多賀城政庁跡(特別史跡)
宮城県多賀城市市川
政庁跡へ続く階段 多賀城政庁跡
多賀城政庁跡その他のスナップ



 奈良時代初期から約600年間、東北地方の政治・軍事の中心として陸奥国府と鎮守府が置かれていた多賀城。
 平均900mの不整方形の外郭築地で囲まれており、面積は約102haに及ぶ。そのほぼ中央にある約100m四方の部分が多賀城の中枢部で政庁跡である。政庁は、過去3回建て替えられている。
 「仙臺金石志」には「政庁跡の正殿付近は御座の間と呼ばれていて、城内の石碑はもとより、礎石が持ち出されないように地元民達が注意をしていた」と書かれている。
 南北朝時代の国府は、多賀府中とも言われ、約4km四方の中世都市を指していた。よって、北畠氏の居館や各役所の所在地は、この都市の何処にあったかは不明である。
 大正11年、(1922年)10月、「史蹟名勝天然記念物保存法」により多賀城廃寺跡とともに国の史跡に指定された。昭和41年(1966年)4月には、国の特別史跡に指定されている。
資料:多賀城市・多賀城市観光協会パンフレット、「図説 太平記の時代」(河出書房新社)






 「ここで顕家様が奥州を治めたのね♪」と、盛り上がって、訪ねた多賀城跡です。
 復元された階段を登りながら「顕家様もここを通ったのね♪」とか、政庁跡からの風景を「顕家様もここから眺めていたのかしら?」などと思って、楽しんでいました。
 それなのに、地元の観光ボランティアの方から、顕家様の時代には、ここは使われていなかったという話を伺い、驚きました。それが本当なら、当時の多賀城はどこにあったの〜!?
 その方は、ここから少し離れたところにある岩切城跡ではないかと思われているようでしたが、でも顕家様が霊山に国府を移した理由の一つに岩切城主の留守家任が足利側についたことが挙げられていたので、岩切城は確かに岩切城として存在していたはず・・・。
 後日、何かの本に、多賀城跡からは、顕家様の時代の遺物が発掘されていないという内容が書かれていたのを読み、困惑しました。
 一体、”多賀城“はどこに在ったのでしょう?