文責 岡田 真一
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Vol.1「2020年からの警鐘」に想う

平成9年11月 記

 日本経済新聞が「2020年からの警鐘」を連載しだしたのは、たしか、平成8年の元旦からであったと思う。

 この大キャンペーンが意味しているものは何であろうか。社会経済の現象面を具体的にとらまえ、これからの日本の在り方を提言しているが、その根底にある精神的な側面を見逃してはならない。

 すなわち、「平成の時代は大正時代にその同質性を見いだすことができる」という仮説である。

 この思想は、たとえば大前研一氏が唱える「平成維新」と比較すると興味深い。つまり、「平成維新」は平成の時代を明治に喩え、今後の日本の在り方を根本的な変革、あるいは意識の改革によって模索していこうとするもので、国際社会に通用する新しい日本の構築を意図しているが、そこにある意識は、時間を直線的にとらまえる思想であると思われる。

 一方、「2020年からの警鐘」は、平成に起こりつつある現象が大正時代に起こった事象に似通っていることから、大正から昭和初期にかけての辛い時期が想起され、時間は廻るもの(輪廻)という東洋的な考え方に至り、さらには、同じ過ちを犯してはならないという自戒的な発想に展開した上で、日本の政策転換の必要性を「警鐘」をもって明示するとともに、具体的な提言を行っているのである。

 ここで、大正から昭和初期にかけての主な事件を教科書から概略すると、次のとおりである。

 

大正3年〜大正7年  第一次世界大戦、その後の大戦景気

大正6年       ロシア革命

大正9年       戦後恐慌(大戦景気の反動)

大正12年       関東大震災

昭和2年       金融恐慌(震災手形処理を端とする)

昭和4年       世界恐慌

昭和5年       金解禁とそれに伴う昭和恐慌、翌年金輸出再禁止

昭和6年〜昭和8年  満州事変

昭和13年〜昭和20年 日華事変

昭和16年〜昭和20年 太平洋戦争

 

 いうまでもなく、現代を大正時代に単純に同一視することは危険が伴うものであり、「警鐘」もまたその本意ではないと思われるが、ここ数年を思い返せぱ、国内においてはバブル期の存在とその後の金融不安、阪神淡路大震災、また世界に目を向けると、湾岸戦争、北朝鮮の問題、ソビエト連邦の崩壊、それに伴う冷戦構造の崩壊とそれに伴う大量な失業等々、世界的にも激動していることが窺える。

 逆に、大正時代が現代から見れば高度化されていない時代であったと見る向きも好ましくない。例えば、昨今話題の不動産の証券化についても、有名な「民法講義」の著者である我妻栄氏が「近代法における債権の優越的地位」という著書の中で昭和初年にテーマとして掲げ、戦前に現代的課題であるといえる「資産の流動化」を既に研究していたとのことである。

 また、高橋亀吉、森垣淑両氏の共著である「昭和金融恐慌史」を見ても、バブル崩壊後の日本の選択に大きな現代的意義を与えているものと思われる。

 このように考えると、現代における地方分権論議は、大正における自由民権運動の延長線上にあり、是が非でも実現しなければならない時代の要請であるとの思いが浮かんでくる。国と地方の役割を明確に定め、地方が大幅な自由度を持ち、いわば「地方自治体 個性の時代」をもたらすことにより地域の活力を高め、市民本位を実現する必要があるのである。

 そのためには、大正、昭和、平成生まれが国民の大多数を占める現在において、「世代間の対話」を十分に行い、単に個人の自由のみを享受することなく、決して先人の助言を無為にせず、同じ過ちを犯さないように努めなければならないのである。


Vol.2 社会科学における客観性とは?


