孫子A
『孫子』は、 今から約2500年前、紀元前500年頃の中国春秋時代に呉の国王 闔閭(こうろ)に仕えた兵法家 孫武が著したとされる中国で最も古く、最も優れた兵書と言われています。
前の項の「孫子@」で顕家様が『孫子』を教養として読んでいたと思うと書きましたが、顕家様の上奏文の中で第四条が『孫子』に通じるかも!?と思いましたので、触れてみたいと思います。
| 読み下し文 | 現代語訳 |
| 辺域の士卒に逮(およ)びては、いまだ王化に染まずといえども、君臣の礼を正し、忠を懐き、節に死するの者、勝計すべからず。恵沢いまだ遍(あまね)からざるは政道の一失なり。しかれば功なき諸人の新恩の跡を以て、士卒に分ち賜うべきか。 | 国境の地方の武士や雑兵においては、まだ王化されていないとはいえ、君臣の礼を正し、忠をいだき、節の為に死ぬ者は数え切れないほどいる。それなのに、いまだに恵沢がすべてに亘らないのは政道の失敗である。 それならば、多くの功績のない者の新恩の跡をもって武士や雑兵に分け与えるべきではないか。 |
この部分において、『花将軍 北畠顕家』(横山高治)では、
“ここでの顕家の「辺域の士卒」というのは、まさに奥羽五十四郡の兵士を指したもので、これらの勇士を率いて二度までも西上、血と涙のにじむ難行軍を強行した顕家としては、兵士の辛苦を人一倍思い、積りに積もった思いが堰を切ったのであろう”
と書かれています。
また、『中世武士選書 北畠顕家』(大島延次郎)では、
“顕家は再度までも陸奥に下向し、奥羽の精鋭を率いて山河数百里の間に転戦し、ときには全滅に近いまでの打撃をうけた。そのときの部下将卒の忠節を回想すれば、自然とこの悲憤慷慨の言葉になったのだろう”
と書かれています。
顕家様は、父 親房と同じように、政治の実権は公家が持ち、武士はその下で働くものと思っていたでしょうが、若い分、親房ほど上から目線では無いように思います。
実際、2度に渡る長征で奥州の武士たちとは、生死を共にしているのですから思い入れは強かったと思います。
それで、『孫子』の以下の文が目に留まりました。
| 原文 | 読み下し文 |
| 視卒如嬰児、故可與之赴深谿、視卒如愛子、故可與之倶死、厚而不能使、愛而不能令、亂而不能治、譬若驕子、不可用也 | 卒(そつ)を視ること嬰児の如し、故にこれと深谿(しんけい)に赴く可(べ)し。卒を視ること愛子(あいし)の如し。故にこれと倶(とも)に死す可し。厚くして使うこと能わず、愛して令すること能わず、乱れて治むること能わざれば、譬(たと)えば驕子(きょうし)のごとく、用うべからざるなり。 |
| <訳> 将軍が兵士たちに注ぐ眼差しは、赤ん坊に対するように慈愛に満ちているものである。だからこそ、いざという時に兵士たちを危険な谷底にでも率いていくことができるのである。また、将軍が兵士たちに注ぐ眼差しは、かわいい我が子に対するようなものである。だからこそ、兵士たちは将軍とともに生死をともにすることができるのである。 しかし、手厚くするだけで仕事をさせることができず、かわいがるばかりで命令することができず、でたらめをしていてもそれを止めることができないのでは、たとえれてみれば、驕り高ぶった子供のようなもので、使い物にはならない。 |
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参考資料:『孫子』(岩波書店)、『まんがで身につく 孫子の兵法』(あさ出版)
これは、『孫子』の<地形篇>(第十)に書かれている文章です。
顕家様が、もし奥州赴任前に『孫子』を読んでいたとしたら、奥州へ向かう前もしくは実際に兵を率いる前に、“心構え”として再読したかも・・・などと妄想しています。
そして、この項を読んで、「兵を使いこなすためには、このような視点に立たなければならない」と考えていたかもしれません。だからこそ、顕家様の死の7日前に書かれた上奏文に、“辺域の士卒”の功労に報いて欲しいと切に願ったのかもしれないと、想像が広がります。
ただ、“路地の民家から奪い取り、神社仏閣を焼き払う”、“奥州軍の通った後は草木の一本も無い”
と太平記に書かれるぐらいに、奥州武士の略奪がひどかったことについて、顕家様は“厚くして使うこと能わず〜(後略)”のところが、実践には生かせなかったのかも・・・と思ったり、いやいや、現実問題として、食料は現地調達するしかなかったんだから、止めるわけにはいかなかった、とも思います。
このことについては『易経』の項に書きましたが、顕家様は
“
険難(戦争)を行うにあたっても、よく正しい道に従う。たとえ一時は天下を苦しめようとも、人民は必ず心服する。”
と自分に言い聞かせて、良心の呵責に耐えていたのかもしれません。
令和2(2020).5.4