御祭神

坂本龍馬之命
(さかもとりょうまのみこと)

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  坂本 龍馬 之命

天保6年11月15日(陽暦1836年1月3日)~慶応3年11月15日(陽暦1867年12月10日)

土佐藩郷士・坂本八平の次男。母は幸、兄は権平、姉は千鶴、栄、乙女。

諱は直陰のち直柔(なおなり)。龍馬は通称。他に才谷梅太郎などの変名がある。

幕末の日本の政治家・実業家。土佐藩脱藩後、貿易会社と政治組織を兼ねた亀山社中・海援隊の結成、薩長連合の斡旋、大政奉還の成立に尽力するなど、志士として活動した。贈官位、正四位。
司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の主人公とされて以来、国民的人気を誇る。
通称の「龍馬」は慣用音(「広辞苑」第5版)では「りゅうま」だが、漢音は「りょうま」で、同時代人の日記や書簡に「良馬」の当て字で記されていることもあり、また龍馬自身も書簡の中で「りよふ」と自署していることもあるため、「りょうま」と読まれていたことは間違いない。
「竜」は「龍」の異体字(「竜」は「龍」の古体字)で「竜馬」は誤り(龍馬は「竜」の字を使ったことがない)だが、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」以来、広く慣用化されている。 司馬遼太郎自身は史実の「坂本龍馬」と区別するためこの字を使ったとされる。

明治期の龍馬の再評価

明治16年(西暦1883年)、高知の『土陽新聞』に坂崎紫瀾が書いた『汗血千里の駒(かんけつせんりのこま)』が掲載され、改めて龍馬の評価が見直される事となった。また日露戦争時の逸話には、日本海海戦の直前龍馬命が皇后の夢枕に立ち、「日本海軍は絶対勝てます」と語ったという。皇后はこの人物を知らなかったが、宮内大臣の田中光顕(元陸援隊幹部)が龍馬の写真を見せたところ、間違いなくこの人物だということになったと云う伝承が残っている。真偽のほどは定かではないが、この話が全国紙に掲載されたがために、全国的に龍馬の再評価が為されることとなった。

その他

京都国立博物館には数箇所の血痕が残る掛け軸が所蔵されている。それは淡海槐堂が暗殺当日に誕生日祝いとして贈った「梅椿図」という作品である。付着した血痕は暗殺された龍馬らのものとされている。
小説「竜馬がゆく」でも描かれているように、暗殺された時の状況から剣術の腕は相当なものだったと推測できる。龍馬は刺客からの「不意」をつかれた「突然」の攻撃から、二の太刀目で身をひねって刀に手を伸ばし、三の太刀目には鞘で受け止めるまで防御の体制を取っている。

