浪岡城跡
 

公式ホームページはこちらhttps://www.city.aomori.aomori.jp/bunkazai/bunka-sports-kanko/bunka/bunka-geijutsu/inishie/shinai-iseki/03/04.html

桂様より

ぜひ一度足をお運びください!城が復原してありますので、往時に思いを馳せるのも一興かと。
ちなみに、顕家公からもらったと伝えられる弓も、ちゃんと復原展示の中にあるんですよ(^^)(2003/09/30)
顕家からもらったと伝えられるのは、朱塗りの弓で、20張くらいあったんじゃなかったかなあ。南部家の家宝だそうですよ。今でも子孫の方が保管してらっしゃるとか。ちなみに○城入部の際に先頭に立てて来たとかなんとか・・・。(2003/10/02)


八戸市博物館 

公式ホームページはこちらhttp://www.hachinohe.ed.jp/haku/index.html

虎猫様より

南部師行公の太刀の存在は存じませんが、師行公の弟、南部政長公が後村上帝から賜ったとされる黒漆銀鋼蛭巻太刀は国立博物館にて展示されております。
八戸市博物館にはレプリカがあったような?いずれにしろ国宝なそうです。(2005/01/22)


八甲田神社 

公式ホームページはこちらhttp://www13.plala.or.jp/happoutingo/index.html

天童丸様より みな様、顕信公が祀られた、新たな神社が判明しました!
それは、“青森県の、「八甲田神社」”です!
用事があって、「島根県神社庁」へ赴いた際、閲覧用の、「祭神事典」が丁度目に留まり、検索してみた所、確認しました。(2005/03/23)
真幸様より
をを〜!ほんとだ〜!八甲田神社で検索かけたら出て来ました〜!!青森かぁ・・・行ける(笑)!
浪岡も前に一度だけ行っただけで、またもう一度行きたい(道の駅なみおかのラーメンがめちゃイケたので)です。
浪岡の北畠神社ですよね、浪岡云々というのは。雫石にも行きたいし、三迫も行けるならばも一度行きたいです〜。津久藻城跡は寒気したんで主人に登ってきてもらって写真撮っただけなんです〜。(2005/03/23)
天童丸様より 青森市の「八甲田神社」、私も検索してみました。そこで さらに興味深い事が、色々と判明しました。
@:神社には、顕信公の他にも、子の守親公も祀られており、 さらに配祀神として、浪岡系の、顕成,親能,親治の3人 も、名を連ねています。これは、廃絶していた「八甲田神社」 を、北畠氏が再興した事によるものと、思われます。
A:神社の神紋は、"割菱"紋の一種で、興味深い事に、伊勢系北畠氏の旗印と同じ紋章です。何か関連があるのかも?
B:神社の位置する地名が、何と字名「阿部野」! 奇遇にも、 あの、大阪の、顕家公を祀る神社と同じ名前なのです。これ
は、この社を創建した"阿部比羅夫(あべのひらふ)"に因んだ地名と思われますが、とても偶然とは思えない一致です。
判明したのは以上3点ですが、とにかくあなどれない場所である事は、確かですね。ぜひ行ってみたいです。
タケ様より 神社のサイトと道路地図で位置を確認したところ、どうやら青森大学より奥にあるみたいですね。八甲田山ロープウェイに行ける道路(国道103号線)ではなく、青森市街から出て大滝平、田代平(雪中行軍殉難者銅像や、八甲田温泉があります)を抜け、十和田湖町や十和田市に行く道路(青森県道40号線)の側です。青森市街地の郊外なので、割と海に近いようですね。
サイトのトップを見ると、

「南北朝期に北畠氏が再興云々」

とあるようなので、恐らく南北朝末期から合一後の時期、津軽に移っていた北畠氏一族が、長く廃絶していた神社を再興して、津軽(大浦)氏に滅ぼされるまでの間、維持していたと考えてもいいのではないかな、と憶測してみます(笑)。 (2005/03/30)


