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『吉野拾遺』に書かれている“日野資朝の女(むすめ)”ですね。
『系図纂要』には、顕家様の息子である顕成の母のところに“権中納言資朝卿女”と書いてあります。(系図纂要その1参照)
ところがですね、別のページに書いてある顕家様の子孫の記述になりますと、顕成の母は“行岳右兵衛大夫女”とあり、その下に小さく“一本作権中納言資朝卿女”と書かれているのです。(系図纂要その2参照)
この“一本作”の意味が管理人はわからないのですが、とりあえず、顕成の母親は“行岳右兵衛大夫女”と言う説と“日野資朝の女(むすめ)”の説の2つがあると解釈しました。(どなたかお解りになる方教えて下さい。↓
H22.3.16「伊勢国太平記」の管理人 寂譽様より、
“"一本作・・・・"と言うのは"「系図纂要」以外の他の本の記載によると"と言うような意味ではないでしょうか。 ”
とのコメントをいただきました。寂譽様 ありがとうございます。
管理人はずっと、正妻の“日野資朝の女(むすめ)”が、顕成と、結城親朝が養育し、安東太郎貞季の妻となった顕家様の女(むすめ)(系図纂要その1参照)の生母だと思っていました。顕家様の女(むすめ)については萩の局のところで触れますが、とにかく、顕家様と“日野資朝の女(むすめ)”の間には子供がいたと思っていたんですね。
だから、『吉野拾遺』には、“日野資朝の女(むすめ)”は顕家様が亡くなってまもなく観心寺で出家したとありますので、「子供がいるのに、どうして早々に出家したのか?」と疑問に思いながらも、「それだけ顕家様のことを愛していたのだろう」と解釈していたんです。
ところが、愛妾の萩の局の存在を知ったり(伝説に過ぎないのかもしれませんが・・・)、息子の顕成の生母が“日野資朝の女(むすめ)”ではない記述を見つけたりすると、「正妻との間には子供はなかったのではないか?」と思うようになりました。「子供はなかった。だから顕家様の死後、すぐに出家した。」そう考えた方が、むしろ自然な気がしてきます。
また、顕成にしても、安東太郎貞季の妻となった顕家様の女(むすめ)にしても、幼い頃から常陸や奥州にいるようなので、京から幼い子供が下向するよりは、もともと奥州近辺に住んでいたと考える方が妥当かなとも思います。
ただ、顕家様の子供として、“伊予国人 村上三郎左衛門義弘養子”となった師清がおり、『系図纂要』には母の記述はないのですが、この師清が“日野資朝の女(むすめ)”の子供である可能性はあるわけですから、「正妻との間には子供はなかった。」と断定はできないです。
(しかし、正妻の子供だったら、母についての記述は残りそうな気もするのですが・・・。)
もし、“日野資朝の女(むすめ)”に子供が無かったとすれば、この女性は本当にかわいそうな方だな〜と思います。
父親の日野資朝は、後醍醐天皇の密命を帯びて、全国各地を回るため、家にはほとんど帰ってこない。しかも、“密命”であるため、家族にも留守にする理由を伝えてなかった可能性が高い。つまり、なぜ父親が家に帰らないのかわからないまま、ただひたすら家で待っているわけですね。で、ようやく帰ってきたと思ったら、“無礼講”と称して乱痴気騒ぎを起こしている。実は、この無礼講は倒幕の謀議の隠れ蓑なのですが、そんなことは家族も世間も知らないわけですので、日野資朝一家を見る世間の目は相当冷たいもので、家族は肩身の狭い思いをしていたのではないでしょうか?
結局、倒幕の計画が発覚し(正中の変 正中元年(1324)9月)、翌年8月に佐渡へ配流されます。正中の変以降は、人目をはばかったのか、太平記には仁和寺の辺りで身を隠して暮らしていたと書かれていますし。そして元弘元年(1331)、再び後醍醐天皇の倒幕計画が失敗し(元弘の変)、日野資朝は斬首されます(元弘2年(1332)6月2日)。
これで、父親と言う庇護が全く無くなったわけですから、生活の不安は大きかったと思います。
そして、顕家様と結婚したかと思ったら(時期は不明ですが、父 資朝の死後、顕家様奥州赴任以前の元弘2年(1332)〜元弘3年(1333)の間と考えています。)、すぐに夫は奥州に赴任することになり、新婚生活もろくに送らないまま別居状態。(元弘3年(1333)10月2日出発)
第一次長征(建武2年(1335)12月22日多賀城出発)で久しぶりに会えたかと思えば、とんぼ返りで奥州に出発してしまう(延元元年(1336)3月20日)。
そして第二次長征(延元2年(1337)8月11日霊山出発)で、顕家様はお亡くなりになり(延元3年(1338)5月22日)、また独りになってしまう。
父親に続いて、夫まで亡くし、頼れる人がいない、成長を楽しみにできる子供もいないという身であれば、出家したくなるのも無理もないですね。そして、顕家様の死の約1ヵ月後の延元3年(1338)6月21日に出家します。
まさに、時代に翻弄された人生と言えるのではないでしょうか。
資料:『系図纂要』、『伊勢 北畠一族』(加地宏江)、『花将軍 北畠顕家』(横山高治)、『内乱の中の貴族』(林屋辰三郎)、その他ネット上での検索