しているとのこと。

みちのく民俗村(北上市立博物館)

 

 

展勝地公園向いの山際に立つ博物館。和賀氏関連の品々(品1品2)が展示されている。

  

岩手県花巻市

花巻城(鳥屋ヶ崎城)

和賀氏と親類関係にあった稗貫氏の元居城であったが、小田原評定で南部氏に所有が移った。16世紀後半から17世紀前半にかけて改修された形跡が見られる。

鳥谷ヶ崎神社

(とやがさきじんじゃ)

円城寺門

(えんじょうじもん)

現在、神社の社務所入口になっているが元は和賀氏の居城であった飛勢城(二子城)の追手門である。南部政直が1614年に花巻城整備の際、円城寺坂に移築した。所有は移ったが、四百年の時を超えて和賀氏の勢力を偲ばせる建築物である。

 

愛宕山雄山寺

南部家臣の北松斎が愛用したとされる甲冑が所蔵されている。しかし、には和賀氏の家紋である石畳紋が装飾されていることから、一揆の鎮圧の際に北氏が和賀の家臣から奪った戦利品ではないかとされている。

 

岩手県東磐井郡

大東町摺沢流矢

流矢墓石群

忠廣墓碑文

 

※和賀忠親と摺沢岩淵氏および安俵小原氏との関係図(婚姻関係)

和賀忠親の1子である和賀久米之助(後の忠廣)が家臣たちに護られ落ち延び、長い間隠棲してきた流矢地区。そこには忠廣とその子孫たちの墓石群が現存する。忠廣は上述の「流れ矢」の詩のように、和賀氏重臣の小原縫殿こと小原藤三郎房正(忠親と仙台でともに果てた小原藤吾忠秀の息子)と摺沢城主の岩淵大炊常治(小原忠秀の妻と姉弟)らの秘計で現在の大東町摺沢流矢に落ち延びたとされる。忠廣はこの地で小原忠秀の養子となり、後に忠秀の娘を妻とした。隠棲のため和賀を名乗らず敢えて小原を名乗った(小原伊勢忠廣)。家紋も本紋ではなく小原氏の家紋(丸の内に二つ引き紋)を受け継いでいる。そのためこれまで多くの史家が流矢墓地を訪れたが、墓石の「小原伊勢」を一見し他の多くの歴史背景や時代要素を考慮せず、和賀氏子孫ではないと決め付けたといわれる。しかし、現在では和賀忠親直系の末裔とされる和賀Y雄氏が和賀姓を名乗り先祖代々の流矢の地に住んでいる。

岩手県東磐井郡

大東町沖田

興田神社

(おきたじんじゃ)

この神社の宝物のひとつに全国で2番目に大きい冑の前たて(鍬型)が現存する。一説に、これは久米之助一行がこの地に落ち延びる際、和賀氏の末裔である証として神社に奉納したのではないかとされる。前たて前面には和賀氏家紋の「立会い雲」が唐草風に彫刻されている(一説)。しかし、神社や大東町教育委員会はこの前たてを、かの安倍貞任のものとして伝えているが、鑑定の結果南北朝時代の作である事から、貞任のものでは年代が合わず、どちらかといえば和賀氏の年代が妥当ではないか。この興田神社の例のように特に東北地方では、神社仏閣に伝わる宝物の由来を強引に安部貞任や源義経伝説などに結びつける節が窺える。

岩手県東磐井郡

東山町松川

松川系和賀氏墓石群新聞記事

 

系和賀氏は忠廣の孫の代(忠親の曾孫の代)に分岐した系であり、忠親―忠廣―忠實―實秀(松川系祖)・・・と続く。松川系和賀氏の大本家である東京小岩の興聖寺(こうしょうじ)に伝わっていた備前長船の銘刀は忠親が佩用したものとされ、鞘には和賀氏の紋章が印されている(昭和28年11月18日地元紙記事より)。松川系和賀氏も先祖の霊を弔う回向墓を建て祖先の霊を供養し続けている。

