上高地の砂防と自然

岩田修二(東京都立大学・上高地自然史研究会)

1 砂防工事と河川工事によって破壊されつつある上高地

 中部山岳国立公園は,1934年(昭和9年)に国立公園に指定された.なかでも,上高地は,地域全体が特別天然記念物に指定され,国立公園の中でももっとも規制が厳しい特別保護地区に指定されている.全域が国有地で,林野庁・環境庁が直接管理しており,国立公園としては理想的な管理がおこなえる場所である.じっさい,年間180万人以上の利用者が訪れている割には貴重な自然や景観がよく残されている.ところが,利用者が増大するにつれて,多くの問題が起こってきた.大気汚染,水質悪化,ゴミ問題,野生生物への影響,植生の変化などに対しては環境庁も注意を払っているが,施設改善と防災(砂防)の名のもとにおこなわれている土木工事は野放し状態といえよう.

1)ホテル・旅館や公共建物の増・改築,下水道施設の改良・増設,歩道・登山道の増設や改修が1980年代後半から急に盛んになった.また,山小屋や工事現場への物資運搬のための仮設橋の設置も定常化している.

2)20年ぐらい前から河童橋を中心に,上流から運搬されてきた砂礫の堆積によって河床の上昇が著しくなり,増水時には歩道が破損したり旅館に浸水したりするようになってきた.施設の浸水を防ぐために河童橋付近での河床の上昇を抑制するという理由で,
 @上流支川に砂防堰堤を作る
 A梓川本流に帯工(床固め)と堰堤を作る
 B護岸を作る
 C暫定的な流路の直線化と河道内に土砂堤防の建設(地元業者による非公式なもの)などがおこなわれている.

3)このような建設工事に伴う破壊も著しい.工事は小部分ずつこま切れに進められその度に工事用取り付け道路や資材・土砂置き場がつくられ,森林も含めた植生の破壊は無視できない面積になる.上流部の工事現場に重機をいれるために河原と河道が重機の通路にされ,土砂(骨材)の採取も河原でおこなわれている.

2 バランスのとれた上高地の自然

 上高地の自然は,流域に槍・穂高連峰のような急峻な山岳が存在するにも関わらず最近の1万年間は安定した状態を保っている.以下では1999年4月発行の上高地自然史研究会のパンフレット(岩田,1999)に基づいて概略をのべる.

2−1河辺林のモザイク構造
 上高地の谷底には典型的な河辺林が成立している.さまざまな種から構成され,発達階の異なる群落がモザイク状に発達している.このようなスケールの大きな河辺林は日本にはほとんど残っていない.

2−2 ケショウヤナギと地形の微妙な関係
 梓川は網状に流れ,流路の間には大きさや高さ,形成時期の異なる砂礫堆が形成される.そこでは,地下水位,礫径,増水時の流水の獲乱などによって微妙に異なる環境が形成される.ケショウヤナギ(Chosenia arbutifolia)群落の生育にはこのような河原の存在が必要である.増水時には河原いっぱいに川が流れるが,それ以外の時には河原は乾燥するので,ケショウヤナギ以外の草本や樹木の種子は生育できない.しかも,洪水時にもポケット状に操乱を受けない場所が残り,その結果,広い河原には幼樹から高木までのさまざまな成長段階のケショウヤナギ群落が点在する.
 いっぽう,種子を生産する母樹林が必要である.増水の影響をあまり受けない部分のケショウヤナギ群落は高木林になり種子を供給するが,やがてはハルニレーウラジロモミ林などの極相林に遷移する.しかし,この極相林は十数年に一度の増水時に起こる流路変更によって破壊され,河原に戻ることがある.そしてその新しい河原にケショウヤナギの幼樹が育つ.
 ケショウヤナギ林が維持され続けるためには,自由に蛇行する川による攪乱を受け移動する砂礫堆と流路変更による森林の破壌の両方が必要セある.