北畠神社(山形県天童市)  (平成30年訪問)

真幸様のホームページにおける北畠神社の紹介はこちらhttp://jidaibeturyoko.kurushiunai.jp/page045.html

タケ様より 宇津峰山上に彼が祀られているのは、やはり戦前以来の通説によるところが大きいような気がします(長く宇津峰を根拠地としていた、と思われていたからでしょう)。
ところで、森村誠一氏筆の「太平記」でしたかどうか、顕信卿について、「顕家が“花将軍”と呼ばれたのに対し、顕信は“鬼将軍”と呼ばれ云々」 という趣旨の描写があったと記憶しておりますが、色々と書籍、資料なんか見ると、顕家卿の「花将軍」は何となく想像つくのですが、顕信卿の「鬼将軍」は、ちょっとど〜よ? って気がもの凄くします(苦笑)。前線で陣頭に立って、太刀やらなぎなたやらぶんぶん振り回す、というより、一歩下がって高所大所から戦略的な判断を下す、という印象が、顕信卿の場合は強いのです。顕家卿最後の戦の時、男山に進出したのが春日顕国だったとしたら、その後敗軍となった奥州兵を収容したのは、もしかしたら顕信卿だったかも……。(2005/03/21)
真幸様より

顕信卿が「鬼将軍」ですか・・・森村氏の、文庫本で出てるので、購入すべきかどうしようか迷っているとこなのです。なんか余計にもっと迷うかも(笑)。鬼というイメージよりは、私も体使うより頭使ってるイメージがあります。史跡巡りにおいて参考にしている顕信卿関連の本があるのですが、それにもどうも後方指揮してて、実際はその戦場には出てないんじゃないか、という憶測をしている叙述もありました。

三兄弟の中で一番地味目な彼ですが、兄とはまた違う苦労を東北でしたのではないか、と思っています。兄の頃以上に次々と武家方に寝返られて、出羽に後退を余儀なくされる中、必死に作戦練ったり、豪族へ支持の文を書いたり(祐筆がするでしょうけれど)、とがんばっている姿を想像するのですが・・・。(2005/03/21)

真幸様より 天童いうたら南朝ですよね!主人も私と一緒にいるため、そして吉川版『私本太平記』読んだためか、人物関係などは分かってて、南朝年号使っても分かってくれるんですが(ここまで仕込むのに結構苦労した!)、やっぱ親戚の目が辛いようで(笑)。でもなにげに天童古城の方角を向いていたり、「あっちは武家方の成生地域やからな!」と反応してくれてました(笑)。(2005/05/13)
阿倍野様より

天童というのは、山形県の天童市のことでしょうか?私も一度、足を運んだことはありますがその時には天童市にある北畠神社をお参りし、その後北畠顕信公の古戦場跡を散策しましたが、それ以外に南朝の勢力基盤として重要な役割を果たしていたのでしょうか?(2005/05/14)

真幸様より

天童あたりは、最上川がぐぐっと曲がる、デルタ地帯が出来てるようでして、どう考えても今の山形市より当時だと便が良さそうで、やっぱり山形市よりも栄えていたようです。それに天童市の西方面には寒河江があり、そこは南朝方の大江氏が勢力を張っていたところです。寒河江北の河北町近くにも大江氏勢力の溝延というところがあります。

山寺(立石寺)は初期の頃には比叡山の大塔宮との関係からも南朝勢力でした(北畠神社を進んでいくと山寺に行きますよね)。南朝サイトの大先輩で私の師匠である方から教えていただいたんですが、寒河江〜天童〜山寺というラインがある意味、南朝方にとっては大切なラインだったのではないか、と考えられるようです。山寺からは二口峠から宮城県・国府であったといわれる岩切城方面に出られますので、このルートを押さえておけば、という感じでしょうか。
一方同じ天童市内には成生地域といって、今ではラ・フランスの栽培で有名なんですが、武家方の勢力があった地域があります。同じあたりにも二階堂氏の館跡などもあり、一応武家方も重要地域として監視のような感じで居座ってたようです。