  「科学は客観的でなければならない」ということがよく言われる。しかし、私がここで主張したいことは、特に社会科学において、その客観性も結局は主観性に支配されているということである。いま仮に、知識体系が「客観的」性格を持つものであるとしても、その知識を体系づける実体が、いろいろな価値判断を行うことによって、現実に行為している人間であるということを忘れてはならない。したがって、「客観性」とは、個々の人間の人生観、世界観といったものに支配されているということができるのである。そしてこうした点に、社会が時間の流れにつれて変化してゆく理由を見いだすことができると言えるだろう。また、客観性という言葉自体も、個々の人間にイメージとしてあるだけで、人間の価値判断が個々に異なるという同じ理由で、絶対的な意味を持つものではない。それ故に、客観性とは何か、といった命題を「客観的」に解こうとする学問も存在するのである。このように考えてくると、「客観性」とは、「説得力のある」、「より多くの人に認められる」といったくらいにとらえるべきであるように思われる。また、それだけの意味で「論理的に矛盾がない」といってもよいだろう。

 ところで、私がこうした問題を考えようとした理由は、次の点にそのすべてがある。すなわち、現実の政策が、こうした「客観性」をもつ「理論」によって行われているという事実である。さらにこれを歴史的・社会変動といった観点から見ると、一つの政策が一つの「理論」から行われ、さらにその結果から、また新たな観点から「理論」として認識され、それに基づいて政策が行われるといった具合いに、現実の政策と理論が相互に影響を及ぼしあって変化してきたという過程を理解することができる。そして、そうした過程において前提となるのが、人間の価値判断、あるいは、イデオロギー、また人間の本性といったものである。

 このように考えてくると、経済学はもとより社会科学を学ぼうとするとき、次の二つのことが常に考えられなければならないことになる。一つは、人間の思想がどういうものであるか、ということに対する研究であり、今一つは、自らの世界観、人生観を広げるように、自分の思想、あるいは体系を自らの手で試すということである。そうしてはじめて、いろいろな価値判断からの自由を勝ちうることができるのである。

                                                                    


Vol.3 ミクロ経済学的論理の性格とその背景について

 

 ここで私が述べようとする事柄は次の二つである。一つは、ミクロ経済学的な論理体系の背景には、自然法哲学、加えて、功利主義的な思想があるということ、もう一つは、ミクロ経済学的な論理の中に現れてくる経済主体は、家計主体と企業主体であって、存在としての国家はあっても、経済主体としての国家主体は体系の中に組み入れられていないということである。これは、A.スミスのチープ・ガヴァメント論に加えて、功利主義的な思想が国家主体の経済分析を必要としなかったからであると考えられる。

 

 ところで、功利主義とは、人間をつねに快楽を追い、苦痛を退けようとする不変の性質をもつものとみなす功利主義的人間観から出発する。そして、一切の人間行動に対する道徳的判断の基準もここに求められ、その行為が幸福の増進に役だつ場合には、善として是認され、不幸を増す場合には悪として否定される。社会はそれを構成する個人の総和に他ならないから、社会の幸福を増大するためには、できるだけ多くの人々ができるだけ多くの幸福にあずかるようにすることが必要であり、このため、最大多数の最大幸福が功利主義の最高の目標となるのである。

 

 こうした功利哲学の思想は、明らかにミクロ経済学の分析に反映されているといえる。すなわち、その出発点において、家計主体、企業主体の行動原理として、それぞれ効用の極大化、あるいは利潤の極大化が理念化されているのである。しかし、ここで注意しなければならないことは、国家主体のより積極的な分析がなされていないということである。すなわち、経済主体としての国家主体の行動基準が明確に理念化されず、国家が政策を行う際には、現在では「民主主義の理念」といわれるものによって行われ、極論すれば、「家計主体」や「企業主体」にふりまわされているように思われる。そこで私は、国家を国家主体としてその行動基準を明確に理念化し、さらに政府の行動が経済にどういう影響を与えてゆくのかという分析を行わなければならない、というごく当り前な主張をしようと思う。しかし、このことを行う前に、国家主体が存在しなければならないという理由について次回に新ためて考えてみたい。