逸話

 龍馬の人生・人格形成において多大な影響を与えていったのは、父・八平の後妻である伊興の実家下田屋(川島家)といわれている。龍馬は姉である乙女とともに浦戸湾を船で漕ぎ、当時土佐藩御船蔵のあった種崎にある継母伊興の家をたびたび訪れては、長崎や下関からの珍しい土産話などを聞いたとされる。また、世界地図や数々の輸入品を見て外の世界への憧れを高めたともいわれている。
 当時土佐藩士の間では長刀をさすことが流行していた。あるとき旧友が龍馬公と再会したとき、龍馬公は短めの刀を差していた。そのことを指摘したところ「実戦では短い刀のほうが取り回しがよい」と言われ、納得した旧友は短い刀を差すようにした。次に再会したとき、旧友が勇んで刀を見せたところ龍馬は懐から拳銃を出し「銃の前には刀なんて役にたたない」と言われた。納得した旧友はさっそく拳銃を買い求めた。三度再会したとき、旧友が購入した拳銃を見せたところ龍馬公は万国公法(国際法)の洋書を取り出し「これからは世界を知らなければならない」といわれた。もはや旧友はついていけなかったという。 -- これは龍馬の性格を鮮やかに描写しているものの、あくまで逸話であって史実ではないと云われている。
 寺田屋事件直後にお龍と結婚した龍馬は、同事件での傷をいやすことも兼ねてお龍を伴って薩摩に滞在した。これを指して日本で初めての新婚旅行と云われている。
 龍馬が愛用した拳銃は2丁ある。ひとつは高杉晋作から贈呈されたS&Wモデル2アーミー 33口径で、寺田屋事件の際に火を噴いたのはこの銃であった。しかし同事件の際に紛失し後に買い求めたのがS&Wモデル1 22口径で、これは妻・お龍とともに1丁ずつ所持し薩摩滞在時はこれで狩猟などを楽しんだという。当然この銃は暗殺時も携帯していたが発砲することなく殺害されている。
 幼少の頃、水練(水泳)に出かける途中、友人に「こんな雨で泳ぐのか」と問われたが、「濡れるのに雨も関係あるか」とそのまま川に行ったという。
 身長6尺(約182cm。近年の研究では174cmというものもあり)と江戸時代の当時としてはかなりな大男であったとされる。
 背中に黒毛が生えていた。
 少年時は寝小便タレで、泣き虫。勉強についていけず塾を退塾になった。
(いじめに遭い抜刀騒ぎを起こして退塾させられてしまったといわれているが、これも諸説ありはっきりした退塾理由はわかっていない)
 武市半平太とは「アギ(あご)」「アザ(痣)」とあだ名で呼び合う仲だった。
 姉・幸の夫の家によく遊びに行き、屋根に上って太平洋を眺めていた。