2−3 梓川の土砂はどのように動くか
 槍・穂高連峰は登山者を引きつける急峻なアルプス型の高山で,露岩面積が広く多量の砂礫を生産する.高度が高いことやなだれや崩壊・土石流の影響もあり植生は十分生育できず,土砂生産は止めようがない.いっぽう,梓川の谷は広い谷底をもつ.これは,焼岳からの溶岩・火山泥流・土石流,霞沢岳からの土石流扇状地による堰止めと,上流からの連続的な土砂の供給による堆積によって形成された.支谷からの砂礫は,この広い谷底の存在のため,出口に扇状地として堆積し,そこで風化。細粒化ののちゆっくりと下流に運搬されている.このような上高地の地形は,最近の数千年にははぼ現在のような状態を保持してきたことが,地形や堆積物の調査からあきらかになっている.

2−4 河床上昇は自然の姿
 このように上高地は,穏やかな地形変化(大規模な激しい崩壊・土石流は少ない)と,河床のゆっくりした上昇,河道変化にともなう植物群落の遷移の中で過去数千年にわたって美しい景観を保ってきたのである.上高地の梓川の河床がゆっくり上昇するのはこれまで数千年にわたって続いてきた自然の姿である.最近,河童橋付近の河床上昇速度が増しているように見えるのは堤防や護岸によって河道が固定され天井川化したからである.

3 砂防と河川工事の歴史

3−1上高地における災害
 古い時代のことはよく分からないが,大正年間には焼岳の噴火による被害木が発生したといわれる.昭和2年に建設された大正池ダム湖が,焼岳からの土石流によって埋積されるのも土砂災害のひとつである.これを防ぐために焼岳の土石流防止が精力的に行われてきた.最近の土砂災害のなかでは,土石流による県道上高地線の切断(1969;1979など)が顕著であり,多数の観光客が上高地に閉じ込められた.1975年・1978年・1979年には増水によって河童橋周辺の部分的な海水や支谷からの押しだしが起こった.

3−2 これまで行われた砂防・河川工事
1960年代:旅館・山小屋・道蕗(県道)などの既存の施設を直撃する可能牲がある土砂流や浸水を防ぐための限定的な砂防工事や,部分的な河川工事が中心であった.1970年代:施設拠点背後の支川に砂防工事(堰堤と床固め)がおこなわれ 本川については施設保護のための護岸工(蛇篭護岸)が施設拠点に増設された.1980年代:1970年代後半に起こった浸水は,河童橋付近で梓川本流の河床が上昇したため発生したと考えられた.その防止をも含んだ総合的な保全のための調査「上高地地域保全整備計画調査」が1980年代初めに実施された.土砂災害に関しても,これによつて今後の建設省・林野庁の砂防計画基本方針が策定された(建設省河川局,1984).それによると,本川河床の安定化(河道の蛇行と砂礫堆の移動の防止)と支川からの土砂流出防止のために,多くの砂防工事が必要であるとのべられている.このような考えに基づいて,多くの構造物が建設された.
 河童橋付近の河床上昇を抑えるための効果的な対策として建設省は梓川本流を完全に横断する多数の帯工の設置を明神付近に計画し,1989年から1995年までの間に3基が建設された.なぜ明神に帯工をつくるのかという理由はきちんと説明されていない.土木

3−3 ダム建設と上高地
 古くから上高地には大型ダムの建設計画があった.1956年には,高さ45mのダム(たぶん電源開発)を建設するという計画がつくられたが松方三郎(当時日本山岳会副会長)の奔走によって阻止された(松丸,1990).1970年には,大正池と小梨平を守るためという理由で,横尾谷下流部,一ノ俣出合下流,横尾出合上流梓川本流,ニノ俣出合下流にそれぞれ高さ15mの砂防ダムを造るべきであるという提案があった(長野営林局・松本営林署,1970)が,幸いなことに実施されなかった.しかし,同時に提案された奥又白谷,白沢,六百沢などの砂防ダムは建設された.

