ダムによる河川分断と魚類への影響

北野 聡(長野県自然保護研究所)

 信州は山国であると同時に,あまたの水源と谷川を擁する川の国でもある。かつて,信濃川を遡ったサケは,善光寺平や松本平で漁獲され,信州の民ばかりでなく都人にも貴重な食糧資源を供給していた。しかし,現在では,海と川を行き来してその生涯を送る回遊性魚類は,ダム建設をはじめとする近年の治水利水事業により,遡上ならびに降下環境が著しく悪化し,絶滅状態にある。現在,信州の名産とされるアユやウナギも,放流がなければ生息しえない魚類となっているのである。日本一長い川をさかのぼる本来のサケやアユ,あるいはウナギは生物資源として固有の優れた特性を備えていたと思われるのだが,今となってはそれらを取り戻すことはできない。
 最近になって河川上下方向の分断が流域生態系に与える影響についてさかんに研究が進められるようになった。その理由のひとつは,ダムの構築などによって流域が分断された結果,当初は予想していなかった生態影響が健在化するようになったためである。河川の上流と下流,河川と海洋が互いにつながりを保つことの重要性が広く認識されはじめている。ここでは,淡水魚の事例を中心にダム設置による河川分断化の影響を紹介したい。

● 信州における河川分断の現状

信州に回遊性魚類が遡上しなくなったのは,下流域の隣接県における河川環境の改変と無関係ではない。しかし,河川上流域に建設される砂防ダムを例にとってみても,長野県のダム数は全国有数規模といえる。例えば,平成15年度版の砂防便覧によれば,長野県の砂防ダムは2,355基で,落差が5m未満の床固工と呼ばれる小さいダムも含めると5,850基にも及ぶ。この数は岡山県の5,981基についで全国2位である。長野県の面積は1万2千km2であるからおよそ2.1 km2に1個のダムがある計算になる(密度については全国7位)。この他に県内には林務所管の治山ダムや農政所管の頭首工なども,それぞれ数万の規模で存在する。これらのうち魚道の設置事例はごく少数と考えられるので,長野県の河川や渓流は横断構造物によって著しく細分化されてしまっているといえるだろう。

● 魚類への影響

 ダムが設置されると,まずその上流域では回遊魚が姿を消す。北海道のように川と海を往き来する回遊魚が多い地域ではダムの上流で魚類相が著しく貧弱になる。北海道に生息するイワナ(アメマス)の場合,海へ回遊する降海型と回遊しない残留型の2タイプが一定の頻度で存在するが,砂防ダム上流では残留型だけしか再生産できないため,ダム上流では海へ下る性質が急速に失われる。長野県でもイワナやヤマメ(太平洋側ではアマゴ)の中には,かつては海へ降りた個体もいたはずであるが,現在海から遡上した個体が長野県に戻ることはきわめて困難である。
 分断化の影響を受けるのは回遊魚ばかりではない。回遊しない魚にとっても,ダムは生息地を狭め,集団を完全に孤立させてしまう。一般に孤立した集団は,偶然性や遺伝的な問題で絶滅リスクが高まると考えられる。ダムにより孤立したイワナ集団の遺伝子調査によると,孤立の程度が高い集団ほど,遺伝的多様性が減少しているという。また,砂防ダムによって孤立した北海道のイワナの生息状況調査では,生息空間が狭く,砂防ダム建設後の隔離年数が長い場所ほど,イワナの絶滅頻度が高かったという結果も報告されている。イワナが絶滅すれば,カワネズミのように魚類を主要な餌とする動物群などにも広範な影響が及ぶ可能性がある。
 またさらに長期的な視点に立てば,地球温暖化のような気候変動も河川の魚類に大きな影響を与えると予想される。IPCC報告によれば,今後100年の気温上昇は最大5.8℃とされ,水温環境に生息域を規定される多くの淡水魚類,とりわけ冷水性のサケ科魚類はその分布域の変更を余儀なくされるであろう。しかし,移動分散の経路が断たれた河川においては,高水温期(例えば夏期)をやり過ごすために上流域へ避難することができず,分布域の多くで個体群の縮小が起こると考えられる。
 ダムは生物の移動を長期間にわたって制限することから,その規模の大小に関わらず,流域生態系に大きな影響を与えるものである。現在の河川行政は,個別の工事区間や工作物についての緩和措置に主眼が置かれる傾向が強いように思われる。極端な場合には,工事区間の魚の移植が保全対策のすべてとなることもある。しかし,これからは流域生態系保全の視点を持ち,生物多様性や生態的機能の損失を最小にするための計画と実行が不可欠であろう。そのためには,流域ごとに生物や河川構造物に関する情報を集積・共有化し,様々な代替案のなかから適切な流域管理策を選択する仕組みづくりが望まれる。