宮城県松山町

松山系和賀氏墓石群

系和賀氏は伊達政宗に庇護され、従来和賀忠親の直系の子孫であるとされてきたが、系図や年代考証に疑問が多く現在では忠親の実子ではなく和賀家総領であったが盲目のため分家となった黒岩月斉(和賀義信)の子孫ではないかとの説もあるがその確たる証拠が無い。当の一族は忠親嫡流を主張するが、忠親死亡26歳の時、この松山系祖の義弘は13歳、つまり忠親13歳の時の子供となってしまい年代考証が合わない。義弘は「茂庭文書」によると、正法寺(水沢市)に預けられていたところを政宗の命で捜し出され、俸禄を賜わり現在の松山に住んだとされているが生年や没年は不明である。松山系和賀氏も先祖を弔う墓碑を建造し祖先の霊を供養しているが松山系和賀氏の墓石はその史跡調査直前に盗難に遭ったとか、全部でわずか10体程しかなく何故か女性(妻)のものばかり。しかもその後それら墓石を1箇所にまとめて埋め観音像を建造するなどまるで史実を隠蔽するような行動が見受けられるが、権威とされる学者や研究者は何故か頑なに松山系和賀氏嫡流説を弁護しようとする節がある。和賀氏史ミステリーの1つである。

宮城県仙台市

国分寺
(跡地:現国分寺に近接)

国分尼寺
(跡地:現国分尼寺に近接)

一説に和賀忠親主従が自刀したとも殺害されたともされる寺。場所は国分寺、国分尼寺または全く別の国分の原(宮城野原)と説は様々。国分尼寺には、和賀忠親とその七重臣を弔う五輪塔が建っている。昭和58年に松系・松系和賀氏の子孫と七重臣の子孫ら協同で建立している。

神奈川県鎌倉市

和賀江島(わがえじま)と石碑

和賀とは今の材木座の古名にして此の地住昔筏木運湊の港たりしより やがて今の名を負ふに至れるなり 和賀江島は其の和賀の港口を扼する築堤を言ひ 今を距る六百九十四年の昔 貞永元年(1232)勧進聖人往阿弥陀仏か申請に任せ平盛綱 之を督して七月十五日起工八月九日竣功せるものなり(鎌倉市青年団HP石碑文面より)・・・とあるが、和賀とは地名としか言及していない。しかし、『吾妻鏡』には工事を行ったのは、和賀三郎盛綱(橘村地頭:現北上市立花)で築堤は江ノ島につないだとの記録がある。そもそも、「和賀」の語源は既出のアイヌ語の「ワッカ」が語源である。鎌倉と岩手県の和賀にはいったいどのような関係があるのか。一説に和賀氏のルーツが頼朝の庶子であるという説や和賀氏の家紋が源氏の家紋であることなど、伝説だけでは片付けられない要素がある。

       

コ ラ ムA 和賀久米之助(忠廣)が落ち延びた道(上記、流れ矢の詩より)

和賀忠親最期の砦があった、北上市和賀町岩崎の岩崎城(公民館)が見える北上市立鬼の館博物館前をスタート。秋田自動車道の架橋を左に見ながら県道288号(北上水沢線)を登ると、目の先にはお城が見える。<落城の際、真っ暗闇の中に真っ赤な炎があがる城を振り返りながら、山伏姿に変装した屈強な家臣らが当時一歳の久米ノ助を唐櫃に入れて背負い、残党狩りが横行する中を山道や茨道を押し進んだ。>そのお城を背に農道を進むとはるか遠くに目的地の江刺黒石の山々が見える。六原野辺をかき分け進むと二ツ森稲荷の大鳥居、それをくぐればそこは相去地区(国道4号相去パーキング)。JR東北本線六原駅の裏手は北上川。これを船で渡れば江刺市に入る。<ここまで来ればひとまず安心。しかしまだ残党狩りが各地に待ち受けているから気をつけろ。>県道14号(一ノ関北上線)をひたすら南下すると国道343号に合流する。江刺黒石山内を登っていくと久米ノ助一行が一時身を寄せたとされる東北曹洞宗の名刹、正法寺に到着。<ここは既に伊達藩、相去以南の南部藩の侵入は許されない。安心して身を寄せた一行だが父忠親の仙台での自刀(殺害)の訃報をそこで耳にする。しかも政宗が忠親の遺児を必死に探しているという噂を聞く。ここで久米ノ助を差し出せばこの子の命も大守と同じ運命。何としても渡すわけにはゆかぬ。しかし相手は天下の政宗公、いずれ居場所がばれてしまう。一緒に逃げた母君が幼き我が児を永代まで守るため決意した。寺の小僧を忠親遺児として政宗公の前に差し出すべし。一行はここで二手に分かれ、義弘と名づけられた少年は母君、家臣ら宮城野松山へ。今生の別れになるであろう久米ノ助を強く抱きしめ後ろ髪を引かれる思いで寺を後にした。>正法寺の裏手から山道を抜けると東山・大東の看板。そのまま343号を東山町夏山地区から大東町猿沢地区を通り、山深い道を進めばそこは大東町摺沢地区。<一方の久米ノ助一行は正法寺より一山二山越え、東山(とうざん)摺沢へ。家臣小原縫殿と親類関係にあたる旧摺沢城主の岩淵大炊の元へ身を寄せ、小原縫殿に子が無いため久米ノ助を養子として引取り、成人するまで育て上げた。>一昔前砂金が大量に採れたという砂鉄川沿いを進むとそこは小さな久米ノ助が身を隠すには十分静かな土地であったろう流矢地区に到着した。久米ノ助(忠廣)が住んだ場所は流矢1番地といい、現在も忠廣子孫が家系を存続している。ここまでの自家用車での移動距離は約60kM。(※一部フィクションです。)