3−4 砂防の有効性
 近代砂防が始まってからまだ100−120年しか経っていない.建設省の砂防計画も100年先のことしか考えていない.その100年の間に,砂防ダムや山腹工によって渓流や斜面の安定化が進み,植生の回復が起こった場所では砂防は著しい成果をあげた.しかし,植生に乏しい高山帯では根本的な斜面の安定はむずかしい.それなのに,山全体が砂防施設に覆われた後のこと,砂防ダムや山腹工の100年後の劣化がどのような危険をもたらすかは十分検討されていない.スイスアルプスのボントレジーナ村では,100年前から建設され続けたなだれ防止工に崩壊の危険が生じて撤去工事が始まっている.その100年間に,かつては牧場であったなだれの危険のある場所に多くのホテルが建設されてしまった.研究所の大型水路実験の結果であるらしいが報告書(上高地砂防施設計画検討委員会,1989)は公開されていない.

4 砂防なしでの上高地の自然の守り方

 自然教室あるいは観光資源として上高地の利用を認めるならば,安全を確保し,ある程度の利用可能施設を維持するために「必要最低限」自然に手を加えることは認めざるを得ない.これはすでに多くの人から支持されている.しかし問題は「必要最低限」の中味である.建設省は,治水安全度を100%みている訳ではない(遠慮して工事をしている),自然保護・環境保全に十分配慮した工事おこなっていると主張している.しかし,すでにみてきたように,結果的には自然を破壊することになっている.ここで建設省がいう自然に配慮した工事(松浦,1997)とは蛇篭をつかうとか,帯工を河原に埋設したとかいうレベルの話である.現在の技術レベルでは生態系を十分保全する砂防工事はむずかしい(太田・高橋,1999).

 現在おこなわれている砂防工事や河川改修をさらにおこなえば,上高地からケショウヤナギなどの河辺林は失われる可能性が大きい.かの費用で施設の移転はできるであろう.ある場所が湿地になっても別の場所が砂礫地になればケショウヤナギは生育し続ける.砂防・河川改修によって自然が守れると考えている「建設省」「林野庁」と,「地形も含めたトータルな変化する自然」という視点が欠落したまま現在の自然の保護しか考えない「環境庁」と,両方の考え方に大きな問題がある.

補足2:梓川の砂防の大きな問題は,大正池の堰堤から下流にあることが指摘されている(町田,1979).釜トンネル付近から沢渡までは谷の下刻が激しく谷壁も急峻で,渓岸侵食によって谷壁斜面の大崩壊が起きる可能性が高い.地質的にももろい場所であり,下流のダム湖の存在ともあわせて大きな災害をもたらす可能性があるにもかかわらず手当が遅れている.


1)支谷からの砂礫供給の減少と河道の固定⇒梓川の河床の段丘化⇒新しい砂礫の河床 の減少=〉河辺林の消滅
2)護岸⇒内側の森林の極相林化⇒母樹林の消滅⇒河辺林の消滅
3)工事にともなう建設現場周辺における植生・河道の破壊・荒廃,工事現場へ移動する重機の通行路となる河原の荒廃,河原からの砂礫(骨材)の採取⇒@高山喋の食草の消滅による高山蝶の消滅 Aイワナの減少 Bヤナギ類の幼樹の破損
 環境庁が気にしている@の高山蝶については,明神の帯工工事によってクモマツマキチョウは絶滅したという(昆野,1996).

 砂防・河川工事をおこなわずに災害を防ぐには
1)天井川化を防ぐため河童橋付近の護岸・堤防を撤去する.
2)災害危険地図(注)にもとづく施設の移転,施設基礎の嵩上げ工事をおこなう。
3)防災対策(ソフト面:予報・警告システム,避難誘導訓練,資材・食料の備蓄など)を実施する.

