暦応元年=延元三年(1338年)五月二十二日、いわゆる石津の合戦は、堺の南方の海岸から石津にわたる広い地域で展開された。そのため、当時この戦いは堺浜合戦・堺浦合戦・境宿の合戦・境野の合戦・高瀬浜合戦など、様々の名称で呼ばれた。また、この合戦は陸上のみならず、海戦もあった。

 顕家はここで、高師直・細川顕氏らの軍勢に決戦を挑んだ。南朝軍は死にもの狂いでよく戦ったが、最後には打ち負け、顕家もついに戦死した。

 この戦闘を「保暦間記」は“けふを限りと命をぎろに捨て、両方ひめもす戦暮しけるが、京がたうち負けひきけるに、師直、敵わづかにのって勢をみだしつるぞ。返しあはせ一あしも引退るなと下知して、ふみとゞまられて苦戦せられり。かくして、あきいえ卿うたれにけり。そののちは吉野方、散々になって引退く”と記している。

 顕家は、武蔵七党の一、児玉党の越生四郎左衛門尉なる者に討たれた。重囲の中にとりこめられ、脱出することが出来なかったらしい。首は丹後国の武藤右京進政清なる者にあげられた。これを高師直が兜・太刀とともに実検したという。

 この戦いで顕家に殉じた者に、南部師行・名和義高・名和義重・武石高広らがあり、その他、それらの家来百八人など、極めて多かった。

資料:「新編 日本合戦全集2 鎌倉南北朝編」(秋田書店)
    「南北朝の動乱」(新人物往来社)