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■和賀氏の家臣団と石高(総高)

和賀義明 代(永禄元年:1557年) 71,405石

和賀義治 代(天正九年:1581年) 68,011石(和賀分限録より)

      和賀氏家臣団

      

        ■和賀氏関連系図

史料名

所  有

内  容

鬼柳文書

和賀氏庶流で後に南部氏家臣となった鬼柳氏の子孫に伝わったもの。現在、東北大学文学部に保管されている。

南北朝時代の和賀氏の領地紛争に関する訴訟の幕府提出資料で、歴史的には第一級史料とされている。しかし、その系図には数箇所におよぶ加筆跡や恣意的に抹消された跡があると見られている。

源性和賀氏系譜

東京都小岩の興聖寺の住職
和賀康躬(―晟純)氏蔵

系和賀氏をルーツとする住職に代々伝わる系図で、和賀氏の出自から忠親、そして忠親の子忠廣を祖とする流矢系・松川系・桜澤系和賀一族の系図。元本は忠親直系である流矢系和賀氏に伝わっていたもので、分家とともに各家に派生させていったものが伝わっている。

源性和賀家系図
(松和賀氏系図)

松山系和賀一族に伝わる系図

「源性和賀氏系譜」が世に初めて発表(発見)された約1年後に「考證要録」(下記)の中で紹介された。上記「系譜」とは異なる部分が数箇所ある。忠親の子は義弘、忠廣としている。

            

■和賀氏関連書籍(発行年月順、著者ら敬称略)

書籍写真

書籍名

著   者

初版発行年月日

内    容

我等が祖和賀氏

及川 銀太郎

昭和10年5月10日

北上市出身で和賀神社建設の発起人であった著者が、郷里の祖である和賀氏について自ら研究し出版した著書。和賀氏所縁の事跡や伝説についてまとめており、「源性和賀氏系譜」を参考にしている。古文調で書かれた貴重な文章である。

源性和賀家系図ト

其考證要録

佐藤 佐

(旧姓:和賀)

昭和12年2月20日

系和賀氏をルーツとする著者が、松系和賀氏に伝わる系図(源性和賀氏系譜)を参考に松系和賀氏を主軸とした系図についてその考証を加えた著書である。源性和賀氏系譜が世に初めて発表(発見)された約1年後に発行された。

    

          小   

和賀氏小史

及川 真清

(旧岩崎村

社会教育委員会)

昭和27年10月21日

旧岩崎村長だった著者が「源性和賀氏系譜」を参考に和賀氏の隆盛についてまとめた小史。小田原評定から岩崎城落城までの和賀氏の興亡について独自の視点からまとめている。和賀氏重臣とその石高については他書からも参考とされている。

北上平野の戦乱

紫桃 正隆

昭和44年12月25日

宮城県河北町在住の著者による和賀氏史に関する第1作目。史説ということで随所に登場人物の心情を想像しながら書かれた読みやすい文章となっている。しかし、この書発刊に際して和賀氏研究の“権威”の影響を受けていることが残念。この時は“紫桃和賀説”未完成か。