Vol.4 公共部門の存在理由について


 公共部門の存在理由は、まさに「市場の失敗」という概念によってすべてが言いつくされていると考えられる。市場の失敗を次の四つに分けて考えると、

(1) 資源や技術の不可分性.資源の移動性の欠如、製品差別化、情報や判断力の不足、不確実性といった「市場の不備」、加えて、費用逓減産業の問題
(2) 外部経済、外部不経済の存在といった「市場の欠陥」
(3) 公共財の存在といった「市場の欠如」
(4) 程度を越えた「市場機構の公平」によって生ずる不公平を是正するといった「市場の彼岸」

である。ここで、「市場機構の公平」とは、貢献に応じた分配を意味する。

 こうした市場の失敗という概念は、厚生経済学における問題意識から生れてきた。つまり、競争的市場の均衡状態が効率性とよばれる一つの望ましい性質を備えているという仮定に依拠して、そのような状態の実現を不可能にするような諸条件が存在するとき市場は失敗する、とみなす。そしてそのとき、経済政策の基準は、主として、効率性あるいはパレート最適性を回復するために市場の失敗をいかに補正すればよいか、という問題になるのである。

 ところで、こうした政策論で注意すべきことは、国家の任務として市場の失敗を補正すべきであるということをいっているだけで、国家における経済政策が何ら経済的な取引を行っていないと考えているような印象を受けるということである。もしこの推測が正しいならば、国家は都合のよい時に何ら経済に影響を与えないで市場を補正するといった現実を無視した政策論となってしまうと言えるだろう。そこで、現実の政策にマッチさせられる領域によって、新たに市場の失敗が吟味されなければならないのである。



Vol.5 国家主体の価値判断の理念化について

 いままで私は、国家主体の行動基準を明確にすべきであるということを強調してきた。その理由は、現在において「国家がすべきこと」についてより多くの見解があり、その中には、自分の利益のみを追求した主張を行っているという場合も見うけられる。しかし、こうした基準を明確にすることによって、国家がなすべきことは何かということがはっきりすることになる。こうする利点は、

(1) 国家の行動が自省的な見地から見なおされることになる
(2) 国家の行動が国民によって監視されることになる
(3) 自分の利益のみを追求した主張を牽制することができる

といった点があげられる。このように考えるならば、これらを達成するために意思決定過程の制度的な理解が真剣に行われなければならないことになる。そして、この過程が整備され、より多くの人々に自らの「集合的な欲求」を表明させることによって、家計間同志、あるいは企業と家計の間で調整を行わせることができるのである。

 ところで、この調整過程の際、おそらく、発展段階的な思考がとられることになるだろうと考えられる。人間の欲求には、集合的な欲求と個人的な欲求の二つがあると考えられる。ここで注意すべきことは、集合的な欲求とは、同じ欲求をもつ個人が集まってはじめて集合的な欲求になるということである。したがって、集合的な欲求と個人的な欲求は、同じ過程をへて供給されることはできないということは正しいといえるけれども、集合的な欲求から需要される財と個人的な欲求から需要される財を、はじめから区別して供給しなければならないということではないのである。

 そこで、国家主体の価値基準として、「社会的厚生の増大」とすることにする。この基準はありふれたものであるけれども、福祉を集合的な欲求、及び個人的な欲求の満足度と考え、国家はそれをより最適にするように行動すると考えている点で厚生経済学的な基準を一歩踏み込んだものであるように思える。こうした考え方は、功利主義の考え方に反するものではなく、またパレート最適を目ざそうとしたものであるといえるだろう。なぜならば、これは自らの欲求を満たそうとする行為から必要としてでた国家主体であり、できるだけ多くの満足度の集合を得ようとするものであるからである。



Vol.6 試論としての機能的国家観について

 一般に、機能、あるいは目標という言葉がよく同一のものとしていわれる。しかし、機能と目標は果して同一のものであるといえるだろうか。こうした問題意識は、単なる言葉遊びのように考えられがちであるけれども、この認識は、なんらかの政策が行われる際の争点において必ず考えられることになるであろうために、重大な意義があると考えられる。つまり、個々の政策立案者、あるいは決定者の政策に対する価値判断に深くかかわっているのである。もちろん、すべての人が、機能、あるいは目標の相異について明確に区別しているわけではない。しかし、そうした人々に対してこの問を行うことは、その人の政策のあり方に対する考え方を知る上で、非常なメリットがあると考えられる。

