(主催:国交省、長野県、 協力:松本市)
◆国交省主催で全国動員をかけているせいか会場(松本県文化会館)は満席であった。
◆今回の大会は土砂災害防止推進の集いとなっていたが、内容はハード推進を目指したいという思惑を強く感じた。田中知事時代にハード優先からソフト対策にシフトした砂防行政を再び元に戻そうとする村井知事と国交省及び業界の目的が一致し、全国大会を砂防批判運動の発祥の地、松本で開くことで巻き返しをはかる意図が強く出ていた。国の財政事情が悪化し砂防関連予算が半減している中、砂防予算だけは増やしてもらいたい、またあのころのよき時代に戻りたいという思惑を感じるものであった。
◆全体の構成は
第一部 式典
国土交通大臣(写真02)など各首長の挨拶と議員の紹介、表彰式など。
第二部 「砂防の歴史と事例に学ぶ」
市民団体、学校、などを登場させ国民との一体感を持たせていた。
第三部 シンポジウム 「砂防の歴史と今、そして明日(これから)」
岡谷の豪雨災害や岡谷塩嶺病院(写真14)が砂防ダムによって守られた事などを強調し
ハード対策の効能を盛んに出していた。おまけに小学校でやっているような土石流模型
実験(写真21)まで持ち込んでいた。今回は主にハード優先論者の北沢秋司信大名誉
教授の解説つきであった。
写真14
◆今回のシンポでは、会場からの意見を聞かなかったため発言できなかったが、塩嶺病院を新設の砂防ダムが守ったといわれる件は、ダムで土砂量がコントロールされたことは確かだが、造ったばかりで空っぽであったことや、たまたま流出した土砂量が少なかったから効果があったように見えただけです。他の沢からの土砂流出に比べれば極端に少なかったことが幸いしたからです。
◆他の沢の状態はこことは全く違い、多量の流出土砂量の原因は大雨と地質の要素が当然あるが、昔(製糸時代)の段々畑の跡にカラマツを植林したことが大きな原因の一つとなっていた。段々畑は平らなので水を溜め込み、根の浅い植林カラマツが、元・畑の地盤を支えきれなかったことが災いしていた。同じカラマツ林でも斜度のある場所は崩れていない現象から見ても、このことが重要な要素であることを物語っている。また土石流も洪水に近いものであったことから、今回のような雨量があれば沢の出口は危険な場所になることは容易に想像がつく。
◆問題は危険な土石流の出口に病院や老人施設などを立てるような土地利用が許されていることである。土砂流出量を想定できない現在の科学技術や砂防工学の現状において、たまたま流出土砂量と土砂調節量の差が少なかっただけであることをもって、今回の事例を強調しすぎることは非常に危険なことにつながってしまう。
写真21
◆模型実験の件では、初期条件(流す土砂の量)が砂防施設の持つ土砂抑止量しか流されなかったことである。そもそもどのくらいの土砂が出るのか予想できれば災害などは起こらないはずである。岡谷災害のように大きな土砂量が出た場合は全く役に立たないはずであり、公の場でこのような実験を見せ納得させるようなことは詐欺行為に等しい。
◆それでは流出土砂量に対応できるダムを造ればよいのではと思う人もいるかもしれないが、土石流危険渓流は全国で21万、長野県で6千数百渓流もあり、膨大な時間と予算をかけてきたはずだが100年経ってもその平均整備率はまだ20%くらいしかないのである。コンクリートの寿命(50〜100年)を考えれば、今後100年かけて40%にあげることは不可能に近い。おまけに高さ14mを越える多貯砂量のダムがあちこちに造られているが、老朽化や地震などで壊れればそれだけで災害につながる危険性もある。整備率を上げることよりは危険地帯の土地利用に対策を集中させることの方が防災効率が上がることを理解しなければ大変なことになり、私たちの生活を豊かにするための財政はいくらあっても足りない現状を考えると、もうハード優先の考え方をあたらめる時期になっていることを強調したい。
写真22
◆なお岡谷災害の復旧はもちろん必要だが、20基くらいの砂防施設が造られた(今後同じくらいの雨量で効果が出るかは別だが)のであるが、確率的に見ればこの部分は後100〜200年はこのような雨の降り方は少ないはずであり、むしろ今回災害にあわなかったところの方が起こる確率が高いことになる。この矛盾は避けてとおれない問題となるだろう。
◆ただ国交省砂防部長が最後に説明した図(写真22)の中で三角形の右下の○の開発抑制・土地利用規制という項目は、彼ら自身がやってきた今までの砂防行政の問題を見直し「土砂災害防止法」の理念を考えざるをえないところまできていることを示すものである。
◆私たちは、この理念が生かされるように行政に対して働きかけていくことがかなり大切になっていくという認識を持つべきです。
◆今回の大会内容は砂防業界以外の国民の幸せを左右しかねない質を持ったものに感じた。
ちなみに次の写真はめずらしいものなので、ぜひ見てください。
写真06 明治20年ころの田川と女鳥羽川(松本市)の合流点です。当時は船の就航もあり、海から鮭が産卵に登ってきた記録も残っています。
写真06
写真10 大正7年ころの牛伏フランス式階段工(松本市)の工事風景です。当時は乱伐や山火事で背後の山は丸坊主、雨が降れば即土石流が起こりその土砂が日本海まで流れていたということです。森林が育った現在では考えられないような状態だったのです。
写真10
文責 田口康夫