 つまり,既存の施設にとらわれることなく,よりよい上高地の利用計画を根本から見直すことが必要である.おだやかな地形変化,民有地がないという管理体制,、冬期には閉鎖されるという利用状況からみても,上高地は,そのようなことが可能な数少ない場所である.

 さしあたって必要なことは次のようなことであろう:
1)すべての工事を凍結すること,
2)学術的調査・研究にもとづく将来予測,
3)工事実施に関する情報公開,たとえば,工事の理由の学問的説明,きちんとしたアセスメントの実施と結果の説明,
 そして,長期的には:
4)縦割り行政の一本化による合理的な保護・管理,
5)大規模な設備や長期滞在型の施設を避け,利用する人数を厳しく制限すること,が必要であろう.

補足1:環境庁の言う景観と植物の保護と防災とを両立させるためには,梓川河床の土砂を竣潔しトンネルで排出するほかないし,それは金さえかければ可能であると建設省の関係者が述べていた.河童橋付近を現状のままにしておくと背後が湿地になりケショウヤナギも絶滅するだろうとも述べていた.しかし,土砂排出トンネル建設の何分の一かの費用で施設の移転はできるであろう.ある場所が湿地になっても別の場所が砂礫地になればケショウヤナギは生育し続ける.砂防・河川改修によって自然が守れると考えている「建設省」「林野庁」と,「地形も含めたトータルな変化する自然」という視点が欠落したまま現在の自然の保護しか考えない「環境庁」と,両方の考え方に大きな問題がある

補足2:梓川の砂防の大きな問題は,大正池の堰堤から下流にあることが指摘されている(町田,1979).釜トンネル付近から沢渡までは谷の下刻が激しく谷壁も急峻で,渓岸侵食によって谷壁斜面の大崩壊が起きる可能性が高い.地質的にももろい場所であり,下流のダム湖の存在ともあわせて大きな災害をもたらす可能性があるにもかかわらず手当が遅れている.

注)災害危険度地図

 潜在地形災害危険度地図あるいは土砂災害危険分類図などともよばれる.地形変化様式・地形変化速度・地形変化史・地質・土壌・斜面形・傾斜・植生などのさまざまな条件を組み合わせて危険箇所をあきらかにし図示した地図.上高地で岩田が作成したものでは,人的被害も含む大損害もたらす[危険度大]から,[ほぼ安全]まで4段階に分けて図示した.


引用文献

岩田修二(編)(1999) 危機に直面する上高地の自然一人工改変のすすむ上高地−,上高地自然史研究会,6p.
上高地砂防施設計画検討委員会(1989) 梓川上高地地区における砂防施設設置に伴う環境影響調査報告書  参考図表集.
建設省河川局(1984) 上高地地域保全整備計画調査 砂防計画調査,26p.
尾野安彦(1996) 上高地の砂防・護岸工事と生態系への影響−クモマツマキチョウとの関係で.山と渓谷,729号,187−190.
町田 洋(1979) 信濃川上流と姫川の自然と歴史.信濃川上流直轄砂防百年史編集委員会(編)
      「松本砂 防のあゆみ−信濃川上流直轄砂防百年史」建設省北陸地方建設局松本砂防工事事務所,1-77.
松丸秀夫(1990) 自然保韓随想 上高地ダム 山,540(1990.6.20),p.6.
松浦隆幸(1997) 土木の風景:長野県安曇村梓川の改修.日経コンストラクション,1鮒号,62−67・
長野営林局・松本営林署(1970) 「上高地・美ヶ原地区国有林の保全対策基礎調査報告書」146−157p.
太田猛彦・高橋剛一郎(編) 「渓流妻帯砂防学」 東京大学出版会,246p.


※本資料は、第一回渓流保護シンポジウムの資料集をOCRで認識したものです。
  認識の誤りによる誤字等があるかも知れませんのでご了承ください。  (渓流保護ネットワーク 吉沢)