同時代の龍馬公評 

○ 板垣退助 「豪放磊落、到底吏人たるべからず、龍馬もし不惑の寿を得たらんには、恐らく薩摩の五代才助、土佐の岩崎弥太郎たるべけん」と、とその早死を惜しんだ。桂浜には、板垣・土方久元らによる「坂本龍馬先生彰勲碑」があり撰文は板垣が揮毫している。
「板垣の今日あるは偏に坂本先生の御陰様で御座います」
○ 平井収二郎 「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」(龍馬脱藩後)
○ 武市半平太 「土佐一国にはあだたぬ奴」(龍馬脱藩後)
「肝胆もとより雄大、奇機おのずから湧出し、 飛潜だれか識るあらん、ひとえに龍名 に恥じず」(獄中で)
○ 中岡慎太郎 「龍馬君は、さすが才子なり」
○ 池元徳次 「龍馬さんは、さいさい篠原街道を舟入川に沿うて東の方へ行きよった。肩を傾けて風を切るように意気揚々と歩く人じゃったが、道ばたで子どもがおるのを見かけると傍へ寄っていって頭をなでたり『早よう太うなりよ』と声をかけたりしてかわいがった。そんで子どもらあは龍馬さんを慕うて、もぶりつきよった。才谷屋は高須、新木に領地があったからか、袋などをぶら下げて、あの辺りをよう歩きよった。龍馬さんはその時分、五台山におったことがあるしのう。あしはそのころ山仕事もしよったきに五台山の山へもよう出かけたが山の中の一軒の家で龍馬さんは一人で、よう読書をしよったのう。あしは行きし戻りしによう見たもんじゃった」
○ 井上良馨 「丈高く、黙々多く語らず、なんとなく人に敬慕されるようなところがあった」
○ 田中光顕 「(龍馬の写真を見て)あれはよくできすぎちょる。ほんとは色が黒うてのう。背丈は大がらで五尺七寸くらい。あんな好男子じゃなかった」
「闊達磊落な男で、長州で言えば高杉晋作の型に似てる」
「(龍馬がお龍を連れて出歩くことに対し)これにはどうにも驚かされた。男女同行はこの頃はやるが、龍馬は維新前石火刀杖の間において平気でこういう狂態を演じていた。そういうところは高杉とそっくりである」
「あまり人には見せなかったが、裸になると背中は真黒だ。そのうえ黒毛がさんさんとして生えていたのは珍しい。『龍馬のいわれがわかったか』彼はそう言ったものだがなるほど、この背中を見ると龍馬の名にふさわしかった」
○ 千葉佐那 「土佐の坂本さんが私の家に入門してきたのは嘉永六年四月で、坂本さんは十九歳、私は十六歳の乙女でした。坂本さんは翌年六月には帰国し、安政三年八月に再び私の道場に参り、修行に打ち込んでおりました。さらに一年滞在延長の許可を得たとかで、引き続いて道場に滞在し、父は坂本さんを塾頭に任じ、翌五年一月には北辰一刀流目録を与えましたが、坂本さんは目録の中に私たち三姉妹の名を書き込むよう頼んでおりました。父は『例の無いことだ』と言いながら、満更でもなさそうに三姉妹の名を書き込み、坂本さんに与えました。坂本さんは二十四歳、私は二十一歳となり、坂本さんは入門した時からずいぶん大人っぽくなり、たくましい青年になっておりました。私も二十一歳ぽつぽつ縁談の話もありましたが、私は坂本さんにひかれ、坂本さんも私を思っていたと思いますし父も『坂本ならば』と高知の坂本家に手紙を出したようでした。(中略)私は心を定めて良い縁談をも断り、唯ひたすら坂本さんを待ちましたが、忘れもしない慶応三年十二月、三十一歳になっていた私は坂本さんが十一月十五日京都で暗殺されたことを知らされました」