和賀氏四百年史

司東 真雄

昭和58年11月3日

奥州大学教授であった著者による和賀氏に関するオリジナル史学。「鬼柳文書」を一級史料とし、一方「源性和賀氏系譜」を不問とした偏った史説といえる。特に「忠親替え玉説」は小説としては面白いが、現在では史実としては認められていない。

東磐史学

No.3〜10

 

和賀 辰雄

昭和53年〜

昭和60年

大東町摺沢流矢出身で千葉県袖ヶ浦市住の著者が、東京小岩興聖寺蔵の「源性和賀氏系譜」について研究したものを故郷の東磐史学に発表。系譜研究は史学界からは蔑視されるが、その詳細な研究は和賀史の矛盾を解く可能性がある。

北天塾

(“東北学研究誌”)

太宰 幸子

平成3年(第5号)〜

平成5年

(第7号)

平成3年2月14日「忠親は生き延びた」(宮城地元記事)とまるでスポーツ新聞差ながらの突飛な記事が載ったが、宮城県郷土史家の著者が、発見された伊達政宗の密書を“解読”したことに端を発する。氏は前出の司東説を支持するためなのか、その“解読”にはやや強引な感が否めない。「わか事」=「和賀忠親」と解読してしまっている。

和賀一族の興亡

(前編)

北上市立

博物館

(本堂 寿一)

平成7年

3月15日

「鬼柳文書」を最重要史料と位置づけ、和賀氏のルーツを探求している。小野氏と同文書(鬼柳氏)、小田嶋氏系図等の南部氏家臣となった“勝者”の合成した系図を載せている。

和賀一族の興亡

(後編)

同上

平成8年

3月15日

南北朝時代から戦国時代を経て滅亡までの和賀氏について。伊達政宗に庇護された松系和賀氏について偏重した記載がなされ、P.29松山系図では忠親の子を義弘とし、忠廣をあえて「小原忠廣」として記載している。意図的なものか?

和賀一族の興亡

(総集編)

同上

平成12年3月15日

和賀氏の居城跡について、全国のそれと詳細に比較研究されている。しかし源姓和賀系譜(P.33)に意図的に改ざんの跡あり。(前編P.25の松和賀氏系図を支持する目的か?)

櫻澤400年

流転の系譜

和賀 成夫

平成12年1月14日

忠親―忠廣―忠實―之廣と続く“桜澤(屋号)”和賀氏の末裔で、現在大東町摺沢住で教職にあった著者による自分史的な著書。「源性和賀氏系譜」や「桜澤和賀氏系図」を参考にしている。隠棲してきた和賀氏の子孫の歴史を垣間見ることができる。

五月闇

〜政宗と和賀一族〜

紫桃 正隆

平成12年2月21日

前出の「北上平野の戦乱」から和賀氏に関する2作目の著書。和賀氏と伊達政宗との関係を鋭い視点から論述している。この書が出版されてから和賀氏に関するある1つの史実が翻ったともいえる。和賀氏を研究する歴史ファンから和賀氏史のバイブルともされる書。

東磐井郡のあしあと

東磐史学会

岩手史学会

東磐井支部

 

和賀 辰雄

平成12年8月27日

創立50周年を迎えた既出の「東磐史学」の第25号特集号。この中に和賀辰雄氏による「新和賀氏の終末」として「源性和賀氏系譜」から得た著者の知見を論述している。従来の曖昧模糊とした和賀氏の終末論に完全に異を唱えている。

没落奥州和賀一族

小原 藤次

平成12年12月1日

北上市出身で現在東京在住の著者のルーツは安俵小原氏とのこと。自身の小原氏のルーツも含め和賀氏の出自から没落後の和賀氏の子孫について記載。歴史的に中立的な立場で書かれているが、子孫については系図等に矛盾の多い松系和賀氏に重点が置かれている。

和賀氏ものがたり

和賀氏

四百年祭

実行委員会

(監修:

佐々木政蔵)

平成13年9月10日

監修者が北上市史学界の権威でもあったためその編集には多難があったとの後日談がある。しかし編集委員会の努力で青少年にもわかりやすい読み物的な良書となっている。和賀氏の歴史入門書。

ダ・ダ・スコ

57号

ダ・ダ・スコ

編集室

(編集:

加藤 俊夫)

 

