霊山町の歴史を語るにおいて、北畠顕家は外せない人物の一人ですので、霊山に建立された石碑には、顕家様に関する記述が見られます。
ここでは、石碑などで語られる顕家様について、まとめてみました。

霊山碑(町指定有形文化財 霊山町大石日枝神社境内)

霊山碑は大石字宮脇地内の日枝神社境内にあり、文化14年(1817)10月、白河藩主 松平楽翁(定信)によって建立された。
松平楽翁の題額、、儒臣広瀬典の撰並びに書により、北畠顕家の忠節をたたえた顕彰碑である。松平楽翁編纂による「集古十種」にも所載されており、「霊山」が史跡として紹介された最初のものである。
高さ:4尺9寸、幅:2尺8寸、厚さ:1尺

「今去其時四百年。人重忠孝、風俗尚義。農人商夫指山説故事。顕家生以奥羽為根拠。
雖身死泉州、如魂魄必還反常在此山矣。村民樹碑祀以酒食、山霊人神膵キョウ(漢字表記ができませんでした)来食、其祚斯民也必矣。」

「霊山史談」(霊山町郷土史研究会)

行啓記念霊山銅碑碑文(一部抜粋)(霊山山頂に昭和20年夏ごろまで存在)

こちらは、大正天皇行啓記念として造られた碑らしいのですが、文章が大変長いので、一部抜粋を記載します。

「奥羽の士民今に至るまで忠孝を重んじ節義を尚(たっと)ぶは、安(いずく)んぞ当時慷慨(こうがい)義に赴き死を視ること帰るが如き忠臣烈夫(れっぷ)の血を禀(う)くるもの多きに因るに非ざらるを知らんや。」
                      (東京帝國大學教授宮内省御用掛 従三位勲二等 文學博士 三上参次)

「霊山史談」(霊山町郷土史研究会)

北畠顕家卿六百年祭の歌」の終わり

「壮烈忠武凛として、颯爽として花匂ひ、遺風薫ずる将軍の、名残の誉れ東北の、天の一角あととめて、行客つねに襟正す、ああ霊山に霊朽ちず。」(詩人:土井晩翠)

北畠顕家が建立した碑(?)

これは、伝説の類のようですが、伊達郡小手郷の故事談に、顕家が建立した碑と言うものがあるそうです。(なんだか、多賀城碑を真似たような感じが致しますが・・・・)
顕家が霊山にいた頃、小手川の辺りに国々の関までの距離を記した碑があったが、宝正元年の洪水で流されてしまったというような内容です。
碑に刻まれていた内容は、以下のようです。

長門国赤間関へ   二千八十二里
伊勢国鈴鹿関へ   一千百六十里
近江国逢坂関へ   一千二百六十里
美濃国石破関へ   九百十五里
駿河国清水関へ   五百六十四里
相模国足柄関へ   同
当国白河関へ      二百八十八里

建武三年十二月
鎮守府将軍北畠中納言顕家建立

「霊山町史」(霊山町教育委員会)

平成20年(2008)8.28