顕家様の上奏文
〜“草案?それとも正式文書?”の答え・・かも〜


醍醐寺には三宝院、報恩院などの支院があって、お互いに勢力を争っていたそうです。
その中で、三宝院は持明院統=北朝と関係が深く、報恩院は大覚寺統=南朝との関係が深かったそうです。その他の支院も、その時々の状況によって、北朝方に依ったり、南朝方に依ったりしていたようです。
顕家様の叔父の實助(実助)は、醍醐寺の金剛王院の僧侶だった方で、親房の弟であるし、東寺文書などから南朝側の者として働いていたのは疑う余地がないそうです。

黒板先生は、現在、三宝院にある顕家様の上奏文について、

“其当時實助に依って伝へられて居つたものでなく、更に之を寫し直しその讀み方などを付けて置いたものゝやうに思はれる。”

と書かれています。
現存する上奏文は、實助自身が写したものではなく、實助の写しに読み方などを付けたものということですね。
實助は正平8年(1353)3月7日に亡くなったとのことですので、黒板先生の推測通り、現存する上奏文が応永(1394〜1428年)の初め頃に書かれたものであるならば、確かに實助が書いたものではないですね。

そして、實助は醍醐寺の金剛王院にいたのに、上奏文の写し(黒板先生の説では實助の写しの写し)が三宝院にある理由ですが、實助が亡くなった後、金剛王院跡を北朝側の三宝院が没収したからということらしいです。

まとめてみると、顕家様の上奏文は、原本はどうなったのか分かりません。(おそらく後醍醐天皇が手にされたのでしょうが、その後の行方は不明です。)
そして、内容的に草案か正式文書かは分かりませんが、とにかく、顕家様の文書を叔父が写し、それが金剛王院から三宝院に渡り、その後応永年間の初め頃に読み方などを付けた形で写され、この写しの写しともいうべきものが、現代に伝わったということなのですね!(黒板先生の推測によるものですが・・・)
おお〜!なんだか歴史の重みを感じますね〜。

それにしても、顕家様の上奏文は、『虚心文集 第二』の内容から推測すると、大正時代しかも大正9年以前に発見されたようです。
ということは、この上奏文の存在は、それまで知られてなかったってことですよね?(しかも、『虚心文集 第二』にまとめられるまで、ほとんど顧みられることが無かったそうで・・・)
さらに、もし“反故”つまり“不要の紙”として処分されていたら、顕家様の遺言とも言うべき上奏文は、“無かったこと”にされてしまってたってことですよね?
そして、私がこのサイトを立ち上げ、管理人として顕家様について熱く語るような事もなかったってことですね?(笑)

ああ〜、黒板先生!見つけて下さり、ありがとうございました〜!!


令和2(2020).3.9