能舞台 
能が成立した頃は、神社や寺院の拝殿や屋外の仮設舞台などで演じられていた。
その頃の能舞台は基本的に屋外にあり、舞台を取り囲む、または向かい合う位置に作られた別棟の建物から庭を隔てて観る形が一般的だった。屋根や白州などは昔の名残をとどめたものである。
現在のような整った舞台になったのは室町末期からで、江戸時代には能の幕府式楽化に伴い、舞台の規格が統一されるようになる。
明治時代に入ると幕府の保護を失い、正式の屋外舞台は無くなったが、演者の家にあった稽古舞台を利用して公演が行われるようになり、大正、昭和になって客席や整備が整えられ、屋外能舞台の名残を建物の中に取り入れられた現在のような舞台へ統一されていく。
能舞台の床下や橋掛がりの下に、大きな甕(かめ)を据える場合があり、足で踏む拍子の響きをよくするばかりではなく、笛や太鼓といった囃子の音、謡の声にも影響するといわれている。(国立能楽堂の舞台には無い)





鏡板(かがみいた)
  老松が描かれている正面奥にある羽目板。奈良の春日大社の影向(ようごう)の松と呼ばれていた実在する松を模したものが始まりと言われている。
屋根(やね
  能舞台が屋外にあった頃の名残で、鏡板と合わせて反響板の役目も果たす。
切戸口(きりどぐち)
  切戸口は、横板右側の奥にあけた小さな出入り口で、引き戸になっている。高さが1メートル弱なので、身をこごめて出入りする。
切戸口を入ったところは、舞台より一段低い板の間になっている単なる控えの間で、鏡ノ間のように特別の使い方はしない。壁面には若竹の絵が描かれている。
貴人口(きじんぐち)
  地謡座の突き当たりにある開き戸の出入り口。最近の能舞台では、外見は同じでも開けられない造りにしたものもある。貴人口という名称は、切リ戸口のように頭を下げなくても通れるところから、貴人の出入り口という意味でつけられた。
白州(しらす)
  能舞台が屋外にあった時代の名残で、庭に白い小石を敷く事で自然光を舞台に反射させる効果があった。
白州梯子(しらすきざはし)
  江戸時代まで、能の催しの責任者である寺社奉行がこの梯子から舞台に上がって「お能初めませい」と開始を命じたり、役者にご褒美を授ける時に使用されていた。
舞台上からは両端の上部が少し見えるため、演者が正面中央を計る目安にも使われる。
地謡座(じうたいざ)
  地謡方が座る位置。狂言の地謡は囃子方の後方に座る。
通常は二列八人が座る。
後座(あとざ)
  囃子方や後見が座る位置。
本舞台が縦板であるのに対し、後座の床板は横張に張られていることから「横板」とも呼ばれる。
(はしら)
 

本舞台の四隅には柱があって、角(すみ)柱、ワキ柱、シテ柱、笛柱と呼ばれる。能面をつけたシテは極端に視野が狭くなっているので、柱は大事な目印になる。
特に角柱は、シテの目印という意味で、「目付(めつけ)柱」と呼ばれてる。
柱の太さは25ないし30センチメートル角が標準とされている。
柱の存在によって、舞台全体の立体感が保たれる。
横板の奥の左右の柱は、横板の上に本舞台から流れ出している庇の軒を支えている。
鏡板はこの柱の間にはめこまれている。
橋掛リの左右の柱は、橋掛リの屋根を支える。
幕口の柱と、横板に接する部分の柱は、本舞台の柱よりやや細くなっている。

橋掛り(はしがかり)
 

演者が出入りする通路であるとともに、舞台の延長として重要な演技空間。
長さ、幅、角度は能楽堂によって異なる。
国立能楽堂の場合は、幅、角度などは江戸城にあったものに習っており、13.5mで他の能舞台より長めである。
床面は、摺り足による歩みや舞の演技に適するように、滑らかに削った檜の厚板を用いて弾力をもたせて作られている。

(まつ)
  橋掛りでの演技の目安となる。舞台右から一ノ松、二ノ松、三ノ松と呼ばれ、順に小さくなっており、遠近感の効果を出している。
揚幕(あげまく)
 

橋掛りの幕口に下げられた五色の幕(右から紫、白、朱、黄、緑)。
この五つの色は古代中国で体系化された五行思想の五正色(青、赤、黄、白、黒)に由来。
鮮やかな表地とは対照的に、裏地には白一色の布が縫い付けられている。
また、裏側の両端には二本の竹が取り付けられており、縁者の出入りに際し、二人の後見がこの竹竿を使って上げ下げする。

鏡ノ間(かがみのま)
  揚幕で仕切られた奥にあり、シテが面を掛け装束を調えたり、囃子方が演能の直前に「お調べ」を奏でたりする場所。装束を着けた演者が鏡に向かって精神を集中し、面をかけて登場を待つ場所。