易経


『易経』は、 五経(儒教の基本経典とされる『詩経』・『書経』・『礼経』・『易経』・『春秋経』の5種類の経書の総称。)の筆頭に挙げられる経典です。

元々は『周易』と呼ばれ、運勢を判断する言葉の“筮辞(ぜいじ)”を集めた古代中国の占筮(せんぜい=細い竹を使用する占い)の書だったのが、これに筮辞についての注釈や、全体を統一的に解釈するための理論が展開され、それを編纂した『十翼』が付け加えられました。
一般に『易経』と言う場合、基本の“筮辞”の部分である『周易』に、儒教的な解釈による附文の『十翼』(じゅうよく))を付け加えたものを指すことが多いそうです。

『十翼』とは、“周易をたすける十篇の書物”と言う意味で、これらは中国の戦国時代中期から漢代初期までに主として儒家の学者によって作り上げられたものと推定されています。
伝統的に孔子の作と伝えられてきましたが、これは、後世の学者が権威付けのために仮託したに過ぎないそうです。


さて、顕家が上奏文で引用していた「書は言を尽くさず」ですが、これは十翼の中の繋辞上伝の終わりの方に書かれています。
原文等をを引用しますと、

原文 読み下し文
子曰、書不尽言、言不尽意。
然則聖人之意、其不可見乎。
子曰、聖人立象以尽意、設卦以尽情偽、
繋辞焉以尽言、変而通之以尽利、
鼓之舞之以尽神。
子曰く、書は言を尽くさず、言は意を尽くさずと。
然らばすなわち聖人の意は、それ見るべからざるか。
子曰く、聖人象(しょう)を立ててもって意を尽くし、卦(か)を設けてもって情偽を尽くし、
辞を繋(か)けてもてその言を尽くし、変じてこれを通じてもって利を尽くし、これを鼓しこれを舞してもって神を尽くすと。
<訳>
孔子は言った。「書いたものは言葉のすべてを表すことはできない。言葉は、心のすべてを表すことはできない。」と。
ならば、聖人の心を知ることはできないのだろうか。
孔子は言った。聖人は易の象を立てて心のすべてを表し、卦を作ってあらゆる事物を判断し、辞をつけてそれを説明し尽くした。変化に応じて民をより良い方向へ導き、民心を鼓舞し、人知の及ばぬ不思議な力を発揮した、と。

資料:『中国の思想Z 易経』(徳間書店)

顕家の上奏文で、“書は言を尽くさず” と書かれている部分は下記の通りで、『繋辞上伝』で “書は言を尽くさず” と書かれている内容とは全く関連していません。

原文 訳文
しかりといえども、あらあら管見の及ぶところを録し、いささか丹心の蓄懐(ちくかい)をのぶ。
書は言を尽くさず。伏して冀(ねがわ)くば、上聖の玄鑑(げんかん)に照して、下愚の懇情を察したまえ。
けれども、自分の管見の及ぶところを概ね書き記し、少しもうそ偽りの無い意見を述べた。
書いたものは言いたいことのすべてを表すことはできない。
どうか、上代の聖人の戒めに照らして、私の懇情を察していただきたい。

参照:http://www5.plala.or.jp/akiie/akiie/turedure/turedure-1/zyousou-end.htm

つまり、顕家が上奏文で“書は言を尽くさず” と書かれた背景に『易経』の内容は含まれておらず、単に諺として使ったということでしょう。

では、顕家は、『易経』を読んでいなかったのでしょうか。