 そこで、機能と目標の相異はどこにあるのかということを考えてみると、機能というとき、それは政府の行為には次のような働きがあります、ということを単に明示しているにすぎないのに対して、目標というとき、機能という認識から一歩進んで、より積極的にこういう働きがあるから、それを目標として達成しましょう、という意味合いが含まれていると考えられる。すると、目標という立場に立つとき、次に問題となってくるのは、どのようにしてその目標を達成するか、という手段が選択される必要が生じ、さらには、どれだけその目標が達成されたのか、という成果を計る尺度が必要となってくるのである。このように機能と目標を区別すると、目標には多分に価値判断が盛り込まれているということができるだろう。

 例えば、従来から財政の目標として、(1)公共財の供給、(2)所得再分配、(3)経済安定、という三つがあげられてきた。こうした目標に対して、たとえば所得再分配においては、累進的な所得課税、あるいは移転支出といった方法で答えたのであり、また経済安定においては、たびかさなる世界恐慌の経験から、需要項目のうち政府による投資を増加することによって、乗数倍の所得を生み出すというケインズの理論のもとに、総需要を管理するという考え方が生まれ、その理論によって経済を安定させようとしたのである。しかし、最近になって、ケインズの政策の有効性について、いろいろな理論的立場から新ためて問われるようになってきている。現実にはアメリカにおいて、供給面に視点を置いた政策が望まれ、実行されているのである。こうした事実をどのようにとらえるべきであろうか。こうした問題に対しては、次のように答えることが最も妥当であると思われる。すなわち、先に、国家主体の価値判断は社会的厚生の増大をその基礎においている。そして、社会的厚生を増大させるために、公的欲求の充足が必要とされるのである。このように考えるならば、先の目標は、時代の流れの中で、社会的な欲求として政府に対して望まれてきたものであり、また政府はそれに対して答えてきたのである。

 そこで、財政の目標が公的な欲求の充足であったという認識に対して、財政の機能について考えてみると、それは(1)資源配分に影響を与える、(2)所得の分配状況に影響を与える、(3)経済指標に影響を与える、ということになる。ここで注意すべきことは、財政の機能というとき、財政活動がこのような働きをするとしか述べていないということである。つまり、認識のこの段階では、その国家が資本主義国家であろうが、社会主義国家であろうが、または福祉国家であろうが、全く無関係なものでしかないのである。こうした意味で、機能面を重視した国家観というものを考えることができるように思われる。



Vol.7 私的欲求と公的欲求について

 ここでの問題意識の主眼は、人間の欲求についての整理である。財・サービスの分類を行う際に、こうした整理が必要とされる理由は、財・サービスが需要される時には、その背後に、需要する主体の価値判断と、それからもたされるところの選好の体系が存在しているからに他ならない。

 そこで人間の欲求について大きく分類してみると、それは私的欲求と公的欲求とに分れる。さらに公的欲求は社会的欲求と価値欲求とに分れる。社会的欲求は社会成員個々人による集合的欲求であって、究極的には、社会成員の選好に一致するものであるといえる。こうした点においては、私的欲求となんら変わるところはない。しかし、私的欲求と社会的欲求の相異は、排除原則が適用されるか否かにある。私的欲求については、個人は自分の欲する財を市場で決定される価格を支払い、購入することによって充足することができるが、集合的な社会的欲求については、等量的に消費されるという特性をもつために、価格を支払わなくてもその欲求をある程度充足することが可能であり、極論すれば、自らの真の選好を表示する必要がないのである。しかし、実際においては、誰一人その選好を表示しないならば、財・サービスを享受することができないのであって、このような社会的欲求は政治的なプロセスを与える主体、すなわち国家主体の手によって選好を表示させ、費用を配分し、供給される必要が生じてくるのである。

