結城宗広 ゆうきむねひろ <?〜暦応元=延元3>(?〜1338)

結城宗広画像
富沢利兵衛 筆(江戸時代末期)
(光明寺 蔵)
鎌倉末・南北朝時代の武将。下総結城氏から陸奥国白河庄を分与されて白河結城氏の祖となった祐広の子。母は熱田大宮司範広の女。通称孫七。左衛門尉、上野介、上野入道。
北条氏得宗と接近することで南奥の実力者として活動していたが、正慶2年=元弘3年(1333)、後醍醐天皇からの倒幕の綸旨を受けると新田義貞らとともに、鎌倉を攻略。同年、北畠顕家が陸奥国司となると、諸郡奉行などに任じられ、翌年には奥州式評定衆に任じられる。
建武3年=延元元年(1336)、顕家に従って上洛し、足利尊氏を九州に走らせた。尊氏の京都奪還、天皇の吉野潜行ののち、再び顕家に従って、西上したが、暦応元年=延元3年(1338)顕家が高師直に敗れて戦死したため、吉野に逃れた。
宗広はここで奥州における南朝勢力の再建を献策し、その実現のため伊勢大湊を出航したが、海上で遭難して伊勢に吹き戻され、同地で病没した。
津市の結城神社は宗広の霊を祭る。墓所は伊勢市の光明寺にある。
なお、建武3年=延元元年(1336)に嫡孫 顕朝に家督を譲っている。


 宗広の生年については、「結城系図」などで文永6年(1269)年生まれとされているようです。と、いうことは享年は数え年で70歳ですね。しかし、結城神社由緒書では、享年73歳となっており、となると、文永3年(1266)生まれとなり、確かに生年不明ですね。いずれにせよこの時代の人としては、かなり長寿だったことは間違いないのでしょうが。

 宗広は “南朝の忠臣” と言うイメージが強いのですが、新田義貞らと共に鎌倉を攻めるまでは、北条氏とかなり密接な繋がりがあったようです。
 これは正中の変[正中元年(1324)9月19日早朝]の際、「主上御謀反」を伝える文書が、六波羅奉行 斉藤利幸(行)から、9月23日には結城宗広に届けられたことからも推測できます。
  また、同じく正中の変の際、宗広は倒幕計画の関係者として捕らえられた円観を預かっています。幕府が罪人の送り先とするぐらいですから、幕府にとって信頼のおける人ってことですよね。
 ちなみに、円観は正中の変で捕えられた3人の僧のうち、唯一拷問を免れ、罪も、他の2人が遠流だったのに対し、罪一等減じられて、結城宗広の預かりとなった人です。
 そんな幕府の有力御家人が、元弘3年に後醍醐天皇方についてからは、一貫して天皇側の武将として戦い続ける“南朝の忠臣”となるわけですね。

 北畠顕家ファンとしては、宗広が南朝の忠臣となったのは、顕家に惚れ込んだから・・・ってことだと思いたいんですけどねー。

 しかし、太平記 巻二十 「結城入道地獄に堕ちること」の項に “十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)を犯した罪障の最も重い悪人” と書かれ、、罪の無い者でも殴りつけ、気分が悪いと言っては平気で人を惨殺するような残忍な人と書かれています。
 大錦号の中で結城宗広は、「若い者にはまだまだ負けんぞ!」が口癖の “頼れるおじいちゃん” となっているのですが・・・

 あと、気になることが2つ!
 宗広は、その死の2年前に家督を嫡子の親朝ではなく、嫡孫の顕朝に譲っているのですが、これはどういう意味があるのでしょう?
 そして、“顕朝”の“顕”の字は、顕家様の“顕”ですか!?

資料:「鎌倉・室町人物事典」(新人物往来社)、「日本史大事典」(平凡社)ほか

平成13年(2001)7.10

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