平成13年10月25日

北上市のタウン情報誌で和賀氏四百年を迎えたこの年に和賀氏について特集している。この中に既出の本堂寿一氏と小原藤次氏の対談を掲載。北上市史学会の影響を大きく受けており、特に和賀氏滅亡後の経緯について論述に矛盾点がある。

卒寿を超えてなお

和賀 善四郎

平成16年5月

系和賀氏の子孫である著者による自分史で93歳と超高齢での発刊とのこと。著者を含め松系和賀氏の子孫らで既出の紫桃正隆氏に、忠親の子は忠廣1子であることを直訴して「五月闇」を書かせたといういきさつがあるとのこと。(岩手県立図書館蔵)

中世和賀氏の

伝承遺跡めぐり

伊奈 晴太朗

(本名:

高野 忠俊)

平成17年3月31日

北上市の河口新聞店発行の「週間きたかみ」に約5年間連載されたもの。北上市出身の著者が和賀氏所縁の城郭址や神社仏閣類の調査研究したもの。実際に著者自らカメラを持ちその足で調査したもので他の権威とされる文献を一掃する。

西の和賀氏

(みちのくの無名戦国武士探訪)

小原 藤次

平成17年10月1日

西の和賀氏こと、主に煤孫(すすまご)和賀氏に関する内容だが、他に和賀忠親の実子は「忠廣」のみとし、忠廣の末裔が住む大東町および東山町の子孫らについて、これまでの和賀氏関連書籍にはない史実に即した研究・記述がなされている。

       

■和賀氏研究者の関係図と論点(上記参考図書より)

史的立場

著者・研究者

参考系図

和賀忠親の最後について

忠親の子について

史学界権威
(師弟関係)

高橋 富雄氏

司東 真雄氏

鬼柳文書
源性和賀家系図ト其考證要録(松山和賀氏系図)

忠親替え玉説

(忠親は生存、別人が身代わり切腹)

忠親=義弘

佐々木 政蔵氏

鬼柳文書
尊卑分脈(
諸家大系図)
小野・中条・北条氏合成系図

国分尼寺で自刀

長男-義弘、次男忠廣

本堂 寿一氏

鬼柳文書
尊卑分脈(
諸家大系図)
小野・中条・北条氏合成系図
関白道兼公孫系図
源性和賀家系図ト其考證要録(松山和賀氏系図)

自害または政宗による殺害

長男-義弘、次男忠廣 

上記人物との影響・関係が深い

佐藤 佐氏

源性和賀家系図ト其考證要録(松山和賀氏系図)

国分の原(松の木壇)にて自刀

長男-義弘、次男忠廣

太宰 幸子氏

鬼柳文書

源性和賀家系図ト其考證要録(松山和賀氏系図)
源性和賀氏系譜

忠親替え玉説

(忠親は生存、別人が身代わり切腹)

長男-義弘、次男忠廣

中立的立場

及川 銀太郎氏

源性和賀氏系譜

国分尼寺で自刀

忠廣1子のみ

及川 真清氏

鬼柳文書
源性和賀氏系譜
西村家清和源氏和賀氏系図

宮城野周辺で自刀

記載なし。

紫桃 正隆氏

鬼柳文書
中条・刈田氏合成系図
源姓多田系図
源性和賀氏系譜
伊達世臣家譜、奥南落穂集
参考諸家譜 ほか

国分ヶ原(宮城野原)にて政宗により処刑(召捕・切腹・介錯)

長男-義弘、次男忠廣

(@北上平野の戦乱)

   ↓

忠廣1子のみ

(A五月闇)

小原 藤次氏

鬼柳文書
源性和賀氏系譜

源性和賀家系図ト其考證要録(松山和賀氏系図)
中条・刈田氏合成系図
小野姓系図、北条氏系図ほか

国分尼寺周辺で政宗により殺害

長男-義弘、次男忠廣

(@没落奥州和賀一族)


忠廣1子のみ

※義弘は黒岩月斉(和賀義信)の子孫か?

(A西の和賀氏)

伊奈晴太郎氏

忠廣1子のみ

和賀氏子孫

和賀 辰雄氏 

源性和賀氏系譜
安俵小原氏系図
摺沢小原氏系図
伊達藩寛永十九年検地帳
その他、上記鬼柳系図、松山系図、中条・刈田氏合成系図、
尊卑分脈等と同『系譜』を年代比較考証

国分の原にて自刀または政宗による謀殺

忠廣1子のみ

 

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