♪ イメージソング? ♪
後村上天皇 編

しかし、最も身近であったであろう顕家様は、暦応元年=延元3年5月22日(1338)に石津合戦で討ち死にしてしまいます。
その後も南朝方の有力武将が次々と鬼籍に・・・

延元3年(1338)閏7月2日 新田義貞戦死
延元3年(1338)9月 北畠親房らと伊勢の大湊を海路で陸奥に向かったが、遠州灘で台風により遭難。
親房は常陸、宗良親王は遠江、義良親王、北畠顕信、結城宗弘は伊勢に吹き戻される
延元3年(1338)?月 結城宗弘 病死
延元4年(1339)8月16日 後醍醐天皇 崩御
興国4年(1343)11月 常陸国の関城、大宝城落城
興国5年(1344)3月 春日顕国 捕殺される
正平3年(1348)1月 楠木正行 四条畷にて戦死
高師直が吉野を占領 後村上天皇ら南朝方は賀名生に逃れる
正平6年(1351)11月 南北両朝が和す 正平一統
正平7年(1352)閏2月 正平一統 破れる
正平9年(1354)4月 北畠親房 没
正平23年(1368)3月 後村上天皇 崩御

有力者が亡くなっても、それを補える人員が確保できればいいのですが、どんどん減る一方で・・・
北朝方の内輪もめで一時的に優勢になった時期があったにしても、それはつかの間の夢でしかなかったですし。

こんな風に少しずつ勢力が弱まっている状況でも、確かに後村上天皇は、政権奪回のために戦い続けてはいましたが、心のどこかで、“それは夢でしかない”と思っていたかもしれない・・・
などど想像すると、この『僕等 バラ色の日々』の歌詞がすごく合っているような気がするんですね〜。

南朝の劣勢は明らかであっても、自分を養育してくれた北畠親房や、その他のずっと自分に従ってきてくれた人達のことを思うと、「“自分は是が非でも政権奪回をしたいとは思っていない”とは絶対に言えない。」と思っていたかも・・・

とか、

吉野〜賀名生〜京〜賀名生〜とさすらいながら、♪行く先はいつだって 何処にもなくて それでも到り着かす風を 待ち続けて♪ いたのかもしれない。

とか、

賀名生で寂しい生活を送りながら、♪楽園ははるか向こうで こんなに何も答えない♪ と、遠くにある京へ想いを馳せていたかも・・・

とか妄想が広がるわけです。

もし、後村上天皇が心の底では政権奪回をあきらめていたとすれば、

♪どうぞ手を離して♪ とその目的から解放されたいと思っていたかもしれないですし、

♪だから手を離そう♪ とあきらめの気持ちを受け入れようとしていたかもしれない

とか考えて、ますますこの曲が後村上天皇に合っているように思えてくるんですね〜。



そして、人生の終わりが見え始めた時に、思うわけです。

辛く、寂しい思いをしていたけれでも、奥州にいた頃は、親房も、顕家も、宗広も、師行もいた。
遠く離れてはいたけれど、父上もいらっしゃった。
何より、あの頃は太平の世の中を自分達で作るのだと言う大きな夢を見ていた。

そう、あの頃が『僕等 バラ色の日々』だったと・・・

2007.12.15
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