 次に価値欲求については、市場を通じて充足可能であるけれども、社会成員がその貨幣を他のものに支出することを選択するために、市場を通じては満たされない欲求で、社会成員の行動を是正することにある。マスグレイヴによれば、価値欲求は次のような性格をもつと考えられている。すなわち、(1)公共財の性格をもちやすい、(2)教育的内容を含み、情報を所有する人々が彼等の意見を他人に押しつけることが正当視されうる、(3)市場を通じて消費者に与えられる情報は、しばしば不完全で歪められた選好を導きやすい、というものである。ところで、この考え方に批判を加えると、「歪められた選好」というとき、「正しい選好」というものの存在をすでに仮定していると考えられる。そして、歪められた選好から正しい選好へという比較静学的な思考をとっているように思われる。しかし実際には、一時点、一時点における選好はすべて正しいのであって、問題はその時点において選好が安定的であるか、あるいは不安定的であるか、といった点にあるのではないだろうか。



Vol.8 財・サービスの分類について

 財・サービスの分類を行うとき、先に述べた私的欲求と公的欲求とに分類することは非常に有益であるように思われる。ただ、いま単純に私的欲求による財を私的財、公的欲求による財を公共財と名づけたとしても、私的財については直観的に理解しうるが、公共財についてはまだ不詳明なままである。たしかに、公共財の定義として様々な視点からなされている。たとえは、サミュエルソンによる「等量消費」される財、あるいはブキャナンによる「結合供給」される財、といったものである。しかし、こうした公共財の定義づけは、それぞれの理論を展開する上のものであって、具体的には公共財とは何なのか、といった問題には答えていないように思われる。

 また、公共財の性質として、非競合性(特定の個人の消費が他の個人の消費と競合しないこと)、非排除性(誰かをその利用から排除するものではないこと)、の二つをあげ、そこから、(1)競合的で排除可能な財、(2)競合的で排除不可能な財、(3)非競合的で排除可能な財、(4)非競合的で排除不可能な財、といったように財・サービスを分類しているものもある。しかしこうした財・サービスの分類も、一般に公共財と呼ばれているものの性質を眺めて、同様であると考えられるものを拾い出し、それを他の「公共財的な財」に照らし合せて、それがいかなる性質をもつ財であるか、ということを判断しているのである。したがって、排除性、競合性といった性質から財の分類を試みようとするとき、それは単なる消極的な意味での分類にすぎないのであって、そこからはいかなる方法で供給されるべきであるかといった政策的な解答を導きだす有効な分類とはなりえていないように思われる。

 そこで、包括的に財・サービスを分類するために、もう一つの尺度として外部性という概念を持ち込むことが有益であるように思われる。外部性とは、ある経済主体の行動が他の経済主体に有利、あるいは不利な影響を与える性質のことである。こうした外部性という尺度と、私的欲求・公的欲求という分類を組み合せて、財・サービスの整理を行うと図1のようになる。

 ところで、こうした財・サービスの分類は便宜上のものではあるが、図1は、次に述べる欲求内・欲求間における調整、さらには社会的厚生を増大する上でそれを明確にするというメリットがあると考えられる。こうした認識が必要な理由は、たとえば軍備費について考えてみると、通常これは純粋社会財の部類に入れられているが、しかし実際その通りであると言い切れないところにある。もちろん、これは単純に軍備に対する支出を否定しているのではなく、ただ本当に社会的欲求から要求されたものであるのか、といったようなことを正した上で供給される必要があると考えられるからである。

               欲求と外部性による公共財の分類(図1)