○ 土居楠五郎 「道場へ来て龍馬は心機一変、おねしょも泣き虫も一ぺんに飛んでしもうた。朝は真っ先に夕べは最後まで、飯を食わんでも剣道の稽古一筋。愉快でたまらん、面白うてたまらん、そんな気持ちでなんぼでもやる。『坂本、もうよかろう』と言うと『先生もう一本、もう一本』といくらでもうってかかる。(中略)そこで体当たりをやると、体は大きいが若いのでぶっ倒れる。すると跳ね起きてまたかかってくる。襟首をつかんで前に引き倒すと腹ばいに延びる。それでもすぐ起きてまたかかってくる。この根性にはすっかり感心した。一度道場内の試合、龍馬が勝ち放し。二つも三つも年上のものを。この時は祖父も師匠達もびっくり。弟子達もびっくり。龍馬自身もびっくりということだった」
○ 徳富一敬 「坂本は白の琉球絣の単衣に鍔細の大小を差し、色の真っ黒い大男で至ってゆったりと物を言う人であった」
○ 今井信郎 「土佐は恐るるに足らぬが一人の坂本が恐ろしかりき」
○ 東久世通禧 「龍馬面会、偉人なり。奇説家なり」(薩長同盟直前)
○ 勝海舟 「聞く薩、長と結びたりと云。又聞く坂本龍馬、長に行きて是等の扱を成す歟と。左も可有と思はる」(薩長同盟後、海舟の日記)
「坂本龍馬、彼はおれを殺しに来た奴だが、なかなか人物さ。その時おれは笑って受けたが、沈着いて、なんとなく冒しがたい威権があってよい男だったよ」(維新後)
(土佐が大政奉還を建白したのは大勢を洞察した卓見か、ただその場の小策に出たためかと問われ)「あれは坂本がいたからのこと、土佐はいつも筒井順慶で伏見の時も、全くの日和見をしていた」
「土佐では(人物と言えば)坂本龍馬と岩崎弥太郎の二人だった」
(龍馬が西郷を大きな釣鐘に例え評したことについて)「評する人も評する人、評さるる人も評さるる人」
(同じく龍馬の西郷評について)「余、深く此言に感じ実に知言となせり。およそ人を見るの標準は自家の識慮に在り。氏が西郷を評するの語をもって氏が人物を知るに足らむ。龍馬氏が一世の事業の如きは既に世の伝承する所、今敢えて賞せず。」
○ 勝逸子 「小曾根にいたころ坂本龍馬が『お嬢さん、お嬢さん』とよく抱いてくれました。龍馬は首をふる癖があり、胸毛が濃かった」
○ 西郷隆盛 「天下に有志あり、余多く之と交わる。然れども度量の大、龍馬に如くもの、未だかつて之を見ず。龍馬の度量や到底測るべからず」。
「直柔(龍馬)は真に天下の英傑なり」
○ 土方久元 「維新の豪傑としては、余は西郷、高杉、坂本の三士を挙ぐべし。三士共に其の言行頗る意表に出で、時として大いに馬鹿らしき事を演じたれど、又実に非凡の思想を有し、之を断行し得たりし」
○ 岡内重俊 「藩商高知より来る。人物最も狡猾なり。余之を龍馬に告げたるに、龍馬平然として『商人の狡猾なるは当然なり。狡猾ならずんば利を得る能わず』と答え、余をして辞に窮せしめたり」
○ 三吉慎蔵 「過激なることは毫も無し。かつ声高に事を論ずる様のこともなく、至極おとなしき人なり。容貌を一見すれば豪気に見受けらるるも、万事温和に事を処する人なり。但し胆力が極めて大なり」
○ 関義臣 「坂本は単に志士論客をもって見るべき人物ではない。また頗る経済的手腕に富み、百方金策に従事し、資本を募集して汽船帆船を買い求め、航海術を実地に演習のかたわら、他の商人の荷物を運搬し、その資金によって、ほぼ同志の生活費を産出することが出来た。全く龍馬は才物である」