山形日本海側から秋田県方面にかけては、修験道や藤島城などなど、南朝にかかわるものばかりなんですが、山形市内での関連地などは努力してないために見つけられてません(涙)。天童市周辺だと寒河江あたりまでならそこそこあるんですが・・・。

東北の南朝のこと(というより顕信さんのこと)ならば、『史料解読 奥羽南北朝史』 大友幸男氏著 三一書房 1996.10/15初版発行が詳しいです。あとは宮城県の図書館でなら借りれるのですが、『仙台領内古城・館』というのにも南朝関連史跡の館や城跡のことが多く載っています。(2005/05/14)

虎猫様より 天童とは近代、そして現代の感覚でその地を指してますが、中世の頃は天童はことつの地区に過ぎず、広い範囲で展開されていた、・・と考えたほうがよさそうです。ですから山形という大きな範囲、そして秋田まで、さらに仙台近辺までの関連史跡等も視野に入れますと少し当時の動きが見えてくるものと思います。(2005/05/14)
真幸様より 天童における南朝関連史跡としては、他にはやはり荒谷地域なんですが、即円寺、小路善行寺というお寺があの神社の近所にありまして、そこは今は浄土真宗であるそうですが、当時は北畠氏に関連するお寺さんでして、顕家さんの子供(誰やねん)が開祖だと言われたり、北畠に縁あるものが開祖だと言われているそうです。この話は天童北畠神社の神主さんも仰ってますし、『天童の歴史散歩』(非売品なんで多分東北の限られた図書館にしか置いてないかもしれません)という本にも載っております。

当時、北畠天童丸を支持する勢力としては、山形市方面では山家(やんべ)信彦、寒河江の大江氏、東根の小田島長義などがおりました。山家氏は天童市近くまで領有していた豪族であったそうで、斯波氏の山形入り後も頑張ってたようなんですが、斯波氏に懐柔というか、和解して、大坂の河内に移っていったということだそうです。

天童地域の成生地域は、古くから成生荘といわれ、最初は大覚寺統の荘園であったようで、南朝勢力の拠点のひとつでもあったようなんですが、二階堂氏が失脚して後、天童丸の時代には新田系源氏の里見氏というのが支配していたようで、里見氏は武家方についた、と言われているようです。成生荘の板碑は、周辺の板碑の形態とは異なるものであるらしく、独自の文化が形成されていたと考えられており、特色があるそうです。(2005/05/15)


顕国の碑  (平成30年訪問)

こちらのサイト様が詳しく書かれているかと・・・http://www.hb.pei.jp/shiro/mutsu/tsubaki-date/

甲斐二郎様より 私が祖父からもらった「随筆 霊山」という本に、大錦号様のお好きな春日顕国卿の事がかかれてありましたのでご報告いたします。
これによると、顕国卿は東北にいた折、霊山城の前衛戦の守りとして平館(現在の霊山町大石字平)並びに、椿館(現在の福島市)にてご奮戦されたとのことであります。また、「顕国会」なる物が存在し記念碑を建てたとのことです。(記念碑の建立地は書いてありませんでした。)以下「随筆 霊山」より抜粋

「福島市鳥谷野に字館という屋敷があり、阿武隈河を隔てて椿館をのぞむところで六百年前、顕国卿が椿館にい居られた頃、家中屋敷だったという。ここに明治の初めまで庄屋様であり、北畠の後裔だと名乗る羽田庄治さんという人があり、この人などが中心となって「顕国会」というものを組織しておる。昭和十八年は顕国卿戦死されて六百年にあたっていたので顕国会は次のような供養記念碑を建ててある。

   昭和十八年六百回忌
    北畠後胤館地
         顕国会(2005/07/12)
管理人より 甲斐様からいただいた情報の顕国の碑はこれではないでしょうか?
http://homepage2.nifty.com/ja7ghk/bentenkoen.htm(リンク切れ)
上記の文章では北畠顕国となっていますし、碑を建立した年が「随筆 霊山」とは違いますが、内容からして春日顕国ですよね。 いつか、行ってみたいです〜!!(2005/07/13)