 そこで、社会的欲求と価値欲求について、新ためてここで再定義を行ってみることにする。すなわち、社会的欲求とは、企業あるいは家計という主体の価値判断に基づく集合的な欲求であり、価値欲求とは、国、都道府県、市町村といった政府関係の主体の価値判断に基づく欲求であるとする。こうした再定義を行う理由は、公的欲求の充足においては政治過程が不可欠であって、主体間の契約・調整といった問題を取り扱わなければならないからである。政治過程というものは、同様の欲求をもつ主体が一つのグループを作るなり、あるいは組織を作るなりして自らの欲求を充足するために、他の組織と調整を行ってゆく過程である。こうした過程をより正確に把握するためには、その欲求をもつ主体がどのような価値判断に基づいているものであるかを明らかにしなければならないのである。こうした公的欲求の定義づけは、先の説明とは少し異なるものであるように思われる。先の説明では、価値欲求は消費者の選好を矯正しようとする価値からもたらされる欲求であったが、ここでは、単に国家主体という一つの組織の価値判断からもたらされる欲求としてしかとらえていない。そしてさらに、国家主体の中にも、いろいろな価値欲求が存在することを認めているのである。



Vol.9 社会的厚生の増大過程について

 厚生の増大という規範から経済学を体系づけたのは厚生経済学である。そこで、社会的厚生の増大過程を述べる前に、その対比として厚生経済学の流れについて触れてみたい。

 厚生経済学を最初に体系づけたのはピグーである。ピグーは考察の対象として貨幣という尺度と直接または間接に関連づけられる部分である経済的厚生を取り上げ、その指標として国民所得を考えた。その両者の関係は次のような厚生命題に要約される。すなわち、

(1) 国民所得の規模の増大は経済的厚生を増す
(2) 国民所得のうち貧者に帰する割合の増加は経済的厚生を増す
(3) 国民所得の年々の大きさと貧者に帰する所得分の変動の減少は経済的厚生を増す

である。

 第一命題については、国民所得の極大化条件として、限界生産物の均等をあげ、さらに外部効果が存在する場合には、社会的価値が私的なそれを越える産業には補助金を与えてその生産を刺激し、その逆の場合には課税によって生産を制限するという政築提言を行った。次に第二命題については、個人効用が同質であり、また可測的であるということを前提にした上で、限界効用逓減の法則から富者から貧者への所得移転が、弱い欲望の充足を犠牲にして強い欲望の充足を可能にし、経済的厚生を増すということを主張したのである。

 こうしたピグーの効用の可測性の前提を避けて厚生経済学を再建しようとしたのが、新厚生経済学、あるいはパレート派厚生経済学である。これは分配に代わって交換を重視し、生産、交換に関する最適条件を定式化し、経済状態の変化によって生じる資源配分の効率化と分配変化の二つの効果を分離し、後者に対する価値判断を退けるために仮想的な補償を適用し、それによって前者に対する最適条件のみを追求しようとしたのである。

 こうした二つの流れについてその意義づけを行うと、厚生経済学については、新厚生経済学の立場からなされた効用の可測性についての批判は、たしかに論理的には正しいということができるかもしれない。しかし当時の社会状況を考えると、労働者階級の自覚が高まり、社会的要求として、所得の再分配を行い国民所得に対する労働の分け前をより増大せしめよ、というものがあった。だからこそピグーは現代においては効率と公平のトレード・オフといった問題としてとらえられる不調和の問題についての分析をさらに進めていったのである。このように考えると、効用の可測性というのは、あくまでも分析上の仮定であったにすぎず、その理論はきわめて実践的なものであったといえる。逆にいえば、新厚生経済学は、科学としての経済学を構築するという意味では、論理的な正しさを得ていたといえるが、それはあくまでも制約における中での効率的な状態についての記述にすぎないのであって、そうした点はサミュエルソンの公共財の理論におけるパレート最適条件に見られる。したがって新厚生経済学の分析には、均衡条件に達するまでの過程が考えられていないといえるだろう。

 ここで、このような均衡状態に至るまでの社会的厚生の増大過程を考えることができないだろうか、ということがテーマであった。このように考えると、それに答える哲学として、ロールズの正義論における方法論が有効であると思われる。そこで、次にロールズの正義論について述べることにしたい。