「龍馬の風采は躯幹五尺八寸に達し、デップリと肥って筋肉逞しく、顔色鉄の如く、額広く、始終衣服の裾をダラリと開けて胸を露して居た。(中略)何しろ顔に黒子が多く、眼光爛々として人を射、随分恐い顔つきじゃった。平生は極めて無口じゃが、真に卓励風発の概があった。その部下を御すること頗る厳正で(中略)その威厳はあたかも大諸侯の如き観があった。そうかと思うと隊士などを率いて玉川、花月などへ登楼し、平生の無口に似合わず、盛んに流行歌など唄う。(中略)龍馬は顔に似合わぬ、朗々、玉を転ばすような可愛い声で『障子開ければ、紅葉の座敷・・・』と、例のヨイショ節を能く唄った。よさこい節はその本場だけに却々、旨いもんじゃった。(中略)龍馬は小事に齷齪せず、一切辺幅を飾らず、人との交際は頗る温厚、厭味と云うもの一点もなく、婦人も馴れ、童子と親しむ。相手の話を黙って聞き『否』とも『応』とも何とも言わず、散々人に饒舌らして置いて、後に『さて拙者の説は』と諄々と説き出し、縷々数百千言、時々滑稽を交え、自ら呵々として大笑する。誠に天真の愛嬌であった。国を出づる時に父母より訓戒の辞を書して与えられたのを丁寧に紙に包み、上に『守』の一字を書き加え、袋に入れて常に懐中にしたなどは豪宕にして、而も赤子の如く愛すべき所があった」
○ 高松太郎 「直柔、容貌温厚、言語低静にして志気卓犖英気なり。武技を喜くし、好んで史書を読む」
「資性豪宕、不羈小節に拘わらず。嘗て読書を好み、和漢の史子を渉漁す」
「我輩はハシゴをしても及ばず」
○ 日原素平 「坂本先生は真に気柔かに、夫人のみならず何人にも親切であった」
○ 広瀬丹吉 「坂本先生はまことに天衣無縫で無頓着の人でありました。ボーと大きなことを言うかと思うと小さいことにも存外気が届いておった」
○ 安田たまき 「龍馬さんは六尺豊かな大男で優男のように世情では伝えられていますが、背丈は中位で色も黒く、決してトント(美少年)の方ではありませんでした。髪は当時の若い侍の間に流行していた結い方とは違って、たしか総髪で、それが激しい撃剣修行のため縮れ上がっていました。刀はいつも短いのを、落し差しにしていましてちょっと見には差しているやら、いないやら判らぬ位でし、肩も撫で肩で、左肩が少し上がっていました。当時の若者の気風とは何処か違う所があってエラたがらず、威張らず、穏和しい人で、それでいて見識の高い人でした。龍馬さんが京都で殺されてから思い出したことですが或日のこと、道場から帰ったわたしの兄が母に向かって『きょう初めて見たが龍馬の左腕には五寸廻りもある大きなアザがある』と語ったが母はこれを聞くと『可愛そうに龍馬さんもそれでは剣難の相がある』と言って、その後母は非常にその事を心配していました果して龍馬さんは人手に倒れました。(中略)銅像の写真を見ましたが顔の工合といい、眉や刀の差し工合といい本人そっくりです」
○ 楢崎龍 (お龍)「(龍馬伝の挿絵を見て)この顔は大分似て居ます。頬も、も少し痩せて目は少し角が立って居ました。眉の上には大きな痣があって、その外にも黒子がポツポツあるので写真は綺麗に撮れんのですよ。背にも黒毛が一杯生えて居まして、何時も石鹸で洗うのでした。長州の伊藤助太夫の家内が坂本さんは、ふだんきたない風をして居った顔付も恐ろしい様なんだったが、此間は顔も綺麗に肥え大変立派になって入らっしゃった。きっと死花が咲いたのでしょう、間もなく没くなられたと云いました。これはのちの話です」
