北畠家は、村上天皇の第7皇子具平(ともひら)親王を祖とする村上源氏の一門です。そして、北畠家の祖は、源通方(土御門通方)の次男で北畠親房の曽祖父に当たる北畠雅家です。
源通方(土御門通方)には、少なくとも7人の男子がいたそうです。
このうち、通方の長男の通氏は、嘉偵4年(1238)7月に26歳の若さで亡くなり、その5ヵ月後に通方自身も亡くなります。
この時、残されていた通方の子供は次男:雅家(24歳)、三男:通成(17歳)、、四男:顕方(生没年不詳)でした。
亡くなった長男の通氏の息子がまだ幼いので、普通に考えれば、年長者の雅家が嫡男の扱いを受けそうなものですが、残された子供の中で嫡男と位置づけられていたのは、次男の雅家ではなく、三男の通成だったようです。
なぜなら、まず三男であるはずの通成の方が、次男の雅家を差し置いて、父親の通方から「通」の字を継承しています。ちなみに雅家の「雅」の字は母方の祖父の雅頼から継承しています。
そして仁治3年(1242)に通成は21歳で三位中将になっているのに対し、雅家は宝治元年(1247)に33歳でようやく正四位下参議です。
さらに、雅家ら兄弟が庇護を受けていた叔父の土御門定通から、村上源氏ゆかりの土地である中院第を相続したのも、三男の通成でした。
以上のことから、長男の通氏の死後、嫡男の座に着いたのは、三男の通成だと考えられています。
では、この二人の立場の差はどこから生じたのでしょうか?
両者の待遇の差は、つまるところ「母親が誰か」と言うことに尽きるようです。
通成の母は一条能保の女(むすめ)でした。この一条能保は、源頼朝の同母妹(姉の説もあり)の坊門姫を妻としていたので、頼朝からの信頼を受け、早くから鎌倉方の公卿として活躍していたそうです。
一方、北畠家の祖となる雅家の母は、村上源氏一門の源雅頼の女(むすめ)です。源雅頼※も、治承4(1180)年に頼朝が蜂起した後、頼朝の意向の伝達者として京と鎌倉とのパイプ役を果たしたらしいので、頼朝とは親しかったのだとは思います。
※『伊勢北畠一族』では “壬生雅頼” と書かれていますが、こちらのサイトを見ると同一人物のようです。
「公卿類別譜」 http://www.geocities.jp/okugesan_com/minamoto3.htm
村上源氏の系図はこちらのサイト様が一覧で作られています。↓
「家系図の倉庫」村上源氏 http://keizusoko.yukihotaru.com/keizu/genji_another/genji_murakami/genji_mura1.html
しかし、源頼朝の妹(または姉)の夫である一条能保は、頼朝にとっては、いわば身内です。さらに、一条能保の曾孫にあたる藤原頼経(九条頼経とも呼ばれる)は鎌倉幕府第4代将軍になっています(嘉禄2年(1226)、頼経9歳)。
北条政子、北条義時の傀儡将軍であったとはいえ、将軍の曽祖父である一条能保の女を母に持つ、つまり、将軍の大叔母(または大伯母)を母に持つ通成と、幕府の中枢に強力なコネを持っていない源雅頼の女を母とする雅家とでは、その立場に大きな差があるのは、当然と言えば当然でしょう。
その辺りが、同じ通方の息子であっても、嫡男となれるか否かの違いだったのではないでしょうか。
嫡男となれなかった雅家は当時、ひなびていた洛北の北畠という土地に邸宅を構え、その後、そこに住む一族が北畠家と呼ばれるようになりました。

資料:『北畠親房』(岡野友彦)、ネット上の記述
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