三嶋大社 

公式ホームページはこちらhttp://www.mishimataisha.or.jp/

kibi様より

私の実家は静岡県沼津市ですが、隣りの三島市にある三嶋大社の宝物館で、「南北朝の古文書〜室町幕府の草創期の群像〜」という小特集がありまして、足利尊氏禁制・雑訴決断所牒などの中に「北畠顕家寄進状」なるものがあったようです。あったようなどとあいまいな書き方をしたのは、3月27日までの期間限定なのに、その小特集の展示の存在を知ったのが28日…(T.T)実際には見に行ってないのです(泣)それにしても、小さい頃から慣れ親しんだ大社さんにそのような物があったなんて知らなかったという事実にちょっとショックを受けしまいました。次回開催の時にはぜひ行ってみようと思います。(2005/03/31)


名和神社 (平成31年/令和元年訪問)

大山町観光ホームページはこちらhttp://www.daisen.jp/kanko/

中海・宍道湖・大山圏域観光連携事業推進協議会における名和神社の紹介はこちらhttp://furusato.sanin.jp/p/area/daisen/13/

筑後川様より

名和神社は桜の時期がきれいですので、機会がありましたら是非行ってみてください! (2005/03/13)

北畠顕家さんって名和義高と同じ戦場で戦死されたんですよね。 彼について、、、というより、名和氏についての本は「獅子の弓 名和長年」 くらいしか手に入るものはないのではないでしょうか、、、。
あの本は大河ドラマで太平記がやっていた頃に出た本なので、 今では入手は難しいみたいですね、、、。
                                                    (2005/03/05、2005/03/06)

タケ様より 名和氏については、自分も太平記による知識が殆どなのですが、いくつかの関連書籍を見ると、九州だけでなく吉野に近侍していた一族もいたようですね。
ここから先は自分の憶測に近いものになりますが、顕家卿と共に戦死した義高が、もしも山陰を根拠地としていたと仮定すると、はっきり言ってしまえば顕家卿との合流は地理的、物理的に考えられない事になると思うのです。
つまり、長年が戦死した後には、既に名和一族は大半が吉野近辺に移動していたのではないか、という事になります。
山陰地方は、かなり早い時期に北軍の山名氏が浸透しているように見えるので、個人的には、名和氏は長年の死後、山陰における地盤を失っていた、と考えます。
1358年頃に、名和顕興の名前が九州に登場しますが、それよりも以前に名和氏が九州に移った可能性は、考えていいと思います。
ある程度推測出来るのは、まずひとつが脇屋義助(新田義貞の弟)の指揮下に入って四国へ行き、その後の戦況悪化により、懐良親王の拠る九州へと転戦した、というもの。
もうひとつが、最初から懐良親王に対する増援兵力としての派遣です。
いずれにしても、名和氏が九州において南軍の一翼を担う為には、いかな所領を八代に拝領していたとは言っても、相応の苦労を伴ったはずだと思われます。
また、吉野に近侍していた名和一族については、自分も分からない部分が結構ありますが、どうやら南北朝合一の頃まで、名和一族の中には吉野に近侍していた者がいたようです。以前、後南朝関連の書籍を図書館でたまたま読んでいた記憶なので、ちょっとあやふやですが(苦笑)。(2005/03/08)
私の記憶でも名和氏は早い時期に山陰を山名氏に奪われ、 残った人達は船上山などで討ち死にしたはずですので、 後醍醐天皇の帰還後は、山陰にはあまり兵力がなかったのかもしれません。

>それよりも以前に名和氏が九州に移った
たしかずっと重臣の大河内氏(だったかな?)が八代を守っていて、1358年に顕興が移ったという成り行きだったと思います。ただいきなり行ったのか徐々に西進したのかは記憶にないです。 (2005/03/08)

2008.1.14