「龍馬は、それはそれは妙な男でした。丸で人さんとは一風違って居たのです。少しでも間違った事はどこまでも本を糺さねば承知せず、明白にあやまりさえすれば直にゆるして呉れまして、此の後は斯く斯くせねばならぬぞと、丁寧に教えて呉れました。衣服なども余り綺麗にすると気嫌が悪いので、自分も垢づいた物ばかり着て居りました。一日縦縞の単物をきて出て、戻りには白飛白の立派なのを着て来ましたから、誰れのと問うたら、己れの単衣を誰か取って行ったから、おれは西郷から此の衣物を貰って来たと云いました」
「龍馬の酒量は量り兼ねる」
「龍馬は詩を作らなかったのです」
「坂本はハキハキしたことが好きで、私がどんなことをしたって決して叱るようなことはなかったのです」
「龍馬・中岡が河原町で殺されたと聞き、西郷は怒髪天を衝くの形相凄まじく、後藤を捕えて『おい後藤、貴様が苦情を言わずに土佐屋敷へ入れて置いたら、こむな事にならないのだ。全体土佐の奴等は薄情でいかん』と怒鳴りつけられて後藤は苦い顔をし『いや、苦情を云った訳ではない。実はそこにその色々』、『何が色々だ。面白くも無い、如何だ。貴様も片腕を無くして落胆したろう。土佐、薩摩を尋ねてもほかに、あの位の人物は無いわ。ええ惜しい事をした』と流石の西郷も悔し泣きに泣いたそうです」
○ 大久保一翁 「この度、坂本龍馬に内々逢い候ところ、同人は真の大丈夫と存じ」
「龍馬は土佐随一の英雄、いはば大西郷の抜け目なき男なり」
「(土佐に非凡の人なきやの問いに)アル、アル、大アリである。坂本龍馬という男がある」
○ 永井尚志 「後藤(象二郎)よりも一層高大にして、説く所も面白し」
○ 伊藤博文 「坂本龍馬は勝安房(海舟)の門人で、壮年有志の一個の傑出物であって、彼方へ説き、こなたへ説きして何処へ行っても容れられる方の人間であった」
○ 陸奥宗光 「龍馬あらば、今の薩長人など青菜に塩。維新前、新政府の役割を定めたる際、龍馬は世界の海援隊云々と言えり。此の時、龍馬は西郷より一層大人物のように思われき」
「坂本は近世史上の一大傑物にして、その融通変化の才に富める、その識見、議論の高き、その他人を誘説、感得するの能に富める、同時の人、よく彼の右に出るものあらざりき。彼、もとより土佐藩の一浪士のみ。(中略)薩長二藩の間を聯合せしめ、土佐を以て之に加わり、三角同盟を作らんとしたるは、坂本の策略にして、彼は維新史中の魯粛よりも、更らに多くの事を為さんとしたるもの也。彼の魯粛は情実、行がゞり、個人的思想を打破して、呉蜀の二帝を同盟せしめたるに止る。坂本に至りては、一方に於ては薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて、幕府に抗対する一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府の内閣につき、平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸侯を率いて朝延に朝し、事実に於て太政大臣たらしめ、名に於て諸侯を平等の臣属たらしめ、以て無血の革命を遂げんと企てぬ」    

