易経

顕家の父である北畠親房の『神皇正統記』に、顕家が陸奥守に任命され、奥州へ下向するよう命じられた時のことが次のように書かれているそうです。

同じき年の冬十月に、先づ東の奥をしづめらるべしとて、参議右近中将源顕家卿を陸奥守になして遣はさる。代々和漢の稽古をわざとして朝家に仕へ、政務にまじはる道のみこそ学び侍れ、吏途の方にもならはず、武勇の芸にもたづさはらぬ事なれば、度々いなみ申ししかど〜後略〜”
(※の部分は取り上げている本によって違うようです。朝廷と書かれていたり、朝端と書かれていたり・・・。現代の者に分かりやすいように変えて書籍化されているんですかね?)

内容としては、
“顕家様が陸奥守として、奥州に下向するよう命じられた。しかし、北畠家は代々、和漢の学問を修めて朝廷に仕え、中央の執政官としてのみを業としてきており、地方官の職務に就いたこともなく、武官に任じられる家柄でもないと、度々固辞したが・・・”
ということですが、ここで注目したいのが、 “代々和漢の稽古を業として” というところです。

「和漢の学問を修めて、代々朝廷に仕えてきた」と言っている以上、北畠家には日本の古文書や中国由来の書物などかなりの蔵書(ご先祖が書き写した物でしょうが)があったと思われます。
そして、それを熟読していて、さらに、より深い内容を理解しているから、“和漢の稽古を業”としていると言えたと思うのです。
なので、顕家は単に諺として “書は言を尽くさず” と上奏文に書いただけではなく、『易経』自体を読んでいたのではないかと考えます。
『易経』が、単に占いの書でしかなければ、北畠家の蔵書のひとつでしかなく、親房も顕家も読んでいなかった可能性があると思いますが、『易経』には易を儒教的に解釈した『十翼』が付いており、『十翼』によって『易経』は哲学・倫理を説く経典としての体裁を持ち合わせているので、朝廷に仕える家柄の人間として、そこの部分は教養として身に付けていたのではないかと思うのです。

そんなことを考えながら、『北畠親房』(岡野友彦)をパラパラと見直していたら、こんな記述が!!

応長・元応・元亨・嘉暦・元徳という五つの元号について、その改元の儀に関わっているという事実が挙げられる。この点についてもやはり我妻健治の詳細な研究があり、親房が『周易』に関する豊富な知識を有し、いわゆる宋学的立場に立った意見を述べていたことなどが指摘されている。

おお〜!親房は、『周易』つまり『易経』に関する豊富な知識を持っていたわけですね!
ということは北畠家の蔵書に『易経』があり、親房も顕家もこれを学んでいた可能性がかなり高いと言えるのではないでしょうか。