「吉野拾遺」は延元元年(1336)に後醍醐天皇が吉野の奥に遷幸されてから、後村上天皇の正平13年(1358)までの23年間にわたる吉野朝の廷臣の史実や逸話を記したものである。
それによると、顕家の妻は夫の死後、観心寺で剃髪し、尼となって亡夫の菩提を弔いつつ、
そむきても なほ忘られぬ面影は
うき世のほかの ものにやあるらむ
と詠じ、ここで三年を過した。
あるとき、
“あべ野を過させ給ひけるに、ここなんその人の消させたまへる所とつげれければ、草のうへにたふれふせたまふて、”
なき人の かたみの野辺の草枕
夢もむかしの 袖の白露
と詠じた。その後、都にのぼって母君(日野資朝の室)とともに仏道修行にいそしんだが、翌春、母君に遅れてこの世を去った。

出典:「日野太平記」(新人物往来社)、「伊勢 北畠一族」(新人物往来社)