「ロールズ正義論の哲学的意義」(藤川吉美、思想1982)によれば、ロールズの意図として、

(1) 社会の基礎構造を決定し、価値体系の基本概念として正及び善の概念を派生させる普遍的な正義原理の内省的均衡による模索的選択を行う
(2) そこで選択された正義原理が一定の条件を満足する原初状態において万人の合意をとりつけるに十分な正当化の合理的根拠を有する、ということを哲学的に立証する
(3) そうした正義原理の社会的機能調整原理としての意義、及び従来の功利主義や直観主義との対比による社会的効果の特徴づけ

があげられている。

 こうした意図を達成するために、ロールズは「原初状態」という概念を持ち込むのである。そして、方法論における「原初状態」においては、「無知のヴェール」というものに支配されているとする。ここで「無知のヴェール」が意味することは、誰一人として社会における自分の地位、自分の属する階級、及び社会的身分等を知らず、また誰一人として自然的資産、能力、知性、体力等の分配における自分の運、不運を知らないばかりか、さらに当事者たちは自己の抱いている善概念も自己の特殊な心理的傾向も知らないということである。こうした状態を仮定することによって、意思決定における合理性とそうした状態において選択された正義原理の普遍性を保証しようとするのである。ところでこうした状態で正義原理が選択されるとき、ロールズは内省的均衡状態という理性による試行錯誤的な内省の結果として心理的な均衡状態を考えている。そして、こういった方法を用いた自己の内省的均衡の結果として、一つの正義原理を提案しているのである。

 こうした内省的均衡状態という概念は、現実の社会的厚生の増大における調整過程において大きな役割を果たすと考えられる。いかなる主体においてもその欲求をもつ限り、それから行われる行為はその主体にとっては正しいのであり、また均衡的であるということができる。また、こうした調整が効率的な状態を達成しうるか、という問題について考えてみなければならない。ここで効率について考えてみると、これはいろいろなところで使われるあいまいな概念であるが、大別して次の二つに分けて考えてみるとよいように思われる。

 すなわち、一つは状態に関する効率であり、いま一つは行為に関する効率である。いうまでもなく経済学がいうところの均衡とは、状態に関する効率である。そしてその効率の背景には、均衡状態へいたる過程については、消費者、生産者はミクロ経済学が考えている範囲で合理的に行動するという仮定によって、行為に関する効率を前提していたのである。したがって、現実における行為に関する効率は無視されていたといえる。しかし現実には、行為を行う際にもより効率的な状態が生れるであろうというような期待を含んだ効率的な行為がなされているのである。そして、そうした思惑がぶつかりあい調整されて、一つの合意された状態が達成されているといえる。

 ここで、パレートが経済学者であっただけでなく、社会学者でもあったという事実に注目したい。つまり、いま仮に社会に二人しかいないとすれば、一万が最も欲しいものを得るために最も欲しくないものを他方に与え、他方は与えられた最も欲しくないものが最も欲しいものであり、代償として与えるものが最も欲しくないものであったとすれば、その行為は最大限に効率的な行為であり、そうやって得られた状態は非常に安定的な均衡であるといえるのである。こうした考えをさらにおし進めれば、現実の社会において調整された合意についての安定性について論じることができるように思われる。



Vol.10  第15回自治体学会 北海道函館大会(2001.8.24)に参加して
セミナー3「地域経営の新展開−自治体財政と市民経済の未来−」
分 科 会8「自己決定と自己責任の地方財政」

 平成13年4月に、国民の圧倒的な支持を得て、聖域なき構造改革を目指した小泉内閣が発足した。

 その理論的な背景は、概ね古典的な経済学に基づく「小さな政府」論であり、いわゆるグローバルスタンダードの名のもとに、レーガノミックス的な政策運営を志向している。具体的には、減税により民間の活力を促進するとともに、規制緩和により機会の平等や選択の自由を与えることにより、自己責任の原則を求めようとするものである。こうした社会においては、勝者と敗者とに格差が生じ、特にデフレ不況に喘ぐ現下にあっては、まさに失業率の増加や雇用不安といった痛みを伴うものである。

