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顕家様の妹 顕子さんです。
『系図纂要』(系図纂要その3参照)には、下記のように書いてあるのですが、
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| 系図纂要その3 |
このページだけでは親房の娘かどうかが分かりませんので、大変きれいにまとめられているこちらのサイトさんをご参照下さい。
http://www.kakeiken.com/report009#北畠氏一族系図(1−2)
『系図纂要』には、名前が記載されていませんが、『花将軍 北畠顕家』(横山高治)に「超覚寺北畠氏系図」の一部があり、それで“顕子”という名前であることが分かります。
| 超覚寺北畠氏系図 |
顕家様の妹が、後村上天皇に嫁いだことは、顕家様を調べ始めた初期の段階で知ったのですが、どういった方かはよく分からないです。
後村上天皇との間には、憲子内親王(新宣陽門院)が産まれています。ただ、憲子内親王(新宣陽門院)をネットで検索すると、“母:不明”となっているところもあるので、憲子内親王の生母との確定はできないようです。(長慶天皇及び後亀山天皇の生母は藤原勝子(嘉喜門院)とされています。)
後村上天皇の時代、南朝勢力はだんだんと衰えて行きましたから、なんとなくイメージ的に、少人数の人々が肩を寄せ合って必死に頑張っているという印象だったんですね。
なので、寂譽様のサイト(平成25年8月に閉鎖されました。)で
“正平7年 1352 6月2日中宮顕子 中院具忠卿と密通、長谷寺に出家す。”
この文を読んだ時には、本当に驚きました。
「世継を産んでいないとはいえ、仮にも中宮の位にある方が、密通だなんて!一体、何があったんですか!?結束しなければならない時に、一体、何をしているんですか!?」
この密通事件については、『園太暦』の正平8年(1353) 6月4日のところに、
“北畠親房の女(むすめ)で、後村上天皇の女御が具忠卿と密通し、去る2月に逐電した”(駆け落ちしたとも解釈されますが)
ということが書かれているようです。しかし、同時に“虚実未だ弁ぜずと雖も”と書かれているので、“不確かな噂”ということではあります。
密通事件の当事者として挙げられた中院具忠は、南北朝が僅かな期間和睦した正平の一統(正平6年(1351))の時、南朝側の勅使だった方です。
和睦の勅使を務めると言うことは、それなりの地位があり、人柄的にも信頼されていたのでしょうから、中宮と情を交わすようになることは、ありえないことではないでしょうが・・・
ただ、この日記の記述は、正平8年(1353) 6月4日のものであり、かつ、逐電したのが2月となっていますが、当の中院具忠は前年の正平7年5月に八幡合戦で討死しているとのことですので、本当に単なる噂でしかないと思います。
そして、顕家様の妹 顕子こと新陽明門院は、正平14年(1359) 3月上旬(?)に27歳(?)の若さで亡くなったそうです。
奈良県宇陀郡榛原町笠間の笠間山陵に葬られています。→![]()
資料:『系図纂要』、『伊勢 北畠一族』(加地宏江)、『花将軍 北畠顕家』(横山高治)、『内乱の中の貴族』(林屋辰三郎)、『北畠親房』(岡野友彦)その他ネット上での検索