出典:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」より抜粋

 


坂本龍馬命 年譜 《 年齢は数え年:和暦 (西暦) 》

天保6年(1835年) 1歳 (11月15日)龍馬出生。
弘化3年(1846年) 12歳 (この年)母幸死去。(この年)小高坂の楠山塾で学ぶが退塾。
弘化5年/嘉永元年(1848年) 14歳 (この年)日根野弁治の道場へ入門し小栗流和兵法を学ぶ。 (12月)山内豊信土佐藩襲封
嘉永5年(1852年) 18歳 (7月)中浜万次郎、アメリカから土佐へ帰国。
嘉永6年(1853年) 19歳 (4月)剣術修行のため江戸に出て、千葉定吉道場(小千葉道場)に入門。
(6月頃~9月頃)臨時御用として品川藩邸警衛にあたる。
(12月)佐久間象山の私塾に入門。
(6月3日)黒船来航 (6月22日)将軍徳川家慶死去。 (11月23日)徳川家定将軍宣下
嘉永7年/安政元年(1854年) 20歳 (6月23日)土佐に帰郷。 (この年)画家河田小龍から西洋事情を学ぶ。
(3月3日)日米和親条約締結。
安政2年(1855年) 21歳 (12月4日)父・八平死去。
安政3年(1856年) 22歳 (9月)再び江戸小千葉道場に遊学。
安政4年(1857年) 23歳 (8月4日))盗みを働き切腹沙汰となった仲間(山本琢磨))を逃がす。
安政5年(1858年) 24歳 (1月)千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」伝授。 (9月)剣術修行を終えて帰国。
(4月23日)井伊直弼が大老に就任。 (6月19日)日米修好通商条約、調印。 (7月6日)将軍・家定死去。
(9月)安政の大獄はじまる。 (10月25日)徳川家茂将軍宣下。
安政6年 (1859年) 25歳 (2月26日)土佐藩主・山内豊信隠居。以後、山内「容堂」と号す。10月に幕府より蟄居謹慎を命じられる。
安政7年/万延元年(1860年) 26歳 (1月~11月)勝海舟を含む遣米使節を派遣。 (3月3日)桜田門外の変
万延2年/文久元年(1861年) 27歳 (3月)土佐で井口村刃傷事件が起り、龍馬の属する下士と上士の間で対立が深まる。
(8月)武市半平太が江戸で土佐勤王党を結成
(8月頃)土佐勤王党に加盟
(10月)武市の密使として長州へ向かう。
文久2年(1862年) 28歳 (1月)萩で久坂玄瑞と面談。
(3月24日)沢村惣之丞とともに脱藩
(8月)九州などを放浪した後、江戸へ入り千葉道場に身を寄せる。
(12月5日)幕府政事総裁職の松平春嶽に面会。
(12月)勝海舟に面会して弟子となる
(4月8日)土佐藩参政吉田東洋暗殺。 (4月23日)寺田屋事件
文久3年(1863年) 29歳 (2月25日)勝の尽力により脱藩を赦免される。
(4月23日)将軍家茂が神戸海軍操練所と神戸海軍塾の設立を許可。
(5月)越前に出向し、春獄から千両を借り受ける。
(10月)海軍塾塾頭をつとめる
(5月10日)長州藩が攘夷を決行し外国船を砲撃
(6月)土佐藩で土佐勤王党弾圧が始まる。
(7月)薩英戦争 (8月18日)八月十八日の政変 (8月~9月)天誅組の変
(9月21日)武市半平太投獄
文久4年/元治元年(1864年) 30歳 (2月)帰国命令を無視して再脱藩
(5月14日)神戸海軍操練所創設。
(6月17日)尊攘過激派浪士を蝦夷地へ移住させる開拓構想を勝に説く
(11月10日)勝が軍艦奉行を罷免。龍馬ら塾生は薩摩藩邸に保護される。
(6月5日)池田屋事件
(7月19日)禁門の変
(7月23日)幕府が長州征討を発令
(8月5日~7日)四国連合艦隊が下関を砲撃
(11月)長州藩が降伏恭順する(第一次長州征伐)。
(12月)長州で高杉晋作が挙兵 (功山寺挙兵) 。
元治2年/慶応元年(1865年) 31歳 (3月18日)神戸海軍操練所廃止
(5月)薩摩藩の援助により、長崎で社中(亀山社中)を結成
(閏5月21日)中岡慎太郎、土方久元とともに長州の桂小五郎と薩摩の西郷隆盛との下関での会談を斡旋するが失敗する。
(8月)長崎のグラバー商会からの薩摩藩名義での銃器弾薬購入を長州藩に斡旋。
(9月)大久保一蔵の書簡を長州藩重役に届ける。
(閏5月11日)武市半平太、切腹
慶応2年(1866年) 32歳 (1月22日)龍馬の斡旋により、京都で桂と西郷、小松らが会談し、薩長同盟(薩長盟約)が結ばれる。]
(1月23日)伏見寺田屋で幕吏に襲撃され負傷。(寺田屋遭難)
(2月5日)桂に求められて盟約書の裏書を行う。
(3月~4月)負傷治療のために妻お龍と共に鹿児島を旅行する。
(6月)第二次長州征伐で亀山社中の船ユニオン号で長州藩を支援。 (6月~9月)第二次長州征伐。
(7月20日)将軍・家茂死去。
(12月5日)徳川慶喜将軍宣下。
(12月25日)孝明天皇崩御
慶応3年(1867年) 33歳 (1月13日)土佐藩参政後藤象二郎と会談。
(4月上旬)亀山社中を土佐藩外郭組織とし「海援隊」と改称
(4月23日)海援隊運用船いろは丸が紀州藩船と衝突して沈没
(5月)御三家紀州藩に8万3526両198文の損害を賠償させる。
(6月9日)後藤象二郎とともに船中八策を策定
(6月22日)薩土盟約成立。
(10月16日)戸田雅楽と「新官制擬定書」を策定
(11月上旬)「新政府綱領八策」を起草
(11月15日)京都の近江屋で中岡慎太郎と共に刺客に襲撃され暗殺される。(近江屋事件)
(1月9日)睦仁親王、践祚(明治天皇)
(10月14日)大政奉還
(12月9日)王政復古の大号令。
慶応4年/明治元年(1868年) (1月3日)鳥羽・伏見の戦い
(4月)江戸開城。
(閏4月)海援隊解散。
明治4年(1871年) (8月20日)綸旨を受け姉・千鶴の長男・高松太郎が「坂本直」として龍馬の名跡を継ぐ。
明治16年(1883年) (この年)板垣退助の要望により土陽新聞が坂崎紫瀾作『汗血千里駒』を掲載。
明治24年(1891年) (4月8日)贈正四位。


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