 一方で、総需要管理政策に見られる財政出動による景気対策は、国及び地方あわせて666兆円にものぼる債権残高にもかかわらず、その実効性を発揮することができなかったことは衆知の事実である。まさしく国債は子孫に後年度負担を求めるものであることから、これ以上の国債発行は、今日の社会を支えるための原資を少子化が進む現状において子孫に転嫁していることになり、世代間の公平を損なうものであるといえる。

 小泉内閣の圧倒的な支持の背景には、こうした社会全体の総意として将来に対する危機感が根底にあると考えることも可能である。このことは、「現時点で社会を支えている世代は、親世代よりも幸福であると感じているが、子の世代には悪くなると思う」といった世論調査の結果が紹介されていることに示されていると思われる。

 このたびの第15回自治体学会において、セミナー3「地域経営の新展開−自治体財政と市民経済の未来−」と分科会8「自己決定と自己責任の地方財政」を選択した理由の一つには、財政学の第一人者であり、古典派経済学を拠りどころにした自由主義的な政策運営やケインズ的政策運営とは一線を画したセーフティネットの再構築による「第3の道」を標榜し、地方分権推進委員会の委員として最終報告のとりまとめに参画された神野東京大学経済学部教授の現時点でのお考えを拝聴することにあった。

 明らかに、神野教授が標榜しているセーフティネットの再構築とは、財政学的な見地から、社会的公正に基づいたあらたな社会契約的な発想から社会制度を再構築する必要性を訴えるものであるのに対し、小泉内閣における雇用のセーフティネットは構造改革によってもたらされるであろう失業や雇用不安に対する措置としてのセーフティネットであり、構造改革に伴う雇用対策と言い換えうるものである。

 今回のセミナー等においても、6月に提出された地方分権推進委員会の最終報告と経済財政諮問会議の基本方針の相違について財政調整制度を具体例として明確に示され、財政学者の立場から地方団体の自律的な営みに対して示唆に富む助言をいただいた。たとえば、行政が財政的な見地から行うべきことを端的に示されたことやニーズと欲望との相違とそれぞれの供給方法のあり方といった点であり、あくまでもその相違は住民が選択するものであるといった捉え方は、地方分権推進委員会のスタンスが税財政論議に対して中立であるという立場にも見られるように、一貫して社会的公正あるいは社会契約に通ずる考え方が根底にあるものと考えられる。

 また、「国連の調査によれば、租税負担率が高い国ほどこの国に生まれてよかったと考えているという結果が報告されている」ことを敢えて発言しているその真意は、今後、現在の構造改革路線における政策を実現していこうとする政治過程において、国民自体が十分に認識し、選択しなければならない事項であることが次第に明らかになってくるであろうということを言外に含むところにあると思われる。

 こうしたスタンスは、地方公共団体における自律的な営みにおいても、歳出規模と地方税収入の乖離を縮小するために地方税の充実確保を図るプロセスや財政面における自己決定・自己責任の拡充や受益と負担の対応関係を明確にするという観点から、国と地方の役割分担を常に意識しながら、中長期的に、国と地方の税源配分のあり方を検討した上で、税源の偏在性が少なく、税収の安定性を備えた地方税体系を構築していくプロセスが必要であるという方向性を示したものであるといえるだろう。

 特に、分科会では、岩手県ほか8県における共同研究の成果として、「行政コスト計算書作成の考え方について」や「地方公共団体の発生主義会計に基づく「財務諸表の体系」について」が紹介されたが、私自身、自主税財源の確保を行う過程においては、今後において受益と負担のあり方を探る具体的な方策を見出さなければならないと考えていたところであったので、非常に興味深く有意義な時間を過ごすことができた。

 ただ、神野教授のコメントにおいて、「行政が他の主体とは異なる原理によって経営されるべきものである」ということは理解できたものの「バランスシートが有益ではない」との発言に対して、質問する機会を逸したことが非常に心残りである。今後、岩手県ほか8県の共同研究の報告書を精読する際に、その答えを見出せればと考えている。

平成13年9月2日